ノート:崇神天皇

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コメントアウトしました[編集]

面白い見解なのですが断定的ですのでWikipedia:中立的な観点から言って表現を修正する必要があると思います。また、個人的見解なのか、既に発表された学説なのか不明のため、一旦コメントアウトします。(Wikipedia:独自の調査)ヒメヒコ制については、一概に否定しませんが、個人的感想とも思われますので。--ろう(Law soma) 2006年6月9日 (金) 01:01 (UTC)[返信]

コメントアウトより約12年が経過しましたが改善が見られず、これからも見込めないと考えられるのでここに転記します。
この系譜は、記紀に記されたものであり、とりわけ欠史八代の絡む部分はそのまま信じるに足るものではない。例えば、御間城姫は古事記の記載から姉妹とわかる。その父とされる大彦命は、崇神を叔父と呼びかけている記載が古事記にあり、この部分も正しくない。崇神の実際の夫人は、遠津年魚眼眼妙媛だけと思われる。
崇神の父については、豊城入彦の末裔毛氏が秀郷流藤原氏を名乗っており、藤原氏(丸邇氏、物部氏)の祖先と推定できる。また、父の世代は、魏志倭人伝に描かれた三世紀半ばの時代であり、その人物は神として祭られている可能性がある。
--61.125.219.213 2018年6月27日 (水) 19:46 (UTC)[返信]

騎馬民族征服王朝説関係の記述について[編集]

騎馬民族征服王朝説に関する記述が繰り返し除去されています。同説は現在学会ではかなり否定的に受け止められているため、除去されたKamikamiohさんの「騎馬民族征服王朝説は九州王朝説同様珍説でありwikiに載せる価値なし」とのご意見は理解出来ますが、賛同する普通の学者が皆無である九州王朝説と一部なりとも賛同する一流の学者がいた(井上光貞水野祐 いずれも故人)騎馬民族征服王朝説とでは、同じ「珍説」でもレベルが違うのではないでしょうか。要は、学説史に言及すらされない九州王朝説ならいざしらず、学説史で言及される騎馬民族征服王朝説については、現在は極めて少数説で支持する学者が極めて少ない事実と併せて記載する価値はあるのではないかと思うのです。Kamikamiohさんのご見解を賜りたい。--ろう(Law soma) D C 2012年6月5日 (火) 10:23 (UTC)[返信]

邪馬台国九州説の部分の補填[編集]

「邪馬台国九州説」すなわち、「邪馬台国と大和朝廷は別個」説には限定されないと思います。つまり、神武東征(もしくはそれに相当するものが)あり、それは邪馬台国の東遷に相当し、邪馬台国が畿内の土着勢力を打倒したかまたは取り込んで、その後の大和政権になった、という考え方もある、という事です。要するに、その節では、邪馬台国九州説プラス邪馬台国東遷説⇒その後の大和政権となった、という説です。

加えて、崇神天皇の和風諡号こそ、朝鮮半島の「任那(ミマナ)」の語源という説がまずあったのであり、新設である江上説を掲載するならば、併記もされて然るべきであると考えます。『記紀』説話・伝承も、合理的、科学的に否定出来ないものならば、新説のみを重視するのは、不公平であると考えます。--Prince Skyline S54B会話2015年8月29日 (土) 18:49 (UTC)[返信]