出雲大社
| 出雲大社 | |
|---|---|
出雲大社本殿 |
|
| 所在地 | 島根県出雲市大社町杵築東195 |
| 位置 | 北緯35度23分55秒 東経132度41分16秒 |
| 主祭神 | 大国主大神 |
| 社格等 | 式内社(名神大) 出雲国一宮 官幣大社 勅祭社 別表神社 |
| 創建 | 神代とされる |
| 本殿の様式 | 大社造 |
| 札所等 | 出雲國神仏霊場1番 |
| 例祭 | 5月14日 - 16日 |
| 主な神事 | 神在祭など |
ウオッちず Google Map 出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。
目次 |
[編集] 概要
式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。康治元年(1142年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された[1]。
縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり [2] 神議が行われる [3] (神在祭 旧暦10月11日~17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれる。二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。
[編集] 由緒
日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称した。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。神階は貞観9年(867年)に正二位まで昇った。江戸時代には社領五千石を有していた。明治4年に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となった。現在は神社本庁の別表神社となっている。
創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し、平成14年(2002年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。60年に一度の式年遷宮に際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。
[編集] 創建伝承
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
- 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
- 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
- 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
- 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
- 垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
- 斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[4]
伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。
また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。
[編集] 祭神の変化
出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主大神であった[5]。
やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[5][6]ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[7]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、寛文6年(1666年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。
さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[8]。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。
ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[8]。これに併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。
[編集] 歴史
- 斉明5年(659年) - 出雲国造に命じて大社を造営(『日本書紀』)。
- 延暦17年(798年) - 出雲国造が杵築大社に移住。
- 康永2年(1343年) - 出雲国造家が千家家と北島家に分裂。
- 大正4年(1915年)- 出雲大社大鳥居が完成。
[編集] 施設
[編集] 本殿
玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内にある御神座の向きは拝殿正面の南側ではなく、西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているためで、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は必然的に西側を向くことになる。 天井には7つの雲の絵が描かれている。 現在の本殿は延享元年(1744年)に作られた。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎[9])を元にしている。[10]
16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もある。
平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まった。
[編集] 荒垣内摂社
- ※「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている。
- 本殿瑞垣内
- 大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) -- 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
- 伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) -- 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
- 神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) -- 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。
- 門神社(もんじんのやしろ) -- 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。
- 本殿瑞垣外
- 出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) -- 式内社。父(または祖先)の素戔嗚尊を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
- 釜社(かまのやしろ) -- 素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。
- 氏社(うじのやしろ) -- 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
- 十九社(じゅうくしゃ) -- 東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。
[編集] 荒垣外摂末社
- 神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ) -- 式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)
- 阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ) -- 式内社。子の阿遲須伎高日子根命を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)
- 大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ) -- 式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)
- 大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) -- 式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)
- 大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) -- 式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)
- 上宮(かみのみや) -- 素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)
- 下宮(しものみや) -- 天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
- 出雲井社(いずもいのやしろ) -- 岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)
- 因佐神社(いなさのかみのやしろ) -- 建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)
- 湊社(みなとのやしろ) -- 櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)
- 大歳社(おおとしのやしろ) -- 素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
- 祓社(はらいのやしろ) -- 祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)
[編集] 神楽殿
- 神楽殿 -- 拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行われている。
- 国旗掲揚台 -- 神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗が掲げられている。旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
- 「一月一日」歌碑 -- 神楽殿東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。
[編集] その他
[編集] 文化財
[編集] 建造物
[編集] 美術工芸品
- 国宝
- 秋野鹿蒔絵手箱
- 重要文化財
- 赤糸威肩白鎧 兜 大袖付
- 太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)
- 後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)
- 後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)
- 宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)
- 硬玉勾玉
- 銅戈
- 島根県出雲大社境内遺跡(旧本殿跡)出土品 柱根6点など計70点
[編集] 無形文化財
- 選択無形民俗文化財「出雲の火鑚習俗」
[編集] 出雲国造家
出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の2家に分裂し、その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降から現在までは千家家が執り行っている。
またそれぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。
[編集] 出雲大社教との一体化
昭和26年(1951年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している[11]。
[編集] 祭事
- 1月
- 元旦 - 大饌祭(大御饌祭)
- 3日 - 福迎祭
- 5日 - 説教始祭
- 旧暦元旦 - 福神祭
- 旧暦1月28日 - 杓子祭
- 2月17日 - 祈穀祭
- 4月1日 - 教祖祭
- 5月
- 6月1日 - 凉殿祭(真菰神事)
- 8月
- 5日 - 爪剥祭
- 6-9日 - 出雲大社教大祭
- 14日 - 神幸祭(身逃神事)
- 旧暦10月
- 10日 - 神迎祭
- 11日〜17日 - 神在祭(御忌祭)
- 11月23日 - 献穀祭・古伝新嘗祭
- 12月
他
また、出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。日供祭は通常どの神社でも朝と夕に神様に食事を差し上げる祭りをやるのだが、出雲大社では毎日宮司が自らこれを行う建前である。大概の神社では当番で一人にて奉仕するものであるが出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い宮司が7、8人の神職を従えて奉仕するのが基本であるが、実際にはしばしば代理の神職により奉仕される。
[編集] 交通
- 2011年6月現在、最寄りの停留所には正門南側にある「正門前」(出雲市駅からの運賃は大人500円)とその一つ先の神楽殿西側にある「出雲大社」(出雲市駅からの運賃は大人510円)がある。出雲大社行バスは出雲大社バス停が終点となる。標準所要時間は出雲市駅から出雲大社バス停まで約24分(ただし、常松町・古代出雲歴史博物館経由の便は約28分)。なお、高松経由の便は大鳥居の下をバスが通過する。
[編集] 周辺情報
- 日御碕
- 日御碕神社 : 出雲大社の祭神 「大国主命」の 「祖神さま(おやがみさま)」にあたる 「素戔嗚尊」や「天照大神」を祭る。 日御碕神社・社家の「小野家」は、戦前は出雲大社の千家・北島両家や、石見一ノ宮の物部神社・社家の「金子家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。
- 出雲日御碕燈台 : 日御碕の突端に立ち、日本一の灯塔の高さを誇る石造灯台。
- 島根県道29号大社日御碕線 : 出雲大社(出雲市大社町)と日御碕を結ぶ海沿いの道。 冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に「冬の日本海」を体感できる コースとなっている。 晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。
- 国道431号 : 出雲大社の前を通る国道。
- 経島(ふみしま):「経島ウミネコ繁殖地」は、国の天然記念物。日御碕神社のすぐ裏手にあり、冬季は、「ニャー、ニャー」というウミネコたちの鳴声や、鄙びた風情の漁港に、冬の日本海の風情を体感できるスポットとなっている。
- 稲佐の浜
- 一畑寺
- 鰐淵寺
- 島根県立古代出雲歴史博物館 : 出雲大社の東隣にあり、中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した、古代・中世高層神殿 巨大柱 『 宇豆柱 』(鎌倉前期)や、大社東方200mにある、命主社背後の古代祭祀遺跡(真名井遺跡)から出土した銅戈・勾玉(重要文化財)も展示されている。
- 出雲全日本大学選抜駅伝競走 : 出雲大社前の正面鳥居前(勢溜)が本競走のスタート地点となっている。
[編集] 関連項目
[編集] 写真集
-
俗信により注連縄に向かって賽銭を投げる人々
[編集] 参考文献
- 浅川滋男編 『出雲大社 日本の美術476』(至文堂 2005年)
- 岡田荘司ほか4名 『古代出雲大社の祭儀と神殿』(学生社 2005年)
- 西岡和彦 『近世出雲大社の基礎的研究』(原書房 2004年)
- 新谷尚紀 『伊勢神宮と出雲大社―「日本」と「天皇」の誕生』(講談社選書メチエ、2009年)
[編集] 脚注
- ^ 神宮寺であった鰐淵寺は、13世紀、出雲守護佐々木泰清より「国中第一之伽藍」と呼ばれた。
- ^ 陰暦の十月のことを神無月という。これは全国の神々がみな,出雲の国にあつまり,他の土地では神様が留守になってしまうので一般に神無月(かんなつき)というのであるが,出雲では反対に神有(在)(かみあり)月(つき)と呼ぶ。千家尊統『出雲大社』日本の神社3,p.112
- ^ この伝承と結びついて,全国の神々は出雲大社に集合し,これから一年間の幽事を相談するのだという信仰を生みだし,幽事というところから,男女の縁結びはもちろん,人世上の諸般のできごとまで,すべてこのときの神議(かみはか)りによってきめられるのだと信じられているのである。 千家尊統『出雲大社』日本の神社3,p.113
- ^ 熊野大社のことであるとの説もある。
- ^ a b 「出雲大社の御祭神が素戔嗚尊の時代があった」, 出雲大社紫野教会
- ^ しまねの古代文化第十一号、島根県古代センター
- ^ 素戔嗚尊は奇稲田姫命と結ばれた神話から、氷川神社に代表されるように縁結びの神様としても信仰されている。
- ^ a b 「近世出雲大社の基礎的研究」, 西岡和彦著, ISBN 978-4562090082
- ^ 『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』
- ^ その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もある。
- ^ 「出雲大社と出雲大社教がひとつに」(出雲大社の公式HP)
[編集] 外部リンク
|
|||||||||||||||||||||||
