出雲大社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
出雲大社(いづもおおやしろ)
Izumo-taisha honden.jpg
境内(千木のある建物が本殿)
所在地 島根県出雲市大社町杵築東195
位置 北緯35度23分55秒
東経132度41分16秒
座標: 北緯35度23分55秒 東経132度41分16秒
主祭神 大国主大神
社格 式内社名神大
出雲国一宮
官幣大社
勅祭社
別表神社
創建 神代とされる
本殿の様式 大社造
別名 杵築大社
札所等 出雲國神仏霊場1番
例祭 5月14日 - 16日
主な神事 神在祭など
地図
出雲大社(いづもおおやしろ)の位置(島根県内)
出雲大社(いづもおおやしろ)
出雲大社(いづもおおやしろ)
テンプレートを表示

出雲大社(いづもおおやしろ、いづもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社名神大出雲国一宮で、旧社格官幣大社。現在は神社本庁包括に属する別表神社宗教法人出雲大社教の宗祠。

概要[編集]

正式名称は「いづもおおやしろ」であるが、一般には主に「いづもたいしゃ」と読まれる[1]。二拝拍手一拝の作法で拝礼する[2]明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年平成14年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

祭神[編集]

1142年康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された[3]。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり[4]神議が行われる[5](神在祭 旧暦10月11日 - 17日)[6]。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、すべての神が出雲に出向くわけではない[7]
そのような神集[8]への信仰から、江戸時代以降は文学[9]にも出雲の縁結びの神様としてあらわれるほどに、全国的な信仰をあつめるようになった。

歴史[編集]

創建[編集]

出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

  • 大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
  • 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
  • 所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
  • 神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
  • 崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。(『日本書紀』)
  • 垂仁天皇皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらにであったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
  • 659年斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)[10]

伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

祭神の変化[編集]

出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主大神であった[11]

やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた[11][12]ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊[13]であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした[14]。また、江戸時代初期には社僧寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。

ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂仏塔が立ち並んで神事が衰微したため、17世紀の寛文年間の遷宮時に出雲国造家が神仏分離廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文4年から寛文5年にかけて仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された[14]。これに併せて祭神は素戔嗚尊から、古事記や日本書紀などの記述に沿って大国主大神に復した。

明治以降[編集]

古代より杵築大社(きづきたいしゃ、きづきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。

施設[編集]

国立公文書館所蔵「出雲大社絵図」(明治8年頃作成)

本殿[編集]

玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神(天之御中主神高御産巣日神神産巣日神宇摩志阿斯訶備比古遅神天之常立神)が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている[15]。 これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年延享元年)に作られた。高さは8(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎[16])を元にしている。[17] 16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術水準では不可能なものをあえて建築してしまった可能性は否定出来ない[18]。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると推測すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある[19]

2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年宝治2年)造営の本殿である可能性が高まった。

2008年(平成20年)の「仮殿遷座祭」以降、本殿の屋根等の大改修が行われており、2013年(平成25年)5月には御祭神を仮殿から改修が完了した本殿へ再び遷座する「本殿遷座祭」が行われた(平成の大遷宮[20]。出雲大社の遷宮は概ね60〜70年毎に行われている。

荒垣内摂社[編集]

※「荒垣」とは本殿鎮座地の四囲にめぐらした石垣と塀で、大社ではこの内側をいわゆる「境内」としている。
本殿瑞垣内
  • 大神大后神社(御向社、みむかいのやしろ) -- 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
  • 伊能知比賣神社(天前社、あまさきのやしろ) -- 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
  • 神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ) -- 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻で宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀る。
  • 門神社(もんじんのやしろ) -- 廻廊八足門内の両側にあって本殿を守護する宇治神(東)・久多美神(西)を祀る。 
本殿瑞垣外
  • 出雲神社(素鵞社、そがのやしろ) -- 式内社。父(または祖先)の素戔嗚尊を祀る。本殿の真後ろ、八雲山との間に唯一鎮座する社。
  • 釜社(かまのやしろ) -- 素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。
  • 氏社(うじのやしろ) -- 2つあって、出雲国造家祖神の天穂日命(北)と17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌(南)を祀る。御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようにしつらえてある。
  • 十九社(じゅうくしゃ) -- 東西に2つあって八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。

荒垣外摂末社[編集]

  • 神魂伊能知奴志神社(命主社、いのちぬしのやしろ) -- 式内社。神産巣日神を祀る。(出雲市大社町杵築東182)
  • 阿須伎神社(阿式社、あじきのやしろ) -- 式内社。子の阿遲須伎高日子根命を祀る。(出雲市大社町遥堪1473)
  • 大穴持御子神社(三歳社、みとせのやしろ) -- 式内社。子の事代主神・高比賣命(古事記では下照比賣命)と素戔嗚尊の孫の御年神を祀る。(出雲市大社町杵築東)
  • 大穴持御子玉江神社(乙見社、おとみのやしろ) -- 式内社。子の下照比賣命を祀る。(出雲市大社町修理免字向地920)
  • 大穴持伊那西波岐神社(いなせはぎのかみのやしろ) -- 式内社。天穂日命の子で、国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。(出雲市大社町鷺浦102)
  • 上宮(かみのみや) -- 素戔嗚尊・八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の会議所となる。(出雲市大社町杵築北)
  • 下宮(しものみや) -- 天照大御神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
  • 出雲井社(いずもいのやしろ) -- 岐神(ふなどのかみ)を祀る。(出雲市大社町修理免)
  • 因佐神社(いなさのかみのやしろ) -- 建御雷神を祀る。(出雲市大社町杵築3008)
  • 湊社(みなとのやしろ) -- 櫛八玉神を祀る。(出雲市大社町中荒木)
  • 大歳社(おおとしのやしろ) -- 素戔嗚尊の子の大歳神を祀る。(出雲市大社町杵築北)
  • 祓社(はらいのやしろ) -- 祓戸四柱神を祀る。参道大鳥居の東側にあり参拝者が前もって身心を祓い清める社。(出雲市大社町杵築東195)

拝殿[編集]

庁舎[編集]

神楽殿[編集]

  • 神楽殿 -- 拝殿の西側、荒垣外に位置する神楽殿(かぐらでん)は明治12年出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5t大注連縄は日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行われている。
  • 国旗掲揚台 -- 神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗が掲げられている。旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
  • 「一月一日」歌碑 -- 神楽殿東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。

その他[編集]

文化財[編集]

本殿
社殿群を北東より望む。高い建物は本殿。手前の切妻造社殿は向かって左が摂社神魂伊能知比売神社本殿、右が摂社大神大后神社本殿

建造物[編集]

  • 国宝
    • 出雲大社本殿(附 内殿、棟札) - 1900年(明治33年)4月7日重要文化財(当時の特別保護建造物)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定。
  • 重要文化財
    • 「出雲大社」 - 2004年(平成16年)7月6日指定。重要文化財「出雲大社」として、以下の社殿21棟および鳥居1基が一括指定されている。
      • 楼門
      • 神饌所(2棟)
      • 玉垣
      • 摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
      • 摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
      • 摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿
      • 摂社門神社本殿(2棟)
      • 八足門(やつあしもん) - 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。
      • 観祭楼及び廻廊
      • 西廻廊
      • 瑞垣
      • 摂社素鵞(そが)社本殿
      • 摂社氏社本殿(2棟)
      • 末社釜社本殿
      • 末社十九社本殿(2棟)
      • 宝庫
      • 会所
      • 銅鳥居 - 出雲国造家と同じく、天穂日命を祖とする 長州藩第3代藩主 毛利綱広大江氏)の寄進(寛文6年、1666年)。

美術工芸品[編集]

  • 国宝
    • 秋野鹿蒔絵手箱
  • 重要文化財
    • 赤糸威肩白鎧 兜 大袖付
    • 太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)
    • 後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日)
    • 後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)
    • 宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)
    • 銅戈・硬玉勾玉 神魂伊能知奴志神社境内出土
    • 島根県出雲大社境内遺跡(旧本殿跡)出土品(柱根6点、礎板1点、鉄製品38点(手斧、釘、鎹など)、土器25点)

無形文化財[編集]

  • 選択無形民俗文化財「出雲の火鑚習俗」

重要文化財建造物

出雲国造家[編集]

出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代に「千家」と「北島」の2家に分裂し、その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降から現在までは千家家が執り行っている。

またそれぞれ大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。

出雲大社教との一体化[編集]

1951年昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している[21]

祭事[編集]

  • 1月
    • 元旦 - 大饌祭(大御饌祭)
    • 3日 - 福迎祭
    • 5日 - 説教始祭
    • 旧暦元旦 - 福神祭
    • 旧暦1月28日 - 杓子祭
  • 2月17日 - 祈穀祭
  • 4月1日 - 教祖祭
  • 5月
    • 14日 - 例祭(大祭礼) 勅使参向 この祭りにのみ神職は正服を着装し奉仕する
    • 15日 - 例祭(大祭礼) 二之祭
    • 16日 - 例祭(大祭礼) 三之祭
  • 6月1日 - 凉殿祭(真菰神事)
  • 8月
    • 5日 - 爪剥祭
    • 6-9日 - 出雲大社教大祭
    • 14日 - 神幸祭(身逃神事)
  • 旧暦10月
    • 10日 - 神迎祭
    • 11日〜17日 - 神在祭(御忌祭)
  • 11月23日 - 献穀祭・古伝新嘗祭
  • 12月

また、出雲大社の最大の特徴として日供祭が挙げられる。日供祭は通常どの神社でも朝と夕に神様に食事を差し上げる祭りをやるのだが、出雲大社では毎日宮司が自らこれを行う建前である。大概の神社では当番で一人にて奉仕するものであるが出雲大社ではあくまでも大国主命のお祭りは天穂日命が行うという神代よりの掟に従い宮司が7、8人の神職を従えて奉仕するのが基本であるが、実際にはしばしば代理の神職により奉仕される。

交通[編集]

2014年4月現在、最寄りの停留所には正門南側にある「正門前」(出雲市駅からの運賃は大人500円)とその一つ先の神楽殿西側にある「出雲大社」(出雲市駅からの運賃は大人520円)がある。出雲大社行バスは出雲大社バス停が終点となる。標準所要時間は出雲市駅から出雲大社バス停まで約24分[22]。高松経由の便は大鳥居の下をバスが通過する。

周辺情報[編集]

  • 日御碕 - 人工的に加工されたと推測される石群などが海中にあり古代の神事の遺跡ではないかという推測もある[23]
  • 日御碕神社 - 出雲大社の祭神 「大国主命」の 「祖神さま(おやがみさま)」にあたる 「素戔嗚尊」や「天照大神」を祭る。 日御碕神社・社家の「小野家」は、戦前は出雲大社の千家・北島両家や、石見一ノ宮の物部神社・社家の「金子家」と並び、全国14社家社家華族男爵)の一つに列する格式を有していた。
  • 出雲日御碕燈台 - 日御碕の突端に立ち、日本一の灯塔の高さを誇る石造灯台
  • 島根県道29号大社日御碕線 - 出雲大社(出雲市大社町)と日御碕を結ぶ海沿いの道。 冬は、海が時化る(しける)と「潮被り」の道となり、安全に「冬の日本海」を体感できる コースとなっている。 晴れると、出雲神話の舞台である、稲佐の浜や三瓶山が見渡せる。
  • 国道431号 - 出雲大社の前を通る国道
  • 経島(ふみしま) - 「経島ウミネコ繁殖地」は、国の天然記念物。日御碕神社のすぐ裏手にあり、冬季はウミネコたちの鳴声や、鄙びた風情の漁港に冬の日本海の風情を体感できるスポットとなっている。
  • 稲佐の浜
  • 一畑寺
  • 鰐淵寺
  • 島根県立古代出雲歴史博物館 - 出雲大社の東隣にあり、中央ロビーには、2000年に出雲大社境内から出土した、古代・中世高層神殿 巨大柱「宇豆柱」(鎌倉前期)や、大社東方200mにある、命主社背後の古代祭祀遺跡(真名井遺跡)から出土した銅戈勾玉重要文化財)も展示されている。
  • 出雲全日本大学選抜駅伝競走 - 出雲大社前の正面鳥居前(勢溜)が本競走のスタート地点となっている。
  • ご縁横丁 - 2012年8月31日に出雲大社前にオープンのみやげ物販売の横丁。

写真集[編集]

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 千家尊統 『出雲大社 第2版』 著者は第82代の出雲国造宮司)である。(学生社、1998年、初版1969年)
  • 『古代出雲大社の復元―失なわれたかたちを求めて』(学生社 2000年)
福山敏男大林組プロジェクトチーム共著
  • 浅川滋男編 『出雲大社 日本の美術476』(至文堂 2005年) 
  • 岡田荘司ほか4名 『古代出雲大社の祭儀と神殿』(学生社 2005年
  • 西岡和彦 『近世出雲大社の基礎的研究』(原書房 2004年)
  • 新谷尚紀 『伊勢神宮と出雲大社―「日本」と「天皇」の誕生』(講談社選書メチエ、2009年)

脚注[編集]

  1. ^ 「よくあるご質問」, 出雲大社
  2. ^ 「四拍手/出雲大社は怨霊の神社?」, 出雲大社紫野教会
  3. ^ 神宮寺であった鰐淵寺は、13世紀出雲守護佐々木泰清より「国中第一之伽藍」と呼ばれた。
  4. ^ 陰暦の十月のことを神無月という。これは全国の神々がみな、出雲の国にあつまり、他の土地では神様が留守になってしまうので一般に神無月(かんなつき)というのであるが、出雲では反対に神有(在)(かみあり)月(つき)と呼ぶ。千家尊統『出雲大社』日本の神社3,p.112
  5. ^ この伝承と結びついて、全国の神々は出雲大社に集合し、これから一年間の幽事(神事)を相談するのだという信仰を生みだし、幽事というところから、男女の縁結びはもちろん、人世上の諸般のできごとまで、すべてこのときの神議(かみはか)りによってきめられるのだと信じられているのである。千家尊統『出雲大社』日本の神社3,p.113
  6. ^ 『神道の本』 学研 192頁。
  7. ^ 『新版 神事の基礎知識』 講談社、2006年9月。ISBN 4-06-210641-8135頁
  8. ^ 文献にあらわれる最古のものは藤原清輔の「奥義抄」での「かみなつき天下のもろもろの神出雲国にゆきてこと国に神なきが故にかみなし月といふをあやまれり」である
  9. ^ 井原西鶴世間胸算用(出雲は仲人の神)」が最古とされる
  10. ^ 熊野大社のことであるとの説もある。
  11. ^ a b 「出雲大社の御祭神が素戔嗚尊の時代があった」, 出雲大社紫野教会
  12. ^ しまねの古代文化第十一号、島根県古代センター
  13. ^ 素戔嗚尊は奇稲田姫命と結ばれた神話から、氷川神社に代表されるように縁結びの神様としても信仰されている。
  14. ^ a b 「近世出雲大社の基礎的研究」, 西岡和彦著, ISBN 978-4562090082
  15. ^ 御本殿見どころ(出雲大社ホームページ)
  16. ^ 『雲太、和二、京三。今案、雲太謂出雲国城築明神神殿。和二謂大和国東大寺大仏殿。京三謂大極殿、八省。』
  17. ^ その後に続く数え歌を考慮すると、高さの順を表したものではなく、神社(神)、寺院(仏)、住宅(人)の順との説もある。
  18. ^ 「百錬抄」「左経記」「千家家古文書」「中右記」「北島家文書」などに記録があり、平安中期から鎌倉時代初めまでの200年間に7度も倒壊している。
  19. ^ 匝瑤 葵 「宇宙を構成する古事記の別天神―出雲大社の天空神」『アジア遊学』No. 121、pp. 94-101、勉誠出版、2009年。
  20. ^ 出雲大社 平成の大遷宮(出雲大社ホームページ)
  21. ^ 「出雲大社と出雲大社教がひとつに」(出雲大社の公式HP)
  22. ^ 常松町・古代出雲歴史博物館経由の便は約28分
  23. ^ 潜るパワースポットにダイバー続々 出雲の「海底遺跡」朝日新聞2012年9月6日

外部リンク[編集]