香淳皇后

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香淳皇后
Empress Kojun 1941-face.jpg
香淳皇后(1941年)
続柄 久邇宮邦彦王第一女子
全名 良子(ながこ)
身位 女王皇后
お印
出生 1903年3月6日
日本の旗 日本 東京府
死去 2000年6月16日(満97歳没)
日本の旗 日本 東京都千代田区 吹上御苑 大宮御所
埋葬 2000年7月25日
東京都八王子市武蔵野東陵
配偶者 昭和天皇
子女
父親 久邇宮邦彦王
母親 邦彦王妃俔子
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香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年明治36年)3月6日 - 2000年平成12年)6月16日)は、昭和天皇皇后。名は良子(ながこ)、久邇宮家出身で、皇后となる以前の身位は女王

家系[編集]

久邇宮邦彦王の第一女子。母は12代薩摩藩公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)。祖父の朝彦親王は男子9人を儲けており、東久邇宮稔彦王は叔父の一人である。また、五女・島津貴子の夫島津久永は母方の従弟に当たる。

生涯[編集]

少女時代[編集]

1903年明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一女子として誕生。

1907年(明治40年)9月2日学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食を摂るが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方しっかりとした性格で、2人の妹が彼女の行動を全て真似ることもあったという。

少女時代の良子女王(当時7歳)

学習院女学部小学科を経て(1909年入学)、1915年大正4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の1918年(大正7年)1月14日皇太子裕仁親王の妃に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。内定にともない学習院を退学し、同年4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇太子妃としての教育を受ける。学問所は"お花御殿"と呼ばれ、妹たちの他、親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、ともに学んだ。学問所の建物はその後東京都立駒場高校に下賜され、部活動等に利用された。

1920年(大正9年)5月7日に裕仁親王が元服礼を行ったことをうけて、同年6月10日に正式に婚約が内定する。しかし、1921年(大正10年)に入って母系島津家色盲遺伝があり、皇太子妃として不適当として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った、いわゆる"宮中某重大事件"が起こる。事件の内容は極秘扱いされたが、世上さまざまな憶測が流れ、中でも宮中に影響力を保持しようとする山縣の策略とする見解が強かったため良子女王に同情が集まり、原敬らの反山縣勢力が山縣追落としにこの事件を利用したこともあって、最終的には翌年2月10日宮内省から「良子女王殿下東宮妃内定の事に関し、世上の様々の噂あるやに聞くも、右御決定は何等変更なし」の発表が行われて事件は決着した(翌日付で新聞記事解禁)。最終的な決め手のひとつが、生物学者でもあった裕仁親王の「良子でよい」という意向であったといわれている。

学問所での教育は2・3年前後の予定であったが、宮中某重大事件、さらに関東大震災の影響により婚儀は延期され続けた。

皇太子妃時代[編集]

1924年(大正14年)、成婚直後の皇太子裕仁親王と良子妃
成子内親王を見守る皇太子裕仁親王と良子妃

1922年(大正11年)6月20日、結婚について大正天皇勅許が下り、9月18日納采の儀。同日付で勲一等宝冠章を受章する。翌1923年(大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、関東大震災の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。

1924年(大正13年)1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。1925年(大正14年)12月6日には第一女子・照宮成子内親王が誕生する。良子妃は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。

皇后時代[編集]

1926年(大正15年)12月25日、裕仁親王の践祚に伴い立后。1927年昭和2年)、第二皇女久宮祐子内親王が誕生するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭折。香淳皇后は自ら死化粧をほどこし、昭和天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日即位の大礼京都御所で盛大に執り行われた。

1929年(昭和4年)、宮城(きゅうじょう:当時の呼称)に住まいを移す。さらに2人の皇女が誕生するが、なかなか男児を得られず、華族たちから「皇后さまは女腹」と言われ非難され、側室制度の復活が本格的に検討された。彼女も心労とプレッシャーに苦しむが、この案は昭和天皇が自ら「人倫に反する事はできない」として、これを拒否した。1933年(昭和8年)12月23日継宮明仁親王が誕生。待望の皇子誕生とあり、日本全体から盛大に祝賀される。

継宮明仁親王を抱く皇后

一方この頃より、皇女は学習院前期(小学校)入学とともに天皇・皇后の手元を離れ呉竹寮で養育される。これは天皇の元では養育係が仕え辛く、その結果わがままに育ったと言う批判に加え、将来的に降嫁することに備えるためである。また、天皇家の神格化が推進され、皇太子明仁親王に至っては1937年(昭和12年)より東宮仮御所にて養育され、親子でありながら土日以外には会うことさえできなくなった。皇后は明仁親王のために好物の豆腐料理を手ずから用意していたが、親王が皇后の手料理を口にすることはなかった。

第二次世界大戦中は昭和天皇とともに東京に留まり、心労の多かった夫を支えたといわれる。またこの頃には、「皇后は天皇の仕人」とされたため天皇の車に同乗できなくなったともいう。戦中の食糧難の折には、天皇と夕食をともにする際、2人で相談して、必ず料理の一皿か二皿を残し、侍従女官に下げたという。戦争末期には、皇后自ら吹上御苑で野菜を作り養鶏も行った。敗戦後は引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。

皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任を始めとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社護国神社への天皇親拝にも度々同行している。

また皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘達の意思を尊重するためのお見合いデートを勧めた。その一方で、皇太子明仁親王(当時)と民間出身である正田美智子(当時)との婚約が決定された(貴賤結婚)際には秩父宮妃勢津子の母親で貞明皇后の御用係として長年宮中に仕えた松平信子らと共に「平民からとはけしからん」などと強い不快感を示している。『入江相政日記』においては、松平が宮崎白蓮などと共に、正田家に婚姻辞退を迫るべく右翼団体を動かして圧力をかけようとしたと記されている。香淳皇后自身は、成婚以後は表立って美智子妃に反感を示すことはなかったが、1975年(昭和50年)の訪米に際して空港で挨拶する美智子妃を無視する映像が残されており、後々まで尾を引いた。

1960年(昭和35年)11月、長女の東久邇成子が病に倒れた。すでに末期癌が進み、翌年4月からは宮内庁病院に入院。皇后はほぼ毎日、私事のため人目を避けながら見舞いに訪れたが、7月に成子は亡くなった。天皇ともども、愛娘の死に大きな衝撃と悲しみを受けた。内孫である浩宮徳仁親王の存在が慰めになり、大変可愛がったという。

昭和40年代前半から半ばの『入江相政日記[1]によれば、皇后が絶大な信頼を置いた今城誼子の問題が頻出している。新興宗教に深く関わり、粗暴な言動で周囲の顰蹙を買っていたことから今城は『入江日記』で「魔女」と名づけられ登場する。今城は、皇后を通して当時簡略化が進められていた宮中祭祀に口を挟む、天皇皇后の欧州歴訪において自身の同行を求めるなど、入江相政侍従長等の側近たちはこの問題に頭を痛めることになり、天皇の同意を取り付けて、1971年(昭和46年)に今城を宮内庁から事実上追放した。皇后は解任を最後まで惜しんでいる。

1975年訪米時の、昭和天皇、香淳皇后とフォード大統領夫妻

1971年(昭和46年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問となった。1974年(昭和49年)には金婚式を迎え、記者団の楽しかった思い出という問いに、天皇・皇后ともに先の欧州訪問を挙げた。翌年の訪米にも行を共にした。

1976年(昭和51年)には天皇在位50年記念式典に出席し祝賀を受けるものの、この前後から心身に老いの兆候が目立つようになる。翌年の夏に那須御用邸内で転倒した際に腰椎骨折。側近はこのことを伏せ、適切な治療が遅れたため完全な回復は不可能な状態となる。骨折について皇后は大変なショックを受けたとされ、この事故を境に老いの兆候は顕著になった。歩行に際しても杖を用いることが多くなり、散歩の際に天皇が手を引く姿も見られた。式典・行事に際しても北白川祥子女官長らが介添えしていた。

可能な限り式典などの公務に出席を続けていたが、1986年(昭和61年)の新年祝賀天皇誕生日祝賀を最後に出席できなくなり、9月30日以降は日課にしていた散歩も取り止めるようになった。やがて車椅子を頻繁に利用するようになる。また、1987年(昭和62年)12月11日、新年用の写真撮影後に軽い心臓発作を起こし、翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。

皇太后時代[編集]

1989年(昭和64年)1月7日昭和天皇崩御を受けた皇太子明仁親王践祚に伴い、皇太后となる。この年には昭和天皇の他に、第三皇女・鷹司和子、実妹の大谷智子が死去し、肉親との別れが続いた。これ以降、その動静が伝えられることがまれになり、メディア等への露出も少なくなった。

1994年平成6年)、後冷泉天皇皇后藤原寛子の数え年92歳を抜いて、歴代最長寿となった。晩年には認知症の症状があったとされ、マスメディアでは「老人特有の症状」と報道されていた[2]

2000年(平成12年)6月16日老衰による呼吸不全のため皇居吹上大宮御所崩御[3]。97歳没。歴代の皇后中最長の在位であり、神話時代を除き最長寿でもある。

7月10日に「香淳皇后」と追号された。香淳とは上代漢詩集『懐風藻』で、お印と号にちなんだ「桃」から「花舒桃苑、草秀蘭筵新」(安倍広庭「春日侍宴」)、および「四海既無為、九域正清」(山前王「侍宴」)に拠る。「和書」を典拠にする諡号はこれが初めてであった。

7月25日文京区豊島岡墓地斂葬の儀が行われた。陵墓は東京都八王子市長房町の武蔵野東陵である。

皇子女[編集]

日米開戦前日の昭和天皇一家

昭和天皇との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。

人となり・逸話[編集]

  • おおらかでおっとりとした円満な性格の持主であるといわれ、昭和天皇との夫婦仲はまことに良かったと伝えられる。昭和天皇は香淳皇后のことを「良宮(ながみや)」と呼び、皇后は天皇のことを「お上(おかみ)」と呼んだ。いわゆる従順に「夫を立てる」タイプの古風な女性で、それだけに天皇も、よく皇后のことを気遣ったらしい。
  • 天皇との間に夫婦喧嘩は一度も無かった、と近しい人は繰り返し証言しているが、河原敏明は『文藝春秋』(1979年(昭和54年)2月号)に「天皇陛下の『夫婦喧嘩』」という随筆を載せ、側近がたった一度目撃したという夫婦喧嘩の光景を紹介している。
  • 天皇と皇后の晩年の楽しみは、皇居や御用邸内を2人で散歩することで、植物の好きな天皇がよく皇后に説明をしながら歩いたという。また分かれ道に来ると、しばしば天皇が「良宮、どちらにしようか」と問い、皇后が「お上のお好きなほうへ」と答えたというエピソードがある。
  • 朝食のひとときにNHK連続テレビ小説を見るのが好きだった天皇に付き合って、この番組をよく見ていた。
  • 活発で開明的な姑貞明皇后とは性格の違い・出自の違い(貞明皇后が側室の子であるのに対し、香淳皇后は嫡出の皇族であった)もあってうまくゆかず、特に結婚した当初は関係に悩んだともいわれる。
    • 宮中で仕える女官長や女官が実際にその衝突を目撃したのは、大正天皇崩御の数ヶ月前、皇太子(昭和天皇)夫妻が療養先である葉山御用邸に見舞った際である。香淳皇后が姑である貞明皇后の前で緊張のあまり、熱冷ましの手ぬぐいを素手ではなく、手袋(今も昔も女性皇族は外出の際は手袋を着用する)を付けたまま絞って手袋を濡らしてしまい、「(お前は何をやらせても)相も変わらず、不細工なことだね」と言われ、何も言い返せずただ黙っているしかなかった。頭脳明敏で気丈な性格の貞明皇后ではあったが、目下の者にも決して直接叱責することはなく、この一件を目の前にした女官たちに、二人は嫁姑として全くうまくいっていないと知らしめる結果になってしまった。
  • 刺繍日本画観世流)、バラの栽培、ピアノなど多趣味であった。
  • 特に日本画は玄人はだしで、結婚以前には高取稚成から大和絵を学び、その後、川合玉堂前田青邨に師事、1956年(昭和31年)以降はよく宮内庁職員美術展に出品した。号を「桃苑」といい、皇居東御苑にある桃華楽堂はこの号に由来する。画集は『桃苑画集』(37点を収む、1967年(昭和42年)、便利堂)、『錦芳集』(54点を収む、1969年(昭和44年)、朝日新聞社)がある。
  • バラは皇后自ら鋏を取り、枝の剪定などを行っていた。皇居の庭は天皇の意向により、武蔵野の面影を残し、自然の生育に任せて、雑草の類もむやみに除くことを禁じたが、唯一の例外は皇后のバラ園で、ここだけは天皇も口を挟むことはなかった。
  • 1971年(昭和46年)秋に、郵政省発行の「天皇皇后陛下御訪欧記念切手」で、所縁の図案として、皇后画「海の彼方」が用いられた。
  • 晩年の動静は、皇太后宮職侍従も務めた卜部亮吾が遺した『卜部亮吾侍従日記』(全5巻、朝日新聞出版)に詳しい。卜部は「斂葬の儀」の祭官長を務め、2002年(平成14年)に没した。

崩御に際して[編集]

崩御した日が金曜日であったこともあり、各方面では哀悼の意を表明しつつも、比較的現実的な対応がなされた。例えば、崩御の当日と翌日は、中央競馬は哀悼の意を表するため、17日の競馬の全レースを中止し19日に振り替え、18日、19日の出走ファンファーレを自粛して開催された(なお、公営競技では、尼崎競艇が当日中止となっている。当日の甲子園阪神 - 巨人戦は午前中に中止を決定しているが、これは皇太后崩御とは関係がなく悪天候のためであり、翌日は開催している)。また、道頓堀ではグリコのネオンサインが崩御当日のライトアップを自粛し、翌日は「くいだおれ太郎」も黒一色の衣装を纏っていた。

御誄[編集]

香淳皇后・崩御を受け、今上天皇は以下の御誄(おんるい:追悼の辞)を述べた。

「明仁」謹んで御母皇太后の御霊に申し上げます。
在りし日のお姿や明るいお声は今もよみがえって日夜心を離れず、思い出は尽きることがありません。哀慕の情はいよいよ胸にせまるものがあります。
ここに、霊柩を殯宮にお遷しして、心からお祭り申し上げます。

今上天皇 、2000年(平成12年)6月29日、殯宮移御後一日祭の儀において

「明仁」謹んで御母香淳皇后の御霊に申し上げます。
昭和天皇の崩御あそばされてより十一年、吹上大宮御所にお過ごしの日々が穏やかにして一日も長からんことを願い、お側近く過ごしてまいりましたが、この夏の始め、むなしく幽明界を異にするにいたりました。
在りしの日のお姿を偲びつつ、殿に、また殯宮におまつり申し上げること四十日、ここに斂葬(れんそう)の日を迎え、葬列をととのえ、昭和天皇のお側にお送り申し上げます。お慈しみの下にあった去りし日々を思い、寂寥は深く、追慕の念は止まるところを知りません。誠に悲しみの極みであります。

今上天皇 、2000年(平成12年)7月25日、斂葬の儀 葬場殿の儀において

香淳皇后の登場する作品[編集]

系譜[編集]

香淳皇后 父:
邦彦王(久邇宮)
祖父:
朝彦親王久邇宮
祖母:
泉萬喜子
母:
俔子
祖父:
島津忠義
祖母:
山崎寿満子

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『日記』は朝日新聞社全6巻、朝日文庫全12巻で刊行。
  2. ^ 1990年1月7日 朝日新聞「皇太后さまは権殿で拝礼へ 昭和天皇崩御から1年」などに"老人特有の症状"との表現が見られる。
  3. ^ 皇太后が亡くなれば「崩御」と呼ばれるのが通例であるが、大半のマスメディアが「ご逝去」と報じた。

外部リンク[編集]