大和神社
| 大和神社 | |
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拝殿前。奥に本殿 |
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| 所在地 | 奈良県天理市新泉町星山306 |
| 位置 | 北緯34度34分15秒 東経135度50分15秒 |
| 主祭神 | 日本大国魂大神 八千戈大神 御年大神 |
| 社格等 | 式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社 |
| 創建 | 崇神天皇12年 |
| 本殿の様式 | 春日造 |
| 別名 | 旧称 朝和之宮 |
| 札所等 | 神仏霊場巡拝の道20番(奈良7番) |
| 例祭 | 4月1日(チャンチャン祭り) |
| 主な神事 | 御弓始祭 |
大和神社(おおやまとじんじゃ)は、奈良県天理市にある神社である。式内社(名神大社)、十六社・二十二社の一社で、旧社格は官幣大社。旧称朝和之宮(あさわのみや)
目次 |
[編集] 祭神
中殿に日本大国魂大神、左殿に八千戈大神、右殿に御年大神を祀る。
日本大国魂大神(倭大国魂神)以外の祭神については文献によって諸説あり、『神社要録』では左殿を須沼比神、『社家説』『元要記』では左殿を三輪大明神(大物主)・右殿を天照大神、『元要記一説』では右殿を稲倉魂神としている。
[編集] 歴史
日本書紀によれば、元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは、両神の勢い畏れ、崇神天皇6年(紀元前92年)、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせた。しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年(紀元前91年)、倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。また同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。 この伝承からアマテラスを天神とし、ヤマトノオホクニタマを地祇とする性格をはっきりさせたことが読み取れる。垂仁紀はもっと詳細に出ている。
当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。長岡崎が長岳寺付近の丘陵を指す可能性もある。
朱鳥6年(692年)、持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。寛平9年(897年)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。後に十六社・二十二社の一社ともなった。
平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。
明治4年(1871年)、官幣大社に列せられた。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。昭和44年(1969年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972年)9月24日、巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られている。
[編集] 祭事
- 1月4日 - 「御弓始式」。小笠原流弓術による「三々九手挟式」で行われる。
- 4月1日 - 「ちゃんちゃん祭り」。祭礼一行は、大和神社を出発して、岸田の市場というところにある腰掛け石で休憩し、山辺・式上の群境をしばらく歩き、中山大塚古墳のすぐ近くにあるお旅所へ向かう。
- 6月30日 - 茅の輪くぐり
[編集] 関連項目
- 元伊勢 - やはり皇居内に祭られていた天照大神が、皇居の外に祭られるようになり、現在の伊勢神宮内宮に鎮座するまでの経由地についての解説である。
- 大神神社 - 同じ理由により三輪山の大物主が祭られた神社についての記事である。
- 大和大国魂神社 - 当社を勧請したと言われる。
[編集] 外部リンク
- 大和神社公式ホームページ
- 大和神社(延喜式神社の調査)
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