一畑電車

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一畑電車株式会社
Ichibata Electric Railway Co.,Ltd.
Unshu-Hirata stn.jpg
種類 株式会社
略称 一畑、ばたでん
本社所在地 日本の旗 日本
〒691-0001
島根県出雲市平田町2226番地(雲州平田駅構内)
設立 2006年4月1日
業種 陸運業
事業内容 旅客鉄道事業
代表者 代表取締役会長 大谷厚郎
代表取締役社長 昌子修
資本金 1億円
従業員数 51人
決算期 毎年3月
主要株主 一畑電気鉄道 100%
外部リンク http://www.ichibata.co.jp/railway/
特記事項:英訳名は親会社の一畑電気鉄道と同一である。
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一畑電車株式会社(いちばたでんしゃ、Ichibata Electric Railway Co.,Ltd.)は、島根県東部で鉄道事業を運営する企業。持株会社一畑電気鉄道の傘下にある。北松江線大社線の2路線を運営している。社名は、出雲市にある一畑寺(一畑薬師)への参詣者輸送を目的とした鉄道を計画し建設したことに由来する。本社は島根県出雲市平田町2226番地(雲州平田駅構内)。

目次

[編集] 歴史

本項では、主に北松江線大社線を中心とした鉄道事業の沿革について記述する。広瀬鉄道・島根鉄道の沿革については一畑電気鉄道広瀬線を、大社宮島鉄道・出雲鉄道の沿革については一畑電気鉄道立久恵線を、鉄道事業以外を含めた歴史については一畑電気鉄道#歴史を参照。

また、本節では便宜上、鉄道院・鉄道省日本国有鉄道など、国が直接関与していた鉄道事業をまとめて「国鉄」と記述する。

[編集] 創業期

一畑電車の前身となる鉄道は、国鉄の山陰本線1910年米子駅から出雲今市駅(当時)まで延長されたのを受け[1]、出雲今市から一畑寺(一畑薬師)を結ぶ鉄道として1911年8月に762mm軌間の蒸気動力車による軽便鉄道敷設免許を受けたものに端を発する[2]。計画当初は出雲今市から出雲大社までを結ぶことを念頭においていた[1][2]が、国鉄では既に山陰本線から分岐する路線(後の国鉄大社線)の計画があったことから、目的地を一畑薬師に変更したものである[1][2]

1912年4月には「一畑軽便鉄道株式会社」の創立式が行われた[3]。一畑軽便鉄道の設立にあたっては、関西鉄道の重役であった井上徳次郎[注釈 1]、大阪にある才賀電機商会の技師である才賀藤吉[注釈 2]をはじめとする関西の財界人7人と、地元の有力者ら8人が発起人として参加していた。ところが、会社創立式からわずか半年弱後の1912年9月に、才賀電機商会は経営破綻してしまった[3]。このため、地元の有志で資本金の大半を負担することになり、そのうちの25パーセントを一畑寺が負担することになった[3]。それまで、出雲今市から一畑薬師参りをするには、陸路を徒歩でたどるか、宍道湖小灘境(当時)まで舟で渡るかのいずれかの方法しかなかったため、出雲今市から一畑薬師の麓までの鉄道敷設は、一畑寺の念願でもあったのである[4]

その後、用地買収と測量を進めている際には、平田の町の南北どちらを通すかで論争になり、最終的に市街地の南側を経由することでまとまった[3]。その後、国鉄との連絡を考慮し、軌間を762mmから1067mmに変更した[1]上、1913年9月15日に起工式が行われた[5]。出雲今市から平田までは簸川平野の平坦な地域だったこともあり、7ヶ月ほどで完成し[4]1914年4月29日、一畑軽便鉄道の運行が開始された。当日は2万人ほどの人出があったと伝えられている[4]。その後、平田から一畑坂下(一畑駅付近)までの工事も進められ、1915年2月4日に全線開業となった。出雲今市から一畑までは70分前後で結ばれ[6]、小境灘では松江行きの汽船と連絡していた[7]

[編集] 電化から終戦まで

開業からしばらくした1923年7月の株主総会において、松江・出雲大社までの路線延長が決議された[8]。出雲大社への延長路線は、当初は出雲今市から出雲大社へを国鉄大社線と並行する計画であった[9]が、競合路線とみなされ許可が下りなかった[9]。そこで、武志から出雲大社への路線に変更した[9]上で、「国鉄と終点は同一であるが、一畑薬師への参拝客も利用可能である」と主張した[9]上で、政府補助金を辞退する動きを見せた[9]。また、1922年には東京の有力実業家が「松江電気鉄道」として美保関と出雲大社を結ぶ計画を示しており[8]、一畑軽便鉄道では他社の鉄道建設を防ぐために、具申書や嘆願書などを運輸大臣へ提出するなどの運動も行った[6]。その結果、一畑軽便鉄道の計画に対しては1924年9月に敷設免許が認可されることになった[8]。松江電気鉄道の計画はその主な目的が鉄道事業ではないと判断されたため退けられた[8]。その後、1926年10月9日に、大社への路線の起点について川跡への変更が認可された。1927年には大社への路線の起点を大津起点とする変更申請を行っているが実現していない[10]

これらの延長線は、当初はそれまでと同様の蒸気動力車による運行で計画されていたが、その頃は民間鉄道は電気動力車による運行に変わりつつあった[8]。そこで、既設線も含めて全線を電化することになり、1925年7月には社名を「一畑電気鉄道株式会社」に改めた[8]。まず既設線である出雲今市と一畑の間が1927年10月1日に電化[11]1928年4月5日には小境灘から北松江までの区間が当初より電化路線として開業[11]1930年2月2日には川跡から出雲神門(当時)までの延長線が当初より電化路線として開業した[12]。電化開業に際しては、当時としては最新鋭の電車を導入しており、都市部からの旅行者が「こんな田舎に最新鋭の電車が」と驚いたという逸話が残っている[13]。出雲今市から一畑までは40分前後に短縮されたほか[14]、1928年11月のダイヤ改正では1日2往復の急行列車が設定されている[14]

しかし、その後第二次世界大戦中の1944年11月16日、小境灘から一畑までの区間については不要不急路線として営業休止の上で撤去し、その軌条を戦時輸送を行っていた名古屋鉄道に供出するように運輸省からの通達があった[7]。これを受けて、同区間については同年12月10日に営業を休止[15]、その状態で終戦を迎えることになった。

[編集] 戦後の展開

1954年5月1日には出雲鉄道を買収の上で立久恵線とし、同年12月1日には島根鉄道を買収して広瀬線とした[15]。立久恵線では、北松江線・大社線との直通運転も行われた[10]

1953年からは、北松江線の最高速度を向上するため、車両の改造に着手した[16]。最高速度は1957年に85km/hで認可されたが、これは当時の地方私鉄では稀な高速運行であった[17]。この時期、一畑電気鉄道では経営の多角化の一環として、1958年10月に一畑百貨店を松江市に開店していたが、出雲市にも一畑百貨店を出店するために国鉄出雲市駅に隣接してターミナルビルを建設した[15]。このビルは1964年4月に供用を開始したが、この時に国鉄駅構内への乗り入れを中止し、ターミナルビル1階に独立した駅として電鉄出雲市駅を設けると同時にダイヤ改正を行い[15]、増発と同時に出雲市と松江を最短37分で結ぶ特急列車の運行を開始した[17]。また、1966年には列車集中制御装置(CTC)を導入したが、これは日本の地方私鉄では初めての導入事例で[17]、それまで252人在籍していた鉄道部門の従業員数を222人に減少させるなど、合理化も進められてゆくことになる。

その一方で、経営不振だった広瀬線は1960年6月20日に廃止され[18]、立久恵線も水害による被害を受けた1964年7月19日より全線が運休となり、翌1965年2月19日付で廃止された[18]。また、戦時中に休止となっていた小境灘から一畑までの区間については復旧されることはなく、1960年4月26日に正式に廃止となり、廃線後は一畑電気鉄道が運営する自動車専用道路(一畑自動車道)とされた[15]

[編集] モータリゼーションの波

しかし、この時期からモータリゼーションの進展に伴い、日本各地の地方私鉄の運営環境は厳しくなってゆく。一畑電気鉄道も例外ではなく、1966年以降は鉄道部門で赤字を計上するようになり[1]1967年に589万人を輸送した[19]のをピークとして、利用者が減少してゆくことになる。特に、一畑電気鉄道の沿線は早いうちに道路整備が進み、1975年ごろまでにはほぼ道路整備が完了していた[20]ことから、マイカーへの逸走が進んだ[20]

駅業務の委託化や保線・電気業務の統合など、合理化を進めたものの、経営は好転せず、1972年度には累積赤字が5億円に達したことから、鉄道部門の運営を別会社への委託にすることを提案した[19]。しかし、これは廃止につながるとして労働組合から反発を受け、ストライキも行われた[19]。また、沿線自治体も一斉に廃止反対の意思を表明[21]大社町町議会では鉄道の存続要請を全会一致で可決し[21]1973年には島根県と沿線自治体で「一畑電車沿線地域対策協議会」が結成された[21]。こうした動きと、島根県の努力により1974年以降は運輸省から欠損補助金が得られることになった[19]ことから、一畑電気鉄道では存続を前提として更なる合理化を進めることとなった。この時点で、既に鉄道部門の従業員数は170人にまで減少していたが、これをさらに110人にまで減少させた[19]。その後も合理化は進められ、1973年3月16日に貨物輸送を廃止、同年5月15日限りで特急列車の通年運行も取りやめられた[22]。また、1978年3月1日からは大社線のワンマン運行も開始された。駅の委託化や無人化も進められ、1984年の時点では社員配置駅は平田市と松江温泉の2駅だけとなった[22]

その他にも電気部門社員を別会社への出向[19]など、合理化が進められた結果、1984年時点では鉄道部門の従業員数は72名までに減少した[22]。当時、40.1kmと同程度の営業キロを有する筑波鉄道で従業員数が101名[22]、逆に従業員数が同程度(69名)の栗原電鉄の営業キロは26.2kmしかなく[22]、営業キロ42.2kmの鉄道としてはきわめて徹底的な合理化が行われたことになる。

これらの対策が功を奏し、利用者の減少傾向は止まらなかったものの赤字はいったん減少し、1980年度からは補助金を近代化補助制度に変更した上で[19]、一部車両の置き換えや重軌条化など、設備の更新を行った。しかし、会社負担率が高いこと[21]と、電力費の高騰など[19]から1984年度以降は再び欠損補助の制度に戻している[21]1992年3月25日からはプログラム式運行管理システム(PRC)も導入された[18]

合理化の一方でサービスの改善にも着手し、1982年には電車とバスの乗継割引定期券を導入、1986年には電車・バス乗継割引回数券やフリー乗車券類、さらに日中限定で60パーセントの割引率の「お買いもの定期券」の発行も開始した[19]。また、1988年には松江温泉駅で酒類の販売を開始[19]、同年には松江市郊外で島根県開発公社が住宅地の造成を始めたのに対応し、県開発公社の費用負担により新駅が設置された[20]。また、1989年には学生を対象に、15日間電車とバスが乗り放題となる「夏休み定期券」の発売も行われた[19]

このように合理化や割引乗車券の充実を行ったものの、乗客の減少には歯止めをかけることは出来ず、1992年度の輸送人員は171万人と、ピーク時の3割程度に減少してしまった[20]。また、赤字額は年間で1億円を越える状態[23]で、1992年時点で欠損補助を受給している鉄道事業者10社のうち、一畑電気鉄道はもっとも多額の補助金(1億8千万円)を受給している事業者であった[21]

1990年代に入っても老朽車両が使用されていた

また、合理化による経費節減の努力と比較すると、他の設備の更新については消極的ともみられていた[24]。冷房車は1両も存在せず、1927年に製造された手動扉の半鋼製車両が1990年代に入ってもほぼ毎日運用されていた[24]。1981年以降に西武鉄道から購入した車両は、車体こそ全金属製であったものの走行機器は吊り掛け駆動方式であった[24]。駅施設も無人駅は荒れ果て、委託駅員が配置されている川跡でさえも廃屋に近い状況で[24]、保線状態もあまりよくない状態であった[24]。利用者から直接見える部分が旧態依然としたままの状態だったのである。その上、ある程度維持されていた運行ダイヤについても、1993年1月16日に行われたダイヤ改定の内容は、電力費や人件費の低減をねらって、運行本数を合計89本から72本に減回するという消極的な内容であった[25]

[編集] 欠損補助の見直し

1992年末、運輸省では欠損補助の大幅な制度見直しを行うことになったが、一畑電気鉄道に対しては「補助金に甘えている」として、今後経営改善の見通しがなければ補助の打ち切りもありうるという「最後通告」を行った[19]。1993年度に関しては前年とほぼ同額の補助金支給を認められた[19]ものの、沿線自治体や労働組合は危機感を募らせた[19]

労働組合では独自に利用促進を目指した啓発運動を展開したほか、補助金の継続を求めて運輸省に陳情を行った[21]。また、1973年に結成されていた「一畑電車沿線地域対策協議会」では、1993年度の広告予算をそれまでの年間120万円程度から680万円へと大幅に増額し[26]、新聞の全面広告やテレビCMなどを活用した利用促進活動を行った[26]。島根県や沿線自治体では独自に沿線住民に対するアンケートを実施したが、一畑電気鉄道の存続を問う質問への回答はほとんどが「鉄道は必要」との考えが示されていた[26]ことを受け、一畑電気鉄道の支援のためには新たな予算措置をも講じる姿勢を見せた[26]。特に平田市では、一畑電気鉄道が唯一の鉄道路線であることから、補助打ち切りをもっとも深刻に受けとめており[27]、地域ぐるみの利用促進運動を行った[27]。これら自治体の動きを受けて、一畑電気鉄道ではそれまではどちらか片方だけしか受給できなかった欠損補助と近代化補助を同時に受給することを前提に、1993年11月に経営改善5ヵ年計画を発表した[25]。この内容は、列車増発・駅施設の整備や老朽車両の置き換えを主軸とするものであり[25]、総額5億7千万円にのぼるものであった[26]

こうした沿線自治体の全面的なバックアップ体制や一畑電気鉄道の企業努力から、運輸省や大蔵省では「結果が出なければ補助金打ち切りもある」としながらも1994年度以降の補助金継続と、欠損補助と近代化補助の併用を認めた[25]

経営改善計画に従い、1994年から1998年にかけて京王電鉄南海電気鉄道からワンマン運転に対応した冷房付車両を購入し、非冷房の老朽車両は予備車2両とイベント用の2両を残して置き換えられた[23]。また、駅設備の改築も1994年から1997年にかけて進められた[23]ほか、それまで1箇所しかなかった変電所をさらに2箇所増設した[23]。設備改善以外にも、1993年3月からは電車・バス共通の金券式回数乗車券の発売を開始[25]をはじめとした割引乗車券類の充実を行い、運行面でも1998年からは松江温泉と出雲大社前を直通で結ぶ列車が設定された[23]

しかし、当面の危機的状況からは脱した[26]ものの、1994年6月には一畑電気鉄道の社長が「鉄道部門の経営は既に私企業の努力範囲を超えており、第三セクター化の方向性も検討してほしい」と発言しており[28]、自治体関係者に問題解決の難しさを再認識させられるものであった[28]

運輸省からの欠損補助は1997年度を最後に終了し[29]、翌1998年度以降は新しい経営改善5ヵ年計画による島根県・沿線自治体の「運行維持補助金」に変更された[29]

[編集] 分社化

新経営改善計画により、次々と旅客サービスにつながる施策を打ち出した[30]。1998年には終日全線を対象に電車内への自転車持込サービスを開始[30]、2000年からは自転車持込回数券も設定した[30]。1999年には駅周辺への無料駐車場設置とあわせてパークアンドライドも開始した[30]ほか、2000年代に入ってからは松江フォーゲルパーク島根県立古代出雲歴史博物館などの沿線施設とタイアップした企画乗車券の設定も行われた[30]。また、電車運転体験などのイベントなども行われている[30]

一方で、1998年からの新経営改善5ヵ年計画が終了した2002年以降も、島根県と沿線自治体の単独事業として欠損補助が維持されていたが、これと並行して「一畑電車および沿線公共交通確保のあり方に関する検討委員会」が組織され、今後の一畑電気鉄道の鉄道路線のあり方について検討を行った[29]。この検討委員会は、2003年11月の答申において、一畑電気鉄道の鉄道路線を地域の社会基盤として、事業者側と自治体の適切な関与によって存続するという方向性を打ち出した。この時の内容では、責任の範囲を明確化した上で、インフラストラクチャー(駅施設や線路・車両など)の所有権を移転しない上下分離方式を考えることになっていた[29]。交通ジャーナリストの鈴木文彦は、これを「基盤整備は行政が面倒を見るが経営赤字の面倒は見ないというもの」と表現している[29]

この答申をベースとして、市町村合併が落ち着いた2005年に新しい支援制度が設定された[29]。この支援制度では、すべての分野について補助の対象としていたことによる問題点の反省から、国・島根県・沿線自治体・運行事業者の役割分担を明確化することになった[29]。ここで、財務の透明性を確保した上で意思決定の機動性を高める目的[31]で、鉄道部門を分社化することが決まり、2006年4月1日から鉄道部門を一畑電気鉄道100パーセント出資の「一畑電車株式会社」として分社化した[1]。これにより、一畑電気鉄道は持株会社へ移行した。

分社化後、「愛され乗ってもらえる電車」へと視点を変え、2007年7月17日からは電車アテンダントの乗務[31]2008年にはメールによる運行情報提供サービスを開始[31]2009年には運行中の電車内を物産販売店とする「楽市楽電」の運行開始[31]など、積極的なサービス展開を行った。2010年には関連会社のカーテックス一畑と提携し、駅で自動車検査(車検)の申し込みを行い、検査終了後の車両を駅で受け取る「BATADEN車検」のサービスも開始した[31]

映画制作決定記念のヘッドマークを装備したデハニ50形 映画『RAILWAYS』の幕を掲出した松江しんじ湖温泉駅
映画制作決定記念のヘッドマークを装備したデハニ50形

こうした中、2008年には一畑電車を舞台とした映画が製作されることが決まり、一畑電車では全面的に撮影に対して協力を行った。この映画は2010年5月29日より『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』として公開されたが、試写会の段階から利用者が増加し、定期外利用者が前年と比較して約10パーセントほど上回った[31]。一畑電車でもロケ地見学会やデハニ50形の展示などを行ったが、特にデハニ50形を使用した体験運転イベントは毎回定員を上回る応募があった[31]

しかし、2006年には災害による長期不通も発生するなどの影響もあり、利用者の減少傾向は止まっていない[31]。2008年度にも沿線が舞台となったテレビドラマ映画が放映された時期にもある程度の利用者増は見られた[32]が、翌年度には前年度と変わらないレベルに戻っており[32]、テレビドラマや映画の効果はそう長く続くものではないとみられている[32]。また、2008年から2009年にかけては「一畑電車沿線地域対策協議会」がモビリティ・マネジメントの取り組みを行っており[32]、これに伴う施策を行っているうちは通勤定期券利用者が増加したものの、取り組みの終了とともに利用者数は元に戻ってしまった[32]。また、2010年には宍道湖の対岸を並行する山陰自動車道が無料開放された影響で、通勤定期券利用者数が大きく落ち込んだ[32]

このため、島根県は2011年7月1日、2011年度から2020年度までの一畑電車への支援事業計画を明らかにした[33]。県は沿線の出雲市・松江市とともに、国の補助金を含めて2011年度から10年間で約59億円を投じて老朽化した車両の更新や線路などの施設改良を行うと共に、年間利用客数140万人台の維持を目指している[33]

[編集] 路線

[編集] 現有路線

[編集] 廃止路線

[編集] 車両

[編集] 現有車両

[編集] 過去の車両

「いずも」1号として保存される一畑軽便鉄道4号機関車

[編集] 導入予定車両

2013年度〜2020年度にかけて、現在在籍する車両全20両のうち3000系8両全車と2100系・5000系10両の合計18両をJR・大手私鉄からの譲渡車両に置き換える予定となっている。この車両はVVVFインバータ制御の採用を前提として、3000系を置き換える車両のうち6両は単行式車両を導入することになっている。また、現在と同様に2両固定編成も導入するが、車種構成が制御電動車制御車の組み合わせ(現有車両は全車電動車)となり、動力費の節減を図っている。

なお、更新対象から外れる2両のその後の取り扱い(更新・廃車の是非)については、予備車両としておおむね10年程度残すこととし、単行車両導入後の旅客需要等を踏まえ別途検討することにしている[37]

[編集] 特徴的なサービス

車内に自転車が持ち込み可能
レール&サイクル
1998年より[30]、終日全区間において、自転車を折り畳まずに電車の中への持ち込みを可能とする制度を開始した[38]。持ち込み料金は2010年10月現在、区間に関わらず1回300円。2000年以降は5枚つづり回数券も設定されている[30]。この制度は、映画『RAILWAYS』のシーンでも活用されている。
ファミリーパスポート制度
土休日に通勤定期所持者と家族が同時に利用する場合、運賃が一律200円(2010年10月現在、小児半額)となる[39]。小児の利用では、事前に申請すると通勤定期所持者の同伴なしでも利用が可能であることが特徴。
体験運転事業
前述の通り、2010年に行なわれたデハニ50形の体験運転イベントは定員を上回る応募者があった[40]。これを受けて、一畑電車では体験運転を新規事業として位置づけ、通年行なうこととした[40]。雲州平田駅構内に延長約150mの専用線と車庫を新設し[40]、体験運転の教官は運転課に所属する6名の社員がローテーションを組んで担当するもので[41]、対象年齢は10歳以上とされており[40]、午前中に講習を受け、午後に実際の体験運転を行なう「1日コース」をはじめとした複数のコースが用意された[41]。体験運転で使用される車両はデハニ50形53号で[40]、加速は1段だけに固定されており[41]、体験運転での最高速度は15km/hとなっている[41]

[編集] 運賃

大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2006年4月1日現在。

キロ程 運賃(円) キロ程 運賃(円)
初乗り1 - 4km 160 16 520
5 210 17 540
6 240 18 560
7 280 19 580
8 310 20 600
9 340 21 620
10 370 22 640
11 400 23 650
12 430 24 660
13 460 25 - 34 670
14 480 35 - 36 730
15 500 37 - 38 790

[編集] 経営状況

[編集] 年間輸送人員

近年における年間輸送人員の概数値は以下の通り[42]

  • 143万1000人(2006年度)
  • 140万8000人(2007年度)
  • 147万1000人(2008年度)

[編集] 営業係数

近年の営業係数は以下の通り[43]

  • 157(2006年度)
  • 161(2007年度)
  • 148(2008年度)

[編集] 関連会社

[編集] 脚注

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[編集] 注釈

  1. ^ 帝国大学出の土木技師であり、関西鉄道の建設を計画施行した。同鉄道が国有化された後、鉄道院に移ったが1909年に辞職。才賀電機商会の顧問となり才賀電機商会関係鉄道会社の役員に就任している。 三木理史「局地鉄道の普及と指導者集団-才賀電機商会の事業展開からの考察-」『近代日本の地域交通体系』大明堂、1999年
  2. ^ 才賀は同時期に島根県において電燈会社の設立にも関与している。出雲電気株式会社1911年10月25日許可1912年6月30日事業開始。隠岐電気株式会社1911年7月18日許可1912年11月28日事業開始。
  3. ^ 島根ヤナセ時代一畑グループに加盟していた(2011年10月時点では公式サイトのグループ会社一覧に掲載されていない)。なお現在のシュテルン島根はサンヨーオートセンターのグループ会社となっている。

[編集] 出典

  1. ^ a b c d e f 『鉄道ジャーナル』通巻488号 p.73
  2. ^ a b c 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.8
  3. ^ a b c d 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.61
  4. ^ a b c 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.62
  5. ^ 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.9
  6. ^ a b 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.10
  7. ^ a b 『レイルマガジン』通巻13号 p.41
  8. ^ a b c d e f 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.71
  9. ^ a b c d e 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.14
  10. ^ a b 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.15
  11. ^ a b 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.72
  12. ^ 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.74
  13. ^ 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.82
  14. ^ a b 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.13
  15. ^ a b c d e 『レイルマガジン』通巻13号 p.42
  16. ^ 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.20
  17. ^ a b c 『BATADEN 一畑電車百年ものがたり』p.5
  18. ^ a b c 『一畑電車がゆく RAILWAYS特別版』p.108
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『鉄道ジャーナル』通巻331号 p.71
  20. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル』通巻587号 p.62
  21. ^ a b c d e f g 『鉄道ピクトリアル』通巻587号 p.63
  22. ^ a b c d e 『レイルマガジン』通巻13号 p.43
  23. ^ a b c d e 『鉄道ジャーナル』通巻425号 p.106
  24. ^ a b c d e 『鉄道ジャーナル』通巻337号 p.66
  25. ^ a b c d e 『鉄道ジャーナル』通巻331号 p.72
  26. ^ a b c d e f 『鉄道ピクトリアル』通巻587号 p.64
  27. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻337号 p.64
  28. ^ a b 『鉄道ジャーナル』通巻337号 p.67
  29. ^ a b c d e f g 『鉄道ジャーナル』通巻488号 p.78
  30. ^ a b c d e f g h 『鉄道ジャーナル』通巻488号 p.77
  31. ^ a b c d e f g h 『鉄道ジャーナル』通巻531号 p.104
  32. ^ a b c d e f 『鉄道ジャーナル』通巻531号 p.105
  33. ^ a b 一畑電車10年間で59億円支援、島根県 - 山陰中央新報 2011年7月1日
  34. ^ 『ローカル私鉄車輌20年 西日本編』p.107
  35. ^ a b c d 『現役蒸気機関車のすべて』p.115
  36. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻859号 p.56
  37. ^ 一畑電車支援計画 8頁 (PDF)
  38. ^ 一畑電車公式サイトお得チケット・制度情報”. 2010年10月21日閲覧。
  39. ^ 一畑電車公式サイトファミリーパスポート制度”. 2010年10月21日閲覧。
  40. ^ a b c d e 『鉄道ジャーナル』通巻544号 p.142
  41. ^ a b c d 『鉄道ジャーナル』通巻544号 p.143
  42. ^ 第4回交通基本検討会
  43. ^ 国土交通省中国運輸局「平成19年度中国地方の鉄道・軌道事業の概況」 2008年7月30日

[編集] 参考文献

[編集] 書籍

[編集] 雑誌記事

  • 青木栄一「一畑電車を考える」、『鉄道ジャーナル』第337号、鉄道ジャーナル社、1994年11月、 63-67頁。
  • 岸由一郎「補助金見直しにゆれる地方私鉄 島根県・一畑電気鉄道」、『鉄道ピクトリアル』第587号、電気車研究会、1994年2月、 60-64頁。
  • 鈴木大地「神話の国にベテラン電車を訪ねて 一畑電気鉄道」、『鉄道ピクトリアル』第555号、電気車研究会、1992年2月、 66-71頁。
  • 鈴木文彦「地方鉄道レポート38 一畑電車」、『鉄道ジャーナル』第488号、鉄道ジャーナル社、2007年6月、 70-79頁。
  • 鈴木文彦「松江市における交通社会実験と鉄道」、『鉄道ジャーナル』第531号、鉄道ジャーナル社、2011年1月、 98-105頁。
  • 種村直樹「再生めざす一畑電車」、『鉄道ジャーナル』第331号、鉄道ジャーナル社、1994年5月、 63-72頁。
  • 寺田裕一「ローカル私鉄独り歩き "Lake Side Story"」、『レイルマガジン』第13号、企画室ネコ、1985年2月、 40-47頁。
  • 寺田裕一「ローカル私鉄 光と風と大地と16 一畑電気鉄道」、『鉄道ジャーナル』第425号、鉄道ジャーナル社、2002年3月、 103-106頁。
  • 清水武「名古屋鉄道の凸型電気機関車」、『鉄道ピクトリアル』第859号、電気車研究会、2012年2月、 53-61頁。
  • 「RAILWAY TOPICS 一畑電車が体験運転を本格導入」、『鉄道ジャーナル』第544号、鉄道ジャーナル社、2012年2月、 142-143頁。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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