多賀大社

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多賀大社
Taga-taisha shrine.jpg
拝殿
所在地 滋賀県犬上郡多賀町多賀604
位置 北緯35度22分54秒
東経136度29分10秒
主祭神 伊邪那岐命
伊邪那美命
社格 式内社(小)・官幣大社・別表神社
創建 古事記』以前の神代と考えられる
本殿の様式 大社造
例祭 4月22日
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新年恒例の能舞台での神楽

多賀大社(たがたいしゃ)は、滋賀県犬上郡多賀町多賀にある神社である。 伊邪那岐命(イザナギ)伊邪那美命(イザナミ)の2を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれてきた。 また、神仏習合中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

式内社で、旧社格官幣大社。現在は神社本庁別表神社である。

「お多賀杓子(おたがじゃくし)」と称し、お守りとして杓子(しゃもじ)を授ける慣わしがある。 これは「お玉杓子」や「おたまじゃくし」の名の由来とされている。

目次

[編集] 歴史

[編集] 由緒

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるのが、当社のことである。

日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」との記述があり、淡路島に「幽宮」を構えたとされている。

『古事記』以前の時代については、一帯を支配していた豪族・犬上君の祖神を祀っていたのではないかとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社が所在する「犬上郡」の名祖でもあり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を輩出している古来の豪族である。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列している。 「二座」とあることから、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたことが分かる。

なお、摂社(境内社)である日向神社は延喜式内社であり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。 多賀胡宮とも呼ばれ多賀社の別宮として信仰を集める胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2キロメートルにある小高い丘(神体山)に鎮座する。 授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

[編集] 「お伊勢参らばお多賀へ参れ」

[編集] 多賀大明神

室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が推し進められ、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人[1]は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢熊野とともに庶民の参詣で大いに賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」 「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子である神話体系を歌詞に映したものである。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が神徳を説くのに用いたものであり、これを掲げて神徳を説きながら諸国を巡行し、拝礼させたと考えられる。 また、多賀社隆盛の理由としては、近江国が交通の結節点であったことも挙げるべきであろう。

[編集] 長寿祈願

多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰されてきた。

[編集] 俊乗坊重源

鎌倉時代の僧である俊乗坊重源(ちょうげん)に関して以下のような伝承がある。東大寺再建を発念してはや20年にならんとする61の俊乗坊重源が、着工にあたり成就祈願のため伊勢神宮にて17日間の参籠(さんろう)を行ったところ、夢の中に天照大神が現れ、「事業を成功させるために寿命を延ばしたいのなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。 重源が取り急ぎ多賀社に参拝すると、眼の前にひとひらのの葉が舞い落ちてきた。 見ればその葉は「」の字の形に虫食い跡の残るものであった。 「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、すなわちこれは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。 神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続け、見事、東大寺の再建を成し遂げている。 全てを終えた重源は報恩謝徳のため当社に赴き、そうして、境内の石に座り込むとそのまま眠るように亡くなったと伝えられる。 今日その石は「寿命石」の名で呼ばれ、変わることなく境内にある。 また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋([1])」のこれが由来となっている(今一つに三つ巴がある)。

[編集] 豊臣秀吉

天正16年(1588年)には、日頃から多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、それが成就したとして社殿改修を行うとともに大名に与えるに等しい1万石を寄進した。 境内正面にある石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

[編集] 喪失と再建の江戸期

元和元年(1615年)には社殿が焼け落ちてしまったが、およそ18年後の寛永10年(1633年)、将軍・徳川家光の命による再建が始まり、5年後に完成を見た。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。 ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。 暴風で再建社殿が倒壊したのは寛政3年(1791年)の出来事である。 このように江戸期の多賀社は災難続きであった。 しかし、その都度、彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われてきた。

[編集] 明治以降

明治初年に発布された神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。

多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。 旧来の「多賀神社」から「多賀大社」に改称したのは、1947年(昭和22年)のことである。

[編集] 近年の改修と造営

1930年(大正5年)、本殿を改修。 大社造の本殿および他の建築物の屋根の檜皮葺(ひわだぶき)の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。 また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」に執りかかっており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

[編集] 社殿

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  • 本殿
  • 拝殿
  • 一の鳥居・常夜灯 - 彦根市高宮町 高宮郵便局の脇にある。

[編集] 文化財

[編集] 重要文化財

  • 紙本金地著色調馬・厩馬図 六曲屏風

[編集] 名勝

  • 奥書院庭園

[編集] 滋賀県指定有形文化財

  • 奥書院
  • 多賀大社鳥居 - 約3キロメートル離れた彦根市高宮町にある
  • 紙本著色三十六歌仙絵 六曲屏風
  • 梵鐘
  • 大太刀 - 2件
  • 鉄黒漆塗二十八間筋兜
  • 多賀大社文書 - 136通

[編集] 町指定有形文化財

  • そり橋
  • 多賀大社建造物 11棟

ほか

[編集] 祭事

  • 1月1日 0時 歳旦祭(さいたんさい)
  • 1月3日 11時 翁始式(おきなはじめしき)
  • 2月3日 午前11時/午後 2時 節分祭(せつぶんさい)
  • 2月11日 10時 紀元祭(きげんさい)
  • 3月17日 11時 祈年祭(きねんさい)
  • 4月25日 米寿莚寿祭(べいじゅえんじゅさい)
  • 3月下旬 勧学祭(かんがくさい)
  • 4月5日 金婚莚寿祭(きんこんえんじゅさい)
  • 4月22日 8時から終日 古例大祭(これいたいさい)
  • 5月5日 11時 神恩感謝祭(しんおんかんしゃさい)
  • 5月17日 11時 御日供講大祭(おにっくこうたいさい)
  • 6月7日 御田植祭(おたうえさい)
  • 6月30日 15時 夏越の大祓(なごしのおおはらえしき)
  • 8月3日~8月5日 午後7時一斉点火 万灯祭(まんとうさい)
  • 9月9日 13時 九月古例祭(これいさい)
  • 9月20日 古稀莚寿祭(こきえんじゅさい)
  • 9月14日 喜寿莚寿祭(きじゅえんじゅさい)
  • 9月27日 池坊献華式(いけのぼうけんげしき)
  • 9月28日 多賀講講社大祭(たがこうこうしゃたいさい)
  • 9月26日 抜穂祭(ぬいぼさい)
  • 10月3日 観月祭(かんげつさい)
  • 10月5日 傘寿莚寿祭(さんじゅえんじゅさい)
  • 10月17日 神嘗祭当日祭(かんなめさいとうじつさい)
  • 10月21日 10時 献茶式(けんちゃしき)
  • 11月3日 明治祭(めいじさい)
  • 11月8日 金咲稲荷神社例祭(かねさきいなりじんじゃれいさい)
  • 11月15日 大宮祭(おおみやさい)
  • 11月23日 11時 新嘗祭(にいなめさい)
  • 12月20日 早朝 御煤祓式(おすすはらいしき)
  • 12月23日 11時 天長祭(てんちょうさい)
  • 12月31日 15時 大祓式(おおはらえしき)
  • 12月31日 除夜祭(じょやさい)

[編集] 例祭

  • 毎日 7時 御日供祭(おにっくさい)
  • 毎月1日,15日,28日 月次祭(つきなみさい)
  • 毎月1日 7時 お朔日(ついたち)参り

[編集] お多賀杓子

[編集] 元正帝の縁起

多賀社に独特のお守りとして古くから親しまれているお多賀杓子は、元正天皇養老年中、帝が得た病の平癒を祈念して多賀社の神官らが強飯(こわめし)を炊き、シデの木[2]で作った杓子を添えて献上したところ、帝の病が全快したということから、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったと伝えられるものである。 元正天皇のころはまだ精米技術が未発達で、米飯はアルファ化して粘り気を持つ現代のものとは違い、硬くパラパラとこぼれるようなものであったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子はお玉の部分が大きく窪んでいた。また、柄の部分は湾曲していたという。 現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様のアルファ化米に合わせて平板な物が大半となっているが、以前はそうではなく、後述の用語派生とさらなる発想の飛躍につながる、かなり特徴的な物であったとのことである。 お守りとしてのこの杓子は、実用的な物があれば飾るための大きな物もある。

なお、帝の杓子の素となった木の枝であるが、これを地に差したところ根が生じ、やがて大木に育ったといい、多賀社より数キロメートル西にある「飯盛木(いもろ-ぎ)」がそれであると伝えられる。この飯盛木には、男飯盛木と女飯盛木の2本がある。

[編集] お多賀杓子・お玉杓子・おたまじゃくし

際立った形状的特徴を持つ「お多賀杓子(お-たが-じゃくし)」は、「お玉杓子(おたまじゃくし、玉杓子お玉)」の語源になったと考えられている。 カエル幼生「おたまじゃくし」は、「お玉杓子」から派生した名称なので、元を辿れば「おたまじゃくしの語源もまた、「お多賀杓子」ということになる。 後者のような言語的変化は、形状の相似による連想の結果である。

[編集] 交通アクセス

[編集] 公共交通

[編集] 自動車

[編集] トピック

近江鉄道本線は、運行主系統が米原駅~八日市駅近江八幡駅となった現在でも、米原駅~貴生川駅(JR草津線)が正式な区間である。 これは同鉄道の創立時、多賀大社と何かと縁の深い伊勢神宮に向けて、官鉄(国鉄)の草津線・関西本線参宮線等を介して結ぼうとした名残であると言われている。 なお、係る経緯については「近江鉄道宇治山田延伸構想」が詳しい。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

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  1. ^ 不動院、および、配下三院(観音院般若院成就院)に属する使僧をいう。「同宿輩」とも呼ばれ、全国規模での布教を行った。多賀社の坊人は隆盛期には100人余に達した。
  2. ^ クマシデイヌシデアカシデなどのクマシデ属

[編集] 外部リンク

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