土佐藩
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土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩の通称。正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。江戸城内控えは大広間詰。
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[編集] 藩史
土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が治めていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて長宗我部盛親は西軍に与し改易となった。豊臣氏恩顧の大名で遠江国掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊は東軍(徳川家康方)に味方したため大幅な加増を受けて、土佐一国を与えられこの地を治めることとなった。以来、明治時代初頭まで山内氏が治めた。
土佐には一領具足と呼ばれた長宗我部氏の旧臣が存在しており、彼らは藩政当初より新領主に馴染まず反乱を繰り返した。山内氏は藩政の中枢には彼らを入れず高知城下に住む山内系の武士(上士)と、長宗我部氏の旧臣(郷士)の二重構造が幕末まで続いた。
当初、一豊は長宗我部氏の旧城である海沿いの浦戸城に入城したが、ここは城下町を開くには狭いため、今の高知市中心部に当たる地に高知城と城下町の建設を行った。藩政が確立したのは2代・忠義の時代である。忠義は野中兼山を登用し新田開発などを行ったが、兼山はその強引なやり方から政敵の恨みを買い失脚した。
藩財政は江戸時代中期頃までは比較的安定的に推移した。宝暦期(1751年 - 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散など藩政には動揺が見みられた。
9代・豊雍による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)が行われ藩政はやや立ち直った。更に13代・豊熈は「おこぜ組」と呼ばれる馬淵嘉平を中心とする改革派を起用し藩政改革に乗り出したが失敗した。
幕末には、15代・豊信(容堂)が登場した。彼は吉田東洋を起用し藩政改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、安政の大獄で豊信が隠居すると武市瑞山を中心とした土佐勤王党により暗殺された。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧・解散された。なお、東洋の門下より後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を輩出している。また、瑞山の知己で郷士である坂本龍馬や中岡慎太郎など優れた人材がこの藩より輩出されたことは言うまでもない。
坂本龍馬の案に始まり、後藤象二郎を通じ容堂から15代将軍・徳川慶喜に勧告された大政奉還により、徳川幕府の歴史が閉じられた。土佐藩は薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じた。
明治4年(1871年)廃藩置県により高知県となった。山内家は明治17年(1884年)の華族令により侯爵に列せられた。
[編集] 土佐藩における郷士制度
郷士は、基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていた。関ヶ原の戦い以前の旧領主である、長宗我部氏遺臣の一領具足の系譜を引く者が多く、慶長18年(1613年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行う度に取り立てられてきた。これらは、長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙ったものであった。(徳川幕府は、大名統制策として様々な普請を外様大名を中心に請け負わせており、また、地理的条件から土佐藩の江戸参勤に掛かる費用も莫大であったことから、土佐藩では早くから増収策に熱心であった。)なお、郷士一人当たりの開発許可面積は、だいたい3町程であった。
時代が進み、江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し始める。すると、困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、しだいに、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(郷士の多様化)。
元禄期には郷士も公役につくことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきた。幕末には郷士総数は800人を数えた。内、370人が大組と呼ばれ、おのおのが家老に属しており、御預郷士とよばれた。残り430人が小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付郷士として、非常時に規定の場所で海防に従事していた。
なお、多くの郷士が農村や山間部に居住していたが、上士(土佐藩の山内系藩士)居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者もいたようである(→坂本龍馬の家が一例である。)
[編集] 土佐藩の石高
16世紀末、太閤検地の際に長宗我部氏が届け出た土佐国の石高は9万8千石に過ぎなかった。山内一豊は土佐入国後石高を算定しなおし、慶長10年(1605年)に幕府に届け出た石高が20万2千6百石余りであった。その後元和元年(1615年)に阿波徳島藩が淡路国を加増されて17万石余から25万7千石となると、それに対抗したかのように25万7千余石を申告した。これは、本来石高を高く申告すると幕府による大工事などで供出する人夫の数が多くなるにもかかわらず、四国一の石高を持つ大名家であろうとした山内家中の見栄が原因である。ただし、幕府はこの山内家の申告石高を認めず、幕府からの朱印状の表高には、土佐藩の石高は20万2千6百石余のままであった。その後開発が進み、明治3年(1870年)の廃藩置県前には本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田の合計は49万4千石余に達していた。なお、よくいわれる24万2千石というのは『武鑑』などに基づく俗聞である。
[編集] 歴代藩主
- 山内(やまうち)家
外様 20万2千6百余石
- 一豊(かつとよ)〔従四位下・土佐守〕
- 忠義(ただよし)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 忠豊(ただとよ)〔従四位下・対馬守、侍従〕
- 豊昌(とよまさ)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊房(とよふさ)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊隆(とよたか)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊常(とよつね)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊敷(とよのぶ)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊雍(とよちか)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊策(とよかず)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊興(とよおき)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊資(とよすけ)〔従四位下・土佐守、右近衛少将〕
- 豊熈(とよてる)〔従四位下・土佐守、侍従〕
- 豊惇(とよあつ)〔官職位階なし〕
- 豊信(とよしげ)〔従四位上・土佐守、左近衛少将〕
- 豊範(とよのり)〔従四位上・土佐守、左近衛少将、侯爵〕
[編集] 明治以降の山内家当主
[編集] 支藩
[編集] 中村藩
中村藩(なかむらはん)は、土佐藩の支藩。
江戸時代初期から中期にかけて3代33年間存在した。明暦2年(1656年)土佐藩2代藩主・山内忠義の二男・忠直が幡多郡中村(四万十市)付近3万石を与えられ立藩。 元禄2年(1689年)3代・豊明は若年寄に累進したが病気を理由に辞職。時の将軍・綱吉の怒りを買い蟄居となり、3千石に減知されたが豊明はこれを拒んだため廃藩となった。
ただし、中村藩は土佐藩の初代藩主・一豊の弟・山内康豊とその息子・山内政豊の2代が慶長6年(1601年)から寛永6年(1629年)の間、2万石で治めていた時期があり、この時期も中村藩主時代と見られることもある。
[編集] 歴代藩主
- 山内(やまうち)家
[編集] 第一期
2万石 (1601年 - 1629年)
[編集] 第二期
3万石 (1656年 - 1689年)
[編集] 土佐新田藩
土佐新田藩(とさしんでんはん)は、土佐藩の支藩。江戸時代後期の安永9年(1780年)中村藩の子孫で山内氏の一族の山内豊産が1万3千石を本藩より分与され立藩した。藩主は参勤交代を行わない定府大名であった。6代90年間続き、明治3年(1870年)に土佐藩に編入された。高知新田藩ともいう。
[編集] 歴代藩主
- 山内(やまうち)家
- 豊産(とよただ)〔従五位下・遠江守〕
- 豊泰(ただよし)〔従五位下・摂津守〕
- 豊武(とよたけ)〔従五位下・遠江守〕
- 豊賢(とよかた)〔従五位下・遠江守〕
- 豊福(とよよし)〔従五位下・遠江守〕
- 豊誠(とよしげ)〔従五位・侍従〕
[編集] 家老
- 深尾氏(土佐佐川領1万石・藩主一門)維新後男爵
深尾重昌(山内忠義の弟)-重照-重方-繁峰-茂澄-繁寛-重世-重敬-重先-重愛-重孝-隆太郎-重光-重興
- 伊賀(山内)氏(土佐宿毛城領6800石・藩主一門)称:山内姓、維新後男爵
山内可氏(一豊の姉の子)-定氏-節氏-倫氏-晴氏=郷俊-氏篤-保氏-氏睦=氏理-伊賀氏成=氏広(山内豊信の弟)-氏英
山内康豊(山内一豊の弟)- 政豊
- 山内氏(1500石・藩主一門)維新後男爵
- 五藤氏(土佐安芸領1100石・尾張時代からの重臣)
五藤為重-以後幕末まで続く
- 祖父江氏(1000石・尾張時代からの重臣)
祖父江勘左衛門=祖父江一秀(勘左衛門の側室の連れ子)
- 福岡氏(家臣)維新後男爵
- 野中氏(藩主一門)後に、幽閉
野中直継(父の従兄弟)=兼山(一豊の妹の孫)

