天理教

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天理教
天理教の紋(中山家の家紋、梅鉢を象ったもの)
教会本部。正面が南礼拝場、右手が東礼拝場、左手が西礼拝場
設立年 1838年
種類 宗教法人
本部 日本の旗 日本 奈良県天理市三島町271
公用語 日本語
設立者 中山みき
ウェブサイト TENRIKYO
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天理教(てんりきょう)は、日本江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みき教祖(おやさま)とする宗教団体である。狭義には奈良県天理市に本拠地を置く包括宗教法人(宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。本稿では、狭義の天理教を中心に述べる。

概要[編集]

 

「宗教法人天理教」及びその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。

神名(かみな)は天理王命(てんりおうのみこと)。教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。「陽気ぐらし」という世界の実現を目指している。教祖は中山みき。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。教祖は90歳で死去、天理教では目に見える存在は隠されたというが、その魂は今でも現世に生きており、人々の暮らしを見守っているとしている。現在の統理者は真柱(しんばしら)・中山善司。

天理教では、人間のの発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、明治8年(1875年)6月29日(陰暦5月26日)に教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。この「ぢば」は「元なるぢば」「かんろだいのぢば」の意味もあり、天理教の信仰の対象であり、中心であるとされている[1]。このようなぢばの意義は「ぢばの理」と呼ばれている。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られている。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の信者詰所などには「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。

「ぢば」の中心には、六角形をした「かんろだい」(甘露台)[2]が置かれた「神殿」が建てられ、四方から囲むように信者等が礼拝する四つの「礼拝場[3]」がある。そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、御霊を祀る「祖霊殿」(それいでん)などがあり、信者・非信者に関係なく誰もが自由に出入りすることができ、南礼拝場は24時間開かれている。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という礼拝が行われる。傘下にある一般教会などにおいても、その例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」の礼拝が行われている。

礼拝する際、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」などと唱え、そこに定まった手振りを加え、親神天理王命に祈りをささげる[4]

かつて教派神道の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、葬儀式などに見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。

天理教は「かなの教え」とも説かれる。教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『おふでさき』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義などに使われる言葉の多くが「かな表記」にされている[5]

基本的に信者達は、その信心実践の証明としてハッピを平服の上から着用する。主に黒でできており、その背には「天理教」「TENRIKYO」などが、襟表には所属団体名などが白字で記載されている[6]。元々はおつとめ着や教服の略装であったが、現在はひのきしんやにをいがけなど、教団行事の際の着用服という意味合いもある。

教義・教理[編集]

人間がこの世に存在するのは、親神が人間の明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」「喜びの日々」を見たいからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説いている。人間は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現のために、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、平和で豊かな世界を目指すことが重要であると説く。

「人間の身体は親神からの「かりもの」(借り物)と説き、心だけが自分のものであると説く。心の使い方によって、ほこり(埃)がたまると説き、自己中心的な心づかいを慎むよう、また親神の思いにそって身体を使わせていただくことが重要であり、ほこりを掃除するように説いている。親神からの「かりもの」であるそれぞれの身体を、陽気ぐらしのために惜しまず使っていくことが大切とされている。また、すべての人間関係は、親子・夫婦関係を基本として培う事が理想であるとされている。

「人たすけたらわがみたすかる」という教祖の言葉が重んじられるように、天理教では「人助け[7]」が基本理念にあり、それは「自らが真にたすかる道」とされている[8]

ひのきしん(日の寄進)」は、日々健康に生きられることを親神に感謝し、その感謝の意味を込めて、親神のために働くことをいう。具体的には、教会の清掃活動をはじめ、地域における奉仕活動等が行われている。

「つとめ」(かぐらづとめともてんりおうのつとめとも呼ぶ)という祈りを通して、親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを願う活動。

病気や怪我の人に信者が教祖へ「おさづけ」を取り次ぐことによって治癒・回復が出来るとしている。

信仰する神が輪廻転生を司るため、人には前生・後生があり、生まれ変わるという死生観がある。教団では、死ぬことを出直しと呼称し、人間は死亡しても、またこの世に生まれ変わるからと説いている。来世観を持たない数少ない宗教といえる。

なお、1887年教祖中山みきが現身を隠された(逝去)後も、教祖の御魂は出直すことなく地上(天理教教会本部・教祖殿内)にあり、生きていて日々世界だすけの上にお働き下されていると説いている。これを「存命の理」と呼ぶ。

教勢[編集]

天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、明治末期には300〜800万人以上にのぼったといわれている[9]。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している(分派については後述)。また、当時の日本であった朝鮮半島や台湾においても布教が進み、現地人の信者が増加した(海外布教については後述)。戦前においては新宗教の中で最も大きな教団に成長し、現在のところ教会本部の公称では220万人程度としている。ただし、日本の宗教統計(『宗教年鑑』など)では各教団の信者・信徒数は国民の総人口よりも多いことから理解できるように、この中には、他宗教に帰依した状態で天理教の信仰を行なっている者の数も含まれている。

沿革[編集]

教祖在世時代[編集]

1838年(天保9年)10月26日に遡ること数日前、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)の庄屋中山善兵衞が、息子・秀司の病気を治すために、山伏に祈祷を依頼した。その際、普段、修験者の霊媒を勤める者が留守であったため、善兵衞の妻であるみきが霊媒の役割を勤めた際に、「親神(おやがみ)」天理王命(てんりおうのみこと)が天降ったとされる[10]。数日間の押し問答の後、一家の戸主であった善兵衞はみきを「神のやしろ」として差し出すことを了承した。天理教では、この日を「立教の元一日」と称し、ここから天理教の歴史が始まったとされる。その後、中山家は家財を貧者へ施すことを通して、没落の一途をたどった。教祖は三女の出産に対して初めて行った安産の救いである「帯屋(おびや)ゆるし」を望む人に行ったり、人々の病気を治すなどの奇跡を起こし、近隣の住民の信仰を集めたと伝えられる。

その後、そうした活動が広まるに連れて、地域の寺社から疎まれ、さらに教祖は逮捕・拘留されるなど、幾度となく官憲から弾圧を受けた。そのようなことから側近達は、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神は教団の認可活動を認めず、幾度と無く反対の意思を示した。息子・秀司が1867年(慶応3年)、京都神祇管領吉田家に願い出て布教認可を得たが、明治維新後は無効となる。取締りが厳しくなった1880年に既成宗教に傘下に入ることを試み、高野山真言宗へ願い出て、光台院末寺の金剛山地福寺のもとに「転輪王講社」を結成したが、翌年に活動の中心を担っていた息子・秀司が死去した(天理教では死を「出直し」と呼ぶ)。さらに、官憲からの取締りが多くなってきたことから神道の一派として講社を立ち上げることを試み、1885年(明治18年)5月23日に、神道本局傘下の六等教会「神道天理教会」として認可されたが、その後、1886年(明治19年)2月に逮捕・勾留され、翌年1887年(明治20年)2月18日に教祖が死亡した。

教団の組織化・国家統制時代・戦後[編集]

教祖死亡後は、教祖の生前中からの側近であり、本席に定められた飯降伊蔵と後に初代真柱となる教祖の中山眞之亮が教団運営の中心となった。

教祖が生存中、神道の一派として「神道天理教会」として公認されたが、教団としては独立が悲願であった。1900年(明治33年)8月から明治政府の意向に配慮した「明治教典」などの編纂を行うなど各方面で努力をした結果、1908年(明治41年)に別派として独立[11]。しかしながら、その悲願であった別派への独立を果たした後も、結果的には国家的弾圧は完全な収まりを見せず[12]日中戦争勃発後は、遂に内務省や文部省宗教局の指示により教団運営に関してさまざまな制限、改変が加えられた。主なものに、三原典の内『おふでさき』と『おさしづ』の使用を禁止(各教会から回収)し、天理教教典(明治36年編集の明治教典)のみを教義とすることや『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除すること。泥海古記に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、南方作戦の軍事物資と軍隊の輸送協力など指示された。 教団側はこれらの内、特に『みかぐらうた』の改変や泥海古記の禁止などに難色を示したが、これより前に宗教界では大本事件に対する危機感から主立った宗教は諸手を上げて国家へ協力さぜるを得ない空気が流れ込んでおり、天理教でも二代真柱の中山正善が諭達第7号、第8号を相次いで公布[13]、全教一丸となって軍部、国家へと協力するようにという指示が出された。

諭達第8号公布日の昭和13年12月26日、教団では13名の委員からなる「革新委員会」が設置され、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定が為された。この決断を天理教内では「革新」と呼称している。

以降、教団内ではかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した『新修御神楽歌』の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」の発表、『おふでさき』、『おさしづ』の引用自粛と冊子自体の回収。天理教一宇会の結成(青年会や婦人会も統合された)。天理市内の「詰所」の名称使用を中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざひのきしん隊」の結成を奨励(戦地への男子信者徴発協力や若草山炭坑掘りひのきしん)など、強制、自発問わずあらゆる形で戦争へ突き進む国家への協力が終戦まで続けられた。

1945年(昭和20年)10月、終戦によって政府からの干渉から完全に解放され、本来の天理教の姿に戻る宣言が二代真柱よりなされた(これを天理教内では「復元」と呼称している)[14]。その後、教団自身が最早教派神道ではないと宣言した。

戦中の反動から、一時共産党に協力する姿勢を取ったこともあるが、現在では特定政党に関与はしていない。

歴史[編集]

  • 1798年(寛政10年)4月18日、前川みき、大和国山辺郡西三昧田村に生誕。
  • 1810年(文化7年)10月13日(陰暦9月15日)、前川みき(13歳)が山辺郡庄屋敷村・中山善兵衛に嫁し、中山みきとなる[15]
  • 1838年(天保9年)12月12日(陰暦10月26日)、森神社(現在の三島神社)にて中山みき(40歳)に「天理王命」が憑依し、天理教が発祥。親神のやしろ(月日のやしろ)に定まり、その口を通して親神の意志が伝えられることになる。
  • 1864年(元治元年)11月26日(陰暦10月26日)、つとめ場所建築[16]
  • 1866年(慶応2年)、中山みき、「あしきはらいたすけたまへてんりわうのみこと」の歌と手振りを教える。
  • 1867年(慶応3年)、中山みき、みかぐらうた「十二下り」の歌と手振りを教える。京都吉田神祇管領に公認出願、陰暦7月23日に認可。
  • 1869年(明治2年)、中山みき、正月から『おふでさき』を執筆開始。1882年(明治12年)まで書き続ける。
  • 1870年(明治3年)、中山みき、「ちよとはなし」と「よろづよ八首」のつとめの詞手ぶりを教える。
  • 1873年(明治6年)、中山みき、飯降伊蔵かんろだいの雛型(木製)を造るよう命じる。
  • 1875年(明治8年)6月29日(陰暦5月26日)、中山みきにより、人類発祥の場所「ぢば」が示される。「ぢば定め」と呼ばれる[17][18]
  • 1885年(明治18年)5月23日、神道本局から神道直轄六等教会設立認可。「神道天理教会」として布教が公認される。
  • 1887年(明治20年)2月18日(陰暦1月26日)午後2時ごろ、教祖・中山みき死去(90歳)[19]。3月25日(陰暦3月2日)、飯降伊蔵が本席と定まり以後、本席が親神の意志を伝える。本席により『おさしづ』口述筆録を始める。(1907年(明治40年)まで)
  • 1888年(明治21年)4月10日、東京府知事から神道直轄天理教会本部設立認可。7月23日、現在の教会本部所在地(現在の奈良県天理市)へ移転。この年立教50周年。
  • 1896年(明治29年)4月6日、内務省訓令第12号発令(秘密訓令・甲第12号)。当局の取り締まりが苛烈となる。
  • 1903年(明治36年)5月29日、『天理教教典』(明治教典)が編纂される。
  • 1907年(明治40年)6月9日、本席・飯降伊蔵死去(75歳)。
  • 1908年(明治41年)、明治政府より一派独立認可。この年、立教70年。
  • 1910年(明治43年)1月26日、祭典日を陽暦に変更。
  • 1914年(大正3年)12月31日、初代真柱・中山眞之亮死去(49歳)。
  • 1927年(昭和3年)4月26日、『おふでさき』公刊。
  • 1933年(昭和9年)4月18日、教祖誕生祭開始[20]。10月25日、神殿改築、南礼拝殿完成。
  • 1938年(昭和13年) - 文部省宗教局の指示により、当時の軍部へ迎合する形で教内刷新を目的とした革新委員会を設置。二代真柱が諭達第8号を公布。「革新」と呼ばれる。この年が、天理教成立より丁度一世紀目となる立教100周年であった(教団としての100周年活動は前年に行っている)。
  • 1939年(昭和16年)2月1日、天理教校別科を廃止し、天理教校修養科新設。
  • 1945年(昭和20年)10月26日、本来の天理の道の姿に戻る宣言を二代真柱・中山正善が行う。真座のかぐら、十二下りのてをどりを「復元」。
  • 1949年(昭和24年)4月1日、天理大学開学。10月26日、『天理教教典』公刊。
  • 1956年(昭和31年)3月8日、午後2時のサイレンが開始[21]。10月26日、『稿本天理教教祖伝』出版。
  • 1966年(昭和41年)1月、教祖80年祭にあわせて、『おさしづ』全7巻が新たに公刊、全教会に配布。
  • 1967年(昭和42年)11月14日、2代真柱・中山正善死去(63歳)。
  • 1986年(昭和61年)1月26日~2月18日、教祖100年祭執行。

文献[編集]

三原典[編集]

教義の基礎は、『おふでさき』(御筆先)、『みかぐらうた』(神楽歌)、『おさしづ』(御指図)の3種類の啓示書で示されており、これらを「三原典」と呼んでいる。

  • 『おふでさき』は、教祖が1869年(明治2年)から82年(同15年)までの13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。親神の教えを和歌の形で記してあり、直筆で現存する。この三原典に数えられるものは「正冊」と呼ばれ様々な形で目にすることが出来るが、この他に教祖が各信者に個人的に書き記して渡したり、山村御殿に滞在した際に書いた「おふでさき号外」が存在しており、それ等は正冊に対して「外冊」と呼ばれている。
  • 『みかぐらうた』は「かぐら」と「てをどり」の地歌を合わせた、つとめの地歌の書きもの。「陽気ぐらし」を目指す天理教の教えを誰でもわかりやすく記したもので、最初に作られた時期とそれぞれの内容から五つの部分(節)に分けられる。教祖によって1866年(慶應2年)から1882年までの間に断続的に形作られ書かれたものとされるが、未だに原本が見つかっていない。
  • 『おさしづ』は教祖、または飯降伊蔵(本席と呼ばれ、教祖の高弟の一人)の口を通して、神の指図を側にいた書取人が速記したもの(そのため、同音異義語の問題がある)。困ったことがあったときの心構えや解決方法を記したもの。明治20年から同40年に至る20年間の世界と道の事情に対する刻限のお言葉および個人の身上・事情に対する伺いさしづの筆録。

三原典を呼ぶ順番は天理教内では『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』の順である。原典の内容に優劣があるわけではないが成り立ちから優先順位があり、教祖直筆であることから、天理教内で使われる言葉のつづりは『おふでさき』が最優先である。例としては、天理教の布教活動の事を「にをいがけ」とつづる。『おふでさき』では「にをいがけ」、『みかぐらうた』では「にほいかけ」となっているが、優先順位にもとづき、この様に定まっている。

教祖には神が入り込んでいたと考えられており、また本席・飯降伊蔵は「言上の許し」と言われる神の言葉を取り次ぐ許しが与えられていた。そのため、この三原典は全て「神意をあらわしているもの」であり、「人間の考えが混じっていない」、と考えられている点で、天理教内の他の書物とは全く異なるものであると考えられている。

天理教教典[編集]

天理教の書物の一つ。天理教教典は、三原典を基に教会本部が編述した教義の大綱を示す文書である。現在は第二次大戦後に裁定された教典(復元教典)となっている。1949年10月26日に教会本部が発刊。二代真柱・中山正善が天理教教典と制定した。前篇5章、後篇5章の全10章で構成されている。

泥海古記[編集]

天理教の書物「こふき本」のこと。「元初まりの話」を指す言葉。また教祖がくりかえし口授した話を「こふき話」と言い、文として書き表したものを「こふき本」または「こふき話写本」と言い、それに書かれている教説全体を指す言葉として昭和10年代までは広く用いられていた。こふき本は長い間出版されずにいたが戦後に中山正善真柱の「こふき本の研究」(昭和32年初版、道友社)が刊行され手軽に読めるようになった[22]

稿本天理教教祖伝[編集]

天理教の書物の一つであり、中山みき伝記1951年に教会本部が発刊。

組織[編集]

教団組織[編集]

  • 統理者は「真柱」と呼ばれる。真柱は「教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」とされており、代々、教祖中山みきの子孫が就任している。初代には中山みきの孫にあたる中山眞之亮、2代目には中山正善、3代目には中山善衛が就任した。現真柱は中山善司であり、4代目となる。2013年10月24日、天理教教会本部員会議は、第4代真柱の養子である中山大亮(中山善司の実弟である中田善亮氏の長男であり、2013年4月に中山善司夫妻と養子縁組している)を真柱継承者に選ぶことを全会一致で決定した[23]
  • 宗教法人天理教の主たる事務所組織を「教庁」という。布教部、海外部、教義及史料集成部、教化育成部、輸送部などは教庁の組織である。宗教法人天理教の代表役員は表統領といい、主に教団の事務関係を司り、真柱以外の者が就任している。また、宗教法人天理教の意思決定機関は「集会」と呼び、集会員が選出されている。
  • 宗教法人教会本部の組織には、境内掛、修養科、別席場等が含まれる。宗教法人教会本部の代表役員は内統領と称し、真柱以外の者が就任している。また、意思決定機関を本部員会議と呼ぶ。
  • 教会本部がある敷地内にはかつて三島神社があった。

教会[編集]

東中央大教会(東京・表参道

天理教の教会は、教会本部及び一般教会からなる。一般教会は、主に中山みきの生前に信者により結成された講社をその端緒とするものであり、布教の系統にしたがって設置され、その規模に応じ大教会及び分教会と呼称される[24]。大教会はすべて本部直属教会であり、分教会は本部直属、大教会直属または他の分教会直属のいずれかである。そのほか、教会を経由して教会本部に届け出ることにより布教所を設けることができる。教会及び布教所においては、つとめ及び祭典が行われる。 教会数は日本国内に16,824ヶ所あり、また韓国、ブラジルを始めとして海外に317ヶ所存在する。

信者詰所[編集]

信者詰所は、本部直属教会が天理市の教会本部周辺において信者の宿泊に供するために設置する施設である。各教会の個別の建物であるものや、教会本部の施設に入居しているものもある。教会本部への参拝者の宿泊のほか、修養科生の宿舎としても使用されている。また、各大教会の所在地に、部下教会信者が大教会の祭典の参拝のため、信者詰所を設置している。

教区・教務支庁[編集]

教務支庁とは、各都道府県を教区として設けられる宗教法人天理教の地方事務所である。一般教会が布教の系統にしたがって(地域性とは関係なく)設置されるのに対して、教務支庁は各都道府県を教区として置かれている。また、教区はさらに支部に分割(市・郡単位を原則として設置)されている。

信仰生活[編集]

おつとめ[編集]

天理教の儀式のひとつ。正式には「つとめ」と言い、一般的な「てをどり」と「かぐらづとめ」に分けられる。おつとめは天理教の祭儀の中心であり、特に祭典ではおつとめをつとめることが主要行事である。つとめは親神が人間を救済する手段であり、人間側からすれば、親神の守護を受けるための祈念とされている。つとめは信仰生活の基本であり、昔から天理教に入信した人々は、教理を学ぶと共に、つとめができるよう練習する。

「つとめ」の一つである「かぐらづとめ」は、10人の「つとめ人衆」がそれぞれ面をつけ、特別な服装をして、かんろだいを囲んでつとめる。また、その時に行われる手振りは親神の守護の理を表現し、このかぐらづとめ全体で人間創造のときの様子を表している。歌は、第一節を21偏、第二節を1偏、第三節を7偏ずつ3回である。このかぐらつどめは「ぢば」(教会本部)でしか行われない[25]。また、天理教豊文分教会(現・天理教豊文教会)はこのかぐらづとめがきっかけで独立した。

「かぐらづとめ」が終わると、「てをどり」がはじまる。人衆も交代し、男女各3名ずつが一列にならんでつとめる。服装はおつとめ衣と呼ばれる黒い紋付である。みかぐらうたの第4・5節(一般には十二下りと呼ばれる)をつとめ、前半と後半で人衆を交代する。また「ぢば」以外で面をつけることが禁止されているのでかぐらづとめの代わりに「座りづとめ」が行われる。人衆はてをどりと同じ人数。お歌は第一節を21偏、第二節を1偏、第三節を3回ずつである。座りづとめはおつとめの最初に行われる。

朝勤・夕勤[編集]

一般教会で行われるおつとめ。「朝夕のつとめ」とも呼ばれ、朝夕とは「朝な夕な」に親神様に感謝の礼を言い世界の人々がたすかることを願って行われる。朝夕のつとめの手振り、歌は、座りづとめと同じであるが、5人の人衆が一列に並び鳴り物を使う。鳴り物は神床に向かって右から太鼓・数取・拍子木・ちゃんぽん・すりがねである。教服または法被を着て行う。 信者家庭や不特定の場所、また親神の目標が祀ってある場所でつとめをする場合には普通手振りのみまたは拍子木によるつとめが行われる。この場合は法被を着て行う。人が集まってする場合や講社まつりなどでは数取も使われることが多い。また、教会や「ぢば」などで個人の病気などのお願いをする「お願いづとめ」は特別な形式で行われる。 朝夕のおつとめの時間はほぼ日の出、日没にあわせて行われている。

にをいがけ[編集]

天理教における布教活動のこと。にをいがけを行うことによって、相手だけでなく自らも成長するとされる。

こどもおぢばがえり[編集]

こどもおぢばがえりとは、毎年7月26日頃から8月4日頃にかけて行われる、子ども向けの行事である。天理教の信者家庭でなくても参加可。信者詰所で(日帰り参加者もいる)宿泊し、天理市内で行われる様々な行事に参加する。子供達が人間としてより一層成長していくとともに、友情の輪を広げていくという趣旨がこめられている行事である。1954年に「おぢばがえりこどもひのきしん」の名称でスタートし、1956年から現在の呼称となっている[26]

お節会[編集]

お節会(おせち)とは毎年1月5日から7日に教会本部で行われる行事で、期間中に人類の故郷「ぢば」に帰り、参拝した人々に、教会本部の元旦祭に供えられていた鏡餅雑煮にして振る舞う行事であり、教祖が在世中の明治時代から続く歴史のある伝統行事である。約30トンのお餅が参拝者に振る舞われる。

別席[編集]

「ようぼく」(用木)になるために、天理教の考えなどを聞く講義。「ようぼく」は一般的な宗教における信者に相当する。17歳以上で「ようぼく」になりたいものであれば、誰でも聴講することが出来る。9度聴講すると「満席」となり、願い出た人に対して「おさづけの理」を拝戴することができ、おさづけが実行できるようになるとされる。また理を拝頂する際、本部教祖殿において真柱より「おかきさげ」と呼ばれる御神言が書かれた書状が渡される。これはおさづけを運ぶ際に守るべきものとして親神が本席を通して指図した御神言の要約であり、「ようぼく」が信仰上において守るべき指針や心構えなどが記されている。費用は、1回目(初席)2,000円 2回〜9回(中〜満席)無料[27]

おさづけ[編集]

天理教では、「おさづけ」を取り次いでもらうことによって、病気などの回復を願う。おさづけの理を取得した「ようぼく」であれば、おさづけを取り次ぐことができる。現在のさづけは「てをどりのさづけ」または「あしきはらいのさづけ」と呼ばれるもので、

あしきはらい たすけたまえ てんりわうのみこと

という言葉を定められた手振りに合わせ、3回唱えて、3回病気の患部等をなで、とこれを3度繰り返す[28]

修養科[編集]

修養科(しゅうようか)は、宗教法人天理教が主催する天理教の教義等を学ぶ場であり、「ようぼく」を目指す講習会である。奈良県天理市内の天理教の信者詰所で3か月間宿泊しながら、学ぶ。この修養科に学びにきている者達を修養科生という。満17歳以上の者であれば、誰でも参加することができ、天理教の一般教会などを通じて申し込む。(ただし、申し込み先の所属の大教会の独自の募集条件を課す場合があり、例えば、ようぼくになっていることが条件になっている場合や募集月を3か月ごとにする場合もある。)午前中は天理教の教義を学んだり、おてふり、なりものといった天理教の宗教儀式を練習し、午後は天理教に奉仕活動するひのきしんを行う。修行は早朝から始まる。修養科は何度でも参加することが出来る。

講習会[編集]

修養科以外の講習会としては、基礎講座、三日講習会、教人資格講習会、教会長資格検定講習会などがある。 基礎講座は信者・非信者を問わず天理教の教義をわかりやすく説明するもので、天理市の他、東京、北海道、福岡、新潟の各教務支庁などでも受講することができる。その他は、原則として天理市で受講する。 また不定期ではあるが、将来の有為な人材の育成を目指して後継者講習会、教祖の年祭など節目に地方講習会や研修会が天理市の他、各地で開催されている。

立教年・誕生祭・年祭[編集]

教祖が天啓を受けた1838年を立教元年と位置づけ、以後立教年と呼称している。立教にちなんで10月26日は秋季大祭を執り行い、教祖が誕生した4月18日には毎年誕生祭が行われている。 また教祖が現身を隠してから年祭活動が行われている。1888年に教祖1年祭が行われ、現在は10年単位に年祭を行っている。教団の祭典史に於いて最も規模が大きかったと言われる年祭は、信者数増加のピーク時でもあった1966年に執行された教祖八十年祭で、最も近年に行われた年祭としては2006年1月26日に行われた教祖百二十年祭がある。

海外布教[編集]

天理教は明治時代から世界各国に進出している。一つは、集団移民した日本人や日系人の場所へ、信者が布教した場所であり、現在も教会のある国としてはアメリカハワイ島、西海岸地区)、ブラジルアルゼンチンパラグアイペルーコロンビアなどがある。

もう一つは、戦前の日本の占領地で移住した信者が布教した場所であり、台湾韓国などがあげられる。満州では哈爾浜市郊外に移民団が入植して「天理村」を建設、布教かたがた開拓を行い、天理鉄道(通称「天理村鉄道」)と呼ばれる軽便鉄道も建設している。敗戦後の引き上げで、これら、日本占領地で布教を担っていた大教会は日本に引き揚げた。そのため、大教会名にその当時の名残がある[29]

戦後進出した国は布教師が布教を目的に入った場所が多いとされ、インドネシアフィリピンネパールタイシンガポールなどの東南アジアをはじめ、コンゴ、ケニア、ウガンダ、オーストラリアインドフランスイギリスメキシコチリニュージーランド香港など、世界各国・地域に及ぶ。いずれの国にも本部公認の拠点や教会、布教所が存在する。

海外布教に乗り出すため、戦前から外国語の専門学校を設立。のちに天理大学となった。

宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体[編集]

宗教法人天理教は、分立した団体が多数存在する。これについては、宗教学者等は中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している[30][31]。特に、飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生している。「ほんみち1925年)」・「大道教1900年)」「太道教1940年)」「天輪王明誠教団1888年)」・「日月教1942年)」・「八楽会教団1946年)」・「井出国子朝日神社」「大徳寺昭輝天命庵」・「天真教真祐殿教会1958年)」・「神光苑1952年)」・「天理三輪講」・「世界心道教」・「おうかんみち」・「人間甘露台」・「神一条教」・「茨木一派」などの宗教団体がある。直近の事例としては天理教豊文教会2006年)の例がある。

また天理教の影響を受けた団体として、公益財団法人の「モラロジー研究所1926年)」などがある。

詳細はそれぞれの項で述べる。

宗教番組[編集]

日本全国のテレビ・ラジオで早朝に放送されている天理教の宗教番組として「天理教の時間」を放送している。ラジオでは「家族円満」のタイトルで、信者から寄せられたメッセージを元に家族円満の秘訣を紹介する。パーソナリティが毎週朗読している。詳細は天理教の時間を参照。

災害救援ひのきしん隊[編集]

災害救援ひのきしん隊は、教祖の教えに基づいて救援活動や支援活動を行っている。組織機構は、天理教教庁表頭領室内に天理教災害対策委員会が常置されている。ひのきしん隊には現在、おやさと隊と、47教区隊が結成され、約6,000人の隊員が活動している。ひのきしん隊が初出動したのは昭和46年(1976年)9月・愛知県蒲郡市での台風23号水害であり、その後、2013年までに109回出動している。特に平成7年(1995年)1月17日に起きた阪神・淡路大震災では2万人を超える隊員が活動を行った。平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では被災地の救援活動としてひのきしん隊が、震災直後より活動を開始し、のべ18,000名が作業を行った[32]。また、また、教団内のアマチュア無線クラブも災害救援活動において協力を行っている。

その他[編集]

  • 天理市は、日本では唯一の宗教名が地方自治体名になっている宗教都市である[33]。宗教法人天理教では、天理市へ特に使用目的を指図していない形で毎年寄付を行っている。この寄付金は税収入と同様の形で天理市の毎年の当該年度の一般会計予算の中に組み入れられている。平成25年度の天理市予算では寄付金として1,020,003千円計上されており、大半は天理教からの寄付を見込んでいると考えられる。[34]
  • 機関誌は、「天理時報」。週刊発行で、発行部数15万部[35]。かつて「国民は采食主義で鳥と魚は食べたが、獣肉(牛、馬、羊、豚)などは賎民以外は決して食べなかった[36]」と、部落差別的内容と受け止められる内容の記事を書き部落解放同盟から糾弾され、発行の翌月に問題となった号を回収するまでに事態は深刻化した。批判を受けたため、天理啓発委員会より部落差別問題に対する理解不足の反省から「天理ろくぢ」という冊子が発行された。
  • 長崎県壱岐市勝本町には「天理教」という壱岐交通バス停がある[37]。バス停前には天理教勝本支所が立つ。同様に、神奈中バス国府津駅小田原駅間を運行するバス路線にも「天理教前」停留所が、京阪京都交通京都市西京区内バス路線にも「西長天理教前」停留所が、北陸大教会のある福井県小浜市にも「天理教前」停留所がある。
  • 徳島県鳴門市には、JR鳴門線教会前駅という駅があるが、これは天理教撫養大教会の前にある駅である。阿波電気軌道として開業した当時は「天理教前停留場」だった。
  • 奈良県大和郡山市に「天理町」という町名がある。元は「北郡山町」の一部であったが、天理教郡山大教会が移転したことに際して付けられた。門前には「郡山天理教」という奈良交通のバス停がある。
  • 近鉄四日市駅の北に旧線時代に急カーブして四日市駅に向かう箇所があり、近くの四日市分教会があるため通称天理教カーブと呼ばれていた[誰によって?]
  • 松下幸之助の経営理念の一つ水道哲学は、天理教本部の来訪がきっかけといわれている[38]

脚注[編集]

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  1. ^ この他にも「ちば」は「よろづたすけ」の源泉や、天理王命の神名が授かったところであるという意味もあるとされている。(中山正善『こふき本の研究』125-6ページ)
  2. ^ 横から見た図上から見た図ホゾの図 天理と刻限サイトより
  3. ^ 「らいはいじょう」と読む。
  4. ^ 実際には、「あしきをはろうてたすけたまえ」で始まる詞句を21回、「ちょいとはなし」で始まる詞句を1回、「あしきをはろうてたすけせきこむ」で始まる詞句を3回ずつ3度に分けて唱える一連の詠唱を「おつとめ」と称する
  5. ^ 「ぢば」は「地場」、「いんねん」は「因縁」、「おふでさき」は「御筆先」、「みかぐらうた」は「神楽歌」と言った語源があるものの、教団内では全てかなで表記される。
  6. ^ 通常、表側(右側)の襟に大教会名を、下側(左側)の襟に分教会・布教所名などを入れる。ただし修養科生が着るハッピについては、表側の襟に「修養科生」、下側の襟に大教会名を書く。
  7. ^ 天理教では『人だすけ』と表記
  8. ^ 『諭達』第三号(2012年10月26日発行、天理教教会本部)
  9. ^ 新興宗教を考察する
  10. ^ 。この際みきの口を通して初めて出た神名は「元の神、実の神」であった。
  11. ^ 教団ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している
  12. ^ ただし天理教に限らず、明治以降は他にも大本ひとのみち教団など他宗教も当局から苛烈な弾圧を受けていた
  13. ^ 特に第7号には「身を軍籍に奉じて、国家の為に赴く者にありては、挺身武人の亀鑑を垂れ、銃後にありては、身を持すること険素に、勇躍以て奉公の事に従い、率先ひのきしんに参じて、邦家の緩急に応え、教祖様垂示の大精神を発揮して、敢然時艱を克服する為、一手一つに、感奮興起すべき至旬なりと確信す」と、かなり強い語調で各信者への翼賛的協力が指示されている。
  14. ^ 復元(創刊号) 天理教熱田分教会サイト
  15. ^ 当時の家 天理刻限サイトより
  16. ^ 当時の中山家 天理刻限サイトより
  17. ^ 当時、中山みき・78歳。示された場所は、立教の元一日に初めて教祖に神がお下がりになった場所と一致したと言われている。
  18. ^ 当時の家 天理刻限サイトより
  19. ^ 天理教では「現身をかくされる」と称する。
  20. ^ この祭典から、参拝者のみかぐらうた唱和が許されている
  21. ^ 午後2時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7月7日からサイレンが現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている。(『改訂 天理教事典』1028ページより)
  22. ^ 改訂 天理教事典 681ページ
  23. ^ 『読売新聞』(2013年11月5日)「天理教の真柱継承者、中山大亮氏に
  24. ^ かつては「支教会」・「宣教所」・「出張所」なども存在した。
  25. ^ てんりおうのつとめも参照
  26. ^ こどもおぢばがえり こどもおぢばがえり公式サイトより
  27. ^ 天理教「修養科案内」(2005)
  28. ^ 天理教ホームページ - おさづけの理
  29. ^ 例、京城大教会など
  30. ^ 日本の10大新宗教 島田裕己著より
  31. ^ 天啓のゆくえ―宗教が分派するとき 弓山達也
  32. ^ 『東日本大震災 被災地へ 天理教 救援 ・支援活動記録』(天理教道友社、2012年)
  33. ^ かつては金光教の名前に由来する岡山県金光町が存在したが、平成の大合併により消滅(現:浅口市)している。
  34. ^ ||| 天理市ホームページ ||| 財政課 平成25年度予算編成方針
  35. ^ 天理時報社の公式発行部数より
  36. ^ 「天理時報」昭和44年4月27日号の天理健康長寿法(8)
  37. ^ 壱岐交通乗合バス路線図
  38. ^ 松下幸之助 vol.3 水道哲学の原点となった 天理教との出会い - 現代ビシネス

参考文献[編集]

関連項目[編集]

公式サイト[編集]