征夷大将軍
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征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、日本の令外官のひとつ。
由来としては天皇に任命される軍事指揮官であるが、1192年から1867年にわたり幕府と呼ばれる武家政権を築き、3つの家系の将軍家が世襲君主として日本全土に政治的・軍事的に君臨した。
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[編集] 概要
征夷大将軍は、奈良時代から平安時代には、東国に派遣された将軍の呼称の一つであった。後世、武家政権としての幕府が成立して以降は、将軍、公方、大樹、大樹公、御所などとも呼ばれた。類似した職に征狄大将軍(せいてきだいしょうぐん)や征西大将軍・征東大将軍がある。日本紀略の延暦11年(793年)2月17日の条に「征東使を改めて征夷使と為す」とあることから、征夷使(征夷将軍、征夷大将軍)と征東使(征東将軍、征東大将軍)は同質のものと解される。このほか、征夷大将軍に類する官職として、鎮守府将軍があるが、鎮守府将軍が平時における地方軍政府の最高責任者であるのに対して、征夷大将軍は非常時における地方軍政府の最高責任者である。
征夷大将軍は天皇の勅令によって任命された[1]。これを将軍宣下という。だが、武家政権下においては天皇の従順な臣下というよりは、天皇の統制者だった[2]。足利義満以後は、対外的には日本国王としての待遇を受けるのが通例であった。
また、江戸時代に至ると、将軍は実際上の国内統治権や対外的な君主としての代表権のみならず、政治的な権威の面でも天皇を抑えるようになった。江戸幕府の確立以降、将軍宣下に当たっても勅使が江戸城に赴き、将軍が上座、勅使が下座に立つのが礼法であり[3]、天皇への書面上も『公方様より禁裏へ』と対等の文言を使い[4]、さらに秀忠・家光は天皇との会見の際、太上天皇と同様天皇と向かい通しで対面する[5]など、政治的権威の面でも天皇と同格となった。しかし幕末には天皇の権威が尊王思想の影響により回復し始めると、待遇が変更され、勅使が上座に立ち、将軍が下座に立つ[6]、また将軍家茂上洛の際も、朝廷の高官たちが家茂への礼遇を低くする[7]という変化が見られた。
鎌倉時代から江戸時代まで、幕府の長であり、武家の棟梁が位に就いて子孫が世襲する形を取った。だが、平氏政権と織豊政権は、征夷大将軍に任じられず、幕府を開かずに武家政権を確立した。一部の将軍は、天皇と同様、子供時代に将軍職につき、後継ぎに職を譲って引退した[8]。また、徳川将軍家には、皇室と同様「御三家(ごさんけ)」という傍系の家門があった[8]。19世紀のはじめには、将軍職にも皇位にも傍系の出身者がのぼっている[8]。
江戸末期の徳川慶喜による大政奉還により江戸幕府が事実上消滅し、さらに王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。これにより、武士、武官が征夷大将軍に任ぜられて、武家政権の幕府を開設する幕府制度も正式に消滅した。
[編集] 歴史
[編集] 奈良・平安時代
「征夷」とは、「夷を征討する」の意味。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の一つで、太平洋側から進軍する軍隊を率いた。日本海側を進軍する軍隊を率いる将軍は征狄大将軍、九州へ進軍する軍隊を率いる将軍は征西大将軍と呼ぶ。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ、中華思想の「四夷」をあてはめたためと思われる。
なお、当初は「征夷」と呼ばれていたが、宝亀以降「征東」となり、延暦12年以降再び「征夷」となる。「征夷将軍」の初見は、養老4年9月28日に任命された、多治比縣守であり、「征東将軍」の初見は、延暦7年12月7日に辞見した紀古佐美である。将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。日本紀略には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとある。
大伴弟麻呂に代わって実質的に戦争を指揮した征東副使・征夷副使の坂上田村麻呂は、延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命された。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北全土を平定した。その後文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に「大」なしの征夷将軍に任命され、同年 閏12月11日 蝦夷征伐の終了を奏上、鎮守将軍(府なし)には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には、また「大」なしの征夷将軍に復帰している。
なお、征夷大将軍の下には、征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹などの役職が置かれた。
[編集] 鎌倉時代
源頼朝は当初、関東武士団の棟梁(=鎌倉殿)でしかなく、律令制下における地位を持たなかった。すなわち、当初は平将門等と同じ地方叛乱の首領でしかなかったのである。その頼朝の政権構想には、先行モデルとして平家政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権のイメージが練られたと思われる。
- 平家政権は、貴族の家格秩序のなかの既定のコースに従って官位昇進を遂げ、朝廷の内部に勢力を確立することによって、国家権力を掌握する道を選んだ。これに対し頼朝は、朝廷から相対的に独立した「東国王権」の王であることから出発して、武士の自主的統治権を朝廷に認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
- 中央・京都に進出した源義仲は、過去に存在した「征東大将軍」という官職に任官した。征東大将軍の地位は東方の勢力を成敗する使命を暗示するもので、その裏には義仲の頼朝に対抗する意図が推定されるが、義仲政権はごく短期の政権に終わった(近年までは、義仲が任官したのは『吾妻鏡』『百錬抄』を根拠に「征夷大将軍」とする説が有力で、『玉葉』に記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派であった。だが、『三槐荒涼抜書要』〔『山槐記』の抄出〕に「征東大将軍」と記されているのが発見され、『玉葉』『三槐荒涼抜書要』が同時代史料〔公家の日記〕であるのに対して、『吾妻鏡』『百錬抄』は後世の編纂史料であるため、現在では「征東大将軍」説の方が有力になっている)。
- 当時の東北地方は奥州藤原氏が支配し、朝廷の支配が及んでいない地域だった。奥州藤原氏は「鎮守府将軍」の地位を獲得し自らの居所を「柳の御所」「柳営」と称した。柳営とは幕府の別名である。鎮守府将軍は、陸奥国、出羽国内で軍政という形での地方統治権が与えられており辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の司令官という性格を持つが故に京都在住の必要がなく、地方政権の首領には都合がよかった。これは頼朝政権の格好の雛形となったろう。
1190年(建久元年)、頼朝は、権大納言右近衛大将(右大将)に任官され、公卿身分となって自らの家政機関を政所として公認された。しかし近衛大将はその職務の性格上京都に在住しなければならず、関東での独立を志向するには不向きだった。そこで頼朝は権大納言・右大将を辞任し、公卿としての特権のみを手元に残した。「前右大将」という名目を鎌倉政権の歴代首長の地位としていく構想もありえなくはなかったと思われる。だが、右大将では形式上の官位こそ高いが、すでにライバルだった源義仲が征東大将軍だったことに比べると、中央近衛軍司令官という性格上、積極的に地方の争乱を武力で鎮圧する地位ではない。また奥州藤原氏の鎮守府将軍と比較すると「武士の自治」という重要な積極的要素が欠けていた。
そこで頼朝が注目したのが「征夷大将軍」という官職であった。これは軍政(地方統治権)という意味では鎮守府将軍と同様である。かつ、坂東の兵(この場合は東国の武士)を率いて奥羽の蝦夷(この場合は奥州藤原氏)を征伐するという目的からしても、鎮守府将軍より故実からして格上でもある格好の官職であった。
つまり、
を、全てまとめあげて公的に担保するのが征夷大将軍職であった。
ただし征夷大将軍職は奥州藤原氏を討つための奥州合戦においてこそ必要とされた官職であって、実際に任官した1192年(建久3年)においては、既に頼朝にとって必要性はなくなっていたという説も有力である。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執しておらず、2年後の1194年(建久5年)には辞官の意向を示している。また源頼家は家督継承にあたりまず左近衛中将、ついで左衛門督に任官されており、征夷大将軍職を宣下されたのはその3年後である。さらに比企能員の変に際しては総追撫使・総地頭の地位の継承が問題となっており、将軍職は対象とされていない。したがって、この段階では将軍職は、武家の棟梁の絶対条件ではなく、さほど重視されていなかったことがうかがえる。一方、源実朝の家督継承に際してはまず将軍職が宣下されている。
だが近年、『三槐荒涼抜書要』に、頼朝の征夷大将軍任官の経緯の記述が発見された。[要出典]それまでは同時代史料の記述が見つからなかったため、後世の編纂史料である鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』の記述をもとに推測がなされていた。これによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けて朝廷側が、凶例である「惣管」(平宗盛)・「征東」(源義仲)や先例のない「上将軍」を斥け、吉例である「征夷」(坂上田村麻呂)を採用することにしたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」であり、朝廷側も消去法で選んだだけだったことが明らかとなった。この解釈が正しければ、「征夷」に重点を置いた解釈のされてきたこれまでの研究には再検討の必要が出てきている。
また、源頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる事情については『吾妻鏡』建久3年7月26日条の「将軍事、本自雖被懸御意、于今不令達之給、而法皇崩御之後、朝政初度、殊有沙汰被任之間。」などに記され長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年4月10日条の記事がこれと矛盾する内容を持つことが指摘された。この記事は源義経の使者が頼朝が3月27日の除目で正四位下に叙されたことを知らせるもので、同条には除目の経緯が書かれている。それによれば後白河法皇が源義仲討伐の戦功として藤原忠文の先例に倣って征夷将軍の地位を与えることが検討されたものの、議論によって叙位のみとなったとされている。ところが『玉葉』の寿永3年2月20日及び3月28日条には頼朝からの申状によって法皇から与えられる筈であった全ての官職を辞退して叙位のみを受けたことが記されている。この事態を説明するには、後白河法皇が既に終わった合戦の戦功として頼朝に征夷大将軍と同義の征夷将軍を与えようとしたものの、頼朝が辞退したと解するほかなく、平安時代初期の蝦夷征討が終わってから久しい当時において後白河法皇・源頼朝がともに征夷将軍(=征夷大将軍)を名誉的な官とみなして「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職として認識してはいなかった可能性がある。更に寿永以後、頼朝が実際に征夷大将軍に補任されるまでの間に征夷将軍・征夷大将軍の地位や職権について議論された形跡が京都・鎌倉双方の同時代史料からは確認できないとされる。その場合、鎌倉殿の持つ権限の根拠は特定の官職によるものではなく、寿永2年10月宣旨や文治の勅許など、頼朝以来の代々の鎌倉殿が朝廷によって承認されてきた東国支配権や諸国守護権など各種の軍事的・警察的諸権限によるものであり、頼朝以来3代の征夷大将軍補任の実態は職掌・実権のない空名の官職補任以上のものではなかったとされる。この説によれば、『吾妻鏡』による3代の征夷大将軍補任記事は征夷大将軍の権威が確立した後の脚色記事であり、実際に征夷大将軍補任が政治的意味を持つようになるのは、河内源氏嫡流が断絶して武家源氏ではない鎌倉殿(摂家将軍)を迎えた時とされる。摂家将軍を擁立した執権北条氏ら鎌倉幕府側は、鎌倉殿の後継者の地位及び頼朝以来認められてきた諸権限を頼朝以来の3代が共通して補任されてきた空名の官職である征夷大将軍の職権として結びつた上で、新たな鎌倉殿である摂家将軍への継承を求め、承久の乱後に親幕府派によって掌握された朝廷もこれを認めたことにより、征夷大将軍が「武家の棟梁」「東国の支配者」の官職に転換されたとする見解を採っている。[9]
[編集] その後の武家社会
鎌倉時代以降、源頼朝が「征夷大将軍」の位を得て幕府を開いて後は、幕府の政治力が徐々に高まっていった。しかし、鎌倉時代を通じては、朝廷も全国支配を行う政府として存続し続けた。一方、鎌倉幕府においては執権職を独占した北条氏が覇権を握り、征夷大将軍は名目上の武家の棟梁ではあるけれども、実際は北条氏の傀儡となった。室町幕府が成立すると、3代将軍足利義満の時期に、義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、「征夷大将軍」は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿〔足利氏家督〕や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていたわけではない)。この時期以降、朝廷は単なる形式だけの政府で、幕府こそが日本全土を統治する正真正銘の政府となったと言える。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍はあきらかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。
[編集] 歴史上存在した俗説
「武家の棟梁である将軍に就く家柄は、清和源氏に連なる家系がふさわしい」という認識が武家の間で存在したことは確かである。足利尊氏が北条氏に取って代わる際に利用したのはこのような認識である。一方、織田信長は織田家が平家の系図を称していたため「征夷大将軍」にはなれず、また徳川家康は「征夷大将軍」に任命されるに当たっては、系図を偽造して清和源氏と称したという説も流布している。しかし、実際には、信長に朝廷が征夷大将軍就任を勧めている事実があり、源氏でなければ将軍になれないというのは誤りである。家康が源氏を称した理由は、当時称していた豊臣氏を捨てることで豊臣政権からの独立を明確にするためである。また、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、現実に清和源氏に限られていない。征夷大将軍になることについて、源氏でも平氏でも藤原氏でも、なんら支障はない。
「征夷大将軍」は本来東国の兵を率いて蝦夷征伐にあたる職なので、「何らかの形で東国を支配している者」が就任するための条件であったという説もある。南北朝期に活躍した後醍醐天皇の皇子を例に取ると、信濃を根拠地として東国で活動した宗良親王が「征夷大将軍」であるのに対し、九州に下って活動した懐良親王は「征西大将軍」となっている。また、織田信長に征夷大将軍就任を打診する勅使がその理由として提示したのは、信長が東国の大名である武田氏を滅ぼしたことであった(『天正十年夏記』)。また、豊臣秀吉が征夷大将軍になれなかったのは、徳川家康に小牧・長久手の戦いで敗れたためであるという説もある。東国支配に失敗した秀吉は、結局、征夷大将軍にはなれず、藤原氏の養子となって関白に任ぜられた。実際問題としては、朝廷にとっては、関白就任の方が征夷大将軍就任よりもはるかに抵抗感が強かったはずで、にもかかわらず秀吉の関白就任が可能であったことから、征夷大将軍就任に巷間説かれるような制約が存在したとは考えにくい。
[編集] 天皇との関係
征夷大将軍と天皇の関係について、ベン・アミー・シロニーの説を説明する。
[編集] 天皇による任命
天皇は非力な存在で支配者ではないにもかかわらず、征夷大将軍を含めたいかなる支配者よりも上位にあった。征夷大将軍にとって、天皇は権力の正統性を付与する者として重要であった[11]。権力を握った人物は望んだ官職や称号を手に入れたものだったが、天皇の任命なしに手に入るわけではなかった。天皇は朝廷の官人の上奏にもとづいて、手続きを延期できた。天皇にその地位を任じられ、またその地位にふさわしい位階を授与されないかぎり、征夷大将軍として扱われることはなかったのである[11]。
源頼朝は、1192年(建久3年)、12歳の後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任命されるまで7年も待たされ、受領した位階も正二位でしかなかった。130年もの間日本を支配した北条氏の執権たちも、従四位に甘んじなくてはならなかった[12]。大御所・徳川家康も、後陽成天皇によって征夷大将軍に任命されるまで3年待たなくてはならず、その地位も従一位であった。
[編集] 征夷大将軍らのドグマ「天皇不可侵」
権力闘争の競技者全員は、天皇制度なくして国家なく、皇室なくして天皇制度なし、というドグマを共有していた。日本人は宗教や政治についてドグマチック(教条的)ではないのだが、君主についてとなれば他国よりずっときびしい教条主義を発揮するのである。天皇はソヴリン(最高権者)であり、太陽神(天照大神)の末裔であり、権力に対する正統性を付与する者であり、日本の「本家」の当主であった。天皇は最高の社会的なステータスを享受していた。貴族であれ、大臣であれ、そして征夷大将軍であれ、いかなる権力者でも、このステータスに手がとどかなかったのである。
[編集] 皇位に手を出さなかった源平・戦国大名
平氏・源氏の2つの氏族は、どちらも天皇の後裔(こうえい)だった。だが、一度皇族を離れ独立の家系となった以上は、国全体の支配者になっても天皇になることはできなかった。この原則はきわめて厳格に順守された。平清盛は12世紀なかばの日本の権力者であり、白河天皇の御落胤と目されていた。しかし、平氏の一員にむかえられて臣下となったため、不適格者となっており、あえて皇位を手に入れようとはしなかった。
源頼朝も天皇になれない立場だった。1185年(文治元年)、壇ノ浦の合戦で平氏に勝利すると、将軍職を世襲する一種の王朝を樹立しようとした。だが、頼朝の跡を継いだ2人の息子、頼家と実朝が死んで3代で絶えてしまった。
次に政権を握った北条氏は、伊豆の一介の小豪族に過ぎない出自の低さのため、自らは将軍にならなかった。将軍の代行者である「執権」として国政にあたり、幕府の執権職を継承する一種の王朝を樹立した。将軍職は皇族や藤原氏の分枝である九条家が、名目的な地位にすえられた[15]。この時代は、天皇も将軍職も、権力者の手には及ばなかったのである。
戦国大名も、天皇の王朝に取って代わるなどという発想を度外視しただけでなく、天皇の王朝にひびを入れることも避けようとした[16]。天皇のお墨付きを欲してやまない戦国大名は、だれもがそれぞれの天皇志望者を押し立てて皇統に亀裂を生じさせても全く不思議でなかったが、そのようなことはしなかった[16]。16世紀には、朝廷の官位を手に入れようと、たがいに張り合うようになった[16]。修理大夫や衛門佐といった大いなる威厳を意味するこれらの官職は、天皇だけが授けうるものだったである[16][17]。
[編集] 足利義満の野望「太上法皇と日本国王」
室町幕府の第3代将軍・足利義満は、天皇に取って代わって自分の王朝を開こうとした唯一の人物である。成年に達すると強引な権力者となり、支配を国中に及ぼし、南北朝時代に幕を閉じた。将軍職を退いても太政大臣となり、国政を続けた。生母をなくした後小松天皇の母がわりとして、皇族出身でない自分の妻の日野康子を「准母(じゅんぼ)」に指名した。こうして、義満は天皇の継父に相当することとなり、死後「太上法皇(出家した太上天皇の尊称)」と呼ばれることができる資格を手に入れた(実際は遺族が辞退した)。1401年(応永8年)、明と国交を樹立し、明の皇帝から「日本国王」の称号を受領した。これにより、征夷大将軍の地位にある人物が皇位に最も近づいた。しかし、1408年の義満の死で、彼の野望はついえた。後継者の誰一人として義満の野望を繰り返そうとはしなかった。
指摘するべきは、義満の野望を妨げたのは、天皇でも征夷大将軍でもなく「そんなことはありえないことだ」という強力な暗黙の合意があったことである。
[編集] 徳川家康の神格化「東照大権現」
天皇は神々に位(神階)を、神社に格(社格)を付与し、高位の僧職者に位階と称号(僧位)を授与していた。将軍や国土にも、その健勝と繁栄を祈った[19]。天皇は死者を神格化でき、また神格を取り消すことができた。
1615年、徳川家康は後水尾天皇に、豊臣秀吉が死後与えられていた神格を取り消すよう要望した。翌年、家康が死ぬと、天皇は彼の生前の要望を受け容れて、家康を神格化した。東を照らす太陽神として顕現した薬師如来を意味する「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を与えた。しかも、この神号は「正一位」の神階を伴っていた[20][21][22]。没後の将軍で、最も高い神号や神階だった。
第3代将軍・徳川家光は、家康を祀(まつ)る日光東照宮を造営した。また、伊勢神宮と同等の社格が与えられ、毎年、伊勢神宮とともに天皇の勅使が拝礼のため遣わされた[23][24]。それ以降、江戸時代の間、100前後の東照宮が日本全国に造られた。アメリカ合衆国カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授(日本史)、ハーマン・ウームズは、徳川の将軍達は、天皇・京都・伊勢の三要素に置かれていた<イデオロギー空間の中心>と同等の将軍家・江戸・日光の三要素を確立させようとしたのだ、と示唆している[25]。
[編集] 歴代の征夷大将軍
詳細は「鎌倉将軍一覧」、「足利将軍一覧」、「徳川将軍一覧」をそれぞれ参照
| 順番(幕府内) | 氏名 | 在職期間 | 備考[注 1] | |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 大伴弟麻呂 | 793年(延暦12年) - 794年(延暦13年) |
従四位下→従三位、勲二等 | |
| 2 | 坂上田村麻呂 | 797年(延暦16年) - 811年(弘仁2年) |
陸奥出羽按察使兼陸奥守従四位下→大納言正三位 没後贈従二位。 |
|
| 3 | 文屋綿麻呂 | 813年(弘仁4年) - 816年(弘仁7年) |
征夷(大)将軍参議従三位→参議従三位 | |
| 4 | 藤原忠文 | 940年(天慶3年) | 征東将軍だが、異伝あり。 参議正四位下→参議正四位下 |
|
| 5 | 源義仲 | 1184年(元暦元年) | 征東大将軍だが、異伝あり。 従四位下伊予守→従四位下伊予守 |
|
| 6 | 鎌倉:1 | 源頼朝 | 1192年(建久3年) - 1199年(正治元年) |
1194年(建久5年)辞任の説あり。 正二位前権大納言 |
| 7 | 鎌倉:2 | 源頼家 | 1202年(建仁2年) - 1203年(建仁3年) |
従二位左衛門督→正二位 |
| 8 | 鎌倉:3 | 源実朝 | 1203年(建仁3年) - 1219年(承久元年) |
従五位下→右大臣正二位左近衛大将 |
| 9 | 鎌倉:4 | 藤原頼経 (九条頼経) |
1226年(嘉禄2年) - 1244年(寛元2年) |
摂家(藤原)将軍。九条道家の子。 正五位下右近衛権少将→正二位前権大納言 |
| 10 | 鎌倉:5 | 藤原頼嗣 (九条頼嗣) |
1244年(寛元2年) - 1252年(建長4年) |
従五位上右近衛権少将→従三位左近衛中将 |
| 11 | 鎌倉:6 | 宗尊親王 | 1252年(建長4年) - 1266年(文永3年) |
皇族将軍。後嵯峨天皇の皇子。 三品→一品中務卿 |
| 12 | 鎌倉:7 | 惟康親王[注 2] | 1266年(文永3年) - 1289年(正応2年) |
従四位下→二品 |
| 13 | 鎌倉:8 | 久明親王 | 1289年(正応2年) - 1308年(延慶元年) |
後深草天皇の皇子。 三品→一品式部卿 |
| 14 | 鎌倉:9 | 守邦親王 | 1308年(延慶元年) - 1333年(正慶2年) |
不詳→二品 |
| 15 | 建武政権:1 | 護良親王 | 1333年(元弘3年) - 1334年(建武元年) | 二品兵部卿→二品兵部卿 |
| 16 | 建武政権:2 | 成良親王 | 1335年(建武2年) - 1336年(延元元年) |
上野太守四品→上野太守四品 |
| 17 | 室町:1 | 足利尊氏[注 3] | 1338年(暦応元年) - 1358年(延文3年) |
正二位権大納言→正二位権大納言 贈従一位左大臣。追贈太政大臣。 |
| 南朝:1 | 宗良親王 | 1352年(正平7年) | ||
| 18 | 室町:2 | 足利義詮 | 1358年(延文3年) - 1367年(貞治6年) |
参議従三位左近衛中将→正二位権大納言 贈従一位。 |
| 19 | 室町:3 | 足利義満 | 1367年(貞治6年) - 1394年(応永元年) |
従五位下左馬頭→准三宮従一位前左大臣 将軍辞職後、太政大臣。 |
| 南朝:2 | 尹良親王 | 1386年(元中3年) - | ||
| 20 | 室町:4 | 足利義持 | 1394年(応永元年) - 1423年(応永30年) |
正五位下左近衛中将→従一位前内大臣 贈太政大臣。 |
| 21 | 室町:5 | 足利義量 | 1423年(応永30年) - 1425年(応永32年) |
正五位下右近衛中将→参議正四位下右近衛中将 贈従一位左大臣。 |
| 22 | 室町:6 | 足利義教[注 4] | 1429年(永享元年) - 1441年(嘉吉元年) |
参議左近衛中将従四位下→従一位前左大臣 贈太政大臣。 |
| 23 | 室町:7 | 足利義勝 | 1442年(嘉吉2年) - 1443年(嘉吉3年) |
正五位下左近衛中将→従四位下左近衛中将 贈従一位左大臣。 |
| 24 | 室町:8 | 足利義政[注 5] | 1449年(宝徳元年) - 1473年(文明5年) |
正五位下左馬頭→准三宮従一位前左大臣 贈太政大臣。 |
| 25 | 室町:9 | 足利義尚[注 6] | 1473年(文明5年) - 1489年(延徳元年) |
従五位下左近衛中将→従一位内大臣右近衛大将 贈太政大臣。 |
| 26 | 室町:10 | 足利義材[注 7] | 1490年(延徳2年) - 1493年(明応2年) |
明応の政変によって解任されるが、1508年(永正5年) に復位。従四位下右近衛中将→参議右近衛中将従四位下 |
| 27 | 室町:11 | 足利義澄[注 8] | 1494年(明応3年) - 1508年(永正5年) |
正五位下左馬頭→参議従三位左近衛中将 贈太政大臣。 |
| 28 | 室町:12 | 足利義稙(再任)[注 9] | 1508年(永正5年) - 1521年(大永元年) |
足利義材の再任。 従三位権大納言→従二位権大納言 贈太政大臣従一位。 |
| 29 | 室町:13 | 足利義晴 | 1521年(大永元年) - 1546年(天文15年) |
正五位下左馬頭→従三位権大納言右近衛大将 贈従一位左大臣。 |
| 30 | 室町:14 | 足利義輝[注 10] | 1546年(天文15年) - 1565年(永禄8年) |
従四位下左馬頭→参議左近衛中将従四位下 贈従一位左大臣。 |
| 31 | 室町:15 | 足利義栄[注 11] | 1568年(永禄11年) | 従五位下左馬頭→従五位下左馬頭 |
| 32 | 室町:16 | 足利義昭[注 12] | 1568年(永禄11年) - 1588年(天正16年) |
1573年(天正元年)に京都を追われて幕府機構が崩壊(事実上の室町幕府滅亡)したが、出家時の1588年(天正16年)までは名目上在任している。 参議左近衛中将従四位下→従三位権大納言 将軍辞職後、准三宮。 |
| 33 | 江戸:1 | 徳川家康[注 13] | 1603年(慶長8年) - 1605年(慶長10年) |
従一位右大臣→従一位前右大臣 将軍辞職後、太政大臣。贈正一位。 |
| 34 | 江戸:2 | 徳川秀忠 | 1605年(慶長10年) - 1623年(元和9年) |
内大臣正二位右近衛大将→従一位右大臣右近衛大将 将軍辞職後、太政大臣。贈正一位。 |
| 35 | 江戸:3 | 徳川家光 | 1623年(元和9年) - 1651年(慶安4年) |
内大臣正二位右近衛大将→従一位左大臣左近衛大将 太政大臣宣下固辞。贈太政大臣正一位。 |
| 36 | 江戸:4 | 徳川家綱 | 1651年(慶安4年) - 1680年(延宝8年) |
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 37 | 江戸:5 | 徳川綱吉 | 1680年(延宝8年) - 1709年(宝永6年) |
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 38 | 江戸:6 | 徳川家宣[注 14] | 1709年(宝永6年) - 1712年(正徳2年) |
内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将。 贈太政大臣正一位。 |
| 39 | 江戸:7 | 徳川家継 | 1712年(正徳2年) - 1716年(享保元年) |
内大臣正二位右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 40 | 江戸:8 | 徳川吉宗[注 15] | 1716年(享保元年) - 1745年(延享2年) |
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位 贈太政大臣正一位。 |
| 41 | 江戸:9 | 徳川家重 | 1745年(延享2年) - 1760年(宝暦10年) |
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位 贈太政大臣正一位。 |
| 42 | 江戸:10 | 徳川家治 | 1760年(宝暦10年) - 1786年(天明6年) |
内大臣正二位右近衛大将→右大臣正二位右近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 43 | 江戸:11 | 徳川家斉 | 1787年(天明7年) - 1837年(天保8年) |
内大臣正二位右近衛大将→従一位太政大臣 贈正一位。 |
| 44 | 江戸:12 | 徳川家慶 | 1837年(天保8年) - 1853年(嘉永6年) |
従一位左大臣左近衛大将→従一位左大臣左近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 45 | 江戸:13 | 徳川家定[注 16] | 1853年(嘉永6年) - 1858年(安政5年) |
内大臣正二位右近衛大将→内大臣従一位右近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 46 | 江戸:14 | 徳川家茂[注 17] | 1858年(安政5年) - 1866年(慶応2年) |
内大臣正二位右近衛大将→従一位右大臣右近衛大将 贈太政大臣正一位。 |
| 47 | 江戸:15 | 徳川慶喜[注 18] | 1866年(慶応2年) - 1867年(慶応3年) |
正二位権大納言右近衛大将→内大臣正二位右近衛大将 明治時代、従一位。公爵。勲一等旭日大綬章。贈旭日桐花大綬章。 |
[編集] 類似の将軍職
[編集] 出典・脚注
[編集] 出典
- ^ シロニー(2003)、148頁。
- ^ シロニー(2003)、154頁。
- ^ 『幕末の宮廷』、下橋敬長著、羽倉敬尚編、1979年、東洋文庫、p50
- ^ 『幕末の宮廷』、下橋敬長著、羽倉敬尚編、1979年、東洋文庫、p49
- ^ 『幕末の宮廷』、下橋敬長著、羽倉敬尚編、1979年、東洋文庫、p219、p220
- ^ 『幕末の宮廷』、下橋敬長著、羽倉敬尚編、1979年、東洋文庫、p50
- ^ 『幕末の宮廷』、下橋敬長著、羽倉敬尚編、1979年、東洋文庫、p220~p222
- ^ a b c シロニー(2003)、160頁。
- ^ 北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)
- ^ この章は、シロニー(2003)、148-149頁。
- ^ a b 吉田昌彦「将軍宣下」『歴史学事典 12王と国家』 弘文堂、2005年 ISBN 978-4-335-21043-3
- ^ Wakabayashi, 'In Name Only', p.37.
- ^ この章は、シロニー(2003)、138-139頁。
- ^ a b この章は、シロニー(2003)、140-141頁。
- ^ Lebra, Above the Clouds, p.38.
- ^ a b c d シロニー(2003)、144頁。
- ^ 永井ほか「武家政権はなぜ天皇を立て続けたのか」『現代』1992年2月号、278頁。
- ^ この章は、シロニー(2003)、156-157頁。
- ^ Wakabayashi, 'In Name Only', p.32.
- ^ 山口修『天皇』156-159頁。
- ^ Wakabayashi, 'In Name Only', p.31.
- ^ Kitagawa, 'Some Reflections on Japanese Religion', pp.158-159.
- ^ Asao & Jansen, 'Shogun and Tenno', p.269.
- ^ Shinzaburo Oishi, 'The Bakuhan System', in Chie Nakane and Shinzaburo Oishi, eds., Tokugawa Japan (Tokyo: University of Tokyo Press 1999), p.28.
- ^ Herman Ooms, Tokugawa Ideology: Early Constructs, 1570-1680 (Princeton: Princeton University Press, 1985), pp.57-62, 162-186.
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- ベン・アミー・シロニー Ben‐Ami Shillony 『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』 大谷堅志郎訳、講談社、2003年01月、ISBN 978-4062116756。
- 高橋富雄 『征夷大将軍 もう一つの国家主権』 中公新書、1987年、ISBN 978-4-12-100833-6。
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