元弘の乱

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元弘の乱
稲村ヶ崎石碑
稲村ヶ崎石碑(神奈川県鎌倉市)
戦争:元弘の乱
年月日元弘元年 - 元弘3年/正慶2年
ユリウス暦1331年 - 1333年
場所六波羅鎌倉
結果後醍醐天皇勢力の勝利、鎌倉幕府の滅亡
交戦勢力
Sasa Rindo.svg 鎌倉幕府 Imperial Seal of Japan.svg 後醍醐天皇勢力
指揮官
Mitsuuroko.svg 北条高時
Mitsuuroko.svg 北条仲時
Ashikaga mon.svg 足利高氏
Japanese Crest Nitta hitotu Hiki.svg 新田義貞
Kikusui.jpg 楠木正成
元弘の乱

元弘の乱(げんこうのらん)は、1331年元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動である。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。以下では1331年から1333年までの戦乱について述べる。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる[1]

背景[編集]

鎌倉時代後期、鎌倉幕府では北条得宗家が権勢を振るっていた。北条一門の知行国が著しく増加する一方で、御家人層では、元寇後も続けられた異国警固番役の負担、元寇の恩賞や訴訟の停滞、貨幣経済の普及、所領分割などによって没落する者も増加していった。幕府は徳政令を発して対応するが、社会的混乱から諸国では悪党の活動が活発化し、幕府は次第に支持を失っていった。

朝廷では、13世紀後半以降、後深草天皇の子孫(持明院統)と亀山天皇の子孫(大覚寺統)の両血統の天皇が交互に即位する両統迭立が行われていた。だが、公家社会の中に支持皇統による派閥が生じるようになるなど混乱を引き起こし、幕府による朝廷の制御を困難にした。

1318年(文保2年)、大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、天皇親政を理想に掲げ、鎌倉幕府の打倒を密かに目指していた。1324年正中元年)の正中の変六波羅探題によって未然に察知され、後醍醐は幕府に釈明して赦されたものの、側近の日野資朝佐渡島へ流罪となった。だが後醍醐は、処分を免れた側近の日野俊基真言密教の僧文観らと再び倒幕計画を進めた。

経過[編集]

笠置山・赤坂城の戦い[編集]

1331年元弘元年)8月、後醍醐の側近である吉田定房が六波羅探題に倒幕計画を密告し、またも計画は事前に発覚した。六波羅探題は軍勢を御所の中にまで送り、後醍醐は女装して御所を脱出し、比叡山へ向かうと見せかけて山城国笠置山で挙兵した。後醍醐の皇子・護良親王や、河内国の悪党・楠木正成もこれに呼応して、それぞれ大和国の吉野および河内国の下赤坂城で挙兵した。

幕府は大仏貞直金沢貞冬足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らの討伐軍を差し向けた。9月に笠置山は陥落(笠置山の戦い)、次いで吉野も陥落し、楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。ここで幕府軍は苦戦を強いられる。楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して大木を落としたり、熱湯を浴びせかけたり、予め設けておいた二重塀を落としたりといった奇策を駆使した。だが楠木正成は、長期間の抗戦は不可能であると理解していた。10月、自ら下赤坂城に火をかけて自害したように見せかけ、姿をくらませた(赤坂城の戦い)。

後醍醐は側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられた[2]。幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、元号正慶と改めさせるとともに、1332年(元弘2年/正慶元年)3月、日野俊基や北畠具行、先に流罪となっていた日野資朝らを斬罪とし、後醍醐を隠岐島へ配流した。こうして倒幕運動は鎮圧されたかに見えた。

楠木正成像

千早城の戦い[編集]

護良親王と楠木正成の両者は各々潜伏し、機会を伺っていた。1332年(元弘2年/正慶元年)11月、楠木正成は河内国金剛山千早城で挙兵し、同月、護良親王も吉野で挙兵して倒幕の令旨を発した。正成は12月に赤坂城を奪回し、1333年(元弘3年/正慶2年)1月には六波羅勢を摂津国天王寺などで撃破した。

これに対し幕府は再び大仏家時、名越宗教、大仏高直らが率いる大軍を差し向けた。金剛山系に籠城する楠木勢に対し、先ず幕府軍は正成の配下の平野将監らが守る上赤坂城へ向かった。上赤坂城の守りは堅く幕府軍も苦戦するが、城の水源を絶ち、平野将監らを降伏させた。同じ頃、吉野では護良親王が破れた。

これにより、正成がわずかな軍勢で篭城する千早城を残すのみとなったが、楠木軍は鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛けるなどといった策により、再び幕府軍を翻弄した。幕府軍は水源を絶とうとしたが、千早城では城中に水源を確保していたため効果はなかった。楠木軍は一部が打って出て包囲方を奇襲し、軍旗を奪って城壁に掲げ嘲笑してみせるなど、90日間にわたって幕府の大軍を相手に戦い抜いた。

幕府軍が千早城に大軍を貼り付けにしながら落とせずにいる、との報は全国に伝わり、各地の倒幕の機運を触発することとなった。

元弘の乱を模した人形(京都府笠置町)

六波羅攻略[編集]

播磨国では赤松則村(円心)が挙兵し、その他の各地でも反乱が起きた。中でも赤松則村は周辺の後醍醐方を糾合し京都へ進撃する勢いであった。このような状況を見て、閏2月、後醍醐天皇は名和長年の働きで隠岐島を脱出し、伯耆国船上山に入って倒幕の綸旨を天下へ発した(船上山の戦い)。

幕府は船上山を討つため足利高氏名越高家らの援兵を送り込んだ。しかし、4月27日には名越高家が赤松円心に討たれ、足利高氏は所領のあった丹波国篠村八幡宮で幕府へ反旗を翻す。5月7日、足利高氏は佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧した。北条仲時北条時益ら六波羅探題の一族郎党は東国へ逃れようとするが、5月9日、近江国の番場蓮華寺で自刃し、光厳天皇後伏見上皇花園上皇は捕らえられた[3]

鎌倉攻略[編集]

5月8日、新田義貞上野国生品明神で挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。新田氏の声望は当時さほど高くはなかったが、鎌倉時代を通して源氏の名門と認識されていた足利氏の高氏(尊氏)の嫡子千寿王(後の足利義詮)が合流したことにより、義貞の軍勢は勢いを増し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと伝わる。幕府は北条泰家らの軍勢を迎撃のために向かわせるが、御家人らの離反も相次ぎ、小手指ヶ原の戦い分倍河原の戦いで敗退し、幕府勢は鎌倉へ追い詰められた。

新田軍は極楽寺坂巨福呂坂、そして義貞と弟脇屋義助化粧坂の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは一旦は膠着し、新田軍は切通しからの攻略を諦めたが、新田義貞が海岸線(稲村ガ崎)から鎌倉へ突入した。幕府要人が数多戦死した市街戦ののち、生き残った北条高時ら幕府の中枢の諸人総計800余人はは5月22日、北条氏の菩提寺であった東勝寺において自害した(東勝寺合戦)。

九州[編集]

同じ頃、鎮西探題北条英時も、少弐貞経大友貞宗島津貞久らに攻められて5月25日に博多で自刃した。

影響[編集]

後醍醐天皇の討幕運動は遂に成功を見た。後醍醐は京都へ帰還し、元弘の元号を復活させ、念願であった天皇親政である建武の新政を開始する。だが元弘の乱の論功行賞において、後醍醐の側近が優遇されたのに対して、赤松則村をはじめとする多くの武士層が冷遇された。こうしたことが新政への支持を失わせ、足利尊氏の離反と室町幕府の成立へと結びついていく。

脚注[編集]

  1. ^ ただし、後醍醐天皇の京都脱出から鎌倉幕府に捉えられて天皇の廃立に至る事件を「元弘の変」、この事件を含めた鎌倉幕府滅亡に至る戦乱を「元弘の乱」と区別する説もある(森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」(初出:「福岡大学人文論叢」37巻4号(2006年3月)/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第三章第五節)P418)。
  2. ^ 天皇が臣下である筈の幕府に捕らえられるという事態は、後醍醐と対立する持明院統にも衝撃を与え、花園上皇は「王家之恥何事如之哉、天下静謐尤雖可悦、一朝之恥辱又不可不歎」と書き記している(『花園天皇宸記』元弘元年10月別記1日条)。
  3. ^ 北条仲時自刃の際、付き従っていた武士432人が殉死している。

関連項目[編集]