三好長慶
| 三好 長慶 | |
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三好長慶像[1]
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| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 大永2年2月13日(1522年3月10日) |
| 死没 | 永禄7年7月4日(1564年8月10日) |
| 改名 | 仙熊[2]千熊丸(幼名)、長慶 |
| 別名 | 孫次郎(通称)、利長、範長 |
| 戒名 | 聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門 |
| 墓所 | 聚光院(京都市北区) |
| 官位 | 伊賀守[3]、筑前守、従五位下、従四位下 修理大夫 |
| 幕府 | 室町幕府御供衆→相伴衆 |
| 主君 | 細川晴元 |
| 氏族 | 三好氏 |
| 父母 | 父:三好元長 母:慶春院殿南岸智英大姉[4] |
| 兄弟 | 三好長慶、義賢、安宅冬康 十河一存、野口冬長、女(大西頼武室) 女(小笠原成助室) |
| 妻 | 正室:波多野稙通の娘 継室:遊佐長教の娘 |
| 子 | 義興、娘(松永久秀室) 養子:義継 |
三好 長慶(みよし ながよし)は、戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津守護代、相伴衆。
目次 |
[編集] 家系
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。
三好元長の嫡男で、三好之長の曾孫。三好義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。三好義興の父。通称は孫次郎、官位は従四位下伊賀守、筑前守、後に修理大夫。史料では「三筑」の略称で彼の名が多く残っている。諱の長慶は「ちょうけい」と有職読みをすることもある。
[編集] 生涯
[編集] 出生・家督相続
大永2年(1522年)2月13日[5]、細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれる。
三好氏歴代の居館地と伝わる阿波三好郡芝生(三野町)では、生母が長慶を孕んだ時に館の南の吉野川の瀬に立って天下の英雄の出生の大願をかけたという伝承がある[6]。
父・元長は細川晴元配下の有力な重臣で、主君・晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であった。本国の阿波だけでなく山城にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元たちの策謀で蜂起した一向一揆によって、享禄5年(1532年)6月に殺害されてしまった[7]。当時10歳の長慶は、河内守護代であった木沢長政の仲介や、幼少であるという理由から許されて晴元に従うことになる。
[編集] 若年期の活動
晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の実力はやがて晴元でも抑えられなくなり享禄・天文の乱となる。
そのため天文2年(1533年)6月20日に長慶は一向一揆と晴元の和睦を斡旋した[8]。『本福寺明宗跡書』では「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」とあり、当時12歳に過ぎない長慶こと千熊丸が和睦を周旋したというのである。交渉自体は仙熊の名を借りて代理の者がした可能性もあるが、元長が戦死してわずか1年で三好家の勢力は主君と石山本願寺を和談させるくらいまでに回復していたのである[9]。
この直後に元服したとされる。理由は長慶の嫡男・義興や足利義輝、晴元の子の細川昭元などが11歳で元服しているためである。千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称した[10]。ただし天文5年(1536年)11月の『鹿苑日録』では仙熊と記されているため、15歳までは世間ではまだ幼名で呼ばれていたようである[11]。
8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って散々に蹴散らし、摂津越水城を奪回した[12]。ところが天文3年(1534年)になると本願寺に味方して8月11日に晴元軍と戦い、10月には潮江庄(尼崎市)で晴元方の三好政長と戦ったが、木沢長政の仲介で晴元の下に帰参した[13]。この後の10月22日、晴元の命令で京都平野神社の年貢等の横領をしているのを止めて還付するようにされていることから、長慶はこの時点で晴元に対する父の恨みをひとまずは忘れたようである[14]。
その後は晴元の武将となり、天文5年(1536年)3月に細川晴国や本願寺武断派の拠る摂津中島の一揆を攻撃するも敗れた[15]。この時は木沢長政の下に逃れ、長政や三好政長の支援を得て中島を攻撃し、『続応仁後記』によると徒立勢ばかりだった一揆軍を7月29日[16]までに全滅させた[17]。
[編集] 勢力拡大
天文8年(1539年)1月15日、長慶は晴元の供をした時、尾張の織田信秀から去年に献上されていた鷹を与えられた[18]。そして1月25日に長慶は晴元を酒宴に招き、その席で幕府の料所河内の17箇所(守口市)の代官職を自らに与えるように迫った[19]。しかし晴元は聞き入れず、長慶は直接幕府に訴えた[20]。この17箇所の代官は元々は三好元長が任命されていたのだが、その死後には長慶の同族ながら政敵であった三好政長が任命されていたのである[21]。幕府の内談衆である大舘尚氏は長慶の要求を正当としたが[22]、将軍の足利義晴は近江守護の六角定頼を通じて晴元・長慶間の和睦交渉を斡旋するも不首尾に終わる[23]。長慶は1月の上洛時に2500の人数を率いていたため[24]、この数と石山本願寺の証如(光教)の後ろ盾を得て京都に入京した[25]。このため晴元は閏6月17日に退京して高雄(京都市右京区)に移り、細川元常や細川晴賢ら一族を呼び集めた[26]。義晴は畠山義総や武田元光などの諸大名に出兵を命じる一方で定頼と共に長慶・政長間の和睦を図り、一方で夫人の慶寿院と嫡子の義輝を八瀬に避難させた[27]。この混乱で京都の治安が悪化したため、長慶は義晴から京都の治安維持を命じられている[28]。7月14日には和談は不首尾に終わって長慶は政長と妙心寺付近で戦うも小競り合いだった[29]。7月28日、長慶は六角・武田などの諸大名を敵に回すことを恐れて和睦を承諾し、山崎から撤退した[30]。この後、長慶は摂津越水城に入って幕府に出仕するようになるが[31]、陪臣の身で将軍までも周章させて摂津・河内・北陸・近江の軍勢を上洛させ、また主君の晴元を震え上がらせるほど長慶の実力は強大なものとなっていた[32]。
天文9年(1540年)11月22日、丹波の波多野稙通(秀忠)の娘を妻に迎えた。ただしこれは『三好家譜』の記述であり同書は誤りが多いために必ずしも信頼できないが、長江正一によると嫡子の義興は天文11年(1542年)生まれであり、天文10年(1541年)に長慶が摂津一庫城を攻めた際に波多野軍も共同している[33]ため、長慶の結婚は天文9年から天文10年の間と推測されている[34]。
天文10年(1541年)9月頃、名を利長から範長と改名する[35]。この年の7月19日には三好政長と共同して摂津の上田某という武将を攻めて自殺させて城を奪った[36]。8月12日には晴元の命令で細川高国の妹を妻とする一庫城の塩川政年を政長や池田信正らと共に攻めた[37]。しかし塩川の縁戚である三宅国村や伊丹親興、そして木沢長政らが反細川として後詰したため、長慶は腹背に敵を受ける事となって10月2日に越水城に帰還した[38]。この時、伊丹軍が越水城に攻め寄せるが長慶は撃退し、その与党の城である西富松城(尼崎市)を逆に落とした[39]。
晴元に反逆した木沢長政は上洛して将軍の義晴と細川晴元を追うなどした[40]。このため河内の遊佐長教は長政が擁した河内守護の畠山政国を追放してその兄である畠山稙長を迎え、長慶に味方することを表明した[41]。このため天文11年(1542年)3月17日、長教は稙長のいる高屋城を攻撃しようとして太平寺で戦った[42](太平寺の戦い)。この戦いで長慶は父の仇の1人である長政を敗死に追い込んだ[43]。
天文11年12月、細川氏綱が高国の旧臣を集めて蜂起した[44]。天文12年(1543年)8月16日、長慶は晴元の命令で堺に出陣する[45]。氏綱は細川元常の家臣・日野根景盛らに敗れて和泉に逃れた[46]。この頃になると長慶の実力は石山本願寺にも一目置かれており、天文13年(1544年)6月18日に三好元長13回忌法要の費用が証如から長慶に送られている[47]。
天文14年(1545年)4月、高国派の上野元全らが山城井手城を落とし、上野元治も槇島まで進出したため、細川晴元は大軍を率いて出兵し、長慶も従軍して山城宇治田原で戦った[48]。その直後、岳父の波多野稙通(秀忠)の支援要請に応じて丹波に出兵し、城を落とした[49]。
天文15年(1546年)夏、細川氏綱に畠山政国、そして足利義晴らが連携して晴元排除の動きを見せると、晴元の命令を受けて長慶は堺に入った[50]。しかし堺は氏綱・遊佐長教・筒井氏などの軍に包囲され、会合衆に依頼して長慶は軍を解体し、氏綱らも包囲を解いて撤兵した[51]。この後も氏綱らの攻勢が続いて晴元・長慶は敗北を重ねたが[52]、長慶の実弟である三好実休と安宅冬康(鴨冬)ら四国の軍勢が到着すると一気に逆転し、将軍・義晴は近江に逃れて嫡子の義輝に将軍職を譲り[53]、長慶は義賢や阿波守護の細川持隆らと共に摂津原田城や三宅城の三宅国村などの将軍方の城を落とした[54]。なお将軍家が近江に逃れたことで幕府の政所執事である伊勢貞孝は天文16年(1547年)3月に幕臣の所領保護を求めている[55]。この事から陪臣ながら、さらには将軍と戦おうとしている管領家の家臣である長慶の実力が認められていたことがわかる[56]。また長慶は義晴を援助していた六角定頼を味方につけた[57]。このため義晴は敗れ、晴元と和睦して閏7月1日に帰京した[58]。この後、長慶も定頼の斡旋を受けて畠山政国や遊佐長教らと和睦している[59]。
この直後、長慶は長教の娘を継室に迎えた[60]。先の和談における政略結婚であったという[61]。
[編集] 晴元・政長との対立
天文17年(1548年)8月12日以前、あるいは12月以前に孫次郎範長から筑前守長慶と改めた[62]。この年の7月、長慶は一族の三好政長を討とうとした[63]。理由は「宗三(政長)父子の曲事」であるとする説と[64]、父の元長殺害の裏で暗躍した政長の存在を遊佐長教から聞いたためともされている[65]。『細川両家記』では政長は晴元からの信任が特に厚く[66]、越水城で長慶が開いた軍議では晴元が政長を庇うのであれば、晴元も敵とする事を決議したという[67]。8月12日、長慶は晴元に政長父子の追討を願い出た[68]。
しかし長慶の訴えは受け入れられなかった。また長慶の行為は晴元方の六角定頼から「三好筑前守(長慶)謀反」[69]とされ、『長享年後畿内兵乱記』でも「三好長慶謀反」と記されている[70]。細川晴元は三好政長を助けて摂津に出陣した[71]。政長は江口に布陣[72]して近江の六角軍の到着を待とうとしたが、長慶は江口の糧道を絶ち[73]、弟の冬康・十河一存らに別府川に布陣させた。六角軍は6月24日に山城の山崎に到着したが[74]、その当日に江口で戦いがあり長慶は宿敵政長ら主だった者を800名も討ち取って大勝した[75](江口の戦い)。
その後、長慶は晴元に代わる主君として氏綱を擁立し、7月9日に入京した[76]。このため晴元と前将軍の義晴らは近江坂本に逃れた[77]。
これにより細川政権は事実上崩壊し、三好政権が誕生することになった。
[編集] 将軍と主君との対立
天文19年(1550年)10月頃、長慶は将軍の足利義輝に和談を申し込んだ[78]。しかし晴元・義輝らの面目からかこの時は不首尾に終わる[79]。なお、将軍も管領も不在になった京都では長慶がその治安を保った[80]。
天文20年(1551年)3月7日、3月14日の2回にわたって長慶は暗殺未遂事件に遭遇している[81]。犯人は将軍近臣の進士賢光で『言継卿記』では賢光の遺恨で長慶を襲撃し手傷を負わせたが失敗して即座に自殺したという[82]。この混乱に乗じて義輝方の三好政勝と香西元成が3月15日に丹波宇津に侵入したりしている[83]。また長慶の岳父である遊佐長教も自らが帰依していた僧侶の珠阿弥に暗殺されてしまった[84]。
このような事態を見てか、7月には三好政勝と香西元成を主力とした足利・細川軍が京都奪回を図って侵入するも長慶は松永久秀とその弟の長頼に命じて破った[85]。このため六角定頼が和議を斡旋するが彼は天文21年(1552年)1月2日に死去したため、後継者の六角義賢が引き継いで交渉を進めた[86]。そして、晴元は氏綱に家督を譲って出家する代わりに長慶は晴元の幼児である昭元を取り立てること、将軍義輝の上洛を条件にして和議が成立した[87]。
長慶は2月26日に幕府御供衆となり細川家被官から将軍家直臣になった[88]。そして幕府は将軍の義輝、管領で細川家当主の氏綱に、実権を握る実力者である長慶という構図になった[89]。
ところが晴元が京都奪回のために軍を興し、これに波多野晴通が加担したため、長慶は4月25日に丹波八上城を包囲した[90]。しかし芥川・池田などが波多野に味方したため、5月23日に包囲を解いて越水城に撤退する[91]。またこれで聡明丸(昭元)を京都に置いておく事に不安を感じて越水城に移している[92]。
10月に長慶は再度丹波を攻め、晴元に味方する諸将と戦った[93]。11月にも晴元党の動きはあったが、小競り合いか放火程度で終わっている[94]。
天文22年(1553年)閏1月、義輝の奉公衆らは長慶排除のために晴元と通じた[95]。しばらくして長慶は和議を結ぶが、その際に奉公衆から人質をとった[96]。その後、長慶は晴元と戦うために出陣したが、3月には義輝自身が長慶との和約を破棄して霊山城に入城した[97]。長慶はこのため、松永久秀に命じて晴元方の軍を破った[98]。だが7月に義輝が晴元と連合して入京を目論むが[99]、晴元軍は一戦も無く敗走した[100]。このため義輝は近江朽木に逃れた[101]。長慶は将軍に随伴する者は知行を没収すると通達したため、随伴者の多くが義輝を見捨てて帰京したという[102]。
以後5年にわたって義輝は朽木滞在を強いられ[103]、京都は事実上長慶の支配下に入った[104]。長慶は摂津芥川城を居城とした[105]。また禁裏と交渉を行ない、土塀の修理なども行なっている[106]。以後、三好軍は天文22年(1553年)に松永兄弟が丹波に[107]、天文23年(1554年)に三好長逸が播磨に出兵するなど[108]軍事活動も積極的だった。
永禄元年(1558年)6月、義輝は細川晴元や三好政勝、香西元成らを従えて京都奪還に動いた[109]。しかし戦況は三好義賢、三好康長、安宅冬康、十河一存ら四国の軍勢が摂津に渡海するに及んで[110]三好方の優位となったため、六角義賢は義輝を援助しきれないと見て和睦を図った[111]。この時の和談は11月6日に成立し[112]、義輝は5年ぶりに帰京した。この時長慶は細川氏綱・伊勢貞孝と共に義輝を出迎えている[113]。
以後の長慶は幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。ただし、逆説的にはこれは三好家が幕府権力の掣肘に伏する事に他ならず、山城一国の統治権を将軍家に返還するに留まらず、幕府に替わって発行していた長慶名の裁許状もこの年を境に途絶え、中央政権たる体裁を失うという政治的な敗北は明らかであった。これ以降は堺の経済力を握り、有能な弟達に軍を預けて、河内や大和国、丹波国に転戦して、畿内に一大政権を築き上げたと言ってもそれは幕府隷下の地方権力に留まる結果を齎したのである。
[編集] 全盛期
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいた[114](他に近江・伊賀・河内・若狭などにも影響力を持っていた)。当時、長慶の勢力に匹敵する大名は相模の北条氏康くらいだった[115]といわれるが、関東と畿内では経済力・文化・政治的要素などで当時は大きな差があったため、長慶の勢力圏の方が優位だったといえる。
この全盛期の永禄2年(1559年)2月に織田信長がわずかな供を連れて上洛しているが、長慶とは面会せずに3月に帰国した[116]。4月には上杉謙信(当時は長尾景虎)が上洛しているが、長慶は謙信と面識があり、6年前の上洛では石山本願寺に物品を贈りあったりしたというがこの際の上洛では面会は無かったようである[117]。
この頃、河内では遊佐長教が暗殺された後、新たに守護代に任命された安見直政が永禄元年(1558年)11月30日に畠山高政を紀伊に追放するという事件があった[118]。これを見て長慶は松永久秀を永禄2年(1559年)5月29日に和泉に出兵させたが安見方の根来衆に敗北した[119]。このため久秀は摂津に撤退し[120]、長慶も久秀と合流して6月26日に2万の大軍で河内に進出した[121]。そして8月1日に高屋城、8月4日に飯盛山城などを落とし、畠山高政を河内守護として復帰させ、安見を大和に追放して自らと通じた湯川直光を守護代[122]とした[123]。
この永禄2年は長慶の権勢が絶大となり、長慶の嫡男・慶興が将軍の足利義輝から「義」の字を賜り義長と改めた[124](のちに義興と改名)。この頃にはかつての管領家である細川・畠山の両家も長慶の実力の前に屈しており[125]、永禄3年(1560年)1月には御相判衆に任命され[126]、1月21日に長慶は修理大夫に、義興は筑前守に任官した[127]。1月27日には正親町天皇の即位式の警護を勤め、また財政難などで金銭能力の無かった朝廷に対して献金も行なっている[128]。このためもあってか、2月1日に義興が御供衆に任命されている[129]。
ところがこの永禄3年に河内の情勢が激変した。長慶の支援で守護に復帰した畠山高政が守護代の湯川直光を罷免して再び安見直政を復帰させたためであり、長慶は高政の背信に激怒した[130]。このため長慶は高政と義絶し[131]、7月に東大阪市一帯で畠山軍と戦って勝利し[132]、7月22日には八尾市一帯で安見直政軍を破り[133]、さらに高屋城を後詰しようとした香西・波多野軍、根来衆なども破った[134]。このため10月24日に飯盛山城の直政が、10月27日に高屋城の高政が開城して[135]長慶は河内を完全に平定[136]し、高屋城は河内平定の功労者であった実弟の三好義賢に与え、自らは飯盛山城を居城にした[137]。また畠山家の影響力が強かった大和に対しても松永久秀に命じてこの年に侵略させ、11月までに大和北部を制圧して久秀に統治を任せた[138]。
永禄4年(1561年)3月30日には足利義輝を将軍御成として自らの屋敷に迎えた[139]。また嫡子の義興はこの年に従四位下・御相判衆に昇任するなど、三好家に対する幕府・朝廷の優遇は続いた[140]。この年までに長慶の勢力圏は先に挙げた8カ国の他、河内と大和も領国化して10カ国に増大し、また伊予東部2郡の支配[141]、山城南部の支配なども強化している[142]。この長慶の強大な勢力の前に伊予の河野氏など多くの諸大名が長慶に誼を通じていた[143]。
[編集] 衰退・晩年
長慶の衰退は永禄4年(1561年)4月から始まった。まず軍事的によく助けた勇将である弟の十河一存が急死したのである[144]。このため和泉支配が脆弱となり(和泉岸和田城は一存の持城である)[145]、その間隙をついて畠山高政と六角義賢が通じて7月に挙兵し、東西から三好家に攻撃をしかけた[146]。この戦いは永禄5年(1562年)まで続き、3月5日に三好義賢が畠山高政に敗れて戦死した(久米田の戦い)[147]。しかし三好義興と松永久秀が三好軍を率いて善戦し、一時的に京都を六角軍に奪われながらも[148]、義興・久秀らは安宅冬康ら三好一族の大軍を擁して反抗に転じ、5月20日の教興寺の戦いで畠山軍に大勝して高政を追放、河内を再平定した。このため六角軍は6月に三好家と和睦して退京した[149]。なお、この一連の戦いで長慶は出陣した形跡が無く、三好軍の指揮は義興と久秀と冬康らが担当している事からこの頃の長慶は病にかかっていた(病にかかったのは永禄4年頃とも)のではないかといわれている[150]。
以後、和泉は一存に代わって冬康が、河内高屋城主には三好康長が任命されて支配圏の再構築が行なわれたが[151]、一存と義賢(実休)の死による三好政権の弱体は明らかであった[152]。永禄5年8月には幕府の政所執事である伊勢貞孝が畠山・六角の両家と通じて京都で挙兵したため、9月に久秀・義興の両名率いる三好軍によって貞孝は討たれた[153]。だがこのように久秀の功績・実力が大きくなり、三好家の実権は次第に久秀が握るようになっていたのである[154]。永禄6年(1563年)1月には和泉で根来衆と三好軍が激突し、最終的には10月に康長との間で和談が成立[155]。大和でも久秀の三好軍と多武峯宗徒の衝突があり、また細川晴元の残党による反乱が2月からかけて起こるなど、反三好の動きが顕著になってきた[156]。
さらに永禄6年8月には長慶の嗣子である義興が22歳で早世した[157]。このため一存の息子である義継を養子に迎えた[158]。12月には名目上の主君であった管領の細川氏綱も病死[159]、この少し前には細川晴元も病死しており[160]、三好政権は政権維持の上で形式的に必要としていた傀儡の管領まで失う事になった。
[編集] 最期
永禄7年(1564年)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出して誅殺した[161]。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされているが[162]、この頃の長慶は相次ぐ親族や周囲の人物らの死で心身が異常を来たして病になり、思慮を失っていた[163]。『足利季世記』では冬康を殺害した後に久秀の讒言を知って後悔したものの後の祭りであり、病がさらに重くなってしまったという[164]。
このため6月には嗣子となった義継が家督相続のために上洛しているが、義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている事から長慶の病はこの頃にはすでに末期的だったようである[165]。7月4日、長慶は飯盛山城で病死した[166]。享年43[167]。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
[編集] 人物・逸話
[編集] 軍事力
- 長慶は織田信長と同じく堺の経済力に目をつけており、そこでの貿易による富裕な富で莫大な軍費・軍需品を容易に入手した。また曽祖父の三好之長や父の元長ら以来による細川領国圏での国侍との関係、有能な実弟らの統治する四国の軍事力、特に強力な水軍を擁しており、さらに優秀な長慶の個人的才能が加わって全盛期における三好軍の軍事力は大変強大であった。また阿波は小笠原を称していた頃から三好家の血族意識が強固であり、そのため長慶時代には弟の義賢がしっかり阿波を守ることで他国進出を可能にした[168]。
[編集] 性格
- 長慶は巧みな政治・軍略を展開しながらも下克上の雄ではなく旧来の人物であった[169]。
- 長慶の肖像は大徳寺の聚光院にあるが他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い[170]。
- 長慶は大変寛大とされているが[171]、一方で決断力あるいは非情さに欠けてむしろ甘いとさえ思えるほどであり、それが勢力圏でたびたび敵の復活を許し長慶没後の4年後に上洛して強固な支配圏を畿内に築き上げた織田信長との差にもなっている。
- 三好政長を討つ際、主君の晴元は政長を支持して長慶は謀反人とみなされた。江口の戦いの際、弟の十河一存は晴元が三宅城にいる事を知り城を落とそうと提言したが長慶は受け入れなかった[172]。しかも戦後、晴元が帰京する際は弟の安宅冬康配下の淡路軍に警護させている上[173]、その後に晴元と義輝が近江に逃れると圧倒的に優位でありながら和睦を懇望している[174]。
- 晴元一党はたびたび長慶に反乱を起こした。だが長慶は人質である晴元の長男の昭元(信良)を決して殺さずに弘治4年(1558年)2月に自ら加冠役として元服させており[175]、永禄4年(1561年)5月に晴元が義輝の仲介で摂津に戻ってきた時には次男の細川晴之を六角氏に預けながら(この晴之が六角に擁立されて反三好の兵を挙げることになる)、昭元と再会させ隠居料も支払い庇護するという厚遇をした上に『足利季世記』では長慶が旧主と和睦できて涙を流したとしている(普通なら涙を流すのは晴元の方である)[176]。
- 将軍の義輝と戦い勝利し、義輝が近江坂本に逃れても長慶は義輝を追撃して殺害しようとは決してしなかった[177]。一説には長慶存命中から松永久秀らによって足利義輝暗殺(永禄の変)は計画されていたが、長慶はその計画に最後まで反対したという。
- 畠山高政に対しての処置も甘いものであり、これが後に久米田の戦いを招いたといえる。
[編集] 宗教
- 長慶は父・三好元長の菩提を弔うため、弘治3年(1557年)、臨済宗大徳寺派の寺院、龍興山南宗寺を長慶の尊敬する大徳寺90世大林宗套を開山として創建した。茶人の武野紹鴎、千利休が修行し、沢庵和尚が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。長慶は常に「百万の大軍は怖くないが、大林宗套の一喝ほど恐ろしいものはない」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており、南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている[178]。
- 長慶はキリスト教をよく理解し、畿内での布教活動などを許してキリシタンを庇護している[179]。このため家臣の池田教正(シメアン)など多くの者がキリシタンとなっているが、自らはキリシタンにはなっていない[180]。ただし長慶は旧体制の人物でありながら信長のように半面は新しさも持っていた[181]。
[編集] 教養
- 朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな文化人であった。長慶の教養人の面のみを論う人もいが、それに対し「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」と見事な和歌で反論している。なお、三井記念美術館には、嘗て長慶が所持したという粉引茶碗、別名「三好粉引」が伝世している。
- 晩年には前半で成功した理由であった猛々しい野性さも失っていたが、これは長慶が連歌に没頭したためともいう[182]。
- 細川藤孝(幽斎)は烏丸光広に「修理大夫(長慶)連歌はいかにも案じてしたる連歌なりしなり」と評価している[183]。
- 長慶は久米田の戦いで弟の三好義賢が戦死した時、連歌を開いていたという。そして義賢の戦死報告が入ると一句を読んで周囲にいた面々をうならせたという。ただし後代に書かれたものであり信憑性に疑問も持たれている[184]。
- 長慶の正座は日常から正しく[185]、連歌の行跡などは細川藤孝や松永貞徳も敬仰して模範にしたという[186]。
[編集] 葬儀
- 長慶の死後、嗣子の義継が若年である事から松永久秀・篠原長房・三好三人衆らは喪を秘して重病であるとし[187]、2年後の永禄9年(1566年)6月24日に葬儀を営んだが、その際に『鹿苑日録』では参列の諸士が涙を流してその死を惜しんだという[188]。なお、その2年間で遺骸はかなり傷んでいたと『足利季世記』にある[189]。
[編集] 墓所・肖像
[編集] 家臣
[編集] 脚注
- ^ 絹本著色、笑嶺宗訴賛、永禄9年(1566年)、聚光院蔵、重要文化財。大紋に描かれた桐紋は、永禄4年(1562年)に足利義輝から許可されたもの。明るい色彩や面貌の描写から土佐派の絵師の作と見られる。なお、南宗寺には本画像とほぼ同図様で、元亀2年(1671年)7月4日に笑嶺宗訴が別の賛をした作品が伝わっている(『国宝 大徳寺聚光院の襖絵』展図録、90頁、東京国立博物館、2003年)
- ^ (『鹿苑日録』『本福寺明宗跡書』)『三好長慶』〈人物叢書〉1頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉1頁。
- ^ 生母については姓名・出身は不明で聚光院に位牌が存在する。『三好長慶』〈人物叢書〉2頁。
- ^ 『三好家譜』の信憑性には疑問も多いが誕生日は2月13日とされている。『三好長慶』〈人物叢書〉1頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉2頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉59頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉65頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉66頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉66頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉71頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉67頁・68頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉66頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉66頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉69頁。
- ^ 『細川両家記』
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉69頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉72頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉72頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉72頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉73頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉73頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉73頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉72頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉74頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉74頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉74頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉74頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉75頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉75頁。
- ^ (『親俊日記』)『三好長慶』〈人物叢書〉75頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉77頁。
- ^ 『続応仁後記』
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉76頁・77頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉78頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉78頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉78頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉79頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉79頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉80頁。
- ^ (『多聞院日記』『天文日記』『大舘常興日記』)『三好長慶』〈人物叢書〉80頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉80頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉82頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉82頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉83頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉83頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉83頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉84頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉86頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉87頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉87頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉89頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉89頁。
- ^ (『長享年後畿内兵乱記』『天文日記』『細川両家記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉90頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉90頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉91頁。
- ^ (『長享年後畿内兵乱記』『続応仁後記』)『『三好長慶』〈人物叢書〉91頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉92頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉94頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉94頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉95頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉96頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉96頁。
- ^ 合戦最中に政長の子・三好政勝が戦場を放棄して放火したり、政長が長慶の事を晴元に讒言した(『細川両家記』)。『三好長慶』〈人物叢書〉97頁。
- ^ (『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉97頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉96頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉98頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉98頁。
- ^ 『足利季世記』
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉101頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉103頁。
- ^ (『続応仁後記』『細川両家記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉104頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉104頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉104頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉105頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉107頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉106頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉113頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉113頁・114頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉115頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉116頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉118頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉118頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉120頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉120頁・121頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉121頁。
- ^ (『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉121頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉122頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉122頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉123頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉123頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉123頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉124頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉125頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉125頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉126頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉126頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉126頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉132頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉134頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉135頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉134頁・135頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉135頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉137頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉137頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉144頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉152頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉153頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉155頁・156頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉159頁・161頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉159頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉161頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉161頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉155頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉155頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉162頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉162頁・163頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉164頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉164頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉164頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉165頁。
- ^ (『厳助大僧正記』『長享年後畿内兵乱記』『足利季世記』『細川両家記』)『三好長慶』〈人物叢書〉165頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉165頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉166頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉166頁。
- ^ 日付は不明。『三好長慶』〈人物叢書〉167頁。
- ^ (『御湯殿上日記』)『三好長慶』〈人物叢書〉166頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉168頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉170頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉171頁。
- ^ (『厳助大僧正記』)『三好長慶』〈人物叢書〉172頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉173頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉173頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉173頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』)『三好長慶』〈人物叢書〉174頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉174頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉174頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉177頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉188頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉188頁・189頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉178頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉179頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉178頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉197頁・198頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉200頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉178頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉204頁・205頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉209頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉211頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉230頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉210頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉212頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉220頁・221頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉212頁 - 220頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉223頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉223頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉225頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉227頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉227頁・228頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉224頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉228頁。
- ^ (『細川両家記』『足利季世記』『続応仁後記』『三好別記』)『三好長慶』〈人物叢書〉229頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉255頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉255頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉254頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉255頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉1頁・254頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉179頁 - 188頁。
- ^ 『日本の歴史』(中央公論社)275頁。
- ^ 『日本の歴史』(中央公論社)276頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉194頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉105頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉106頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉113頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉151頁。『日本の歴史』(中央公論社)275頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉193頁 - 195頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉135頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉234頁。
- ^ 『日本の歴史』(中央公論社)276頁・277頁。
- ^ 『日本の歴史』(中央公論社)277頁。
- ^ 『日本の歴史』(中央公論社)278頁。
- ^ 『日本の歴史』(中央公論社)275頁。
- ^ (『日本歌学大系』所収『耳底記』)『三好長慶』〈人物叢書〉248頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉248頁・249頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉249頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉250頁。
- ^ (『足利季世記』『細川両家記』『続応仁後記』)『三好長慶』〈人物叢書〉256頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉256頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉256頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉257頁。
- ^ 『三好長慶』〈人物叢書〉257頁・258頁。
[編集] 参考文献
- 長江正一 『三好長慶』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1968年(新装版、1989年4月、ISBN 978-4-642-05154-5)
- 今谷明 『戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名』 洋泉社〈MC新書〉、2007年4月、ISBN 978-4-86248-135-1
- 『日本の歴史』 11.戦国大名。 中央公論社、(1971年4月10日)
[編集] 関連作品
- 小説
- 徳永真一郎『妖雲―戦国下剋上・三好長慶の生涯』(青樹社)
- 徳永真一郎『三好長慶』(光文社時代小説文庫、のち学陽書房人物文庫2010年5月 ISBN 978-4-313-75260-3)
- テレビドラマ
- 『天と地と』(1969年、NHK大河ドラマ、演:梅野泰靖)
- 『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年、NHK大河ドラマ、演:中丸新将)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Web版尼崎地域史事典『apedia』三好長慶[1]
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