建武 (日本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

建武(けんむ)は、日本元号の一つ。南朝方では元弘の後、延元の前で1334年1月29日1336年2月19日までの期間を指す。北朝方では正慶の後、暦応の前で、1334年1月29日1338年8月28日までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方後醍醐天皇、北朝方光明天皇

改元[編集]

元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統光厳天皇即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。後醍醐天皇は親政を開始して、元弘4年1月29日ユリウス暦1334年3月5日)、の字が不吉だという周囲の反対を押し切り、勅旨を出し建武に改元した。光武帝が簒奪者王莽を倒し、漢王朝を復興した(後漢)際の元号(建武)にちなんだものである。

その後、武家勢力の離反にあい建武の新政は二年余りで崩壊した。後醍醐天皇は建武3年2月29日(ユリウス暦1336年4月11日)に延元に改元した。のちに光明天皇を擁立した北朝方は、建武の元号を使い続け、建武5年8月28日(ユリウス暦1338年10月11日)に暦応に改元した。

出典[編集]

「撥乱反正(乱を撥めて正に反す)」の意を表現する中国の年号を採用せよ、という後醍醐天皇の指示により、前式部大輔藤原藤範・菅原在登・菅原在淳らが勘申した「建武」「大武」「武功」などの中から採用された[1]

決定まで、その後の影響[編集]

後醍醐天皇は「朕が新儀は未来の先例たるべし」[2]という理念で親政を推し進めたが、この改元に限らず、それ以前の元亨改元の際に辛酉革命醍醐天皇の治世に延喜に改元された)を否定し、正中改元の際に甲子革令村上天皇の治世に天暦に改元された)を否定し、それぞれ別の理由で改元を行っている。

また、「元亨」決定にあたって行われた改元定2月23日夜から翌日の昼までかかったという過去があり、後醍醐の先例無視に相当に強い批判があった。今回の「建武」でも、選択の基準が先例と異なっており、より強い反対があった。事実、こののち延元に改元する際、平惟継が「だから前回の改元の際に『武の字を用いるのは縁起が悪いからやめるべきだ』と言ったではありませんか」と後醍醐に嫌味を言っている[3]

この「建武」以前に、「武」の字を含む元号はなかったが、後醍醐のやり方とその治世を先例とすることを嫌ったか、この後も「武」の字を含む元号は一切用いられることはなかった元号一覧 (日本)で「武」を検索されたい)。

建武期におきた出来事[編集]

元年(1334年
2年(1335年
3年(1336年
4年(1337年

死去[編集]

西暦との対照表[編集]

※は小の月を示す。

建武元年(甲戌 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1334/2/5 3/6 4/5 5/4 6/3 7/2 8/1 8/30 9/29 10/29 11/27 12/27
建武二年(乙亥 一月※ 二月 三月※ 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月 十月※ 閏十月※ 十一月 十二月
ユリウス暦 1335/1/26 2/24 3/26 4/24 5/23 6/21 7/21 8/19 9/18 10/18 11/16 12/15 1336/1/14
建武三年(丙子 一月 二月※ 三月 四月※ 五月※ 六月 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月 十二月
延元元年
ユリウス暦 1336/2/13 3/14 4/12 5/12 6/10 7/9 8/8 9/6 10/6 11/4 12/4 1337/1/3
建武四年(丁丑 一月※ 二月 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月 十二月
延元二年
ユリウス暦 1337/2/2 3/3 4/2 5/1 5/31 6/29 7/28 8/27 9/25 10/25 11/23 12/23
建武五年(戊寅 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月※ 七月※ 閏七月※ 八月 九月 十月※ 十一月 十二月
延元三年
ユリウス暦 1338/1/22 2/21 3/22 4/21 5/20 6/19 7/18 8/16 9/14 10/14 11/13 12/12 1339/1/11

脚注[編集]

  1. ^ 佐藤進一 『日本の歴史9 南北朝の動乱』 中公文庫新版 ISBN 978-4122044814、62p
  2. ^ 梅松論』 18 建武の新政
  3. ^ 中院通冬の日記『中院一品記』 建武三年二月二十九日条

関連項目[編集]