平貞盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
平貞盛
時代 平安時代中期
生誕 未詳
死没 永祚元年10月15日989年11月16日[1]?
別名 常平太、平将軍
官位 従四位下左馬允鎮守府将軍
常陸大掾陸奥守丹波守
氏族 桓武平氏国香流(坂東平氏
父母 父:平国香、母:藤原村雄の娘[1]
兄弟 貞盛繁盛兼任
関口貞信の娘[1]
維叙維将維敏維衡維幹維茂維時[2]

平 貞盛(たいら の さだもり)は、平安時代中期の武将平国香(良望)の嫡男

生涯[編集]

承平5年(935年)、左馬允在任中、従兄弟の将門と母方の叔父(源護)たちとの抗争が勃発し、父の国香がそれに巻き込まれて亡くなる事件が起こる。それらを伝え聞いた貞盛は、朝廷に休暇を申請して急遽帰国し、焼失した自宅から父国香の屍を探し出し、また、山中に避難した母と妻らを探し出した。この際貞盛は、そもそも叔父たちが従兄弟の将門を待ち伏せ攻撃したことが発端であって将門側に非はなく、また、自らの京での官人としての昇進を望んだこともあって「互いに親睦をはかるのが最も良策である」という態度をみせている。父の死後まもなく、その後継の常陸大掾に任官された。

しかし、将門らの抗争に叔父の良兼良正らが介入しだすと、実際結果的に将門が国香を死に至らしめたのもあり、良兼に説得されて、良兼や良正らが将門を攻める際にはこれに加って将門と対立することとなった。だが抗争は次第に将門有利に進展していき、良兼らの勢力は徐々に衰退していく。承平8年(938年)貞盛は愁訴の為に密かに上洛を企てるも、これを察知した将門に2月29日信濃国小県郡信濃国分寺付近で追いつかれ、旧知の滋野恒成(善淵)、小県郡司の他田真樹(他田氏)らと共闘するも敗れるが、何とか脱出して京の都に辿り着いた。そして将門追捕の官符を持って帰国したものの将門に一蹴され、天慶2年(939年)6月上旬には叔父良兼が病没し、一族の後ろ盾を失ってしまう。同年10月、陸奥守平維扶が赴任途中に下野国に入ると、これに従って陸奥に入らんとしたが、再び将門の追撃を受けた為に逃亡し、維扶は貞盛らを見捨ててしまった。11月には常陸国での紛争を利用して将門を討たんとするが失敗、従兄弟(叔母の子)の藤原為憲と共に再び身を隠した。

天慶2年12月には将門が「新皇」を自称する。天慶3年(940年)、常陸国北部にて5000の兵を率いて貞盛、為憲らの捜索が行なわれるも当人らは発見出来ず、代わりに貞盛と源扶の妻が捕らえられたのみで、将門は彼女らを放免して捜索を中断し兵を各地に帰した。これを知った貞盛らは、母方の叔父の藤原秀郷の協力を得て4000余の兵を集めると将門を攻め、迎撃に来た将門勢を破り次第に追い詰め、2月14日「北山の決戦」にて、ついにこれを討ち取った[3]。将門討伐後の論功行賞では、将門ら謀反人を討つことができたのも、多年の苦難を経て努力した貞盛の為すところも大きいとして、従五位上正五位上とも)に叙せられた。

後に鎮守府将軍となり丹波守陸奥守を歴任、従四位下に叙せられ「平将軍」と称した[4]

子孫[編集]

長男の維叙は藤原済時の子で養子と伝えられており[4]、当初の嫡流は次男維将の系統だった。維将の系統である平直方の子孫は北条氏熊谷氏と称している。四男維衡は後に平清盛を輩出する事になる伊勢平氏の祖である。次男維将の子の維時も祖父貞盛の養子となっている。また、弟繁盛の息子たちも伯父貞盛の養子となっており、戸隠の鬼女紅葉退治の伝承で名高い余五将軍平維茂は繁盛の系統である。

『今昔物語集』[編集]

将門記』では将門と親睦をはかろうとする態度を見せたり、たびたび将門に敗れて追われる様の多い貞盛であるが、『今昔物語集』巻第二十九・本朝付悪行では、第五話「平貞盛朝臣、法師ノ家ニ於テ盗人ヲ射取リシ語」の、陸奥から帰京の途中に知人の法師の家に宿った際、盗人相手に振るった武勇の逸話と、第二十五話「丹波守平貞盛、児ノ肝ヲ取リシ語」の、妊婦の腹を裂き胎児の肝を得て自分の矢傷の治療をし、その秘密を守るため治療法を伝授した医師の殺害を企てた、という逸話とが述べられ、豪胆な人物に記述されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 系図纂要』による。
  2. ^ 維将の子、直方の父。祖父の養子となる。
  3. ^ 扶桑略記』では、将門の戦死を貞盛の放った矢により負傷落馬し、そこに秀郷が馳せつけ首を取ったとされているが、『扶桑略記』の「平将門」に関するの記述は、『将門記』の翻案とされ、信憑性はない。
  4. ^ a b 尊卑分脈』による。

関連項目[編集]