北条早雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
 
北条早雲 / 伊勢盛時
Soun Hojo portrait.jpg
北条早雲画像(小田原城所蔵)
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 永享4年(1432年)又は康正2年(1456年
死没 永正16年8月15日1519年9月8日
改名 盛時? → 早雲庵宗瑞(
別名 通称:新九郎
諱:長氏、氏茂、氏盛、長茂、貞藤、貞辰
戒名 早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門
墓所 金剛峯寺和歌山県伊都郡高野町
早雲寺神奈川県足柄下郡箱根町
官位 左京大夫?
幕府 室町幕府申次衆奉公衆
主君 足利義政義尚義視義澄今川氏親
氏族 伊勢氏後北条氏
父母 父:伊勢盛定?、母:伊勢貞国
養父:伊勢貞道
兄弟 貞興[注釈 1]盛時弥二郎北川殿今川義忠室)
正室:南陽院殿小笠原政清女)
側室:葛山氏、善修寺殿
氏綱氏時葛山氏広長綱
長松院殿(三浦氏員室、高橋高種室)

北条 早雲(ほうじょう そううん) / 伊勢 盛時(いせ もりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖である。伊勢 宗瑞(いせ そうずい)とも呼ばれる。北条早雲は戦国大名の嚆矢であり、早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

名称と生年[編集]

は長らく長氏(ながうじ)または氏茂(うじしげ)、氏盛(うじもり)[1]などと伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている[2]通称新九郎(しんくろう)。早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある[3]

なお伊勢家が、北条姓を称したのは盛時の嫡男・氏綱からであり、盛時の存命中に「北条早雲」の名が使われた確実な史料は乏しい[4]点に注意する必要があるが、通例では伊勢盛時も遡って「北条早雲」と呼ばれる[5]

これらの点に関しては、偏諱を与えた人物・名前について早雲の出自と生年の論争の各節に詳述する。なお、この項目での呼称は便宜上「(北条)早雲」で統一する。

生涯[編集]

出自[編集]

伊勢盛時の出身地とされる岡山県井原市
「北条早雲生誕の地」碑(岡山県井原市神代町の高越城址)

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた[6]。しかし、近年の研究では室町幕府政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である[7]1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる[8])であることがほぼ確定した[9]

幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状において照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった[10]。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した[10]

近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている[11]。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。

早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる[12]。荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時[注釈 2]の署名の禁制が残されている[13](ただし、花押が後のものとは異なる[14])。井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている[15]。備中からは大道寺氏内藤氏笠原氏など後北条氏の家臣が出ている[16]

幕府申次衆・奉公衆[編集]

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている[11]。その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる[17]。早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格的に遜色なく、近年では正室であると見られている[18]。文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟である伊勢貞藤が所領の没収と御料所化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれている事が注目される。また、貞藤は細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属している。かつては、早雲の出自の有力説の1つとされていた貞藤の子とする説(後述)であったが、これらの事実とその後の早雲の経歴を考慮すると、この説が成立しがたい事になる[19]

京都で早雲は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 - 1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている[20]

「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる[21]。文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されている。長享元年(1487年)奉公衆となる。

京で幕府に出仕している間、早雲は建仁寺大徳寺で禅を学んでいる[22]

駿河下向[編集]

文明8年(1476年)、今川義忠は遠江塩買坂の戦いで西軍に属していた遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にした。しかし、遠江の政情は複雑で、近年の研究ではこれらの国人は東軍の斯波義良に属するものだと考察されており、義忠は同じ東軍と戦っていたことになる[23]

残された嫡男の龍王丸は幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなった。これに堀越公方足利政知扇谷上杉家が介入し、それぞれ執事の上杉政憲と家宰の太田道灌を駿河国へ兵を率いて派遣させた。範満と上杉政憲は血縁があり、太田道灌も史料に範満の「合力」と記されている[24]。龍王丸派にとって情勢は不利であった。

北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった。道灌も長尾景春の乱への対処のため、帰国を急ぐ必要があった)。両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(長谷川政宣)の小川城焼津市)に身を寄せた。

従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている[25]。この最初の駿河下向と家督争い調停について、黒田基樹は新説による早雲の推定年齢の若さ(20歳)と、事件について記している『鎌倉大草紙』には宗瑞(早雲)の名が見えないことから考えて、この話の信憑性に疑問を呈している[26]

早雲の駿河下向については以下のような話が知られている。

『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)荒木兵庫多目権兵衛山中才四郎荒川又次郎在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている[22]。『公方両将記』には、陸奥国へ下ろうとしていた早雲は駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている[27][注釈 3]。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。

今川氏の家督争いが収まると早雲は京都へ戻り、9代将軍義尚に仕えて奉公衆になっている。

文明11年(1479年)、前将軍義政は龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出している[28][注釈 4]。ところが、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしなかった。

長享元年(1487年)、早雲は再び駿河へ下り、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集めた。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺した。龍王丸は駿河館に入り、2年後に元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となる。

早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられた[7]。通説である興国寺城拝領については史料の確認が取れないとして異論もあり、善得寺城[29]もしくはそのまま石脇城[30]を居城とした説がある。駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐し、守護代の出す「打渡状」を発行していることから駿河守護代の地位にあったとも考えられている[31]

この頃に早雲は幕府奉公衆小笠原政清(まさきよ、元続の祖父、元続の子・康広細川氏家臣・小笠原秀清(少斎)の曽祖父にあたる)の娘(南陽院殿)と結婚し、長享元年(1487年)に嫡男の氏綱が生まれている。

なお、この時期において興味深い話として早雲が借金問題を抱えていたとする話がある。これは、文明13年(1481年)に備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸したところ、翌年には訴訟に至ったことが知られている[32]。この問題がどう決着したかは不明であるが、借金問題が早雲を京都から東国に向かわせる一因になった可能性がある[33]

伊豆討入り[編集]

早雲が堀越公方足利政知の子茶々丸(11代将軍足利義澄の異母兄)を襲撃して滅ぼし、伊豆を奪った事件は、旧勢力が滅び、新興勢力が勃興する下克上の嚆矢とされ、戦国時代の幕開けとされている。政治が腐敗した京都を捨てて、関東の沃野に志を立てたように描かれてきた早雲だが、中央の政治と連動した動きを取っていることが近年の研究で分ってきた[34]

享徳の乱鎌倉公方足利成氏が幕府に叛き、将軍の命を受けた今川氏が鎌倉を攻めて占領。成氏は古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦った(享徳の乱)。将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送るが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず伊豆北条に本拠に留まって堀越公方と呼ばれるようになった。文明14年(1483年)に成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆一国のみを支配する存在となった。

政知には長男に茶々丸がいたが、正室の円満院との間に清晃(のちの義澄)と潤童子をもうけていた。清晃は出家して京にいたが、政知は勢力挽回のために日野富子管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていたとの噂があったと長享元年の興福寺別当尋尊の日記に残っており、この計画に早雲と氏親が関与していたとする説もある[35]

延徳3年(1491年)に政知が没すると、茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件が起きた。

早雲は延徳3年(1491年)5月までは「伊勢新九郎」の文書が残っているが、明応4年(1495年)の史料では「早雲庵宗瑞」と法名になっており、この間に出家したようだ[29]。この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、清晃の母の円満院の横死が理由とする見方[36]または伊豆乱入に伴う幕府奉公衆からの退任を意味するとする見方[37]などがある。

明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放。清晃を室町殿(実質上の将軍)に擁立した。清晃は還俗して義遐を名乗る(後に義澄と改名)。権力の座に就いた義遐は母と弟の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、茶々丸の近隣に城を持つ早雲へ命じた[38]。これを受けて早雲は、同年夏か秋頃に伊豆堀越御所の茶々丸を攻撃した。この事件を伊豆討入りといい、この時期に東国戦国期が始まったと考えられている[39][注釈 5]

伊豆討入り拡大

後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたとしている。また、「討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた」と書かれている[40]

この他「早雲は伊豆国韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として伊豆国の統治を始めた。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告した。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施し、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従った[注釈 6]。そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定め領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われる[41]

軍記物語などでは自害したと言われる茶々丸は史書においては堀越御所から逃亡しており、武田氏関戸氏狩野氏土肥氏らに擁せられて早雲に数年に渡って抵抗した。早雲は伊豆の国人を味方につけながら茶々丸方を徐々に追い込み、明応7年(1498年)8月に南伊豆にあった深根城下田市)を落として、5年かかってようやく伊豆を平定している[42]。なお、同年の8月25日に明応の大地震と津波で伊豆・駿河両国は大被害を受けており、震災で深根城一帯も甚大な被害を受けて抵抗不可能になった茶々丸を早雲は動員可能な少数の手勢で討ち取ったとみられており、この際に茶々丸を擁していた城主の関戸吉信らを皆殺しにして力を示したとされる(ただし、茶々丸の死去地を甲斐国とし、深根城の皆殺しは別の出来事とする見方もある)[43]

伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧している。早雲と氏親は連携して領国を拡大していく。

小田原城奪取[編集]

二本の大きなの木をが根本から食い倒し、やがて鼠はに変じる。という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことである[44]

明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は早雲に援軍を依頼。定正と早雲は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。

扇谷家は相模三浦氏大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われている。

小田原城

早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐には攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている[注釈 7]。同年9月、相模小田原大森藤頼を討ち小田原城を奪取した[45]

『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀那古野城奪取、尼子経久月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。金子浩之は、土石流を「牛」になぞらえた伝承があるという笹本正治の説を元に、早雲が1495年に起きた明応地震津波に乗じて小田原城を攻めた結果、津波が「牛」と呼ばれたようになったのではないかと推測している[46][47]

この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。黒田基樹は明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、扇谷家の守備側の名に大森藤頼と早雲の弟弥二郎の名が山内顕定の書状にあったことを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている[48]。『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、早雲の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、早雲の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。

また、明応10年3月28日文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている[49]

小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。

小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲の陣営と、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を早雲がだまし討ちにしたことになるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている[50]

明応8年(1498年)、早雲は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した[51]。茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もある[52]

今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年 - 1504年)には三河にまで進んでいる。『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城下にて松平長親徳川家康高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。松平方の先陣の酒井氏本多氏大久保氏の働きがあったという。ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。

相模平定[編集]

その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、茶々丸討伐の名目を失ったため、この後の軍事行動には多大な困難が伴った。更に、伊豆・西相模を失った山内顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・早雲の政治的な立場が弱くなった[53]

北条早雲関係図拡大

それでも早雲と氏親は、今度は義稙-大内陣営に与し、徐々に相模に勢力を拡大していった[54]。こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の武蔵立河原の戦いであり、扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した早雲は、氏親と共に出陣して山内顕定に勝利した[55]

この敗戦後に顕定は弟の越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出る。相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略。翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏した。これにより、早雲は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになる。

永正6年(1509年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する[56]。永正3年(1506年)に相模で検地を初めて実施して支配の強化を図っている[57]

永正4年(1507年)、管領細川政元が家臣の香西元長竹田孫七薬師寺長忠暗殺される(永正の錯乱)。同年、越後守護上杉房能が守護代の長尾為景上杉謙信の父)に殺される事件が起きた。早雲は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制した。

永正6年7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣。同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷朝良の本拠地江戸城に迫った。上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵、相模で戦った。

早雲は権現山城横浜市)の上田政盛を扇谷家から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城。三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫る。早雲は手痛い敗北を喫し、扇谷家との和睦で切り抜けた。一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定は長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実憲房の争いが発生、古河公方家でも足利政氏高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われた(永正の乱)。

三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権北条氏宝治合戦で滅ぼされている。しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城[58]または三崎城[59](現三浦市)を子の義意が守っていた。早雲の相模平定のためには、どうしても三浦氏を滅ぼさねばならなかった。

敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。朝良の甥の朝興が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いた。

義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められてしまった。扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。

永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した[60]

早雲寺の北条五代の墓。右端が早雲の墓。

その後、早雲は上総真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している[61]

永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去した。享年は64または88。後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させていいる[62][63]

早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている[64]。『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった[65][注釈 8]。永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている[66]

また、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている[67]。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられた[68]

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。以後、氏康氏政氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

年表[編集]

和暦 西暦 年齢
享年88説
年齢
享年64説
北条早雲(伊勢盛時)関連事項 参考事項
永享4年 1432年 1 早雲、備中国高越城で出生。(享年88説)
永享10年 1438年 7 永享の乱鎌倉公方足利持氏自害。鎌倉公方一旦滅亡。
永享13年
嘉吉元年
1441年 10 嘉吉の乱将軍足利義教赤松満祐に暗殺される。
嘉吉3年 1443年 12 禁闕の変神璽後南朝に奪われる。
文安6年
宝徳元年
1449年 18 足利義政に将軍宣下。
鎌倉公方が再興され、持氏の遺児成氏が任命される。
享徳3年 1454年 23 鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を謀殺。享徳の乱はじまる。
享徳4年
康正元年
1455年 24 駿河守護今川範忠の軍勢が鎌倉を占領、成氏は下総古河に逃れる。(古河公方
将軍足利義政と日野富子が結婚。
康正2年 1456年 25 1 早雲、備中国高越城で出生。(享年64説)
康正3年
長禄元年
1457年 26 2 太田道灌江戸城を築く。
将軍足利義政が弟の政知を関東に送る。(堀越公方
長禄の変、後南朝に奪われていた神璽を赤松家遺臣が奪回。
寛正2年 1461年 30 6 寛正の大飢饉、洛中の餓死者8万人以上。
寛正5年 1464年 33 9 この頃に足利義視の近侍となる。 将軍義政の弟義尋、還俗して将軍後継者となる。(足利義視
後土御門天皇践祚。
寛正7年
文正元年
1466年 35 11 細川勝元山名宗全と対立した政所執事伊勢貞親近江に逃亡。
文正2年
応仁元年
1467年 36 12 この頃に姉もしくは妹の北川殿と駿河守護今川義忠が結婚[18] 応仁の乱勃発。京都で細川方・山名方の軍勢数万が合戦。
足利義視、伊勢に出奔。
応仁2年 1468年 37 13 足利義視、西軍(山名方)の大将に迎えられる。
文明3年 1471年 40 16 備中国荏原荘に「平盛時禁制」を発する[13] 関東管領山内顕定が成氏の居城古河城を攻略。
文明5年 1473年 42 18 北川殿が龍王丸(後の今川氏親)を生む。 山名宗全、細川勝元が死去。
足利義尚に将軍宣下。
文明8年 1476年 45 21 駿河に下向して龍王丸派と小鹿範満派との家督争いを調停。 今川義忠が遠江塩売坂の戦いで戦死。
長尾景春が上杉方の五十子の陣を襲撃する。(長尾景春の乱
文明9年 1477年 46 22 扇谷氏家宰太田道灌、江古田・沼袋原の戦いなどで景春方を連破する。
京都で東西両軍の和睦がほぼ成立し、応仁の乱終わる。
文明11年 1479年 48 24 前将軍足利義政、龍王丸に本領安堵の内書を発する[注釈 4]
文明13年 1481年 50 26 文書での「伊勢新九郎盛時」の初見[21]
文明14年 1482年 51 27 金銭貸借を巡り、庄元資と訴訟沙汰になる。 幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立、享徳の乱終わる。(都鄙合体)
文明15年 1483年 52 28 将軍足利義尚の申次衆となる。
文明17年 1485年 54 30 山城国一揆起こる。
文明18年 1486年 55 31 尼子経久出雲国富田城を奪回。
太田道灌、主君扇谷定正に謀殺される。
文明19年
長享元年
1487年 56 32 将軍足利義尚の奉公衆となる。
駿河に下り、駿河館を襲撃して小鹿範満を討つ。
興国寺城主となる。
嫡男の伊豆千代丸(北条氏綱)生まれる。
「系図纂要」では、この年に北条姓に改めたとする。
龍王丸、元服して今川氏親を名乗る。
将軍足利義尚、六角高頼を攻めるために近江に出陣。
長享2年 1488年 57 33 山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が勃発。
加賀一向一揆、一揆勢が加賀守護富樫政親を攻め、自害に追い込む。
長享3年
延徳元年
1489年 58 34 日野富子と管領細川政元が清晃擁立を図ったとの風聞。(早雲関与の説あり[35]。) 将軍足利義尚死去、義視の子義材が将軍に迎えられる。
延徳2年 1490年 59 35 足利義政死去。
延徳3年 1491年 60 36 「伊勢新九郎」の名の最後の文書。明応4年(1495年)までに出家して早雲庵宗瑞を名乗る[29] 足利義視死去
堀越公方足利政知死去。
茶々丸が継母円満院と弟の潤童子を殺害して堀越公方の家督を継ぐ。
将軍足利義材、近江に出兵して六角氏を攻める。
延徳4年
明応元年
1492年 61 37 甲斐武田家の武田信縄信恵兄弟が家督争いを起こす。
明応2年 1493年 62 38 伊豆堀越御所の茶々丸を襲撃。(伊豆討ち入り 明応の政変、管領細川政元がクーデターを起こして将軍足利義材を追放。清晃(足利義澄)を擁立する。
明応3年 1494年 63 39 扇谷方として武蔵国高見原に出兵するが、扇谷定正の急死により撤退する。
今川氏の武将として遠江へ侵攻。
三浦義同、養父三浦時高を攻め殺して三浦氏の家督を継承。
小田原城大森氏頼死去。
明応4年 1495年 64 40 甲斐に出兵して守護武田信縄と戦う。
大森藤頼を討ち小田原城を奪取。事件の年次については明応5年(1496年)以降、明応10年(1501年)までの間とする説もある[48]
明応5年 1496年 65 41 山内方が相模西部に進軍して小田原城を攻める。城を守る弟の弥二郎と大森氏は敗走[48] 日野富子死去。
明応6年 1497年 66 42 関戸吉信の守る深根城を陥れる。伊豆平定 古河公方足利成氏死去。
明応7年 1498年 67 43 甲斐で茶々丸を捕捉して殺害する。伊豆の深根城で討ち取ったとする説もある[52]
明応8年 1499年 68 44 蓮如死去
明応9年 1500年 69 45 後土御門天皇崩御。後柏原天皇践祚。
明応10年
文亀元年
1501年 70 46 今川家の武将として三河に出兵し、松平長親と戦う。
文亀4年
永正元年
1504年 73 49 扇谷朝良・氏親・早雲の連合軍、立河原の戦いで山内顕定に勝利する。
永正2年 1505年 74 50 扇谷朝良が河越城で山内方に降伏。長享の乱終わる。
永正3年 1506年 75 51 相模で初めて検地を実施。 古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第一次抗争)。高基下野宇都宮に逃れ岳父宇都宮成綱に庇護される。
下野守護宇都宮成綱、高基の古河公方擁立を企て勢力拡大を図る。
佐竹義舜、山入氏を滅ぼし、佐竹の乱終わる。
永正4年 1507年 76 52 管領細川政元が養子細川澄之と家臣薬師寺長忠に暗殺される。細川氏の内訌はじまる。(永正の錯乱
細川澄元が京を制圧。
越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺害される。
永正5年 1508年 77 53 今川勢を率いて三河に侵攻するが松平長親に敗れる。 前将軍足利義稙が大内義興細川高国とともに入京。将軍足利義澄は近江に逃亡し、義稙が将軍復帰。
甲斐守護武田信虎、叔父の油川信恵一族を滅ぼす。
今川氏親、遠江守護に任じられる。
古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第二次抗争)。
永正6年 1509年 78 54 早雲、武蔵に出兵して江戸城に迫る。 管領山内顕定、越後に出兵し、長尾為景を佐渡に追う。
永正7年 1510年 79 55 上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い 山内顕定が長尾為景に討たれる。(長森原の戦い)古河公方足利政氏と子の高基が内訌を起こす(第三次抗争)。高基は下総関宿に移る。
山内上杉家の上杉顕実憲房兄弟が家督争いを起こす。
永正8年 1511年 80 56 足利義澄が細川澄元とともに入京を図るが、急死する。
船岡山の戦いで義稙方が義澄方に勝利。澄元は没落。
今川氏親、遠江の刑部城の戦いで尾張守護斯波義達に勝利。
永正9年 1512年 81 57 相模の岡崎城住吉城を攻略、三浦義同義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。 足利高基、古河を制圧。足利政氏、下野小山に逃亡。
宇都宮成綱、政氏方の家臣芳賀高勝を謀殺し宇都宮錯乱はじまる。
山内憲房が山内顕実に勝利し、山内上杉家を継ぐ。顕実は実権を喪失した。
永正11年 1514年 83 59 宇都宮成綱、結城政朝の連合軍、竹林の戦いで政氏方の佐竹義舜岩城由隆連合軍を破る。
永正12年 1515年 84 60 山内上杉顕実死去。
永正13年 1516年 85 61 三崎城(新井城)を攻略、相模三浦氏を滅ぼす。相模平定
上総真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌年まで転戦。
宇都宮成綱、縄釣の戦いで政氏方の佐竹義舜岩城由隆連合軍を破り、追い込む。高基の擁立に成功する。
宇都宮成綱死去。
永正14年 1517年 86 62 今川氏親、引馬城を攻略し、遠江を制圧。
足利義明が下総小弓御所に入る。(小弓公方
佐竹義舜死去。
永正15年 1518年 87 63 家督を嫡男氏綱に譲る。
伊勢(後北条)氏、虎の印判状の使用を開始。
扇谷朝良死去。
永正16年 1519年 88 64 早雲、韮山城で死去。

※年齢は数え歳、名は便宜上早雲で統一。

妻子[編集]

早雲には3人の妻と4男2女の存在が確認されている[69]

氏綱が長男で宗哲が四男であり、善修寺殿の子は長松院殿が宗哲の姉、青松院殿が妹であることは判明しているが、氏時と氏広の長幼の順は分かっていない[73]。氏時の母は不明だが、氏綱と同腹の次男と推定されている[70]。なお、氏広については諸系図に見えないため、男子を三名(氏綱・氏時・宗哲)とする説もある。[74]

偏諱を与えた人物・名前について[編集]

  • 早雲の子息たち(綱・氏時広・綱(幻庵))
  • 大道寺(重時(早雲の従兄弟にあたる)の子)
  • 松田(初め顕秀)

名称と生年の節でも名前について記述したが、それぞれの名前を名乗っていたとする証明になるのが、早雲の息子たちや家臣にみられる偏諱(名前の1字)を与えられた人物であり、上に挙げた人物から以下のように考えられる(外部リンクも参照のこと)。

  1. 長男・綱、次男・時、三男・広ほか後北条氏一族の諱に「」の字が入っていることから、祖にあたる早雲も「」の付いた名前(氏、茂、盛)のいずれかは名乗っていた
  2. 次男・氏の名前より盛は名乗っていた
  3. 四男・綱の名前より氏は名乗っていた
  4. 昌・秀、および実父・伊勢定の名前から「」の付いた名前(時(もりとき)あるいは氏(うじもり))は名乗っていた

以上のことを総合して考慮すれば、少なくとも「盛時」「長氏」「氏盛」のいずれかは名乗っているということになる(もちろん、途中で改名することもあろうから必ずしも1つだけとは限らない)。

1については、一部で氏綱が従兄弟にあたる今川氏親から1字を与えられた(氏綱・長綱の「綱」字は伊勢盛定の父・盛綱に由来するとされる)とする説もあり、この場合は必ずしも父の早雲が「氏」の入った名前を名乗る必要もない。また別の一説によれば、「氏」の字は北条時行の子とされる北条行(ゆきうじ)に肖ったとしている(ただし、前述したように早雲の代ではまだ北条姓を名乗ったという確実性がないので確証はない)。

大道寺昌、松田秀と、「盛」の字を与えられた人物が2人もいることなので、4については最も有力視でき、冒頭で前述した通り、「盛時」を名乗っていたのが定説となっている。生誕年の分かっていない盛秀については、妻(北条綱成の妹)のことを考慮すれば年代的に早雲の世代ではないのでは疑問視する説もあるが、顕秀からわざわざ改名していることからやはり「盛」の字を賜った可能性はある。


早雲の出自と生年の論争[編集]

既に老いの境に入った一介の伊勢の素浪人が、妹が守護の愛妾となっていたのを頼りに駿河へ下って身を興し、後に関東を切り取る一代の梟雄北条早雲となる、というストーリーが従来小説などでよく描かれていた。

江戸時代前期までは、『寛永諸家系図伝』などで後北条氏は執権北条家の嫡流の末裔(北条時行のひ孫の北条行長の実子)もしくは名門伊勢氏の出と考えられていた様子だが[75]、江戸時代中期以降、『太閤記』の影響で戦国時代を身分の低い者が実力で身を興す「下克上の時代」と捉える考えが民衆の願望もあいまって形成され、明治時代になって定着し、戦後まで続いた[76]。その下克上を代表する梟雄として北条早雲、斎藤道三松永久秀が語られ、早雲は身分の低い素浪人とすることが通説となった[77]

出自に関する論争[編集]

早雲の出自については長年明らかにならず、主なものに、伊豆韮山説、大和在原説、山城宇治説、伊勢素浪人説、京都伊勢氏説、備中伊勢氏説があった[78]

この内、伊豆韮山説と伊勢氏説は江戸時代の狭山藩北条家と幕臣の伊勢家でそれぞれ伝承してきたもので、両者に食い違いがあることは古くから問題視されていた。例えば『寛政重修諸家譜』の編者・林述斎は「北条家の系図と伊勢家の系図を比較すると、(京都の)伊勢貞親の二男の新九郎が(伊豆韮山の)北条行長の養子に入ったものであろう」と述べ、京都伊勢氏説を正しいとした。[79]

大和在原説と山城宇治説は『北条五代記』に異説として紹介されたもので有力視はされなかった[80]。伊勢説は『北条記』『相州兵乱記』に書かれており、早雲が信濃守護小笠原定基家長の子)に宛てた書状で「伊勢の関氏と同族である」と書いていたことを根拠に1901年藤岡継平が早雲を伊勢出身の地方武士であるとする説を主張し、田中義成海音寺潮五郎がこれを支持した[81]

これに対して渡辺世祐は『寛政重修諸家譜』などにある幕府政所執事の京都伊勢氏の出身で、伊勢貞親の弟貞藤の子供であろうとする京都説を主張した[82]。一般には伊勢説が定着して「伊勢素浪人」という早雲像ができあがり、一方、研究者の間では京都説が有力視されていた[83]

備中説は『今川記』および『太閤記』に書かれており、井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿1956年に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表した[84]1980年前後に奥野高広今谷明小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表し、その後、有効な反論も出ず、ほぼ定説化した[85]。江戸時代前期成立の『今川記』に戻った訳で「本卦返り」と呼ばれている[86]。早雲は氏素性のない素浪人ではなく、将軍に直接仕える名門の出であったことになる。

生年に関する論争[編集]

早雲の年齢については江戸時代以来、享年88(永享4年(1432年)生)とされていた。当時としては非常に長命である。これだと、駿河に下向して興国寺城主となり、長男氏綱が生まれた時点で数え年で56歳、伊豆討ち入りの時点で62歳となる。江戸時代前期の史料で姉とされる北川殿が今川義忠と結婚した応仁元年(1467年)で早雲は36歳になっており、姉だと当時の女性としては晩婚に過ぎ、明治以降に享年88説に合わせて歳の離れた妹とされていた[87]

早雲は小説家や評論家から「大器晩成」の典型としてよく取り上げられた[20]。しかしながら、早雲が歴史上に登場するのが50歳近く、本格的に活動するのが60歳を過ぎてから、最晩年の80歳を過ぎても自ら兵を率いて戦っており、いかに矍鑠としていても少々異様であるとして、疑問を呈する研究者もいた[88]

1995年に黒田基樹は享年88は江戸時代中期以降の系図類から出たものであり江戸時代前期の史料には存在しないことを明らかにした[注釈 9][89]。永享4年(1432年)生まれだと近年有力視された幕臣伊勢盛時の父盛定の活動時期とも伊勢貞親(盛時の母の兄弟)の甥という系譜関係も成り立たなくなる[88]。更に黒田は北条氏照の旧臣で宝蔵寺(埼玉県朝霞市)の開基となった高橋家の過去帳に早雲を伊勢盛定の子・新九郎盛時で享年64歳とする記述があることを確認した。現存のものは1950年代に書写されたものであるが、信頼性が高い高野山高室院「北条氏系図」と比較して同系図に記述のある部分については内容が一致している事から、黒田は信頼性が高いと判断している[90]

これは長年、早雲と思われた伊勢貞藤の生年と混同されてしまった結果であるとし、江戸時代前期成立の軍記物で「子の年」生まれと記載されていること、姉の北川殿の結婚時期と考え合わせて、24歳若い康正2年(1456年)生まれであろうとした[91]。これだと、姉の北川殿の結婚の時期に11歳頃、駿河下向時点で32歳、享年は64歳となり、当時の人間の活動としては妥当な年齢であることから、この説を支持する研究者も出るようになった[3]

しかし、この説についてはいまだ検討中の段階で、これを採らず享年88説を採る研究者もいる[7][92]。小説や評論の類、インターネットなどでも早雲を「大器晩成」の典型として享年88説を採っているものが多く、必ずしも1456年生まれ説が一般に定着したわけではない。

尼子経久(享年84)、武田信虎(享年81)など80代まで生きた著名な人物は存在する。龍造寺家兼のように、90代になってから挙兵、合戦をし、家を再興している事例がある。早雲と血縁が近い人物では、四男の北条幻庵が享年97(あるいは89)と、たいへん長寿であったとされる。

新説に対する一般の受容[編集]

作家などは身分が低く人生の辛酸を舐め、十分に老成した人間でなければ早雲のような活躍はできまいと長年論じてきた[93]。しかしながら、近年の研究を反映した早雲像は全く別であり、将軍に直接仕える名門一族の青年が幕府の命を帯びて駿河に下り、中央の政治と連動しながら関東で活躍して、後北条氏の祖となったことになる[94]

1980年代に研究者の間で出自がほぼ定説化され、1990年代に生年についての新説が提示された以降の小説やメディア、自治体ではこれらの新説は以下のように扱われている。

  • 司馬遼太郎の『箱根の坂』(1984年)では、その時期の研究を反映して単純な伊勢素浪人とせず、備中伊勢氏とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定である。しかし、大衆小説として「身分の低い素浪人」の姿を守り、早雲を伊勢氏の末流とし、作りを業にする職人的人物として描いている。年齢については当時の通説の享年88説で「大器晩成」としている。なお、北川殿は血の繋がらない妹とされている。
  • 21世紀に入って出版された南原幹雄の『謀将 北条早雲』(2002年)や伊東潤 『疾き雲のごとく〜早雲と戦国黎明の男たち〜』(2008年)、海道龍一朗『早雲立志伝』(2011年)では、近年の研究を反映して名門伊勢氏出身の幕府高級官僚とし、また康正2年生まれ説を採り、北川殿は姉となっている。
  • 2005年放送の「その時歴史が動いた:戦国をひらいた男〜北条早雲 56才からの挑戦〜」(NHK、ゲスト:小和田哲男静岡大学教授)では、早雲を幕府の高級官僚としているが、年齢については享年88説を採り「大器晩成」として描いている[95]
  • 北条五代観光推進協議会[1](北条氏ゆかりの8市2町で構成)は早雲の出自を備中伊勢氏の幕臣として、生年については享年88説と享年64説を併記している[96]

小説や一般向け書籍では、早雲は長らく「非常に長命な大器晩成」「徒手空拳の素浪人」として書かれており[97]、歴史学者桑田忠親の著作[98]や小説家海音寺潮五郎の早雲の史伝[99]などはその典型である。2000年代以降でもその姿で中高年の再挑戦の見本のように早雲を語るテレビ番組[95]や作家[100]も少なくない。

作品[編集]

北条早雲像(小田原駅西口前)
北条早雲像(早雲の里荏原駅)

銅像

小説

漫画

テレビドラマ

北条早雲が主人公のTVドラマ
北条早雲が登場するTVドラマ

ゲーム

脚注[編集]

注釈[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 伊勢盛定の長男の貞興の動向の記録はなく、次男の盛時が早くから嫡男の立場にあったと考えられている。黒田(2005),p.18.
  2. ^ 伊勢氏は桓武平氏平維衡の末裔であり、本姓は平氏。
  3. ^ 『公方両将記』のエピソードは司馬遼太郎の小説『箱根の坂』でも使われている。
  4. ^ a b 内書は慈照院殿(足利義政の法名)の名義で出されている。小和田(1983),pp.148-149.
  5. ^ 享徳3年(1454年)に始まった享徳の乱を東国戦国期の始期とする見方もある。市村(2009),p.3.
  6. ^ こうした政策を明応7年(1498年)8月25日に発生した明応の大地震の被災者救済策とみる考えもある。後述のように、実際地震から数日後に茶々丸は自害に追い込まれており、明応7年8月の出来事とすると一連の逸話が整合性のあるものとなる。家永(黒田2013),pp.268-271.
  7. ^ 甲斐は前守護武田信昌と信昌の次男の油川信恵と嫡男で守護信縄との内訌が、相甲国境のある都留郡小山田氏など甲斐国内の有力国衆の争いと関係して乱国状態にあり、対外的に信縄は堀越公方について足利茶々丸を庇護し、信昌・信恵は早雲や氏親と結び信縄と対立していた。早雲と甲斐情勢の関わりは明応7年の明応の大地震で信縄と信昌・信恵間の抗争は一時収束するが再開され、信縄の後継である信虎(信直)期には収束し武田氏と北条氏も和睦に至る(1498年)。
  8. ^ 『早雲寺殿廿一箇条』の成立時期については明らかではなく、早雲の制定によるものとするのは今のところ所伝に過ぎない。黒田(2005),pp.53-54;クロニック戦国全史(1995),p.216.
  9. ^ 「北条早雲の事績に関する諸問題」『おだわら-歴史と文化』9号所収

出典(ならびに補注)[編集]

  1. ^ 寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』等の、江戸時代の狭山藩北条家に伝わる系譜では全て「長氏」とし、逆に伊勢家に伝わる「正本伊勢系図」(続群書類従所収)では「盛時」を「氏茂」に改めたとしている。佐藤良雄(2001)なお、明治時代の岡谷繁実『名将言行録』では「北条長氏」としている。
  2. ^ 黒田(1997),p.38.
  3. ^ a b 家永(2005),p.45.
  4. ^ ただし、江戸末期の編ながらも史料価値が高いとされる系図纂要の北条氏系図では、「北条長氏 実は伊勢備中守貞國が二男、本(名)は長茂、伊勢新九郎、長享元年北条氏に改む(原漢文)」とあり、これによれば長享元年即ち1487年には北条姓を称していたことになる。江戸時代の北条家の系譜では北条行長の子とし、「北条左京大夫長氏」という記載も見られる。佐藤良雄(2001)
  5. ^ 相模国盗り物語(2008),p.24;家永(2005),p.35.
  6. ^ 家永(2005),p.37;桑田(1990),pp.110-113.
  7. ^ a b c 池上裕子. “北条早雲- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年7月14日閲覧。
  8. ^ 下山(1999),p.16.
  9. ^ 市村(2009),p.12;家永(2005),pp.42-43
  10. ^ a b 小和田(1989),pp.51-53.
  11. ^ a b 家永(2005),p.43.
  12. ^ 下山(1999),p.20.
  13. ^ a b 杉山(1974),p.67.
  14. ^ 下山(1999),p.29.
  15. ^ 高越城址:歴史・文化:史跡・名勝:観光情報”. 井原市観光協会. 2012年7月15日閲覧。
  16. ^ 下山(1999),pp.25-29.
  17. ^ 黒田(2005),pp.17-18.
  18. ^ a b 小和田(1983),pp.133-134.
  19. ^ 家永(黒田2013),pp.228-232.
  20. ^ a b 相模国盗り物語(2008),p.25.
  21. ^ a b 下山(1999),pp.29-30.
  22. ^ a b 小和田(1989),p.43.
  23. ^ 家永(2005),p.45.
  24. ^ 家永(2005),p.46.
  25. ^ 市村(2009),p.12;家永(2005),p.46;下山(1999),pp.35-36.
  26. ^ 黒田(2005),pp.18-19.
  27. ^ 海音寺(1975),pp.155-156.なお、海音寺はこの説話を疑問視している。また、北川殿を「叔母」とするのは姉若しくは妹とする諸系図と合わない。
  28. ^ 家永(2005),p.46.
  29. ^ a b c 黒田(2005),p.20.
  30. ^ 黒田(2013),p.21.
  31. ^ 小和田(1989),p.44.
  32. ^ 室町幕府引付史料集成(1980)
  33. ^ 古野(2008),p.131.
  34. ^ 市村(2009),p.13;黒田(2005),pp.21-22
  35. ^ a b 下山(1999),pp.43-44.
  36. ^ 家永(2005),p.48.
  37. ^ 黒田(2005),p.20-21.
  38. ^ 市村(2009),p.15.
  39. ^ 市村(2009),p.4.
  40. ^ 桑田(1990),pp.119-120.
  41. ^ 桑田(1990),pp.121-124.
  42. ^ 家永(2005),pp.49-50
  43. ^ 家永(黒田2013),pp.268-271.・黒田(2013),p.27.
  44. ^ 杉山(1974),p.71.
  45. ^ クロニック戦国全史(1995),p.148.
  46. ^ 落城伝説と津波11津波と牛と早雲 - Shizuoka城と戦国浪漫 『伊豆新聞』『熱海新聞』『伊豆日日新聞』日曜版 2011年11月27日 金子浩之
  47. ^ ただし、この説は小田原城攻めが1495年でなければ成立しないため、後述の見解とは矛盾する。
  48. ^ a b c 黒田(2005),pp.26-30.
  49. ^ 黒田(2005),p.28.
  50. ^ 市村(2009),pp.18-19;黒田(2005),p.29.
  51. ^ クロニック戦国全史(1995),p.145.
  52. ^ a b 家永(2005),p.50.
  53. ^ 家永(2005),p.52.
  54. ^ 家永(2005),p.53.
  55. ^ クロニック戦国全史(1995),p.176.
  56. ^ 黒田(2005),p.44.
  57. ^ クロニック戦国全史(1995),p.181.
  58. ^ 市村(2009),p.21;家永(2005),p.53.
  59. ^ 黒田(2005),p.48-49;下山(1999),p.68.
  60. ^ クロニック戦国全史(1995),p.203.
  61. ^ 黒田(2005),pp.49-50.
  62. ^ クロニック戦国全史(1995),p.216.
  63. ^ 菅沼晃. “早雲寺- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年7月17日閲覧。
  64. ^ クロニック戦国全史(1995),p.26.
  65. ^ 大久保俊昭. “早雲寺殿廿一箇条- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年7月16日閲覧。
  66. ^ 黒田(2005),p.43
  67. ^ 家永(2005),p.55.
  68. ^ クロニック戦国全史(1995),p.207.
  69. ^ 黒田(2005),p.54,56.ただし、佐藤良雄は妻について「妻妾は知られていないが男子が三名あったので不詳ではあるが妻があったものであろう」と留保している。佐藤(2001)。なお、軍記物には「韮山城主北条氏の後家と結婚した」という説さえもある。海音寺(1975)
  70. ^ a b 黒田(2005),p.57.
  71. ^ 黒田(2005),pp.58-60.
  72. ^ 黒田(2005),p.55.・黒田(2013),p.16.後者論文で黒田が紹介した高橋家過去帳には「(伊豆)狩野氏女」と記されている。
  73. ^ 黒田(2005),p.56,60
  74. ^ 佐藤(2001)
  75. ^ 佐藤(2001)。『寛永諸家系図伝』の狭山藩北条家の届け出た家系図では北条行長の実子としており、逆に幕臣伊勢家の系図では「伊勢貞親の二男貞藤が北条早雲」だとしていた。
  76. ^ 家永(2005),pp.35-36
  77. ^ 家永(2005),p.34.
  78. ^ 家永(2005),pp.36-37;杉山(1974),pp.64-67.佐藤(2001)
  79. ^ 佐藤(2001)
  80. ^ 杉山(1974),p.64.
  81. ^ 相模国盗り物語(2008),p.27;家永(2005),pp.35-37,40-41;杉山(1974),pp.65-66.海音寺(1975).なお、この他にも続群書類従所収の「小田原北条系図」が生国勢州(伊勢)とする。佐藤(2001)
  82. ^ 杉山(1974),p.66.
  83. ^ 家永(2005),p.37.
  84. ^ 家永(2005),pp.37-38.なお、「続群書類従」に収める「正本伊勢系図」にも同様の「伊勢貞時 新九郎、申次之衆なり。但し駿河守貞通の養子。後の小田原北条氏の祖なり、氏茂と改む。氏茂初めは長氏」云々の記載がある。佐藤(2001)
  85. ^ 家永(2005),pp.42-43.
  86. ^ 家永(2005),p.40.
  87. ^ 黒田(2005),pp.14-15.
  88. ^ a b 黒田(2005),p.13;下山(1999),p.14.
  89. ^ 黒田(2005),pp.13-14.
  90. ^ 黒田(2013),pp.9-18.
  91. ^ 黒田(2005),pp.16-17.
  92. ^ 小和田哲男. “小田原城奪取”. 小田原市. 2012年7月14日閲覧。
  93. ^ 海音寺(1975),pp.186-190.
  94. ^ 相川(2009),pp.63,65,84-86.
  95. ^ a b その時歴史が動いた#2005年 5月分 放映リスト(Internet Archive)”. 日本放送協会. 2012年7月14日閲覧。
  96. ^ 北条氏五代100年の歴史”. 北条五代観光推進協議会(小田原市公式サイト内). 2012年7月16日閲覧。
  97. ^ 相川(2009),p.58.
  98. ^ 桑田(1990),pp.110-136.
  99. ^ 海音寺(1975),pp.147-190.
  100. ^ 井沢(2008),pp.22-23

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]