藤田まこと

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ふじた まこと
藤田 まこと
本名 原田 眞(はらだ まこと)
別名 はぐれ亭馬之助
生年月日 1933年4月13日
没年月日 2010年2月17日(満76歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市豊島区
死没地 日本の旗 日本 大阪府吹田市
国籍 日本の旗 日本
血液型 AB
職業 コメディアン俳優歌手
ジャンル 舞台テレビドラマ、劇場映画
活動期間 1950年代中期 - 2010年
活動内容 1950年頃:旅回りの歌謡ショーでデビュー
1957年:『びっくり捕物帳』(大阪テレビ
1961年:『スチャラカ社員』(ABC
1962年:『てなもんや三度笠』(ABC)
1973年:『必殺仕置人』(ABC、以来『必殺シリーズ』で中村主水役)
1979年:『京都殺人案内』(ABC・土曜ワイド劇場
1986年ミュージカルその男ゾルバ
1988年:『はぐれ刑事純情派』(テレビ朝日
1998年:『剣客商売』(フジテレビ
配偶者 非公表(1959年 - 2010年)
家族 長女
長男
次女(EMIKO=原田絵美子)
主な作品
『てなもんや三度笠』
『必殺シリーズ』
『京都殺人案内』
『はぐれ刑事純情派』
『剣客商売』
『その男ゾルバ』

藤田 まこと(ふじた まこと、1933年4月13日 - 2010年2月17日)は、日本俳優歌手コメディアン。本名は原田 眞(はらだ まこと)。 

東京府東京市(現:東京都豊島区池袋生まれ、京都府京都市育ち。京都市立堀川高等学校中退[1]。俳優の藤間林太郎は父。大正三美人の一人林きむ子は伯母[2]。曾我廼家喜劇の女形であった曾我廼家弁天は伯父[3]。『必殺仕事人V』『必殺橋掛人』の主題歌「さよならさざんか」を歌った藤田絵美子(現・EMIKO)は実娘。血液型AB型。身長174cm。

オフィス斉藤所属。過去には渡辺プロダクション、新演技座(個人事務所)に所属していた。2002年に紫綬褒章を受章。

目次

生涯 [編集]

誕生・少年時代 [編集]

1933年4月13日、東京府東京市(現:東京都)豊島区池袋に生まれる。父親は無声映画時代のスター俳優だった藤間林太郎[† 1]で、母親は林太郎が大阪の帝国キネマに在籍していた時に身請けした芸妓であった[4]。藤田は芸能人となった後、林太郎にしばしば「お前が生まれるのには金がかかっている。芸人ならばお前の代で元を取れ」と言われたという[5][6]。藤田の姉と兄が生まれた後、帝国キネマは撮影所の火災が原因で倒産したため林太郎は大都映画に移籍。そのため藤田は東京で生まれた[7]。母親は藤田を産んだ後伏せりがちとなり間もなく他界したため、藤田はほとんど記憶にないという[8]

小学校時代に林太郎が再婚。藤田は継母とそりが合わず(藤田によると再婚した当初は特に反感は抱いておらず兄が反抗していたが、兄に影響されて反抗するようになった。やがて兄は反抗を止めるようになり、藤田だけが反抗するようになった)[9]。藤田は継母を決して「お母さん」とは呼ばず、兄と姉から「『お母さん』と言え」と殴られたこともあった[10]

1943年、一家は関西へ移った。はじめは大阪府枚方市光善寺へ引っ越したが近くに兵器工場があったため空襲に遭う危険のあることが分かり、京都府京都市の四条堀川へ引っ越した[11]。終戦後の1946年、かつて住んでいた光善寺の長屋の大家との養子縁組の話が持ち上がり、継母を嫌っていた藤田は承諾した。藤田は養父母に馴染んだ[12]が、間もなく志願兵として兵役についていた兄の戦死が判明(搭乗していた輸送船江龍丸がアメリカ軍の攻撃に遭い、沖縄の久米島沖で沈没)し、家族の元に戻ることになった[13]

兄が家を出た後、藤田は姉から「お前がお母さんの言うことを聞かないので、家の中がめちゃめちゃになってしまった。だから、お兄ちゃんは居づらくなって戦争に行ったんだ」と言われた[14]。そのため藤田は兄からの最期の音信である葉書を見ては「新しいお母さんと僕が上手くやれていたら、兄貴は戦争に行かなかったかもしれない」、「僕はどうして『お母さん』と素直に呼べなかったんやろう」と後悔するようになった[15]。後に藤田は兄からの葉書をコピーし、常に携帯するようになった[† 2][16]。藤田は後年、継母について「いい人でした」[6]、「大金持ちのところ(藤田は継母の前夫について、「とある著名な文化人」と述べている[17])から、惚れて貧乏役者のところに来たのに、子供が全くなつかなかったというのは辛いことだったでしょう。彼女にも悪かった」と述べている[18]。継母は4、5年で林太郎と離婚した[6]

藤田が家族の元へ戻った時、姉は肺を患い伏せっていた(間もなく死去[19])。加えて、林太郎は家庭を顧みない性格の人間だったため、藤田は「頼れるのは自分の才覚だけ」という心境に至り[20]、学校をサボって闇市を徘徊[21]、夜は京都市内のキャバレー将校クラブの近くで進駐軍兵士の靴磨きや連絡係をして金を稼いだ[22]。稼いだ金で買ったどぶろくが藤田が飲んだ最初の酒で、ヒロポンエフェドリンにも手を出した[23]。19歳の時に九州から大阪へ向かう夜行列車の中でヒロポンを使用していたところを警察官に見つかり、逮捕されたこともある[24]。後年、藤田は『はぐれ刑事純情派』で刑事役を演じたことがきっかけである警察幹部と親しくなったが、ある時ヒロポン使用での逮捕歴を持ち出され、「藤田さん、若い頃はやんちゃだったんですね」とからかわれた[25]

俳優・歌手・司会者として活動 [編集]

1940年代後半[† 3]、林太郎が所属していた一座に雑用係として参加するようになり、他の一座の巡業にも参加するようになった[26]。17歳の時に歌謡ショーの一座の公演で「旅笠道中」を歌ったのが藤田の初舞台で[27]、やがて舞台俳優としても活動するようになった[28]。「藤田まこと」の芸名を名乗るようになったのはこの時期である[29]。舞台俳優からキャリアをスタートさせたことから、藤田は「映画俳優を含め、舞台に上がっていない芸人は芸人ではない」という考えを持っていた[30]

10代の終わりに歌手を志して上京し、ディック・ミネのカバン持ちをしながら前座の歌手として活動した[31]。1年ほどで大阪へ戻り、日本マーキュリーレコードでアルバイトとして働きながら歌手としての修業を積んだ[32][† 4]。藤田は日本マーキュリーレコード所属の歌手の地方巡業に前座歌手として参加したが、ある時病気になった司会者の代役を務めたのをきっかけに、巡業の司会者としても活動するようになった[33]。司会者時代に最も印象に残っている歌手は東海林太郎で、癌の手術を受けた直後で体調が悪かったにもかかわらず、客の入り悪い冬の公演を一切手を抜かずにこなした姿に感銘を受けた。藤田は東海林の生涯を芝居にしたいという思いを抱くようになり、1981年10月から1982年3月にかけて東京・大阪・名古屋で『東海林太郎物語・歌こそ我が命』を上演、1984年に文化庁芸術祭優秀賞を受賞した[34][35]

藤田は中田ダイマル・ラケットの助言を受けて司会の仕事をやめ、俳優として中田ダイマル率いる「ダイマル・ラケット劇団」に入団[36]。藤田曰く当時の大阪では俳優とコメディアンの区別がなく、「役者志望の見習いコメディアン」として活動した[37]。1957年、コメディー時代劇『ダイラケのびっくり捕物帖』で初めてテレビ番組に出演[38]。藤田が演じたのは縁側に座っているだけの与力の役で[39]、藤田によると「なにがなんやらわからんうちにはじまって、終わってしもた」[40]1961年、『笑いの王国』で生放送のCM(亜細亜製薬「強力ベルベ」)に出演。水戸黄門西郷隆盛丹下左膳など知名度の高い人物に扮したことが人気を博した。藤田曰く、この頃に初めて街で視聴者から声をかけられるようになった[41]

てなもんや三度笠に出演 [編集]

1962年、時代劇コメディー『てなもんや三度笠』に出演。それまで脇役しか演じたことのなかった藤田が初めて主役(あんかけの時次郎)に抜擢された。出演依頼が来た時点で藤田は脇役としてテレビで6本、ラジオで5本の番組にレギュラー出演していたが、ディレクター澤田隆治に「主役の役者が他の番組で脇役を演じては恰好がつかない」という理由からそれらの番組を全て降板するよう要求された。藤田は「三軍[† 5]から一軍に上がるチャンスかもしれん」と思い、条件を受け入れた[42]。澤田によると、突然のレギュラー降板に激怒し、これ以降長い間藤田を起用しなかったテレビ局もあったという[43]

『てなもんや三度笠』は1年間52回の予定で放映を開始した[44]。当初藤田は番組が予定通り1年間存続することを危ぶんでいたが、予想外の人気を博し[† 6]、1968年まで放映された[† 7]。視聴率は最高64.8%を記録(1965年)したが末期には3-4%台に低迷し、藤田自身の人気も落ち目になった[45]。周囲からの扱いが高視聴率を記録していた時期から一変して悪くなるのを目の当たりにした藤田は「視聴率という、実体のないものの怖さ」を実感したという[46]

てなもんやシリーズの終了後、藤田のもとには「コメディのどうでもいい仕事の話」がきたが、「コメディそのものにも、いまひとつ乗りきれないものを感じていた」[47]ことからすべて断り、地方のキャバレーを回る巡業に出た[48]。この時、藤田は「僕はもともと旅芸人、元に戻るだけや」という心境だったという[49]。キャバレーでの興業は「意外に楽しく」、そのことが伝わったせいかキャバレー側から「また来てほしい」と要望されることも多かった。収入も『てなもんや三度笠』に出演していた頃よりも良かったが、巡業先でテレビをつけて見知った顔が出てくると焦りを感じたという[50]

必殺シリーズに出演 [編集]

1973年、時代劇『必殺仕置人』に中村主水役で出演。朝日放送プロデューサーの山内久司から依頼を受けた藤田は、「一見情けない男だが、実は腕利きの殺し屋」という設定が「自分にぴったりの役」と感じた藤田は出演を承諾した[51]。なお、交渉の際に山内は「監督の深作欣二が『どうしても藤田まことでやりたい』と言っている」と藤田に話したが、後になって複数の俳優に依頼を打診したものの「安物の同心で、家に帰ったら養子で肩身が狭い」という設定を嫌われたという話を知ることになる。藤田はその時、出演承諾から撮影開始まで1週間しかなかったことに合点がいったという[52]。藤田は『必殺仕置人』の放映開始時はまだ「コメディアン」で、2年ほどが経ってコメディのみならずシリアスな演技もできる「役者」になったと回顧している[53]

『必殺仕置人』は当初山崎努が演じる念仏の鉄を中心に描かれていたが、次第に藤田の中村主水を中心に物語が展開するようになった[54]。『必殺仕置人』で複数回監督を担当した三隅研次は、はじめ藤田の芝居を「あんた芝居下手やなぁ」「こんなんで飯食えると思うてんか」と酷評した[55]が、次第に「だいぶ芝居が落ち着いてきた」「これあと3回くらいやったら、一生もんのシリーズになるかもしれへん」と評するようになり[56]、シリーズ終盤には「おっさん、これ必ず続き物になるで。あと半年やったら、中村主水があんたの体に入って、これは一生もんやで」と発言した[57]。三隈の予想は的中し、藤田主演の『必殺シリーズ』は中断を挟みつつ1992年3月まで続いた[58]。『必殺シリーズ』に出演していた間、藤田はテレビへの出演を同シリーズ1本に絞り、あとは舞台に出るというスタンスをとった[59]

藤田によると、末期の『必殺シリーズ』は若い視聴者向けに「饅頭の上に苺のっけたり、生クリームかけたり、ちょっとチェリーをのせたり、そんな雰囲気のデコレーション」を施すようになった。そのことが原因で藤田はシリーズ終了を訴えた[60]。藤田は『必殺シリーズ』で時代劇は終焉をみたのであり、それ以降の番組は「我々の失敗したことをまた懲りずにやってる」状態だったと述べている[61]

必殺シリーズ終了後 [編集]

1988年、『はぐれ刑事純情派』シリーズの放映が開始。派手な演出がない作品だったことから藤田は当初ヒットしないという予感を抱いていたが、「なんや知らんうちに、長続き」し、18年間にわたって放映された[62]。藤田は『必殺シリーズ』と『はぐれ刑事純情派』シリーズとを比較し、「コメディアン」として起用された前者と「役者」として起用された後者とでは重みが違ったと述べている[63]

1998年から放映された『剣客商売』シリーズは、藤田の晩年を代表する作品のひとつとなった。藤田は『東海林太郎物語』や『その男ゾルバ』を上演した50代を自らの人生の中で最も充実した時期であったと振り返っている[64]が、50代のうちに60代で行うことを考えなかったため、この先に何をすべきか迷い、頭の中が真っ白な状態になったという。藤田はそんな中で『剣客商売』に出会い、迷いが消えたと述べている[65]

2006年11月4日にはフジテレビの『仕掛人・藤枝梅安』で音羽の半右衛門を演じ、翌2007年7月7日にはABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2007』で再び中村主水を演じた。

闘病、そして逝去 [編集]

2008年4月に体調不良を訴えて検査を受けたところ、食道癌であることが判明、6月の明治座剣客商売』の舞台公演を降板して入院加療を行い[66]、10月下旬より復帰、ABCテレビ・テレビ朝日の『必殺仕事人2009』に中村主水役でレギュラー出演した。

2009年10月期の『JIN-仁-』(TBS)にも新門辰五郎役で出演予定であったが、慢性閉塞性肺疾患により降板[67]

その後リハビリを続けていたが、2010年2月16日箕面市の自宅で夕食後の家族団らん中に突然吐血し、大阪大学医学部付属病院に搬送されるも、翌17日午前7時25分、大動脈瘤破裂のため亡くなった[68]。76歳没。1月には体調の回復もあってナレーションの仕事を務め、3月の完全復帰を予定していた矢先の急逝だった。

藤田まこと逝去の報に、テレビ創世記の時代に共に活躍した戦友でもあった大村崑は「まこちゃんとの思い出はつきない。彼は大阪人の宝です」、『てなもんや三度笠』で共演した白木みのるは「僕の大きな友達を亡くした」とそれぞれ追悼の辞を発表した[69]。戒名は、「寿量院修芸日真居士(じゅりょういんしゅうげいにっしんこじ)」。また、『てなもんや三度笠』のスポンサーを務めた前田製菓も公式サイトのトップページにおいて追悼文を掲載した。遺作は『京都殺人案内』の第32作目(2010年2月27日放送)。また、逝去してから5ヶ月後に放送されたスペシャルドラマ「必殺仕事人2010」(2010年7月10日放送)では、過去の映像と声のみ出演した。(そのため、エンディングのキャストロールで藤田の名前が表示されていた。)

逝去直後の通夜・葬儀は、喪主を長男が行い、近親者のみで執り行った為(密葬でも約100名の弔問客、後述の藤田まことさんしのぶ会では約600名があり、その規模が伺える)、政財界や芸能関係者から「藤田さんにお別れを言いたい」と望む声が寄せられたことから遺族側は2011年4月13日(藤田の78回目の誕生日に当たっていた)に一度はお別れの会をセッティングした。しかし、東北地方太平洋沖地震の発生により中止、改めて森光子石原慎太郎森喜朗野中広務などを発起人として『藤田まことさんを偲ぶ会』を東京国際フォーラムを会場として同年11月24日に開催することを決め[70]、当日は塩川正十郎黒柳徹子東山紀之京本政樹など藤田とゆかりの多かった関係者が出席し、藤田を偲んだ[71]

俳優としての特徴・エピソード [編集]

  • 陰がある役柄や必ずしも恰好がよく人生で成功を収めたわけではない人物を演じるのを好んだ[72]、逆に成功譚は嫌いで、「出世していく男」「偉くなっていく男」を演じるのは「願い下げである」と述べている。その理由について藤田は、「成功者は成功する過程で他人を追い落とすなど人間らしいとはとても言えないような生き方をするものだが、芝居にするとそのような人間らしくない生き方が省略されたり強引に美化されるからだ」と述べている[73]。藤田は「一種のスーパーマンなのだが、だからといって…別に出世するわけでもないし、偉くなっていくわけでもない」中村主水は「納得しながら演じられた役」だと述べている[74]
  • 尊敬する俳優として、新国劇のスター、辰巳柳太郎の名を挙げている。藤田は幼い頃、ファンだった父親に連れられてしばしば新国劇を観に行き、辰巳の楽屋を訪れた[75]。藤田は『てなもんや三度笠』の放映終了後キャバレー回りをしていた時期に、「役者の顔」でなくなる(藤田曰く、俳優が食い繋ぐために俳優以外の仕事を長くすると、次第に「役者の匂い」が抜けていき、その仕事をする者の顔になっていくという)ことを恐れ、当時所属していた渡辺プロに頼んで芝居を上演したことがある[76]が、その時辰巳との共演を果たし、以降辰巳の「勝手弟子」を自称した[77][78]
  • 藤田は自身を「ひとつの役を何十回とやらないとモノにできない」タイプの俳優だと分析している[79]。ただし「人のセリフまで通して本を全部を覚えてしまう」というほどセリフ覚えがよく、セリフが出てこなくなった失敗はなかったという[80]
  • 俳優はある程度ミステリアスで、「何を考えているんやろ」「どんな奴なんやろう」と想像されるほうがいいという考えの持ち主であった。手の内を明かしたくないという理由からバラエティ番組にはあまり出演しなかった[81]。藤田は「テレビでチャラチャラしてる人は芸人じゃない。芸を売ってる人じゃない。…呼び名はタレントでええ」とも述べている[82]
  • 撮影において「こんなもんでええかな」と妥協してしまった際にはその作品をビデオに録画し、後で観賞する習慣があった。そうして録画された作品はビデオテープ100本分以上にのぼった。逆に「上手く行った」と思える作品は1本も録画しなかった[83]。それらのビデオテープについて藤田は「この失敗作こそ僕の"財産"かもしれませんな。でも、ふつうの財産と違うのは、増やしてはならない財産であるところ」と述べている[84]
  • 藤田はハイビジョンについて、「技術革新が進むことについては賛成」としつつ、ハイビジョン撮影された映像は「光と影の交わった部分の微妙な部分の味わい」が消えてしまい、人々の微妙な機微を表現できないという理由からハイビジョンでの撮影に否定的だった。藤田は「いずれ元のフィルムに戻そうという時代が来るのではないか」と述べている[85]
  • 時間に厳しく、俳優生活の中で遅刻したのは2度だけだという[86]。藤田にとって時間を守ることは「最低限の約束事」で、遅刻する人間のことは無視した[87]
  • 藤田は「まわりに人をいっぱい置いておくのは嫌い」という理由から弟子をとらなかった[88]西川きよしは藤田に弟子入りを志願して断られたことがあり、西川によると漫才師として成功を収めた後、しばしば藤田に「弟子にしてたら今の“やすきよ”はないぞ」と言われたという[89]
  • 藤田は芝居と俳優との関係について、台本を書く演出家は芝居という子供を「産みっぱなしですぐどっかに行ってしまう」ため、俳優の力でアレンジし、育てなければならないと述べている。俳優には芝居を育てるための感性が必要だと述べている[90]
  • 「余分なところがないと、いいものはできない」という考えから、作品を作るにあたって「大きな絵を描いて、そこから余分なものを削っていって、無駄をそぎ落としていく」ことをよしとした。藤田は舞台では3、40分長めの脚本を書くよう、ドラマでは長めに撮影するようスタッフに要求した[91]
  • NHK大河ドラマ武蔵 MUSASHI』に柳生石舟斎役で出演した際、台本にある台詞を役柄に合ったものに変えたいと数回要望したが、その度に現場のディレクターからは「プロデューサーとの相談なしに現場で処理することはできない」と返答され、撮影を後回しにされた。このことに対するストレスから藤田はNHKのスタジオに近づくだけで熱っぽさ、息苦しさ、頭痛などを覚えるようになった。藤田はこの症状をNHK病と呼び、『武蔵』以降NHKのドラマには一切出演しなくなった[92]
  • 舞台『浪花恋しぐれ・桂春団治』を演じたのをきっかけに落語を演じるようになり、1999年5月には独演会を催した[93]。この独演会には春風亭小朝が観に来ており、そのことを後で知った藤田は「もう二度とやらへんぞ」と思ったという[94]

私生活 [編集]

  • 1959年に結婚。結婚資金のなかった藤田は新居を購入するにあたり、新居のほか自らを担保に入れて家を購入[95]した。結婚式と披露宴の費用は、それらの様子を収めた映像を1年間式場のテレビコマーシャルに使用させることと引き換えに、無料にすることに成功した[96]。しかし、披露宴に招待した芸能人にはそのことが知らされておらず、勝手にコマーシャルに使われたと苦情が殺到[97]。最終的には中田ダイマルが「今回のカタに自分のところで一生ただ働きさせる」と仲裁して解決した[98]
  • 「芸人は夢を売る商売。派手に遊ばな」という主義の持ち主で、しばしば高級クラブを飲み歩いた。大阪では南都雄二藤山寛美とともに「キタの雄二か、ミナミのまこと、東西南北藤山寛美」(南都雄二は北新地、藤田はミナミを飲み歩き、藤山寛美はどこにでも現れる、という意味)と評された[99]渡辺プロダクション所属時には社長の渡辺晋よりもクラブからの請求書が多かったという逸話がある[100]
  • 酒好きで、「飲むのをやめるときは、グラスを口にもってくのが面倒くそうなったときくらい」、「だれかが飲ませてくれるなら、ずーっと飲み続けてるかもわかりません」と述べている[101]
  • バブル景気が到来すると、藤田は自らが保証人となって銀行から巨額の事業資金を借り入れ、妻と息子、娘に料理店やブティックを経営させ、さらに1600平方メートルの自宅を新築する(藤田曰く、土地の建物を合わせて10億円以上の費用を要した[102])などした。しかし総量規制の影響から資金調達が滞るようになり、28億の負債を抱え[103][104]、不動産をはじめ車や絵画など資産のほとんどを手放す羽目になった[105]。藤田はバブル景気について、「あの時代はおかしかった」と振り返っている[106][† 8]

出演作品 [編集]

テレビドラマ [編集]

映画 [編集]

舞台 [編集]

ラジオ [編集]

CM [編集]

歌謡曲 [編集]

脚注 [編集]

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注釈 [編集]

  1. ^ 藤田によると、物心ついた時林太郎は俳優として落ち目になっていた。しかし、「売れないことやお金がないことを苦にするふうでもなく、綺麗に美しく落ちて行った」という。藤田は俳優として陰がある人物や必ずしも成功者とはいえないような人物を演じることを好んだが、父親の生き様の影響かもしれないとも述べている(藤田1991、40-43頁。)。1964年、藤田は梅田コマ劇場で上演された「てなもんや三度笠」の舞台で林太郎と共演した。これが親子の唯一の共演である(藤田2006、31-32頁。)。この時林太郎は「俺から見てもおまえは絶対にうまい俳優じゃない。人気だって急に出た人気だ。おまえから俺を見ても、うまい役者だとはとても思えないだろう」「親子揃って大根役者だ。そんな二人が客の前で恥をかくのはやめよう。恥かくんなら別々に恥かこう」と述べ、自分が俳優を続けるとまた共演の話がくるという理由で廃業し、出版社で校正の仕事をするようになった(藤田1999、88-89頁。)。藤田は林太郎から「道の真ん中を歩くのはお客さん。芸人は道の脇を歩け。」と教えられ、終生その教えを守った(藤田2006、35頁。)。
  2. ^ 2006年9月、藤田は著書『最期』で兄について執筆したのを機に沖縄を訪れ、那覇沖の海に白米のおにぎり、卵、花束、を投げ入れて冥福を祈った(藤田2006、216-220頁。)。
  3. ^ 「家」の履歴書』(210頁)によると中学校2年の時、『最期』によると高校1年の時、『年をとるのも悪くない』(36頁)によると1949年。
  4. ^ 藤田は俳優となった後も歌に自信を持っていた。ただし小節を回せず、演歌は苦手だった(藤田1999、146頁。)。
  5. ^ 藤田は『てなもんや三度笠』出演を決めた当時の自らの格について、中田ダイマル・ラケット森光子横山エンタツ花菱アチャコミヤコ蝶々南都雄二ら一軍、芦屋雁之助芦屋小雁大村崑佐々十郎茶川一郎ら二軍に次ぐ三軍であったと述べている。
  6. ^ 同番組のスポンサーであった前田製菓のCMにおける「俺がこんなに強いのも、当たり前田のクラッカー!」などのギャグが人気を博した。
  7. ^ 藤田によると、三木のり平森繁久彌を除く当時の喜劇俳優とはすべて共演した(藤田1999、109頁。)。唯一藤田のほうから共演を拒否したのがかつて藤田をいじめたことのある佐々十郎であった(部屋付きで佐々の世話をしながら芝居に出ることになったが佐々が拒否したため、楽屋なしで出演する羽目になった。藤田2006、129-132頁。)。
  8. ^ この時にできた負債を巡り、藤田の妻に対して融資していた大阪市内の金融業者(経営破綻済)の破産管財人が、藤田夫妻に対して貸付金3億円の支払いを求め訴訟を起こし、藤田は「妻が勝手に印章を捺した」「この業者は違法な高金利で貸し付けていた」などと主張するも受け入れられず、大阪地裁から2009年9月7日に、藤田夫妻全面敗訴の判決を言い渡された(藤田まことさん夫妻に3億円支払い命令…大阪地裁 読売新聞 2009年9月8日 、藤田まことさん:夫妻に3億円支払い命令--大阪地裁 毎日新聞 2009年9月8日)

出典(主に著作) [編集]

  1. ^ 藤田1991、72頁。
  2. ^ 父の姉(異父姉)(森2000、41-42・50-53頁。)。
  3. ^ 父の兄(異父兄)(森2000、41-42・50-53頁。)。
  4. ^ 藤田2006、7頁。
  5. ^ 藤田2006、7頁。
  6. ^ a b c 週刊文春(編)2001、209頁。
  7. ^ 週刊文春(編)2001、208-209頁。
  8. ^ 藤田2006、6・8頁。
  9. ^ 藤田2006、9-10頁。
  10. ^ 藤田2006、11頁。
  11. ^ 藤田2006、10-11頁。
  12. ^ 藤田2006、15頁。
  13. ^ 藤田2006、16-17頁。
  14. ^ 藤田2006、12頁。
  15. ^ 藤田2006、17-18頁。
  16. ^ 藤田2006、5-6頁。
  17. ^ 藤田2006、9頁。
  18. ^ 藤田2006、17-18頁。
  19. ^ 藤田2006、35頁。
  20. ^ 藤田2006、18頁。
  21. ^ 藤田2006、42頁。
  22. ^ 藤田2006、19-20頁。
  23. ^ 藤田2006、22-23頁。
  24. ^ 藤田2006、23-26頁。
  25. ^ 藤田2006、26頁。
  26. ^ 藤田1991、36頁。
  27. ^ 週刊文春(編)2001、210頁。
  28. ^ 藤田2006、42-44頁。
  29. ^ 藤田2006、45頁。
  30. ^ 藤田1999、135頁。
  31. ^ 藤田2006、46-47頁。
  32. ^ 藤田2006、47頁。
  33. ^ 藤田2006、48-51頁。
  34. ^ 藤田2006、116-120頁。
  35. ^ 藤田1991、30-33頁。
  36. ^ 藤田2006、51-53頁。
  37. ^ 藤田2006、53頁。
  38. ^ 藤田2006、56頁。
  39. ^ 藤田1991、81-82頁。
  40. ^ 藤田1999、102頁。
  41. ^ 藤田2006、57-59頁。
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参考文献 [編集]

著書(上記以外) [編集]

  • 『年をとるのも悪くない (再刊)』 道草文庫:小池書院、1997年 
  • 『こんなもんやで人生は ムコ殿の人間修行』 主婦と生活社、1988年
  • 『必殺男の切れ味 熟年の魅力をどうつくるか』 潮出版社、1983年
  • 『料理の上手な女性にささげる本 ちょっとやれる面白料理』 プレイブックス:青春出版社、1989年

外部リンク [編集]