赤松満祐
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赤松 満祐(あかまつ みつすけ、弘和元年/永徳元年(1381年) - 嘉吉元年9月10日(1441年9月25日))は、室町時代の播磨・美作・備前の守護大名である。父は赤松義則。兄弟に赤松義雅、赤松祐尚(祐之)など。子に赤松教康。生年は文中2年/応安6年(1373年)説もある。
二度に渡って侍所頭人(所司)を務め、幕府内の長老格として権勢を振るうが、1427年に前将軍足利義持が満祐の所領を没収して寵愛する赤松持貞に与えようとすると、満祐は京都を出奔して領国の播磨へ下り追討令が出る事件を起すが、翌年には赦免されている。
義持の後を継いだ弟で6代将軍足利義教は有力大名を誅殺し、播磨の国一揆を鎮定に向かっている途中に領地を没収されて一族の赤松貞村に与えると言う風聞が起こり、1441年に結城合戦の祝勝会として義教を自邸に招き、暗殺した(嘉吉の乱)。その後は領地の播磨国へ逃れて足利直冬の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じて対立するが、幕府方が派遣した細川氏、山名氏などに敗北、降伏を拒み、城山城(たつの市)にて切腹自殺する。
また、徳川綱吉と並んで、日本の歴史上の人物で低身長症(軟骨無形成症)だったのではないかという伝聞があり、そのコンプレックスから、足利義持・足利義教と2代に渡って将軍に反抗したのではないかとの説もある。
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