足利義勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
足利義勝
Ashikaga Yoshikatsu statue.jpg
足利義勝坐像(等持院霊光殿蔵)
時代 室町時代中期
生誕 永享6年2月9日1434年3月19日
死没 嘉吉3年7月21日1443年8月16日
改名 千也茶丸(幼名)、義勝
戒名 慶雲院栄山道春大居士
官位 従五位下正五位下左近衛中将
従四位下、贈従一位左大臣
幕府 室町幕府第7代征夷大将軍
(在任:1442年 - 1443年)
氏族 足利氏足利将軍家
父母 父:足利義教、母:日野重子
兄弟 義勝政知義政義視

足利 義勝(あしかが よしかつ)は、室町時代中期の室町幕府第7代将軍(在任:1442年 - 1443年)。6代将軍足利義教嫡男

目次

[編集] 生涯

生まれてすぐに政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されたが、嘉吉元年(1441年)に嘉吉の乱が起こり、父が赤松満祐暗殺されたため室町殿へ移され、翌嘉吉2年(1442年)に管領細川持之らに擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となった。義勝は幼年で政治能力が無いため持之が実権を掌握、彼の死後は畠山持国山名持豊や生母の日野重子らが実権を握り、嘉吉の乱を起こした満祐の討伐、嘉吉の徳政一揆などを平定した。

嘉吉3年(1443年)6月19日には、義教への弔意を伝えるために来日した朝鮮通信使と会見している(『康富記』)。しかし、同年7月21日に死去。享年10(満9歳没)。在任わずか8ヶ月であった。死因は落馬、暗殺など諸説があるが、赤痢による病死が有力であるとされている。後任の将軍には同母弟で8歳の義政が選出された。

義勝、義政と幼少の将軍が2代続いたことから、朝廷や有力守護大名の幕政への関与が続き、将軍の権威が大きく揺らぎ始めることになった。

墓所は安国寺慶雲院にあったとされるが、焼失したため現存せず、遺骨等も所在不明となった。木像は等持院に現存している。

[編集] 官歴

[編集] 偏諱を受けた人物

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語