細川勝之

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細川 勝之(ほそかわ かつゆき、生没年不詳)は、室町時代武士細川氏一族の野州家出身で、応仁の乱において東軍の大将となった細川勝元猶子。実父は細川教春(勝元の再従兄弟)で生母は不詳。弟に細川政春。子に湯浅宗正(実名)の「勝之」は、養父・勝元と同じく将軍足利義勝から偏諱(「勝」の字)を賜って名乗ったものと思われる。

生涯[編集]

応仁の乱では養父の指揮する東軍の武将として奮戦した。相国寺の戦いでは、安富元綱らと共に3,000人の兵士を率いて西軍の進撃を防衛。しかし、大内氏土岐氏畠山氏一色氏らの軍勢によって大苦戦を強いられ、最終的には撤退する。その際、重傷を負った勝之は、家臣の湯浅宗武の命を懸けた護衛で救われ、逃げ延びた。自身を逃して討ち死にした宗武の忠義に感激した勝之は、宗武の妹を妻とし、その間に生まれた子(宗正)を湯浅氏養子とした。

一時は勝元から京兆家の家督を譲られる地位にあったが、山名氏との血縁を重視する家臣たちの反発を受けた。文明4年(1472年)1月の応仁の乱講和の際は、東軍内の対山名氏穏健派と激しく対立した。翌文明5年(1473年)の勝元の死後、家督は勝之ではなく実子の政元が継承した。後に政元の死後に京兆家当主となった細川高国は甥に当たる。