土佐国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
令制国一覧 > 南海道 > 土佐国
-土佐国
-南海道

土佐国(とさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に位置する。別称は土州(どしゅう)。領域はほぼ現在の高知県にあたる。『延喜式』での格は中国遠国

目次

[編集] 「土佐」の名称と表記

古くは「都佐」と書かれた。また、平安時代までしばしば「土左」とも書かれた。

[編集] 沿革

  1. 7世紀都佐(とさ)国造と波多国造の領域をあわせて建てられた。
  2. 1876年明治9年)2月25日伊豫国宇和郡沖ノ島、姫島、鵜来島を幡多郡へ編入する。

[編集] 国内の施設

[編集] 国府

長岡郡に所在した。現在の南国市比江で遺跡が発掘されている。紀貫之が国司を勤め、『土佐日記』において在任期間の事柄が記されている。

土佐国府については、1977年昭和52年)~1990年平成2年)間に、計25次の発掘調査が行われたが、まだ国府中心部の様相や全体的な官衙配置を確定するまでには至っていない。南国市比江付近にあったことは間違いないと見られている。

[編集] 国分寺・国分尼寺

元々の国分寺は、現在四国八十八カ所第29番霊場になっている国分寺(真言宗智山派)と同じ場所にあった。東大寺式伽藍配置であったと推定されている。推定規模は一辺約150メートルと考えられている。国分寺の下層から郡司などの豪族館などの古い施設が発掘されている。平安時代後半に金堂などが焼失し、その後は衰退した。

[編集] 神社

延喜式神名帳』には、大社1座1社・小社20座20社の計21座21社が記載されている。大社1社は以下に示すもので、名神大社ではない。

総社一宮以下は次の通り。

[編集] 安国寺利生塔

  • 利生塔 - 最御崎寺(室戸市室戸岬町)。最御崎寺が安国寺であったとする説もある。

[編集]

[編集] 歴史

「土佐」(土左)の記述は『日本書紀』に見え、天武4年3月(675年)の条項に「土左大神以神刀一口、進于天皇」とある。また天武13年(684年)には「土左国田苑五十余万頃、没為海」、「土左国司言、大潮高騰、海水飄蕩、由是運調船多放失焉」と白鳳地震における地変や津波により調を運ぶ船が流失したことを国司が報告する記事があり、律令制が敷かれ国司が派遣されていたことを示すものである[1]

古くは流刑地の一つであった。『日本書紀』の天武5年9月(676年)の条項に「筑紫大宰三位屋垣王、有罪、流于土左」と見える。平安時代末期、源義朝の五男で頼朝の同母弟 希義が流されて、兄の挙兵の折に自らも立ち、鎮圧されている。またこの他にも紀夏井藤原師長土御門天皇尊良親王流人として土佐の土を踏んでいる。鎌倉時代に入ると摂関家一条家が幡多郡に幡多荘を置き、戦国時代まで同家の支配が続くことになる。

室町時代細川氏守護を務め、後には室町幕府管領を輩出した京兆家の当主が守護を兼ねる国となったが、戦国期には土佐七雄(土佐七豪族とも)である本山氏安芸氏一条氏吉良氏津野氏長宗我部氏香宗我部氏などの勢力が拮抗したが、長宗我部元親が土佐を統一し、やがて四国の大半を支配下に治める。その後、長宗我部氏は豊臣秀吉の四国征伐によって土佐一国のみを安堵される。

元親の四男盛親関ヶ原の戦いで西軍に与したことから改易され、山内一豊の入部以降、江戸時代を通じて山内氏が土佐一国を支配した。主に在地武士は郷士として遇されたものの、旧来の山内家臣で構成される上士階級との対立が長く続き、この構造は明治維新までしこりを残した。幕末期には、四賢侯の一人と賞された藩主山内容堂をはじめ、土佐勤王党で知られる武市半平太坂本龍馬中岡慎太郎望月亀弥太岡田以蔵等の志士を輩出している。明治後、高知県となった。

[編集] 国司

この節は執筆の途中です この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています

[編集] 土佐守

[編集] 土佐介

[編集] 守護

[編集] 鎌倉幕府

[編集] 室町幕府

[編集] 戦国大名

[編集] 江戸時代の藩

[編集] 土佐国の合戦

[編集] 武家官位としての土佐守

[編集] 参考文献

  1. ^ 高知市 『高知市史 上巻第一篇 古代・中世』 1958年

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語