岡田以蔵

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岡田 以蔵(おかだ いぞう、天保9年1月20日1838年2月14日) - 慶応元年閏5月11日1865年7月3日))は、江戸時代末期土佐藩郷士志士司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末の四大人斬りの一人。

生涯[編集]

土佐国香美郡岩村(現高知県南国市)に二十石六斗四升五合の郷士岡田義平の長男として生まれる。弟に同じく勤王党に加わった岡田啓吉がいる。嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備のために父・義平が藩の足軽として徴募され、そのまま城下の七軒町(現在の高知市相生町)に住むようになり、以蔵自身はこの足軽の身分を継いでいる。

武市瑞山(半平太)に師事し、はじめ小野派一刀流(中西派)麻田直養(勘七)剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山に従い江戸に出て、鏡心明智流剣術を桃井春蔵の道場・士学館で学ぶ。翌年、土佐に帰る。

万延元年(1860年)、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬、島村外内らと共に中国、九州で武術修行を行う。その途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に以蔵の滞在と、後日、藩士江戸行の便ができたとき随行させてもらえるよう頼んだ。武市と別れ、以蔵のみ岡藩にとどまり直指流剣術を学ぶ。文久元年(1861年)、江戸に出て、翌年土佐に帰る。その間、武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。

これ以降、土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。 また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。 越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力長野主膳安政の大獄を指揮した)の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた(村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた)。 このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩田中新兵衛と共に恐れられたと言われる。しかし同時代の史料では同志から「天誅の名人」と呼ばれても、「人斬り」という呼称が使われた形跡は確認できない。一般的に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、創作物によって「人斬り」の名が定着したものである。

以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩、その後八月十八日の政変で土佐勤王党は衰勢となる。脱藩後の以蔵は、土佐勤王党員の記録から長州藩邸の世話になっていたと推察される。その後、酒色に溺れて同志から借金を繰り返し、同志と疎遠になった後は一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に行っていたという逸話が残っているが、いつしかその龍馬らにも見放され、無宿者となるほど身を持ち崩した。元治元年(1864年)6月頃、犯罪者として幕吏に捕えられ入墨のうえ京洛追放、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。土佐藩では吉田東洋暗殺・京洛における一連の暗殺に関して首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていた。以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく拷問に屈して自分の罪状及び天誅に関与した同志の名を白状し、土佐勤王党の獄崩壊のきっかけとなる。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首獄門となった。享年28。

君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空

—岡田以蔵の辞世の句(保古飛呂比 佐佐木高行日記[1]より)

墓所は高知県高知市薊野駅近郊の真宗寺山(しんしゅうじやま)にある累代墓地。宜振の名で埋葬されている。

人物像[編集]

  • 以蔵については同時代資料も本人の書簡なども乏しいが、その性格・事跡については土佐勤王党関係の史料によって断片的に窺うことが出来る。
  • 以蔵の容姿に関して、土佐の牢番から「歯の反った奴(出っ歯)」と述べられている。
  • 現存する血盟書の写しからは以蔵を含め吉村虎太郎や池内蔵太らの名前が削られている。これは瑞山が容堂に血盟書を提出する際、脱藩者や見せるのに差し障りのある人物の名前を省いたものだと考えられる。
  • 着牢時、以蔵が長州藩や吉村の事について牢番に大声で自慢話をしている様子が聞かれている。
  • 投獄後の以蔵は、拷問により暗殺に関与した仲間等を次々に自白し、これが土佐勤王党崩壊の端緒となる。以蔵の自白が引き金となり、まだ捕らえられていなかった同志が次々と捕らえられて入牢した事[2]、吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であった事から、同志はお家騒動への発展を恐れ以蔵毒殺計画が仲間内で相談される。しかし強引な毒殺は瑞山や島村寿之助らが止め、以蔵の弟で勤王党血盟者である啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に連絡を取らせる。これらの遣り取りの間に、瑞山の弟・田内衛吉は拷問に耐え切れず兄に毒薬の手配を頼み自害、島村衛吉は拷問死。獄中書簡に依ると、結局以蔵に毒は送られることなく結審を迎えたと考えられている[3]。慶応元年3月25日岡本次郎書簡武市瑞山宛では以蔵に関して「是迄の不義、血を出して改心」と伝えており、自白を反省していた様子が伺える。
  • 『土佐偉人伝』によれば、同囚中の志士・檜垣直枝が自白した以蔵を励まし「拷問の惨烈なるは同志皆はじめから期するところなり、子その痛苦に忍ぶあたわざれば、速やかにその罪を自白して、早く死地につけ、必ず同志の累をなすなかれ」と説得に当たり以蔵はこれにより慚憤したとなっている。
  • 以蔵は死刑言い渡しの際、瑞山によろしく伝えて欲しいと牢番に伝言を頼んだ。しかし、瑞山の手紙ではその厚顔無恥ぶりを呆れられている。なお勤王党の獄で以蔵の自白により真っ先に犠牲になった者は、武市の身内であった。
  • 『土佐偉人伝』(寺石正路)には「天資剛勇にして武技を好み、躯幹魁偉にして偉丈夫たり。宜振、はじめ勇にしてあと怯なり。人みなこれを惜しむ。武市瑞山もまたその粗暴にして真勇なきをもって大事を謀らず、しかも少壮殺人を嗜みて人を斬る草の如く。その挙、おうおう常軌を逸す(中略)末路、投獄同志みな鉄石漢にして拷問の惨苦なるも忍んで一言を発せず、しかるに宜振、独りその苦痛に忍びず罪案を白状し累を同志に及ぼし遂に勤王の大獄を羅織せしは遺憾というべし」と書かれている。
  • 『維新土佐勤王史』には「血気の勇はついに頼むに足らず、全く酒色のために堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、その乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」とある。
  • 以蔵が所有していたと見られるピストルが以蔵の弟啓吉の子孫の家に伝わっている。高知県立坂本龍馬記念館の説明によればこれはフランス製で、勝海舟より贈られた物だという。ちなみに「ピストル」とは公開の折に称されたものだが、厳密にはリボルバーである。なお、当該短銃は個人所有の物を借用し公開された。
  • 以蔵の写真として出回っているものがあるが、その多くは岡田井蔵せいぞうのものである。実際の以蔵をモデルとした写真や肖像は伝存しない。
  • 高知県護国神社にある殉難した志士の為の顕彰碑・南海忠烈碑銘には、土佐勤王党の獄において自白で同志に累を及ぼしたため維新後顕彰を拒まれ、以蔵の名前は無い。

岡田以蔵が関わったとされる暗殺事件[編集]

本間精一郎遭難の地(京都三条木屋町下ル)
井上佐市郎暗殺(文久2年8月2日)
井上佐市郎は土佐藩の下横目(下級警官)で、同年4月8日の吉田東洋暗殺事件を捜査していた。これを危険と見た勤王党では、まず井上を料亭「大与(だいよ、大與とも)」に呼び出して泥酔させ、心斎橋上にて、以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎の4人で、身柄拘束のうえ絞殺、遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てた。岩崎弥太郎は、この事件の際に井上と同行していたが難を逃れている。以蔵らが最終的に捕縛された際、この事件についての取調べもあったといい、実行犯の1人である森田だけが黙秘を貫いたため生き残って戊辰戦争に参戦している。森田は後にこれを五十嵐敬之に話し、五十嵐によって『井上佐市郎暗殺一件』なる記録が残された。
本間精一郎暗殺(文久2年閏8月20日)
本間精一郎越後国出身の勤皇の志士の1人であったが、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩の志士から疎まれ始めていた。そこへ青蓮院宮山内容堂との間で、攘夷督促勅使を巡る争いが持ち上がり、前者を推進する本間と後者を推す勤王党の間で対立が起きたとも、本間が幕府と通じているのではないかと疑われたとも言われる。『伊藤家文書』によると当日、本間は料亭から酔って退出したところを数人の男に取り囲まれて両腕を押さえつけられ、刀と脇差を取り上げられながらも激しく抵抗して格闘し数名を怯ませたものの、わずかな隙にわき腹を刺され、瀕死のところに止めをさされて斬首された(但し異説もあり、屋内にいた人物が本間と刺客が刀で打ち合う「炭をぶつけ合うような」音を聞いたという証言もある)。本間も殺害されたあと、高瀬川へと投げ込まれた。このときの実行犯は以蔵をはじめ、平井収二郎島村衛吉松山深蔵小畑孫三郎弘瀬健太田辺豪次郎、そして薩摩の人斬りこと田中新兵衛であった。
宇郷重国殺害(文久2年閏8月22日)
宇郷重国(うごう しげくに)は官名を玄蕃頭(げんばのかみ)といい、前関白九条家諸大夫であった。安政の大獄の際、同じ九条家の侍臣島田左近と共に志士弾圧を行い、また和宮降嫁推進にも関わったために攘夷派志士からの遺恨を買っていた。島田暗殺(同年7月21日)以来、身の危険を感じた宇郷は居所を転々としていたが、この日は九条家河原町御殿に潜伏しているのを見つかり、寝所を以蔵、岡本八之助、村田忠三郎及び肥後堤松左衛門に急襲された。飛び起きて逃げようとしたところを以蔵に斬り倒され、子息も堤によって殺害された。宇郷の首は鴨川河岸に槍に刺し捨札と共に晒された。以上は『官武通記』による記録であるが、実行犯については異説があり、以蔵の加担を疑問視する向きもある。
文吉殺害(文久2年閏8月30日)
文吉(ぶんきち、猿の文吉(ましらの-)とも)は、安政の大獄時に島田左近の手先として多くの志士を摘発した目明しであった。また、島田の高利貸しの手伝いをして金子を法外に得ていた事などから、志士達から強い恨みを買っていた。そのため天誅に参加を希望する者が相次ぎ、籤引きによる人選をしたという話が伝えられる。選ばれた以蔵、清岡治之介阿部多司馬の3人は閏8月30日の夜に文吉を自宅から拉致して三条河原へ連行し、裸にして河原の杭に縛り付けた上で、「斬るのは刀の穢れになる」として細引(細い紐)で絞殺、竹の棒を肛門から体内を貫通させて頭まで通され、更に亀頭を打たれて晒された(かつて文吉が御所の女官を犯して罰されことに対する仕打ちとされる)。文吉は高利貸しの厳しい取り立てを行なっていたことから民衆にも嫌われており、遺体に投石する者もあったという。なお、この際の捨札に「いぬ」と書いたため、ここから権力者の手先となって動く者を指す「○○の犬」という慣用が生まれたという説がある。
四与力殺害(文久2年9月23日)
渡辺金三郎(わたなべ きんざぶろう)、森孫六(もり まごろく)、大河原重蔵(おおがわら じゅうぞう)、上田助之丞(うえだ すけのじょう)の4人はいずれも京都町奉行所与力で、やはり安政の大獄で長野主膳、島田左近らと共に志士摘発を行っており、宇郷や文吉に対する天誅後、標的とされることを避けるために京都から江戸へと転任するところであった。彼らが石部宿まで来た夜、30名を越す浪士の一団が宿場を襲い、人々が騒然とする中、4名は殺害された。捨札には憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処したことに対する天誅であると書かれていた。この襲撃には土佐、長州、薩摩久留米の4藩から複数の志士が参加していたとされる。武市が書き遺した『在京日記』に土佐からの参加者12名が記されているが、以蔵はその中に入っていない。しかし一般には、この襲撃に彼も加わっていたとする見方もある。
平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛生き晒し(文久2年10月9日)
平野屋寿三郎[4](ひらのや じゅさぶろう)、煎餅屋半兵衛(せんべいや はんべえ)は、共に商人ながらこの年5月の勅使大原重徳東下の際に士分となり供をしていたが、収賄や横領などを行ったため評判が悪かった。それがまたこの月の勅使に随行するというので、朝廷の威信失墜を懸念した長州、土佐両藩の志士が団結して天誅を加えることとした。土佐からは以蔵、千屋寅之助五十嵐幾之助らが、長州からは寺島忠三郎らが加わり、手分けして両名を連行して殺害しようとしたが、町人であり家族の助命嘆願もあったために殺害はせず、加茂川河岸の木綿を晒す杭に両名を裸にした上で縛り付け、生き晒しにした。
多田帯刀暗殺(文久2年11月15日)
多田帯刀(ただ たてわき)は、長野主膳の妾村山加寿江(むらやま かずえ、可寿江とも。村山たかとする資料もある)の子で、金閣寺の寺侍であったが、やはり長野と共に安政の大獄において志士弾圧に加わったとして標的にされた。14日夜、島原遊郭近くにある加寿江の家を浪士らが襲撃、寝ていたところを引き出して三条大橋の袂に生き晒しにした。翌晩、大家を脅して連れてこさせた多田を蹴上刑場へ連行の上、殺害。首は粟田口に晒した。加寿江は女ということもあってか殺害こそされなかったが、三日三晩生き晒しにされたという。この襲撃には合計20名が参加し、長州の楢崎八十槌、土佐の小畑孫三郎河野万寿弥依岡珍麿、千屋寅之助らと共に、以蔵も加わっていたとされる。このうち、依岡は大正まで存命して、この事件を語り遺している。
池内大学暗殺(文久3年1月22日)
池内大学は、元々は知恩院門跡に仕えた尊皇派の儒学者であった。条約勅許問題や将軍後継問題などで策謀を巡らせたため、安政の大獄において幕府からの厳しい追及を受けたが、観念して自首したために比較的軽い罪になった。これが尊攘派志士の目に「幕府に寝返った」と映り、狙われた。大学は変名のうえ大阪に潜伏していたが、おりしも大阪に来ていた山内容堂の酒宴に招かれ、その帰りを襲われた。首は難波橋に晒され、耳は脅迫文と共に同月24日に正親町三条実愛中山忠能の屋敷に投げ込まれ、両公卿の辞職を招くこととなった。この事件においては以蔵の名前だけが挙げられ、他に数名居たとされる刺客の正確な人数や構成は伝わっていない(以蔵は関与していないという説もある)。
賀川肇暗殺(文久3年1月29日)
賀川肇(かがわ はじめ)は、公家千種有文の家臣で、安政の大獄の折、島田左近らに協力して志士弾圧に加わったことで狙われた。浪士が自宅に踏み込んできたとき賀川は二階へと逃げ込み隠れていたが、運悪く帰宅した幼い子供が浪士たちに捕われ厳しい詰問を受けるのを見て自ら階下へ降りたところを斬首された。この事件については一般に薩摩の田中新兵衛の犯行であるとされるが、以蔵も田中と共に加わっていたとする説もある。また一方では、姫路藩萩原虎六らによるとする異説もある。

以上9件について、以蔵が関わったとする説が存在する。しかしながら研究者の間では、「この全てについて必ずしも関与していないのではないか」とする説も存在する。一方で、「暗殺が横行した文久2年~元治元年の間には未だに誰の手によるものか判らない(斬奸状により、尊王攘夷派であることだけ判っているものもある)暗殺事件も多く、そうした中にも以蔵が関わった事件があるのではないか」との見方もある。

岡田以蔵が護衛した要人[編集]

勝海舟(文久3年)
勝海舟の自伝『氷川清話』によると、坂本龍馬の口利きで岡田以蔵が勝海舟の護衛を行った。3人の暗殺者が襲ってきたが、以蔵が1人を切り捨て一喝すると残り2人は逃亡した。その際、勝が「君は人を殺すことをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたがよからう」と諭したが、以蔵は「先生それでもあの時私が居なかったら、先生の首は既に飛んでしまつて居ませう」と返した。勝は「これには俺も一言もなかったよ」と述べている。
ジョン万次郎
中浜家の家伝(『中浜万次郎 -「アメリカ」を初めて伝えた日本人-』(中浜博、2005年))によると、岡田以蔵はジョン万次郎の護衛も行っていた。勝が自分の護衛をした岡田の腕を見込んで万次郎の護衛につけたという。万次郎が完成した自分の西洋式の墓を視察しに行った時、4人の暗殺者が万次郎を襲ったが、以蔵はその4人以外に伏兵が2人隠れていることを察知して、万次郎にむやみに逃げず墓石を背にして動かないように指示し、襲ってきた2人を切り捨てた。残った2人は逃亡した。しかし中浜家の家伝によれば墓の完成は慶応の末、岡田は処刑されている筈なのでこの話は創作か誤伝の可能性が高い。また万次郎の護衛をしたと伝わる他の人物の伝承にも誤りがある。

登場するフィクション作品[編集]

創作における人物像の変遷[編集]

  • 岡田以蔵を主人公にした最初の作品は真山青果の『京都御構入墨者』(1953年、未完)、『人斬り以蔵』(1958年)。

 『人斬り以蔵』はマルクス主義に強い関心を持つ青果による純粋な左翼劇であると指摘されており[5]、以蔵が「利用され虐げられる存在」であるかのような実像と異なる被差別的なイメージの由来はこの作品に端を発している。

  • 以蔵の人物像を決定づけたのが司馬遼太郎の『人斬り以蔵』(1964年)である。

 前述の真山の作品の特徴を踏襲している。以蔵に関しては「獄中で毒を送られた以蔵がそれに勘付き、武市らによる自身への毒殺未遂を恨んで自白に及んだ」というエピソードが有名だが、これは司馬遼太郎の創作である。司馬版『人斬り以蔵』では、父は郷士だが以蔵自身は他の同志より身分の低い最貧困層出身で軽んじられ、粗暴で余りにも教養・道徳心に欠けた人物であり、よって汚れ仕事(人斬り)を専門に請け負わざるを得なかったという描かれ方になっている。しかし研究者によると貧民ではなく一般的な郷士の子息としての教育は受けていたこと、天誅は複数の仲間と相談の上で協力し、また天誅希望者が殺到するほど競い合って行っていたことなどが判明している[6]

  • 2010年大河ドラマ『龍馬伝』の放送によるイメージアップを機に、地域の史跡研究会有志などによる、以蔵のための慰霊祭が初めて開催される。

土佐藩出身の志士たちのために各地で慰霊祭が行われていたが、以蔵は自白で同志に累を及ぼしたことで維新後顕彰を拒否されており、加えて現在に至るまで人斬りやテロリストとしての負のイメージがつきまとい、慰霊祭は行われてこなかった。なお『龍馬伝』内における以蔵は、武市に従順な性格で、拷問に耐え最後まで自白しないなど、比較的好人物として描かれている。

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

テレビアニメ[編集]

ラジオドラマ[編集]

舞台[編集]

小説・伝記[編集]

  • 『人斬り以蔵』(司馬遼太郎同名短編集所収、新潮文庫、1964年)ISBN 9784101152035
  • 『以蔵の指』(羽山信樹短編集『幕末刺客列伝』所収、角川書店、1985年)ISBN 9784041621073
  • 『切腹しなかった殺人鬼・岡田以蔵』(南条範夫『日本よもやま歴史館』所収、天山文庫(大陸書房)、1990年)ISBN 9784803327960
  • 『異端の殺し屋』(邦光史郎同名短編集所収、光文社、1992年)ISBN 9784334715540
  • 『剣鬼・岡田以蔵‐幕末人斬り伝』(峰隆一郎、大陸書房、1992年)‐他に飛天出版、青樹社、徳間書店などより発行
  • 『武市瑞山と岡田以蔵』(戸部新十郎『日本剣豪譚(維新篇)』所収、毎日新聞社、1992年)
  • 『岡田以蔵-歴史の闇を駆け抜けた人斬りの悲惨』(日本テレビ放送網『知ってるつもり?!』第9巻所収、1993年)ISBN 9784820393009
  • 『以蔵は死なず』(桑原譲太郎、徳間書店、1993年)ISBN 9784198500030
  • 『以蔵よ、明日はあるか』(桑原譲太郎、電子書籍館 桑原譲太郎の世界)
  • 『魔剣』(森村誠一、角川書店、1994年)ISBN 9784047702257
  • 『陋巷の狗』(森村南、集英社、1996年)ISBN 9784087742442
  • 『落日の兇刃』(峰隆一郎他による時代アンソロジー、祥伝社、1998年)ISBN 9784396326494
  • 『斬奸刀』(安部龍太郎、『運命の剣のきばしら』所収、PHP文庫、1999年)ISBN 9784569572437主体は鎌倉時代に作られた刀で、幕末に以蔵の手に渡る。
  • 『人斬り以蔵-土佐藩郷士・岡田以蔵』(童門冬二短編集『夭折幕末維新史』所収、2000年)ISBN 9784769809821
  • 『日本暗殺総覧‐この国を動かしたテロルの系譜』(泉秀樹、ベストセラーズ、2002年)ISBN 9784584120422
  • 『暗殺』(早乙女貢、集英社、2002年)
  • 『幕末暗殺』(黒鉄ヒロシ、PHP研究所、2002年)ISBN 9784569577005
  • 『逃げた以蔵』(西村望、祥伝社、2003年)ISBN 9784396331030
  • 「決闘その4『異質の暗殺剣』 - 沖田総司VS岡田以蔵」(巨椋修『小説・剣豪もし戦わば!?』所収、コアラブックス、2004年)ISBN 9784860970765剣豪同士の架空の戦闘を想定した小説。岡田以蔵は新選組沖田総司と対戦する。人物紹介も収める。
  • 『殺人鬼岡田以蔵の最期』(南条範夫、歴史を旅する会『幕末テロリスト列伝』所収、2004年)ISBN 9784062739856
  • 『殺しのライセンス-岡田以蔵』(野口武彦『大江戸曲者列伝(幕末の巻)』所収、新潮社、2006年)ISBN 9784106101564
  • 番外編・歴史雑学BOOKシリーズ『図解!幕末剣豪伝』(綜合図書、2007年)ISBN 9784915450938
  • 『恋する新選組』(越水利江子、角川つばさ文庫、2009年)ISBN 9784046310200
  • 『雨に添う鬼ー武市と以蔵」秋山香乃、講談社、2010年

CD[編集]

  • 『人斬り以蔵』(真山一郎歌唱集『真山一郎 全曲集』所収、キングレコード、1999年)
  • 『幕末恋華 新撰組』(サイトロン・デジタルコンテンツ株式会社、2005年)

漫画[編集]

ゲーム[編集]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 佐佐木高行著、東京大学史料編纂所編『保古飛呂比 佐佐木高行日記』第2巻 p172
  2. ^ 元治元年8月19日田内衛吉・今村権助書簡島村寿太郎宛「扨岡以過日拷問の節様々の事共口外仕り存掛なき人数々獄入りに相成り~」
  3. ^ 『武市半平太と土佐勤王党』(横田達雄
  4. ^ 松岡[2014:76-77]によると名前は重三郎とされている。なお、同書に生き晒しの図がある。
  5. ^ 『真山青果全集 第8巻』(真山青果
  6. ^ 『武市半平太と土佐勤王党』(横田達雄

参考文献[編集]

  • 『陸軍省大日記・壱大日記・明治21年「壹大日記 壹」』、「高知藩殉難士合祀の件」、防衛省防衛研究所、アジア歴史資料センター(ref.C03030356500)
  • 『正伝 岡田以蔵』 2014年 松岡司 戎光祥出版社 ISBN 978-4-86403-102-8

関連項目[編集]