吉田東洋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
吉田東洋

吉田 東洋(よしだ とうよう、1816年文化13年) - 1862年5月6日文久2年4月8日)は江戸時代末期武士土佐藩士

父は土佐藩士・吉田光四郎正清、母は吉田正幸の娘。室は藩士後藤正澄の三女。は東洋。幼名は郁助。通称は官兵衛、元吉。は正秋。後藤象二郎は義理の甥にあたる。

生涯[編集]

1816年文化13年)、土佐藩上士・吉田正清(馬廻格・200)の四男として高知城下帯屋町に生まれる。1823年文政6年)、庶兄の早世によって嗣子となる。1837年天保8年)、口論のすえに家僕を無礼討ちしたことから蟄居する。1841年(天保12年)、父正清の死去により家督相続する。

1842年(天保13年)9月に船奉行として出仕し、同年11月には郡奉行に転じて民政に携わる。藩主山内豊熈の進める藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」設立を進言する。1845年弘化2年)に病により無役となったが、人事や法令改正、海防等の意見書である『時事五箇条』を提出する。

1847年(弘化4年)には船奉行として再出仕する。

1848年8月23日嘉永元年7月25日)、妻の兄弟後藤正晴が病死すると、その遺児 後藤保弥太(のちの後藤象二郎)を父親代わりになって養育する。

1848年(嘉永元年)12月、藩主豊熈の死去に伴って無役となる。1851年(嘉永4年)には近畿地方上方)を遊歴し、伊勢国漢学者斉藤拙堂京都梁川星巌頼三樹三郎らに会して見聞をひろげた。

1853年(嘉永6年)7月、藩主山内容堂によって大目付に抜擢され、12月には参政として強力に藩政改革を主導した。1855年(安政3年)3月、参勤交代に伴って江戸へ出府して藤田東湖塩谷宕陰安井息軒らと親交を結ぶが、酒宴における旗本殴打事件を引き起こして罷免される。さらに家禄を150石に減らされたうえ、帰郷して隠居を余儀なくされた。帰郷後は高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎乾退助福岡孝弟岩崎弥太郎等の若手藩士に教授するが、やがて、彼らが「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。

1857年(安政4年)12月に赦免された吉田は、新知150石役高300石を給され、翌年1月には参政として藩政に復帰する。法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。然し、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、1862年5月6日文久2年4月8日)、帰邸途次の帯屋町にて土佐勤王党の那須信吾大石団蔵安岡嘉助によって暗殺された。享年47。この時、息子の正春はわずか11歳であった。2年後に母も病死して孤児となったため、後藤象二郎が引き取って育てた。

家族[編集]

吉田家は、藤原北家俵藤太秀郷の支流に出る。土佐国長岡郡江村郷の吉田城を本貫として氏と為した香美郡夜須城主の吉田備後守重俊の孫の吉田俊政(孫助)が直接の先祖である。戦国時代は、長宗我部元親に仕えた。土佐在郷の名家ゆえ山内一豊の入国後は、一豊から三顧の礼を以って仕官を勧められ、土佐藩上士として迎え入れられた吉田正義(市左衛門)の嫡流の子孫にあたる。

逸話[編集]

  • 酒宴の際、山内容堂が家臣に「俺が武将であれば、誰に似ておるか」と尋ねた。家臣が「畏れながら毛利元就」と答えると、容堂は寂しそうに「東洋ならば、織田信長と答えただろう」と言ったとされる。
  • 剣術は、一刀流大石神影流を学んでいる。
  • 暗殺前、吉田は城内にて藩主山内豊範とともに『信長公記』を聴講したが、内容は織田信長が殺害される本能寺の変の段であったことが、のちに吉田暗殺との因果がうかがわせる。

関連する作品[編集]

映画
漫画
小説
TVドラマ

関連項目[編集]

先代:
吉田正清
土佐吉田氏
1841年 - 1862年
次代:
吉田正春