毛利元就

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毛利 元就
Motonari Mouri02.jpg
毛利元就寿像/山口県豊榮神社
時代 戦国時代
生誕 明応6年3月14日1497年4月16日
死没 元亀2年6月14日1571年7月6日
改名 松寿丸(幼名)→元就
別名 通称:少輔次郎
渾名:乞食若殿、謀神
戒名 洞春寺殿日頼洞春大居士
墓所 大通院安芸吉田)、洞春寺(安芸吉田、後に
官位 従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守、贈正一位
主君 尼子経久大内義隆
氏族 毛利氏
父母 父:毛利弘元 母:福原広俊
兄弟 興元元就北就勝相合元綱見付元氏、女(武田氏室)
正室:妙玖吉川国経女)
側室:乃美大方三吉氏三吉隆亮妹)、中の丸
隆元吉川元春小早川隆景穂井田元清元秋出羽元倶天野元政末次元康秀包二宮就辰、女(夭折)、五龍局宍戸隆家室)

毛利 元就(もうり・もり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名本姓大江氏家系大江広元の四男 毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。寒河江氏などは一門にあたる。家紋は一文字三星紋。

安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、通称少輔次郎(しょうのじろう)。

安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。

生涯[編集]

家督相続[編集]

毛利家の家紋。

明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。

明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。松寿丸はその哀れな境遇から「乞食若殿」と貶されていたという。この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可を貰って松寿丸は元服。多治比丹比元就を名乗って分家を立て、多治比(「たじひ」だが地元では「たんぴ」と読む)殿と呼ばれるようになった。

永正13年(1516年)、長兄・興元が急死した。死因は酒毒であった。父・兄を酒毒でなくしたため、元就は酒の場には出ても自らは下戸だと口をつけなかったという。家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぐが、幸松丸が幼少のため、元就は叔父として幸松丸を後見する[1]。毛利弘元、興元と2代続く当主の急死に、幼い主君を残された家中は動揺する。毛利家中の動揺をついて、佐東銀山城主・武田元繁が吉川領の有田城へ侵攻。武田軍の進撃に対し、元就は幸松丸の代理として有田城救援のため出陣する。元就にとっては毛利家の命運を賭けた初陣であった。

安芸武田氏重鎮であり、猛将として知られていた武田軍先鋒熊谷元直率いる軍を元就は撃破し、熊谷元直は討死。有田城攻囲中の武田元繁はその報に接するや怒りに打ち震えた。一部の押さえの兵を有田城の包囲に残し、ほぼ全力で毛利・吉川連合軍を迎撃し、両軍は激突する。戦況は数で勝る武田軍の優位で進んでいたが、又打川を渡河していた武田元繁が矢を受けて討死するに至り、武田軍は混乱して壊滅。安芸武田氏は当主の元繁だけではなく、多くの武将を失い退却する。この有田中井手の戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の勢力拡大の分水嶺となった。そしてこの勝利により、安芸国人「毛利元就」の名は、ようやく世間に知られるようになる。この戦いの後、尼子氏側へ鞍替えした元就は、幸松丸の後見役として安芸国西条の鏡山城攻略戦(鏡山城の戦い)でも、その智略により戦功を重ね、毛利家中での信望を集めていった。

詳細な時期は不明であるが、この頃に吉川国経の娘(法名「妙玖」)を妻に迎える。27歳で長男の隆元が生まれているので、初陣から27歳までの間で結婚したと言われているが、戦国武将としては初陣も遅ければ、結婚も遅い方である。

甥の毛利幸松丸が大永3年(1523年)にわずか9歳で死去すると、分家の人間とはいえ毛利家の直系男子であり、家督継承有力候補でもあった元就が志道広良ら重臣達の推挙により、27歳で家督を継ぎ、毛利元就と名乗ることになった。しかし、家臣団の中では元就か元綱か、それとも尼子氏から当主を入れるかで大いに揉めていたため、元就は家督を継ぐことを初め辞退した。そのため重臣達は元就を当主として認めると連署状を作り、それを確認して元就はようやく家督を継ぐことを承諾した。しかし、それでもなかなか城に入ろうとしなかったため、妻の妙玖が満願寺の住職に城に入る日取りを占ってもらい、8月10日に元就夫婦は、吉田郡山城に入城した。当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱」と詠み、あくまで自分は分家の身であるからと謙遜した歌を詠んだ。

しかし、それでも元就の継承に不満を持った坂氏渡辺氏等の有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して謀反を起こしたが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。ただし、元綱は異母弟とはいえ兄弟仲は良かったと伝わっており、元綱は尼子氏の計略に乗ったことを恥じて憤死したという説もある。

元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれており、この事件は元就の心に深く残ったらしい。また、元綱を亡くした寂しさから、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。

なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。驚いた元就は児玉就忠を遣わして説得したが、桂元澄は応じなかったため、元就自らが桂城に単身乗り込み、元澄を説得して許したという。なお。この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引き分けの際に隆元が元澄に、元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしいと要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。

勢力拡大[編集]

家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れたが、高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害されたと言われるがそれを裏付ける一次史料はない。天文4年(1535年)には、隣国の備後の多賀山城の多賀山如意を攻め、降伏させた。

一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。元就が宍戸氏との関係を深めたのには父・弘元の遺言があった。元就が後年手紙で、「父・弘元は宍戸氏と仲をよくしろと言い遺されたが、兄の興元の時は戦になってそのまま病でなくなってしまい、父の遺言は果たせなかった。しかし、それは兄はまだ若かったからしかたなかったことだ。だが、元源殿はなぜか自分の事を気に入って下さって水魚の交わりのように親しくつきあってくださった。」と述べている。元就は宍戸元源の方から親しく思ってくれたとしているが、実際は宍戸氏とも争っていた高橋氏の旧領の一部を譲る等、積極的に働きかけていた。宍戸家家譜によると正月に数人の伴を引き連れて元就自身が宍戸氏の五龍城を訪れ、元源と馬が合ったため、そのまま2人で枕を並べて夜遅くまで語り合い、その中で元源の孫の隆家と娘(後の五龍)との婚約が決まったと伝わる。なお、宍戸隆家は生まれる前に父を亡くしており、母の実家の山内家で7歳まで育ったため、宍戸氏と誼を結ぶことで山内氏とも繋がりができた。前述の渡辺氏の生き残りである渡辺通が許されて毛利家に戻って元就に仕えたのもこの頃と考えられている。

その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。毛利家中においても、天文元年(1532年)に家臣32名が、逃亡した下人らを匿わずに人返しすることなどの3カ条を守り、違反者は元就が処罰するという起請文を連署して捧げている。

天文2年(1533年9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。元就は義隆を通じて4,000を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。また天文6年(1537年)には、長男の毛利隆元を人質として、大内氏へ差し出し、関係を強化した。

天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。

天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。安芸武田氏はこれにより滅亡した。また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。

天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。

天文13年(1544年)、元就は手始めに強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸(後の小早川隆景)を出した。小早川家には元就の姪(兄・興元の娘)が嫁いでおり、前当主の興景は吉田郡山城の戦いで援軍に駆けつけるなど元就と親密な仲であった。天文10年、興景が子もなく没したため、小早川家の家臣団から徳寿丸を養子にしたいと要望があったが、徳寿丸がまだ幼いことを理由に断っている。一説には妙玖が手放したくなかったためとも言われている。しかし、当主不在のまま何度か戦があり、困った小早川家家臣団は今度は大内義隆に、元就が徳寿丸を小早川家へ養子に出すように頼みこんだ。元就も義隆の頼みを断ることはできず、興景没後3年経ってようやく徳寿丸は小早川家へ養子へ行った。なお、興景を失った竹原小早川氏に対しては、備後神辺城主である山名理興(尼子派)が天文12年に攻め寄せたため、大内軍と共に毛利軍も救援に赴いている。6年後の神辺城陥落(神辺合戦)まで戦いは続いたが、この陣中で徳寿丸は元服して隆景を名乗るようになった。一方同年には、備後三吉氏へ遠征に出た尼子軍を撃退すべく、児玉就忠福原貞俊を派遣したが敗北している(布野崩れ)。ただし、三吉軍の夜襲が成功したため、最終的に尼子軍は退却した。

天文14年(1545年)、妻・妙玖と養母・杉大方を相次いで亡くしている。特に妙玖が亡くなった時には3日間部屋に籠ったままでてこなかったと伝わるが、後に手紙で「近頃妙玖のことばかり思い出されてならない」「妙玖が生きていれば・・・」「内をば妻を以て治めというが本当にその通りだと思う」と書いており、妻を追慕する気持ちが溢れている。また春霞集にも「問かしな 契しままの 我心 程はふるとも いかてわすれむ」という亡妻を懐かしむ歌を残している。

天文15年(1546年)、元就が隠居を表明。隆元が毛利家当主となる。ただし、完全に隠居したわけではなく実権はほぼ元就が握っていたため、隆元はこの時は元就の隠居に反対しなかった。

天文16年(1547年)、妻・妙玖の実家である吉川家へ元春を送りこむ。当時吉川家当主であった吉川興経は新参の家臣団を重用していたため、吉川経世ら一族や重鎮と対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。そこで反興経派は元就に、吉川国経の外孫に当たる次男・元春吉川氏に養子にしたいと申し出た。元就は初め、元春を子の無かった異母弟・北就勝の養子にする約束があったため断ったが、吉川家の再三の要求に応じて元春を養子に出した。一方、吉川家当主の吉川興経は家臣団によって強制的に隠居させられた。隠居させられた興経は、吉川家家臣団との約束で吉川氏の領内に隠居させる予定であったが、元就は興経派らの動きを封じるため興経を深川に移した。それでも興経派へを警戒していた元就は吉川家の当主となった元春をなかなか吉川家の本城へ送らなかった。

因みに吉川家相続前に元春は熊谷信直の娘と独断で婚約を結び、元就は熊谷信直へ侘びの手紙と「あいつは犬ころの様なやつだが息子をどうかよろしく頼む」と一言書いている。元春夫婦は結婚後も、吉川家相続の後も吉田郡山城におり、長男の元資(元長)が生まれてもまだ吉田郡山城に留まっていた。元春が吉川氏の本城に入るのは、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を元就の命で熊谷氏が殺害してからである。

一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。

これにより安芸石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸備後瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。

天文18年(1549年)2月、元春と隆景を伴い山口へ下向する。この時大内家は陶隆房を中心にした武断派と相良武任を中心とした文治派で対立が起こっていた。また、当主の大内義隆は月山富田城で負けて以来、戦に関心を持たなくなっていた事もあり、不満に思っていた陶隆房が山口下向中に元就達の宿所に何度か使いをやっている。なお、元就はこの山口滞在中に病気にかかったようで、そのため逗留が3カ月近くかかり、吉田に帰国したのは5月になってからである。なお、この時元就を看病した井上光俊は懸命に看病したことで隆元から書状を貰っている。

天文19年(1550年)7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。が、井上一族を全て殺したわけではない。先の井上光俊のように看病してもらった者や、井上一族の長老である光兼は元就が太陽を拝むきっかけとなった客僧を招いた屋敷の主であったことなど恩があるものは助命しており、主だった30名のみ処分している。元就自身はこの誅伐に関して手紙で、幼いころに所領を横取りされたことなど積年の恨みつらみを書きしたためているが、家臣を切るのは自分の手足を切るような悪い事であるから決してしてはならないことであると隆景に宛てて書いている。

厳島の戦い[編集]

天文20年(1551年)、防長両国の大名大内義隆が家臣の陶隆房の謀反によって殺害された大寧寺の変がおこる。元就は当初、隆房と誼を通じて佐東銀山城桜尾城を占領し、その地域の支配権を掌握した。

隆房も元就の協力なくして大内領支配は不可能と考えて元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えた。これを背景として徐々に勢力を拡大すべく安芸国内の大内義隆支持の国人衆を攻撃。平賀隆保の籠もる安芸頭崎城を陥落させ隆保を自刃に追い込み、平賀広相に平賀家の家督を相続させて事実上平賀氏を毛利氏の傘下におさめた。1553年には尼子晴久の安芸への侵入を大内氏の家臣、江良房栄らとともに撃退した。

この際の戦後処理のもつれと毛利氏の勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は、元就に支配権の返上を要求。元就はこれを拒否したため、徐々に両者の対立は先鋭化していった。そこに石見吉見正頼が隆房に叛旗を翻した。隆房の依頼を受けた元就は当初は陶軍への参加を決めていたが、陶氏への不信感を抱いていた元就の嫡男・隆元の反対により出兵ができないでいた。そこで隆房は、直接安芸の国人領主たちに出陣の督促の使者を派遣した。平賀広相からその事実を告げられた隆元や重臣達は、元就に対して(安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えるとした)約束に反しており、毛利と陶の盟約が終わったとして訣別を迫った。ここに元就も隆房との対決を決意した。(異説として、元就は当初から陶氏との訣別も視野に入れていたとされる。それをこの段階まで露わにしなかったのは、陶氏への不信感を抱く隆元達の行動によって毛利氏全体の意見が陶氏からの離反で固まるのを待っていたからだとも言われている)

しかし、陶隆房が動員できる大内軍30,000以上に対して当時の毛利軍の最大動員兵力は4,000~5,000であった。正面から戦えば勝算は無い。更に毛利氏と同調している安芸の国人領主たちも大内・陶氏の圧迫によって動揺し、寝返る危険性もあった。そこで元就は得意の謀略により大内氏内部の分裂・弱体化を謀る。

天文23年(1554年)、出雲では尼子氏新宮党尼子国久誠久らが尼子晴久に粛清されるという内紛が起こった[2]。尼子氏が新宮党を粛清の最中、陶晴賢(隆房より改名)の家臣で、知略に優れ、元就と数々の戦いを共に戦った江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造し、晴賢自らの手で江良房栄を暗殺させた。(異説として、江良房栄は当初から毛利氏に内応しており、その事実をわざと元就が晴賢に明かした、というものもある。実際隆元は、房栄は命を助けてやるだけでも有難いと思うべきなのに、要求する領地が多すぎると不満を手紙で述べている。)

そして同年、「謀りごとを先にして大蒸しにせよ」の言葉通りに後顧の憂いを取り除いた元就は、反旗を翻した吉見氏の攻略に手間取っている陶晴賢に対して反旗を翻した。晴賢は激怒し即座に重臣の宮川房長に3,000の兵を預け毛利氏攻撃を命令。山口を出陣した宮川軍は安芸国の折敷畑山に到着し、陣を敷いた。これに対し元就は機先を制して宮川軍を襲撃した。大混乱に陥った宮川軍は撃破され、宮川房長は討死(折敷畑の戦い)。緒戦は元就の勝利であった。

これにまたもや激怒した陶晴賢は弘治元年(1555年)、今度は自身で20,000の大軍を率いて山口を出発した。途中、重臣の弘中隆兼の反対にもかかわらず、交通と経済の要衝である厳島に築かれた毛利氏の宮尾城を攻略すべく、厳島に上陸した。しかしこれは元就の策略であり、大軍ゆえに身動きの取れない陶軍に奇襲を仕掛け、一気に殲滅したのである。陶晴賢は自刃し、大内氏はその勢力を大きく弱め、衰退の一途を辿っていくことになる。これが後世に名高い日本三大奇襲作戦の一つ「厳島の戦い」である。(この戦の実態については異説もあり、実際はもっと小規模で、両者の戦力は拮抗していたとも言われる。だが厳島神社の神主「棚守房顕覚書」によれば大内方の首が4600ほどで、この頃毛利家の甲冑を着られる人数が1200人前後であったことから、少なくとも3倍は兵力差があったと思われる。実際に従軍した人物が書いた手記には、皆怖くて声をかけあっていたら、いつの間にかそれが鬨の声となって陶軍にかかっていったとある)

弘治2年(1556年)、備前遠征から素早く兵を撤兵させた尼子晴久率いる25,000と、尼子と手を結んだ小笠原長雄が大内方であった山吹城を攻撃。これに毛利氏は迎撃に出るも、忍原にて撃破され石見銀山は尼子氏のものとなる。(忍原崩れ

弘治3年(1557年)、大内氏の内紛を好機とみた元就は、晴賢に傀儡として擁立されていた大内氏の当主義長を討って、大内氏を滅亡に追い込んだ。これにより九州を除く大内氏の旧領の大半を手中に収めることに成功した(防長経略)。

同年、家督を嫡男・隆元に完全に譲ろうとするが、隆元はこれを拒絶。このため元就は、毛利家と両川(吉川家と小早川家)を一喝統御する後見役として、一定の影響力を維持するという院政に近い体制とした。(この後、隆元は内政に専念し、元就が外交と軍事を引き続き主導していく。だが、この疑似院政も隆元の急死によって瓦解。結局、元就は死の直前まで毛利家の実権を握り続けることになる)

永禄元年(1558年)、石見銀山を取り戻すべく毛利元就・吉川元春は小笠原長雄の籠る温湯城を攻撃。これに対して尼子晴久も出陣するが、互いに江の川で睨みあったまま戦線膠着。翌永禄2年(1559年)には温湯城を落城させ山吹城を攻撃するも攻めあぐね、撤退中に城主本城常光の奇襲と本城隊に合流した晴久本隊の攻撃を受け大敗している。(降露坂の戦い

尼子氏・大友氏との戦い[編集]

弘治2年(1556年)以降、尼子氏当主・尼子晴久によって山吹城を攻略され石見銀山の支配権を失っていたが、永禄3年(1560年)にその尼子晴久が死去する。そして尼子氏の晴久急死による動揺もあり、晴久の嫡男尼子義久足利義輝に和睦を願うも、この和睦を元就は一方的に破棄し、永禄5年(1562年)より出雲侵攻を開始する(第二次月山富田城の戦い)。

これに対して晴久の跡を継いだ尼子義久は、難攻不落の名城月山富田城(現在の島根県安来市)に籠城し尼子十旗と呼ばれる防衛網で毛利軍を迎え撃った。しかし永禄6年(1563年)に、元就は尼子氏の支城である白鹿城を攻略。ついに月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込む事に成功する。だが一方で、当主である嫡男、隆元の不慮の死という悲運にも見舞われている。

元就は大内氏に従って敗北を喫した前回の月山富田城攻めの戦訓を活かし、無理な攻城はせず、策略を張り巡らした。当初は兵士の降伏を許さず、投降した兵を皆殺しにして見せしめとした。これは城内の食料を早々に消耗させようという計略であった。それと平行して尼子軍の内部崩壊を誘うべく離間策を巡らせた。これにより疑心暗鬼となった義久は、重臣である宇山久兼を自らの手で殺害。義久は信望を損ない、尼子軍の崩壊は加速してしまう。この段階に至って元就は、逆に粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘ったところ、投降者が続出した。永禄9年(1566年)11月、尼子軍は籠城を継続できなくなり、義久は降伏を余儀なくされた。こうして元就は一代にして、中国地方8ヶ国を支配する大大名にのし上がったのである。

出雲尼子氏を滅ぼした元就であったが、尼子勝久(尼子誠久の子)を擁した山中幸盛率いる尼子残党軍が織田信長の支援を受けて山陰から侵入し、毛利氏に抵抗した。更に豊後大友宗麟豊前の完全制覇を目指しており、永禄11年(1568年)には北九州での主導権を巡る争いの中で、陽動作戦として元就自身によって滅ぼされた大内氏の一族である大内輝弘に兵を与えて山口への侵入を謀るなど、敵対勢力や残党の抵抗に悩まされることになる。毛利氏にとっては危機的な時期ではあったが、元春、隆景らの優秀な息子達の働きにより、大友氏と和睦しつつ尼子再興軍を雲伯から一掃することに成功した。しかし大友と和睦した事により、大内家の富の源泉となっていた博多の支配権を譲る結果になった[3]

稀代の謀将の最期[編集]

1560年代の前半より元就は度々体調を崩していたが、将軍・足利義輝は名医・曲直瀬道三を派遣して元就の治療に当たらせている。その効果もあったのか、元就の体調は一時は持ち直したようで、永禄10年(1567年)には最後の息子である才菊丸が誕生している。

元亀2年(1571年)6月14日、吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75[4]

人物・逸話[編集]

朝倉宗滴による評価
越前朝倉氏の名将、朝倉宗滴は自身の著作『朝倉宗滴話記(続々群書類従所収)』の中において、元就のことを「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、今川殿、甲斐武田殿、三好修理大夫殿、長尾殿、安芸毛利、織田上総介方、関東正木大膳亮方…此等の事」と書いており、今川義元武田信玄織田信長三好長慶らと同等の名将であると評している。[5]
厳島神社への参拝
毛利元就がまだ元服前に家臣と共に厳島神社参拝に行った際に、家臣に祈願の内容を訊ねると、家臣は「松寿丸様が安芸の主になられるよう願いました」と答えた。それに対して元就は「何故天下の主になれるように願わなかったのだ」と言った。家臣は「実現不可能な事を祈願しても意味がありますまい。せいぜい中国地方でござろう」と笑ったが、元就は、「天下の主になると祈願して、やっと中国地方が取れようというもの。まして、最初から安芸一国を目標にしていたのでは、安芸一国すら取れずに終わってしまう」と反論し、自らの理想の高さを示した。しかし、彼は後述のように、年を経るにつれて、天下獲りよりも家名の保全に腐心するようになった。
三本の矢
ある日、元就は三人の息子(隆元・元春・隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るよう命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るよう命じたが、息子たちは誰も折ることができなかった。元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈になるということを示し、三兄弟の結束を強く訴えかけた。この逸話は「三本の矢」として有名。
家臣・周辺国人への気遣い
「元就はいつも餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて親しくしており、家来が旬の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所へ訪れるとすぐに対面して餅か酒のどちらかを上機嫌で振舞った。家来が持ってきた土産はすぐに料理をさせ、酒が飲めるかそれとも飲めないかと尋ね、もし酒が欲しいですと答えたら「寒い中で川を渡るような行軍の時の酒の効能は言うべきでもないが、普段から酒ほど気晴らしになることはない」とまずは一杯と酒を差し出し、もし下戸だと答えれば「私も下戸だ。酒を飲むと皆気が短くなり、あることないこと言ってよくない。酒ほど悪いものはない。餅を食べてくれ」と下々に至るまで皆に同じようにあげていた」(『吉田物語』)
後世に遺された数多くの手紙
元就は筆まめな人物であり、数多くの手紙が残っている。明和4年(1767年)に毛利家で編纂された毛利氏の訓戒集には手紙などに残された元就の小言が30近く羅列されている。また弘治3年(1557年)の隆元ら三兄弟の結束を説いた三子教訓状の紙幅は2.85メートルにもなり、同じような内容が繰り返し記される。吉本健二舘鼻誠など戦国の手紙を研究している人物の多くが「元就の手紙は長くてくどい」と言う意味の事を記している理由である[6]。吉本は元就の手紙を「苦労人であった為かもしれないが説教魔となっている」と評した。

主要な合戦[編集]

政策[編集]

毛利元就

政治体制[編集]

元就が構築した政治体制は領内の国人領主や地方勢力との共生を念頭とした典型的な集団指導体制であり、同年代の他の戦国大名と類似する点が多い。また元就の統治には、三子教訓状百万一心などの標語による家臣・領民の心理的な変革が含まれていた。この点は武田信玄などに通じるものがある。毛利氏の統治の特色として挙げられるのは地方領主の独立性の高さであり、大名(毛利氏当主)による独裁とは程遠い体制だったことである。その詳細は武田氏などと同様に複雑かつ煩雑で把握しにくいが、家中に奉行制度を確立して政務を効率化すると共に、毛利家当主のサポート体制を盤石なものとして政権の基盤構築に成功していたことは確かである。

だが、これは古来の血族支配や、国人・土豪といった守旧的勢力の存在を前提にした良くも悪くも保守的な体制でもあった。特に地方勢力の独立性を認めることは、軍事組織(戦国大名)としての一体性をやや欠き、脆さをも内包することになったからである。この結果、嫡孫・輝元の代には革新的かつ強権的な軍事体制を実現した織田氏との交戦により苦境に陥り、一部国人衆の離反を招いた。また両川(元春・隆景)や穂井田元清など有力な血族が死去した後の関ヶ原の合戦では、家中が東軍派と西軍派に割れて一貫した行動が取れず、結局敗軍の烙印を押されてしまうという醜態を演じた。(これは元来優柔不断な性格だった輝元の不手際によるものであるが、そもそも有力な血族による直接的補佐を必要とした毛利氏の体制から言えば、やむを得ないことであったとも言える。)

にもかかわらず毛利氏が大名として生存を果たせたのは、元就の政治理念と異常なまでの家名存続の意志が、その死後も家中に色濃く残っていたためである(吉川広家の機転など)。後述する毛利両川とそれを筆頭とした奉行らによる集団指導体制の構築、そして「天下を競望することなかれ」という言葉を残したのは、自らの死による体制の変質や時流の変化を見越した判断でもあり、元就の戦国武将としての政治力と洞察力、先見の明は計り知れないものがある。

毛利両川体制[編集]

防長経略の年(1557年)に、元就は長男の毛利隆元に家督を譲って隠居した。しかし隆元が政権の移譲を拒絶したため、実権は元就がなおも握り、吉川元春と小早川隆景による毛利両川体制を確固たるものとしていったのである。隠居に際しての同年11月25日、14箇条の遺訓(いわゆる「三子教訓状」)を作成、家中の結束を呼びかけた。この遺訓が後に「三本の矢」(後述)の逸話の基となったとされている。

続いて同年12月2日、元就以下12人の主だった安芸国人領主[7] が著名な「傘連判状」を結んでいる。これは上下関係を明らかにはせず、彼ら国人領主皆が対等の立場にある事を示している[8]

だが、裏を返せば、当時の毛利氏は井上一族の粛清によってようやく自己の家臣団を完全に掌握したばかりの状態であって、未だに安芸の土豪連合の集団的盟主という立場から完全には脱却できず、実子が当主である吉川・小早川両氏といえども主従関係にはなかったのである。毛利氏がこうした土豪の集団的盟主という立場から脱却して、土豪連合的な要素の強かった安芸国人衆の再編成と毛利家の家臣への編入を通じて、名実ともに毛利氏による安芸統一が完成する事になるのは隆元が安芸国守護に任じられた永禄3年(1560年)頃とされている。

ただし、その後もこうした国人領主は毛利氏との主従関係を形成しつつも、限定的ながら一部においてその自立性が認められていくことになった。こうした直臣家臣団と従属土豪(国人領主)という二元的な主従関係は関ヶ原の合戦後の長州藩移封まで長く続き、その統率が破綻することなく続いたのは毛利氏当主とこれを支える両川の指導力によるところが大きかったのである[9]

朝廷・幕府との関係[編集]

毛利氏は小豪族ではあったが、朝廷との結びつきが強い大内氏と同盟関係にあったことから、元就が当主となる以前から既に中央との政治的な繋がりを持っていたようである。大内氏の滅亡後、1557年に即位した正親町天皇に多大な献資を行い、その即位式を実現させたことにより、以後の毛利氏は更に中央との繋がりを強くすることとなる。(同時期の元就の陸奥守就任、隆元の安芸守護就任などは全てこれら中央政界に対する工作が背景にある。また、これら政治工作の資金源となったのが石見銀山である)

また、その後の尼子氏や大友氏との戦いでは、幕府の仲裁を利用して有利に事を進めている。尼子氏との戦いでは石見銀山を巡って激戦を繰り広げるが、幕府による和平調停を利用して有利な形で和睦。尼子氏が石見銀山に手を出せない状況を作り出して、その支配権を我がものとした(雲芸和議)。また、大友氏との戦いでも幕府は毛利氏に和平を命じているが、これに対して元就は一時黙殺し、状況が有利になってからそれに応じるという機転を見せた。いかに上意であろうと自分に利益をもたらさない命ならば従わず、利になるならばそれを利用するという、元就の狡猾さと政治家らしさがよく現れている対応と言える。

官歴[編集]

※日付=旧暦(明治5年12月2日まで)

  • 1533年天文2年)9月25日、従五位下に叙位。 9月28日、右馬頭に任官。
  • 1560年永禄3年)2月15日、従四位下に昇叙し、陸奥守[10] に遷任。
  • 1561年(永禄4年)12月8日、幕府相伴衆となる。
  • 1562年(永禄5年)5月18日、従四位上に昇叙し、陸奥守如元。
  • 1571年元亀2年)6月14日、卒去。享年75
  • 1572年(元亀3年)、贈従三位。
  • 1908年明治41年)4月2日、追贈正一位。

系譜[編集]

毛利十八将[編集]


毛利氏が支配した主な城[編集]


補注[編集]

  1. ^ 当初は幸松丸の外戚の高橋氏の影響力が強く、実際に毛利本家の実権を握っていたのは高橋久光であったが、久光は備後の三吉氏との戦いで戦死し、その後は元就が後見役として家中を主導した。元就の長女はわずか2歳で高橋氏の人質となっていたと伝わる。
  2. ^ これを元就の謀略であると伝える軍記もあるが、尼子氏が、統率力強化のために自発的に行ったものとと考えられている。詳しくは新宮党の項目参照
  3. ^ しかし大友の立場からすれば、同じく毛利の侵攻に悩まされ危機的な状況に陥り、龍造寺氏や島津氏の勢力伸長を押さえる事ができなかった。
  4. ^ 死後、織田信長より哀悼の使者が遣わされた(歴史群像シリーズ毛利元就 P168参照)。
  5. ^ また、甲陽軍鑑の中には武田信玄の軍師山本勘助が「源義光公の時代以来、この世に戦巧者といえば楠木正成を除いて、他には毛利元就しかおりません」と評した逸話があるが、これに関しては創作の可能性が高い。
  6. ^ 舘鼻誠『戦国争乱を生きる 大名・村、そして女たち』(NHKライブラリー209)ISBN 4-14-084209-1
  7. ^ 元就を基準とすると、時計回りに毛利元就、吉川元春、阿曽沼広秀、毛利隆元、宍戸隆家、天野元定天野隆誠出羽元祐、天野隆重、小早川隆景、平賀広相、熊谷信直の12名。
  8. ^ この「傘連判状」の解釈には異論も存在する。元就が時計の十二時の最も目立つ位置に署名していること、この申し合わせが毛利家に伝わっており、国衆が元就に提出したと見られること、恩賞は一般に主人が部下に与えるものだが、この中の平賀氏は「御恩賞は決して忘れはしません」と書かれた書状が残っている等の理由から、傘連判は多分に形式的なもので、実質的に国衆と家中の間に差はなかったとする意見もある(鴨川達夫 『武田信玄と毛利元就 ─思いがけない巨大な勢力圏』 69-76頁、山川出版社〈日本史リブレット人043〉、2011年 ISBN 978-4-634-54843-5
  9. ^ こうした二元的な主従関係の複雑さから、元就没後の織田氏との戦いでは軍がまとまらず、常に後手に回る醜態を晒した。また関ヶ原以前の毛利氏では分国法が編纂されず、代わりに当主の下に官僚組織を形成することで人的に対応する方針を採った。
  10. ^ 陸奥守は毛利家の祖先である大江広元が就いていた官職

参考文献[編集]

関連作品[編集]

小説[編集]

主人公として登場する小説
脇役で登場する小説
  • 山霧 毛利元就の妻(永井路子)

テレビドラマ[編集]

毛利元就が主人公のテレビドラマ

ゲーム[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]