本能寺の変

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本能寺の変
Honnoj.jpg
「本能寺焼討之図」(明治時代楊斎延一画)
戦争安土桃山時代
年月日1582年6月21日天正10年6月2日
場所山城国本能寺二条城
結果:明智軍の勝利 織田信長・信忠の自刃。
交戦勢力
織田軍Oda emblem.svg 明智軍Tokikikyo.svg
指揮官
織田信長Oda emblem.svg
織田信忠Oda emblem.svg
斎藤利治Nadeshiko inverted.jpg
森成利(蘭丸)Mori tsurumaru.jpg
森長隆(坊丸)Mori tsurumaru.jpg
森長氏(力丸)Mori tsurumaru.jpg
ほか
明智光秀Tokikikyo.svg
明智秀満Tokikikyo.svg
明智光忠Tokikikyo.svg
斎藤利三Tokikikyo.svg
斎藤利光Tokikikyo.svg
安田国継
溝尾茂朝
戦力
100(諸説あり) 1万3000(諸説あり)
損害
不明 不明
  • 明智孫十郎
織田信長の戦い

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年6月21日(天正10年6月2日)、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀謀反を起こして丹波亀山城から引き返し、京都本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデター(事変)である。寝込みを襲われて包囲された信長は脱出を諦めて自害を迫られ、信忠は二条御所に退いて戦ったがやはり自害した。代表的な下克上の1つ。

光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎の1つである。(各説については変の要因を参照)

情勢[編集]

1582年(天正10年)までに、織田信長はを中心とした畿内とその周辺を手中に収め、1582年3月に武田氏を滅ぼした。関東後北条氏東北伊達氏九州地方大友氏は信長に恭順する姿勢を見せており、中国毛利氏北陸上杉氏とは交戦していたが、四国長宗我部氏九州島津氏などとは外交を続けていた。

信長包囲網の一翼を担い一時期信長を苦しめた毛利氏は、織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で勢力を失いつつあった。また上杉氏は上杉謙信亡き後、家督争い(御館の乱)と相次ぐ家臣の反逆によって疲弊しており、かつて関東・越後国から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた神戸信孝が長宗我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田氏が有利な情勢であった。九州は大友氏龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。

近江国安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、下表のように各地の中国遠国へ多くの兵力を派遣していたため、近国の信長周辺の軍勢は手薄であった。武田氏滅亡後は天下統一目前という楽観的な雰囲気があり、畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していた[1]。そこを織田軍の近畿管区隊というべき明智光秀の軍が襲撃したのである。

本能寺の変時点の諸将の動向
武将名 所在 配下軍勢の戦力 できごと 対立勢力 対立勢力の戦力 事変後の対応
(詳細は#本能寺の変後の諸将の動向参照)
明智光秀明智秀満斎藤利三 丹波国山城国 13,000 軍勢を率いて高松城の羽柴秀吉への援軍を名目に進軍中
本能寺の変
- - 織田信長・信忠の殺害に成功するも、山崎の戦いにて羽柴秀吉軍に敗北・死去
織田信長織田信忠 山城国 100 入京し、羽柴秀吉への援軍に向けた自身の出陣準備中
本能寺の変
- - 事変にて横死
羽柴秀吉 備中国 30,000 備中高松城の戦い 清水宗治毛利輝元吉川元春小早川隆景 45,000 即座に和議。中国大返しをして即帰京後、山崎の戦いにて明智光秀を討伐。これで清洲会議の主導権を握る
織田信孝丹羽長秀 和泉国 - 長宗我部氏征討の準備中 - - 四国征討のために集めていた軍勢の多くが逃亡するも、羽柴秀吉との合流には成功
柴田勝家佐々成政前田利家佐久間盛政 越中国 40,000 魚津城の戦い 中条景泰吉江宗信上杉景勝 3,800 上杉軍に勝利するも、反撃を受けすぐに帰京できず。山崎の戦いには不参加
滝川一益 武蔵国 18,000 神流川の戦い 北条氏政北条氏直北条氏邦北条氏規 50,000 北条軍に敗北。山崎の戦いはおろか清洲会議にすら不参加
徳川家康 河内国 34 少数の供回りとともにを逗留中 - - 伊賀越えをして自軍がひかえる岡崎城へ無事帰還するも、自軍を率いての明智光秀討伐には間に合わず

経緯[編集]

明智光秀は、甲州征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会(愛宕百韻)を催した。この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。これは西坊威徳院で詠まれ、発句を詠んだのが明智光秀であるから光秀が主客である。主催者は行祐が脇句を詠んでいるのでこの座の亭主、つまり主催者である。(明智軍記)光秀は元来、土岐の末裔である明智であるので、苗字を時節にかけ、この度本望を達したれば、私が天下を知る(治める)との心情を含めた大事の前の心境を吐露した物と解釈するのが一般的である。(明智軍記)

また、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。明智光秀は重臣斉藤利三等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利三勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。(当代記)家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。(本城惣右衛門覚書)

一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。信長の嫡男・織田信忠はこれより8日前の5月21日にすでに京に滞在しており、妙覚寺に入っていた[2]。信忠は徳川家康とともに大坂・堺へ向かう予定だったが、信長が出陣を控えているためにこれを遠慮した。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。信長はかつては妙覚寺を寄宿先としていたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し[3]、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになった[4]

本能寺は無防備な寺ではなく、1580年(天正8年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど[5]、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている[6]

河内将芳は、「信長が本能寺に、信忠が妙覚寺に、それぞれいることが判明しなければ、光秀は襲撃を決行しなかっただろう」という見解を述べている[7]

本能寺[編集]

同じ6月1日の夕、光秀は1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』には、下級武士たちの間には京都・堺を遊覧中の徳川家康を討つものとの嘘の情報が流されていたことが記されている。フロイス、本城惣右衛門、明智家臣も、それを「ありうることだ」と考えていたことが窺い知れる。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。

本能寺跡

馬の嘶きや物音に目覚めた信長が小姓・森成利(蘭丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。だが「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と成利(蘭丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。成利(蘭丸)らは信長に対し、本能寺から逃れるよう進言したが、光秀の性格や能力、明智軍の兵数を知っていた信長は脱出は不可能と悟り、「是非に及ばず」[注釈 1]と言い放ち、を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次にを取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は成利(蘭丸)に火を放たせ、自刃したと言われる[注釈 2]。信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたと称する阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺にはと土居があり、この説は疑問である。また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。未発見の原因は、日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある[8]

一方、本能寺から200mの近辺の教会からはフランシスコ・パシオ司祭たちイエズス会宣教師たちが本能寺を見ていた。彼らから情報を得た『イエズス会日本年報』のルイス・フロイス書簡では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

妙覚寺・二条御所[編集]

光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとして妙覚寺を出たが、本能寺門前に屋敷のあった村井貞勝らが駆け付け、「既に本能寺は焼け落ちました。敵はここにも攻めかかってくるでしょう。隣りの二条御所(二条城)はここより守りが堅く、立てこもるのに都合がいいでしょう」と言われ、これに従って二条御所に入った。御所に入ってからの会話では「ひとまず安土に逃げるべき」など様々な意見が出たが、信忠は「敵はこのような謀反を起こした程だから、まさか簡単に逃がしはしないだろう。雑兵の手にかかっては後々までとやかく言われて無念である。ここで腹を切ろう」と言い、御所に残った。

明智軍が御所を包囲した後、信忠たちは二条御所の主である誠仁親王を脱出させた。その後、信忠らは明智軍を相手にわずかな軍勢で防戦。信忠自身も傷を負いながら敵を切り倒し、一時間以上戦い続け[注釈 3]、三度も明智軍を退却させた[注釈 4]。思わぬ苦戦に、明智軍は二条御所の隣にある近衛前久邸へ押し入り、屋根から二条御所内の信忠軍を銃矢で狙い打った。信忠側の人数は次第に少なくなり、とうとう明智軍は御所内に侵入して放火した。信忠は自刃し、二条御所は落城した(『信長公記』、『当代記』)。

妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、信忠が自刃し、斎藤利治が火を放ちよく防いでいる[9][10]間の落城前に逃げ出し(『三河物語』)、安土城を経て岐阜へと逃れた。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。

また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・弥助も戦ったという。弥助はもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。弥助は、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である[注釈 5]

討死、自害した主な人物[編集]

本能寺[編集]

二条御所[編集]

織田長益前田玄以水野忠重山内康豊らは当時、二条御所に在ったが包囲前に脱出。その他、信忠の介錯をした鎌田新介が生存している。

変の要因[編集]

江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする「怨恨説」が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはなかった。

こうした理解は、映画ドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。司馬遼太郎の小説『国盗り物語』でも、この説に拠っている(ただし作中では、怨恨を基調としつつも野心が無かったわけではない、としている)。戦後は実証史学に基づく研究がすすんできた。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせた。

現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護のためなど数多くの説があり、意見の一致をみていない。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(腐敗した仏教勢力への粛清など)への反動(反革命)とする説も多い。

本能寺の変の前年に光秀が記した『明智家法』末尾に、『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を記しており、これによれば、信長に対しては尊崇の念を抱いていることが伺える。また変の3ヶ月前の茶会において宝器をおく床の間に信長の筆による書を掛けるなど、信長に心服している様子がある。このため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く提起されている。しかし、それら黒幕に関する主張は、光秀とその敵対者の双方においてなされたことはない。

ルイス・フロイスの『日本史』には「裏切りや密会を好む」「刑を科するに残酷」「忍耐力に富む」「計略と策略の達人」「築城技術に長ける」「戦いに熟練の士を使いこなす」等の光秀評がある。従来は、ドラマや旧領丹波国など一部の地域では遺徳を偲んでいることなどの影響が光秀に誠実なイメージをあたえている。しかし、教養の高い文化人で線が細いとみなされがちな光秀像と別に、フロイスの人物評や信長が「佐久間信盛折檻状」で功績抜群として光秀の名前を挙げたように、したたかな武将としての姿が伺える[8]

野望説[編集]

戦国史の権威であった高柳光壽が主張した、「天下が欲しかった光秀の単独犯行」とする説[11]。高柳は、怨恨説がいずれも後年の創作に依拠したものとし、史実とは認められないとした。また、フロイス『日本史』の記述などから、武将として合理的な性格の光秀と信長との相性も良かったはずだと主張した。現在、藤本正行鈴木眞哉らがその主な後継論者となっている[8]

怨恨説[編集]

八上城で殺される光秀の母
恵林寺を焼こうとするのを諫めた光秀を打ち据える信長

ドラマや映画などではこの説が強調されている場合が多い。一般に知られる怨恨の原因は以下のようなものである。

  • 悪臭のする魚を出して家康の接待役を解任され、面目を失った。光秀は悔しがり食器を池に投げ入れた(『川角太閤記』)
  • まだ敵地の出雲国伯耆国もしくは石見国に国替えを命ぜられた(『絵本太閤記』)[注釈 6]
  • 八上城戦で母を信長のために死なせてしまった(『総見記』、『絵本太閤記』)[注釈 7]
  • 武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「これでわしらも骨を折ったかいがあった」と言ったのを信長が聞き咎め「おまえごときが何をしたのだ」と殴り足蹴にされて恨んだ(『祖父物語』)など
  • まだ斎藤利三が稲葉一鉄の家来だった時に光秀が家臣として召し仕えたので、信長が利三を一鉄の元へ返すよう命じると、光秀はこれを拒否したため信長は光秀の髷を掴み突き飛ばした(『川角太閤記』)

別本『川角太閤記』には、光秀が小早川隆景に宛てた書状として「光秀ことも、近年信長に対し憤りを抱き、遺恨もだしがたい」ために信長を討ったという記述が見られる。また個別の事例は江戸時代以降に創作された講談や俗書によるところが多く、明確な史料に残る怨恨の事例は少ない。

桑田忠親は、フロイスの『日本史』にある「変の数ヶ月前に光秀が何か言うと信長が大きな声を上げて、光秀はすぐ部屋を出て帰る、という諍いがあった」という記述を根拠として、武士の面目を立てるためであったとする新たな怨恨説を唱えた。

四国「征伐」回避説[編集]

信長の四国征伐を回避するため乱を起こしたとする説。単に「四国説」とも呼ばれる。

四国では、土佐国の長宗我部元親が明智家臣・斎藤利三と姻戚関係を結び、光秀を通じた信長との友好関係の下で統一を進めていた[12][13]。一方、敗走した阿波国三好康長は秀吉と結び、旧領の回復を目指した。長宗我部氏による四国統一を良しとしない信長は、天正10年2月に元親へ土佐国・阿波国2郡のみの領有と上洛を命じた。これを、元親が拒否したため、神戸信孝を総大将として四国攻めを開始した。

まず、康長が先鋒として四国に入り、6月2日には信孝、丹羽長秀らによる本隊が大坂より出陣する予定であった。

四国政策変更の問題については高柳、桑田いずれも指摘している。また、藤田達生は三好康長は本能寺の変以前に秀吉の甥の信吉(後の豊臣秀次)と養子縁組を結んで秀吉と三好水軍を連携させたことによって秀吉・光秀間に政治的対立が生じたこと、光秀が長宗我部氏からの軍事支援を期待して本来であれば徳川家康が堺から帰洛後に行う筈であった襲撃を繰り上げたとしている[注釈 8]桐野作人は、さらに踏み込んで利三主導説を唱えている[14]

この説は信憑性が低いとされていたが、2014年、元親から利三に宛てた書状が発見された[15][16]。文中、元親は土佐国・阿波2郡のみの領有と上洛に応じる旨を記しており、ここから四国攻めが実施されると政治的に秀吉―三好ラインの完全勝利となり、光秀は織田政権下はもちろん長宗我部氏に対しても面目を失い、いずれにせよ失脚してしまうことから、本能寺の変を起こしたとも読み取れると論評され、今後可能性が強まるのではないかとされている。

ノイローゼ説[編集]

ストレスなどから発症する自律神経失調症などで精神的に追い詰められて、冷静な判断が出来ず謀反を起こしたとされる説。動機は憎悪説、野望説、黒幕説、などの全ての説が背景の候補に挙がる。古くは司馬遼太郎が考えていた。「『国盗り物語』では野心があったように書きましたが、光秀はノイローゼだったのではないかと思っているのです。ですがノイローゼでは小説になりませんので」という旨の発言をし、司馬自身、光秀が恐怖心が昂じて神経症になった末に発作的に行動した、と思っていたようである。

根拠
  • 様々な説がある中で、政武に優れた名将として知られる光秀が謀反を起こす動機、思想、計画、行動、がどれもこれも穴だらけで有力な説が存在しないこと自体が根拠の一つである。
  • 信長は短気な性格に加えて、家臣に対して結果を出さない者は容赦なく追放をしていた。光秀は度重なる戦いや、信長の無理な命令に心身ともに疲れ果て、本能寺の変が起きた時の光秀の年齢は55~67歳とされ当時としてはすでに老齢であった。光秀は以前から年齢的にかつてのような活躍が出来ず、次に追放されるのは自分ではないのかと言う不安がありそこからノイローゼを発症していったとされる。
  • 大事の前の挙動不審かつ異常行動(おみくじを何度も引いたり、粽を包んでいる葉ごと食べたり、謀反の前夜大宴会を行う、家臣に対して開き直ったかの様な不気味な態度や言動など)は続き、本能寺の変後の行動も一貫性を欠いているなど。
  • 光秀は妻子を愛していたとされる。しかし娘のお玉(後のガラシャ)が光秀に宛てて、「父の謀反により、すべてを失ってしまった」という書状を送ったといわれており、本能寺の変をきっかけに、多くの子が戦死や自害に追い込まれ、お玉も最終的に悲劇的な最期を送ってしまった。もし計画が失敗に終われば家族も巻き添えになる事ぐらい正常な精神状態だったら分かりきっていたはずである。分かっていながら事を起こしても異常といえる。

焦慮説[編集]

光秀は織田氏譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間であるにもかかわらず、家臣団の中で有数の重臣となった。これは光秀が有能であったこともあるが、信長個人の信任があってこそのことが大きい。2年前の1580年(天正8年)には、佐久間信盛(折檻状によると発奮も促している)・林秀貞安藤守就丹羽氏勝といった家臣が追放されている。

このため信長の信任が揺らいだと考えた光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説がある。また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられる。

信任が揺らいだと考えたとされる理由:

  • 対四国政策の失敗[17]
  • 光秀がかつて足利義昭の家臣であったため、義昭追放後には光秀に対する信長の心証が悪化した[17]
  • 羽柴秀吉による中国攻めの援軍として光秀の名があがったことは、光秀が秀吉の格下になることであり、光秀がそれを潔しとしないと考えたという説。ただし、光秀はこれ以前にも播磨国神吉城三田城攻めの援軍となっている。

そもそも、光秀が信長に仕えるようになった頃から秀吉は既に光秀の先輩格であり、この時点で光秀が秀吉に対する面子にこだわる理由もなく不自然である。

谷口克広当代記にある光秀の年齢が67歳ときわめて高齢であったことを指摘し、反面、嫡子の明智光慶が10歳代前半ときわめて若年であったため、自らの死後光慶が登用されないことを憂いて謀叛を決意したという説を立てている[18]

理想相違説[編集]

信長、光秀、それぞれの思い描いた理想が相違したという説。

信長は、伝統的な権威や秩序を否定し、犠牲もいとわない手法で天下統一を目指し急進的な改革を進めようとした。信長は日本六十六カ国の絶対君主となった暁には大艦隊を編成して海外へ進出するつもりであった[注釈 9]

光秀は、衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした。光秀は、信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切った。しかし、光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかった。ところが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続いた。結果論だが光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現された、という説である。[19]

黒幕説[編集]

信長を討つことについて、光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定し、その者の意向を背景にあることを指摘する説としては、以下のようなものがある。

足利義昭説[編集]

自分を備後国に追放した信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために旧家臣である光秀に命じたとする説[注釈 10][20]三重大学教授の藤田達生が中心となって主張している[20]。また、桑田忠親もその可能性を指摘している[17]

日ごとに権力を増す信長に脅威を抱いた朝廷は、信長の朝廷に対する忠誠心を計るため、天正10年(1582年)に「いか様の官にも任ぜられ」(どのような官位も望みのままに与える)と記された誠仁親王の親書(誠仁親王御消息)を送る。しかし信長は、親書を届けた勅使に明確な返答をしないまま返す。信長が朝廷に征夷大将軍の任を求めることを恐れた足利義昭は、かつての家臣・光秀に信長暗殺を持ちかける。信長によって閑職へ追いやられた光秀はこの申し出を受け、信長の天皇謁見を妨害するため本能寺の変を計画したとされる。

根拠
  • 本能寺の変の直前に光秀が上杉景勝に協力を求めて送った使者が、「御当方(上杉のこと)無二御馳走(協力)申し上げるべき」(「覚上公御書集」より)と、明らかに景勝より身分の高い人物への協力を促していること。
    加えて本能寺の変の直後、光秀が紀州雑賀衆土橋重治へ送った書状に「上意馳走申しつけられて示し給い、快然に候」と、光秀より身分の高い者からの命令を指す「上意」という言葉を使っていること。
  • 織田氏嫡流織田信忠を実際に討ったのも元は義昭の重臣であった伊勢貞興室町幕府政所伊勢氏)であった。
  • 信長に仕える前からの光秀と義昭の繋がりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動。
  • 6月13日に義昭が小早川隆景の家臣乃美兵部丞に「信長討ち果たす上は、入洛の儀、急度」から始まる自身の花押付きの書状を送り。この機に忠功を示すことを肝要とし、本意においては恩賞を与え。よって肩衣・袴これを遣わす。と自ら変の首謀者であることを宣言。毛利輝元・小早川隆景に入洛の軍事行動を要請していること。
反論
  • 義昭の名前を隠す必要が見当たらない。逆に名前を出さなければならない理由は十分にある。このままでは光秀は主君・信長に逆らった逆賊でしかないからである。
  • 細川藤孝や筒井順慶へ協力を求めた際には、義昭(を臭わせる人物)の存在を知らせていない。
  • 義昭を庇護していた毛利氏が本能寺の変を知らなかったこと[注釈 11]について説明が付かない。(以上批判は[21]

朝廷説[編集]

三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説。

信長が入洛した時、右大臣右大将を朝廷に対してすでに返上しており、天下統一事業達成の可能性が高まる実力者が無位無官のまま軽装備で洛中にいたことになる。朝廷にはそのため、無言の圧力を非常に大きく感じたはずである。「馬揃え」をして中国遠征軍が進発すれば、毛利家の大きな後ろ盾のおかげで即位できた正親町天皇の面目は丸つぶれになる。また、信長は正親町天皇にすでに退位を迫っており朝廷への大きな圧力となっていた。毛利家が滅べば、その後ろ盾により即位した正親町天皇は譲位せざるをえない状況に陥る。高松城を包囲する秀吉は毛利との間に講和を工作していたが、信長にはその気はなく毛利家を滅ぼす計画であった。誠仁親王を即位させ信長は朝廷を傀儡化することも可能となるのである。さらに信長は、正親町天皇と誠仁親王の争いに巻き込まれたくないと考え、三職推任を一時棚上げしていた可能性がある。右大臣右大将を辞めたのも信長自身が朝廷の内紛に不介入の立場をつらぬいたとする見方がある。[1]

朝廷黒幕説には、中心となる黒幕として、正親町天皇・誠仁親王、あるいは近衛前久等の公家衆を主体とみるかについて意見が分かれる。

根拠
  • 光秀は、信長・信忠を討った後、6月7日誠仁親王からの勅使で京都の治安維持を任されている。その後朝廷に参内し、金品銀子五百枚を贈っている。[22]
  • 山崎の戦いの後、神戸信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜したこと。
  • 吉田兼見が事情の聴取を受けていること、更に当時の一級史料である『兼見卿記』(兼見の日記)の原本内容が本能寺の変の前後1か月について欠けており、天正10年の項目は新たに書き直しされ、正本と別本の二種類が伝存する。
    2007年になって1992年に『兼見卿記』を基にした『信長謀殺の謎』を上梓している桐野作人が、インタビューの中で、ある研究者に『これは一種の陰謀史観だよ』と言われたことや、「そのころは古文書のくずし字がほとんど読めなかった」ことを告白し、自説を批判している[23]
  • 勧修寺晴豊の「天正十年夏記」には斎藤利三の処刑の日に「六月十七日 天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる者也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。」という記述があり、これを「利三(ひいては光秀)と朝廷側の人間が『信長ヲ打ツ』謀議(談合)を持っていた」と解釈する説もある[24]
  • 「三職推任問題」は本能寺の変の直前の出来事であり、信長の京への立ち寄りはこの返答のためと仮定すると、返答を阻止するのにちょうど良いタイミングである。
反論
  • 変の後に、朝廷側が綸旨や太刀の下賜などで、光秀を顕彰・賞賛した動きはなく、光秀も勅命によるものであるという主張をしていない。光秀がたとえ朝廷側と連絡していたとしても、その恩恵を全く得ていないことになる。
  • 変の当日、誠仁親王と家族が二条御所にいたこと。二条御所での信忠たちの対応次第では、親王らが戦いに巻き込まれて死亡した可能性もある。現に、この際に信忠は光秀に親王たちの救出を依頼し、光秀が了承して外に出たことで助かるという、危うい状態だった。[22][21]
  • 近衛前久は、本能寺の変の当日または数日後に出家しており、これを細川藤孝の出家と同様、信長に殉じたと解釈するのが適切と見る見解や、後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などが反論として挙げられている。信孝捜索も上記の信忠戦で屋根に明智軍を上らせ殲滅させたことをとがめたのではないかという説がある。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなく仮説の域を出ない。
  • 『兼見卿記』の改竄は、前年の天正9年の記事を書いた冊子にそのまま10年以降も書き進めていたが、たまたま6月で冊子の丁数が尽きてしまった。そこでそれ以降は別の冊子に書き、後に改めて清書したが、6月までの記事は前年と同じ冊子のためそのまま残された、という本能寺の変とは全く関係ない理由による。記事の少なくない抹消・改変は、本能寺の変という大事件に際し、先行きが不透明だった時期か、大勢が決した時期に書かれたかの違いだと考えられる[25]

暦の問題について、天正11年の1月の京暦の中に雨水が含まれずに本来中気が入ってはならない閏1月にずれてしまうという太陽太陰暦の原則に反した錯誤が生じていたが、武家伝奏であった公家の勧修寺晴豊の「日々記」の天正十年夏記六月一日によると、信長はこれを死の前日まで公に指摘していた。これも朝廷に対する己の優位を示すためのキャンペーンのひとつであったと捉えるか、信長式の尊王的態度の表れだと捉えるかでも、争いがある。

また、フロイス「日本史」における信長神格化の記述をもとに、信長神格化が朝廷と相容れなかったとする指摘もある(この点の最近の指摘者として井沢元彦[注釈 12])。(→動機と首謀者に関するその他の考察参照)-->

いずれも信長と朝廷の間に軋轢があったことを前提としているが、そもそも信長と朝廷の間に確執はなく、むしろ協力関係ないし信長による朝廷再興路線があったとみる説もあり[26]、この見方を取る場合は朝廷黒幕説は成り立たない。詳しくは織田信長#朝廷政策のページを参照。

イエズス会説[編集]

立花京子が提唱した、イエズス会が日本の政権交代をもくろんだとする説。ここでは「信長政権が南欧勢力の傀儡に過ぎなかった」、とされている。更に大友宗麟はイエズス会と信長とを繋ぐ舞台廻しであったとされ、イエズス会の最終目的は明帝国の武力征服であり、変は信長から秀吉に首をすげかえる為のものに過ぎなかった、としている。

しかし反論として、「信長はイエズス会から資金提供を受けていた」「当時のイエズス会の定収入は年2万クルザード程度であり、しかもその半分以上はインドに送金され、会を維持運営するのにも事欠く有様であった」などが挙げられている。この他、信用に欠ける『明智軍記』などを検証無く多数引用するなどの問題点があり、これらで批判されている[8]。現在では提唱した立花本人もこの説を否定している。

羽柴秀吉説[編集]

信長の死の報をいち早く入手し、備中高松城への水攻めにより殆ど戦力を失っていなかった事から事前に変を知っていたとする。また秀吉にとって都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収め、また本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることから。物証に欠くため学説としては定着しているとは言いがたいが、「もっとも利益をえた者を疑え」という推理のセオリーにより、フィクション等で採用される事が多い[27][28]

徳川家康説[編集]

徳川家康説は、状況証拠が多いという程度に留まるが、天海僧正(南光坊)=光秀説により、 興味をひかれる内容となっている。首謀というより、変に賛同、支援ないし、事後に僧侶として生存していた光秀を匿ったというもの。これも歴史小説ではよく触れられる。また家康が何らかの形で信長による自身の暗殺計画を知り逆に計略を立て光秀を利用し信長を暗殺したという説もある。

変の直前の天正10年5月15日 家康が戦勝祝賀のために武田の降将の穴山信君(梅雪)の随伴で信長を安土城に訪ねた際、当初、光秀が饗応役となった。

ここで信長が怒り狂った饗応の不手際とは、『太閤記』にあるような「魚が腐っていた」といったような表の理由ではなく、実は、信長が饗応の機会を捉えて家康を暗殺するよう光秀に指示したがこれを光秀が拒んだのが真因だと解釈する等、信長に家康暗殺の意図があったことを推定する説もある。

裏づけとする史書の記述としては、光秀の京都への反転に関して、フロイスの「日本史」における「兵士たちはかような(本能寺を攻める)動きがいったい何のためであるか訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。」という部分、本城惣右衛門覚書にある「我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。」という部分、また江村宗具の「老人雑話」の、「明智の乱(本能寺の変)のとき、東照宮(家康)は堺におわしました。信長は羽柴藤五郎に仰せつけられて、家康に大坂を見せよとつかわされたのだが、実のところは隙をみて家康を害する謀であった」とある部分が著名である。

またあわせて主張される点として以下のようなものがある。

  • 織田と徳川は後世に美化されたような「同盟」という対等の関係でなく、従属的なものであった。徳川は織田にとって、対今川・対武田の押さえであり、その両者が滅亡した段階(武田家の滅亡は本能寺の変の直前である)において、東方平定のためにはむしろ邪魔になっており、早々に完全に織田家の家臣化させるか滅ぼされるべき存在であった。
  • 信長の敵対者である伊賀忍者に守られた逃避行は、後世、光秀方に誅されることを恐れたものとされるが、本来は信長方に誅されることを恐れて事前に準備されたものだった、ないし、自己の関与を否定するための演出であった。

光秀=天海説については、こちらを参照

その他の黒幕説[編集]

光秀家康共謀説
時空警察』では本能寺の変は光秀家康共謀であったという説を紹介している。信長が、家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じた。本能寺に家康を呼び寄せ殺害する計画だった。しかし、光秀は信長を裏切り、家康と共謀した。光秀と家康は、「信長の命令による家康討ち」の計画を利用し、「信長討ち」にすり替えてしまった。信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった。信長は光秀に全幅の信頼をよせており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていた。信長の本能寺での無警戒ぶり、また、家康が「安土招請」「堺見物」に無警戒だった理由もこれである。「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは、予定通りの行動であることを世間に隠すためのカモフラージュである、という説である。
細川藤孝裏切り(秀吉内通)説
秀吉は、藤孝の家老松井康之を手なずけた。康之は藤孝と謀り、光秀をそそのかした上で、裏切り、秀吉にいち早く謀反情報を流して、秀吉の天下取りにくみしたという説。康之は秀吉から破格の恩賞(石見半国十八万石の知行付与の申渡し等)を与えられている。
堺の豪商(または千利休)説
堺の商人が自らの既得権を守るため信長殺害を計画したという説。新宮正春が著書で主張している[29]。堺の商人は戦支度やその他利権等を獲得のため、権力者へ擦り寄り、鉄砲で敵対する天下人候補を狙撃、偽書状等を出す、暗殺等、色々行ってきた。近年では堺の商人と信長、本能寺との間で鉄砲などの既得権を巡る争いや対立があり信長と堺の商人が既得権を巡り対立した際は今井宗久津田宗及が堺側を説得、武力衝突を回避したといういきさつがある。また、吉川英治著書の歴史小説(徳川家康)では堺の豪商は当時の日本の裏社会を牛耳っていたとされ信長亡き後の後継者を談合により光秀ではなく秀吉を選んだという記述がある。実際に信長は本能寺の変の前日、堺の商人たちの招きで本能寺へ入り茶会を催している。出席者は今井宗久や津田宗及などの商人や公家等の名の知れた茶人・文化人たちであったため、亡くなる直前にあった人間を疑えというセオリーより浮上する。少なくとも本能寺の内情や警備状況を光秀に伝えた可能性がある。
濃姫
日本史サスペンス劇場』で黒幕として名が挙がっている。詳細は本能寺の変を題材とした作品#フィクションにおける本能寺の変を参照。
丹羽長秀
安土城の建設や信長家臣団の統率の為に過大な役目を負わされていた丹羽長秀が四国征伐の直前に羽柴秀吉と堺の商人と手を組んで明智光秀をそそのかしたとする説。丹羽長秀は本能寺の変の処理である清洲会議で秀吉に組して信長の嫡孫である三法師を担ぎ上げるのに一役買っている。
羽柴秀長
中国遠征中の羽柴秀吉の参謀であった羽柴秀長が、明智光秀と謀議して、秀吉の援軍要請に乗じて信長を討ち、秀吉を信長の後継者にするために一芝居打ったという説。中国大返しの道中準備を秀長がお膳立てして、秀吉の光秀討伐に貢献した可能性あり。
毛利輝元(あるいは小早川隆景)説
亀井茲矩
中国山陰地方の戦国大名尼子氏の残党である亀井茲矩が、織田信長の尼子氏にたいする冷淡な姿勢に不満を持ち、山陰地方に出陣する予定であった明智光秀と羽柴秀吉をそそのかしたとする説。 
朝廷と羽柴秀吉の共謀説
長宗我部元親説
井沢元彦は本能寺の変の直前、長宗我部元親征伐が企図されていたことから、長宗我部氏の取次を務めていた光秀が面子をつぶされた怨恨に加え、元親の義兄である家老斎藤利三を介した元親が黒幕となって光秀が本能寺の変を起こしたとする複合説を提唱している[30]
島津氏関与説
信長が毛利氏を滅ぼした後、九州征伐を開始するのは時間の問題である。さらに信長と通じる大友氏や龍造寺氏らの反攻を受けて苦境に立たされていた島津氏が、朝廷の公家らと共謀していたという説。根拠は乏しいのだが、島津義久の側近である上井覚兼の日記として有名な「上井覚兼日記」の記述で、本能寺の変が起こった天正10年6月2日から11月3日までの項が白紙になっている(ただし、上井覚兼日記は他にも数年の欠落がある)[要高次出典]

細川幽斎説(細川藤孝)

細川幽斎の嫡子細川忠興は明智光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)である。また12代将軍である足利義晴の落胤だという説があり足利将軍家(室町幕府)との血縁関係や繋がりが深い。明智光秀が越前守護職である従四位下朝倉義景の家臣であった時からの深い交友がある。15代足利将軍家と後になる足利義昭を伴う尾張守護職織田信長上洛後、元亀4年(1573年3月)義昭と信長が決裂し合戦となる。その際に細川幽斎は信長が上洛してくると彼に従い恭順し幕臣ではなくなった。槇島城が軈て陥落義昭は放逐される。ここで初めて従五位下明智惟任日向守光秀と成った光秀と細川藤考の立場は逆転し明智の与力となる訳である。天正8年(1580年)細川藤考は丹後守護職一色氏を攻めるもうまく行かず明智の勢に助けられようやくその南部を平定する。後に起こる田辺城の合戦、慶長5年(1600年9月)では古今伝授の唯一の継承者であった幽斎の死を惜しんだ後陽成天皇、八条宮智仁親王(後陽成天皇の実弟)、三条西実条、中院通勝、烏丸光広等の働きによりその命を助けられている。これを見てもやはり朝廷との繋がりは深い。この説は皇統を重んじる細川幽斎(細川藤孝)が、信長の専横を見るに当たり忍びなく、友人であった明智光秀を犠牲にし裏切ってまでもまた利用してまでも織田信長を滅ぼさねばならなかったという説である。大和守護職、筒井順慶は、当然明智が謀反を起こして本能寺で織田信長を謀殺した以上細川幽斎も明智光秀の盟友であるからそれに加担するものと見ていた。しかし細川幽斎がそれでも尚且つその謀殺の様、詳細な計画までもそのライバルである備中高松の従五位下筑前守羽柴秀吉に対して細川幽斎が逐次報告している事を知ると最早、明智勢に味方できなくなってしまった。結論としては細川幽斎説(細川藤孝)は既に誰の天下でもよく皇統を脅かす可能性のある織田信長以外ならよく明智光秀を唆しその為仕方なく利用し見殺した事となる。

21世紀に入ってから唱えられた説 [編集]

信長の野望阻止説[編集]

光秀の軍勢が本能寺に向かったのは実は他でもない信長の命令で、信長は光秀の軍勢を使ってある野望を実行しようとした。しかし光秀が信長の計画を乗っ取り、軍勢を信長殺害に使ったため信長の野望は阻止されたという説[誰によって?]である。この説の根拠として、イスパニア商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』の一節、「信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、『余は自ら死を招いたな』と言ったということである」と、『当代記』や『川角太閤記』に閲兵の為明智軍は上洛せよという信長の命令を携えた森蘭丸の使いが6月1日にやって来たという記述が挙げられる。

信長征夷大将軍就任の野望阻止[編集]

2005年に小説・ノンフィクション作家円堂晃が唱えた説である。毛利氏との決戦を控えていたが毛利方はよくまとまり、さらに足利義昭が亡命しており、それを大義名分として利用している。そこで状況打破のため征夷大将軍に任官および足利将軍解任を朝廷に求めていたが、朝廷はなかなか認めようとしないため、光秀の軍勢を御所に差し向け朝廷を威嚇し、要求を強引に認めせようとしたという説[31]

徳川家討伐と土岐明智家滅亡の危機回避[編集]

この説は2009年に光秀の子孫を自称する明智憲三郎が自著「本能寺の変四二七年目の真実」で唱えている。著書では信長は堺見物から京に戻る家康を本能寺に呼び寄せ、運び込んだ名物茶器で時間稼ぎをし、隙を突いて本能寺に呼び寄せた光秀の軍勢で家康と重臣を殺害、そのまま電撃的に家康領を光秀・細川忠興・筒井順慶の軍で占領しようとした。しかしながら、信長が進める織田一族による中央集権化と、重臣の遠国転封[注釈 13]で、土岐一族再興、とりわけ一族の故地美濃・尾張・伊勢に返り咲くことが絶望的になったことと、家臣団のうち旧幕臣衆が光秀配下になったことでお家再興がなったのに遠国転封で京都から離れることによる動揺で、軍団を維持できない。加えて転封先候補地の可能性として旧家康領が挙げられるが弱体化した家臣団で結束の強い三河武士団を治める事の困難さから息子の代で土岐明智氏は佐久間信盛同様滅亡する危険が高く一族の存亡をかけて謀反に踏み切ったとしている。

黒田官兵衛演出説[編集]

NHKアナウンサー京都造形芸術大学教授の松平定知が本能寺の変は豊臣秀吉のブレインである黒田孝高の演出であるという説を提唱、雑誌に掲載された。松平が挙げる理由として

  • 信長の死後、自らの君主秀吉に、「ご運が巡って参りましたな。これであなたの天下です」と秀吉をそそのかしたこと。
  • 毛利と秀吉との講和をわずか1日でまとめあげた交渉力の高さ
  • いわゆる「中国大返し」では官兵衛が先回りし、街道で炊き出しや水を準備していた点。
  • 後の豊臣政権の五大老に、毛利輝元小早川隆景の2人が選ばれている点。

などを挙げている[32]

また黒田は有岡城の戦いでは「孝高(黒田のこと)は敵に寝返った」との流言が流れ、怒った信長が嫡子松壽丸の殺害を部下に命じており、(史実では松壽丸は竹中重治が匿っていたため殺害されなかったが、フィクションでは松壽丸は殺害され竹中重治が松壽丸に顔のよく似た子供を連れてきたという説[33]もある。)それに関する信長への怨恨説、秀吉から常に野心の高さを警戒され、豊臣政権下では重職へ就くことがなかったこと、後年、関ヶ原の戦いでは東西両陣営が関ヶ原に集結した隙をつき九州各地を平定した野心の高さも説の一つである。

黒幕説の否定[編集]

戦国新説研究会が黒幕など最初からいないという説を唱えている。もしそのような者が存在するのなら、本能寺の変後は混乱する近畿を治める絶好の機会であったのに、何の行動も起こさないのは不自然である(秀吉を除く)。実際、光秀が新たな主君として担ぎ上げて、天下に大々的に号令をかけようとする人物も誰もいなかった。もしくは光秀をそそのかしたり、彼に助言したりした人物はいたかもしれないが、その人物は信長にとって代わろうなどとは思っていなかった。どちらにせよ、光秀の主体的意志による単独犯行であるとしている[34]

動機と首謀者に関するその他の考察[編集]

  • 光秀がいつ頃から謀反を決意していたかは不明だが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現白雲寺での連歌の会で光秀が詠んだ発句、「時は今 天が下知る 五月哉」は、「時(とき)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解釈されている(「雨が下る」と詠んだ説もある)。しかし、この解釈に関しては反論もある(明智光秀#愛宕百韻の真相を参照)。
  • フロイスの書簡、ならびにフロイス『日本史』によると、信長は安土城で自らを神とする祭典を行い、信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとしたという。フロイスは当時九州にいたため、この記述の信憑性を疑問視する声もあるが[35]、フロイスは1573年の書簡ですでに「信長が自身を生きた神仏だと言った」と書いている[注釈 14]ため、祭典はともかく神格化までが信長の死後の創作とする考えは成り立たない。

本能寺の変後の諸将の動向[編集]

明智光秀[編集]

光秀は、6月3日・4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。安土と京都で政務を執ったのが4、5日から12日であったため、三日天下と呼ばれた。

期待していた親類の細川幽斎、与力の筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。

羽柴秀吉・毛利氏[編集]

秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。

早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀高山右近池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のためにいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を「中国大返し」と呼ぶ。

織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに清洲会議にて信忠の子・三法師(織田秀信)の後継ぎに推した。その後、賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦いを経て、信長の後継者としての地位を確立した。その後、毛利輝元は秀吉に属し、安芸周防長門備中半国、備後伯耆半国、出雲隠岐石見を領した。

柴田勝家[編集]

勝家は佐々成政前田利家とともに、6月3日上杉氏の越中国魚津城を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功(魚津城の戦い)したが、その頃信長は既に亡かった。変報が届くと、上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北、自害した。

徳川家康・穴山信君[編集]

家康は、信長の招きで5月に穴山信君とともに[注釈 15]安土城を訪れた後、家臣30余名とともにに滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎清延に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き知恩院で信長に殉じるとまで言ったが[36]、家臣に説得され帰国を図る。が、故郷から遠くに離れ彼方の異国に来ている状況で、すでに各地には信長が討たれたとの知らせは伝わり、信長の武力を背景にした抑えを失った状態になっており、各地の農民による落ち武者狩りや信長の家臣団に反感を抱いていた者たちに狙われるのは間違いない状況で、巨大な軍団は従えておらず、わずか数十名の家来しか従えておらず、誰かに殺されたりせずに無事に帰国できるか?と問えば、おそらく無理だろうと判断される状況だった。この状況は、後に「神君のご艱難」とも称され、家康の人生でも最大級の危機的場面だったとされている。(実際、堺まで同行しながらその後別行動を取った穴山信君[注釈 16]は山城国綴喜郡の木津川河畔の渡し(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)で、落ち武者狩りの土民に襲撃され全滅している。)

京周辺には様々な勢力がすでに入り混乱していて、また京から琵琶湖(安土城)へ抜ける道は特に狙われているに間違いなく、余りに危険であった。ともかく京周辺にいるであろう軍勢は避け、大きく南へ迂回した経路で伊勢国へ抜けるほうが良いと判断された。

家康は以前に大阪摂州多田で参詣しようとした時に摂州佃村の漁師たちに船に乗せてもらい助けられたことがあったが、今回その佃村の漁師が本能寺の変で逃走する家康のために急遽 船を出して助けてくれた[37]。(この時の命の恩を家康は忘れなかったらしい。明和三年(1766年)書き上げの「佃島由緒書」によると、こうした縁によって、家康が1590年に関東入りする時に、佃村の名主 森孫兵衛(もりまごべえ)をお供につれていき、さらに二代将軍秀忠の時に、森孫兵衛が佃村の隣村の大和田村の漁師33名らとともに江戸に移住し、江戸の佃島が作られ、関西の漁師の先進的な漁業技術が関東に伝えられることになった[37]。)

こうして京を南に大きく迂回した判断は良かったが、結果として紀伊の山の中を通り伊賀あたりを越えなければならなくなった。だが、信長が伊賀衆をさんざん苦しめた過去があるので、信長の家臣である(/であった)家康が少人数でそこを無事に通過するなどということは到底無理だと思われた。しかも相手は伊賀衆(忍びの者の集団)であり、並みの相手ではなく、大軍で戦っても苦労する相手である。実際、途中、家康はもう生きて帰国することはできないと判断して自死しようとした場面もあった。が、止めてくれる家来がおり、すんでのところでそれを思いとどまった。(家康の苦難の伊賀越えに、その伊賀衆が協力してくれたのだが、彼らとの連絡には伊賀出身の服部正成が貢献したといわれている。三河到着後、伊賀衆は伊賀組同心として徳川家に抱えられ、服部正成の配下となった。)

(歴史の結果を絶対視する通俗物の歴史描写やテレビドラマなどでは、いつでも家康は未来を完全に見とおして泰然としていたかのように描かれてしまう傾向があるが)この時の家康はまさに「命からがら」の状態で、「紙一重の差」で家康は生き延びたにすぎず、この時死んでいても全然おかしくなかった状態、殺されてしまって、数多いる武将のひとりとして歴史にわずかに名を残すにとどまっていたほうがむしろ自然なほどの状況だったのである。

こうしていくつかの幸運が重なり、家康は、結果として、山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻ることができた。

三河に帰った家康は、軍をととのえ光秀を討つために出陣し、熱田神宮まで来たが、山崎の戦いの報を聞き、引き返した。この時、先鋒酒井忠次は津島まで進軍していた。武田氏の滅亡後、甲斐信濃の武田領国は織田家臣により統治されていたが、家康は信長横死後の混乱で空域化していた甲斐を相模後北条氏と争奪し(天正壬午の乱)、最終的には武田遺領を確保し東国の一大勢力となるが、豊臣政権下においては後北条領国が征服され、天正18年には家康の関東移封により家康の旧武田領国支配は終焉する[注釈 17]

織田信雄[編集]

信長の次男・北畠信雄は、本能寺の変の後光秀を討とうと近江の土山へ進軍するが、山崎の戦いで光秀が秀吉に大敗したことにより撤退。信雄は清洲会議にて織田家の跡継ぎに推されなかった(他家に養子に出ていたこともあるが、度々失態を犯すなど暗愚であったことも大きいと思われる)。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った(小牧・長久手の戦い)。

滝川一益[編集]

一益は関東の上野国厩橋城にいたとき、本能寺の変の報せを聞いた小田原北条氏直が、織田家との同盟を一方的に破棄して上野国奪取を目指して進出。本能寺の変の報せが広まり、一益が任されていた旧武田領の信濃や甲斐では一揆が続発し、信濃の森長可は畿内へ逃亡、甲斐の河尻秀隆は一揆勢に敗れ討死している。武田氏を滅ぼし、新しく織田領となった中部地方の支配がはじまってまだ3ヶ月であったため、軍の編成も不十分であり、織田家臣団の中で最も絶望的な状況にあった。一益は2万の軍を率いて北条軍6万を緒戦で撃退するも、その後の戦いで敗れて領国の伊勢長島城へ命からがら帰還した(神流川の戦い)。一益の敗戦により上野、信濃、甲斐の織田勢力は一掃される結果となり、清洲会議にも間に合わなかった。一益の敗走後、北条氏直、徳川家康、上杉景勝が旧滝川領空白地帯を巡って戦うことになる。

河尻秀隆[編集]

甲斐に留まり、徳川家康の使者、本多信俊を殺害。武田遺臣の一揆が起こり、三井弥一郎に討たれた。

織田信孝・丹羽長秀[編集]

信孝は長秀、信長の甥・津田信澄(父は織田信勝(信行))らとともに大坂にて四国の長宗我部元親討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、各地から集結していた与力が自分の領地に戻ってしまい、単独での光秀討伐は不可能となる。そこで信孝・丹羽は光秀の娘婿であった信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。

信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。

斎藤利堯[編集]

本能寺の変後、稲葉一鉄に擁立され岐阜城を占拠する。光秀が秀吉に敗れると、信孝に岐阜城を明け渡した。

姉小路頼綱[編集]

本能寺の変後、かねてから敵対関係にあった江馬輝盛や小島氏、さらに実弟の鍋山顕綱を討って、飛騨を完全に制圧した。

一色義定[編集]

織田政権の丹後守護の後、弓木城を居城にする。山崎の戦いでは光秀に味方し、細川藤孝と対立する。

武田元明[編集]

1582年(天正10年)6月の本能寺の変の際、若狭守護としての勢力の回復を計り、若狭各地にいた旧臣を集め明智光秀と通じ丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させる。

京極高次[編集]

妹の京極竜子が嫁いでいた若狭国の武田元明と共に光秀に与し、羽柴秀吉の居城である長浜城を攻め落とす。

長宗我部元親[編集]

長宗我部元親は信長の四国征伐の影響もあり、兵を白地城に休ませていた。だが、信長横死を知るや出兵し、静岡の戦いに勝利し、阿波讃岐を完全に勢力下に入れた。

鈴木重意[編集]

雑賀党を率い、再び独立した勢力となる。

上杉景勝[編集]

本能寺の変後、新発田重家への報復を後回しにして、信濃や越中の失地を回復した。

北条氏政[編集]

北条軍を上野に侵攻させ、滝川一益と決戦し、勝利後、信濃東部から中部まで勢力下に入れる。

宇喜多秀家[編集]

秀吉と毛利輝元は和睦することとなり、所領安堵によって備中東部から美作備前を領有する。

大友宗麟[編集]

本能寺の変で信長が死去し、中央に有力者が消えると豊薩和睦は消滅し、島津氏と再び対立する。

島津義久[編集]

「豊薩和睦之儀」が消滅後、龍造寺隆信大友宗麟と争う。

足利義昭[編集]

鞆城から津之郷御所へ居所を移し、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を受けた。その後、田辺寺にて秀吉と対面し、京都へ帰還した。

日本文化の中の「本能寺の変」[編集]

最も有名な日本外史頼山陽)の中で「敵人在本能寺(敵は本能寺にあり)」と簡潔に記述したのをはじめとして、狂言浄瑠璃歌舞伎小説映画演劇アニメなどで「本能寺の変」は400年前から今日なお作品の中に記述され続けている。

また「敵は本能寺にあり(敵本主義)」[注釈 18]のような、意味深い使われ方をするときもある。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ 三河物語』の記述では「城介が別心か」となっており、嫡子・信忠(秋田城介)の謀叛を疑ったということになっている。
  2. ^ 信長に近侍した御弓衆太田牛一の著作『信長公記』による経過。諸本の内『池田家本「信長記」』には、"信長の最後の直前まで傍らにいた本能寺から避難した女衆に取材した"とある。
  3. ^ 時間については『イエズス会日本年報』
  4. ^ 「三度も」は奈良・興福寺の『蓮成院記録』による。
  5. ^ 本能寺の変に触れるドラマの中では、弥助が信長に殉じて討ち死にするという描かれ方をされることもある。
  6. ^ このうち「国替え説」は、唯一史料として変19日前の5月14日付けの丹波国人、土豪への軍役を課した神戸信孝の軍令書が存在し、この人見家文書の花押の真偽を巡る学問的な論議となっている。しかし、簗田広正や滝川一益が同様の敵地への領地替えが行われた際は、彼らの旧領はしばらく安堵されていたので、これは新領獲得まで旧領安堵するという当時の作法ではという説がある(谷口克広『検証本能寺の変』)。
  7. ^ 戦いの経過も結果も信長公記の記述と全く異なるため、信憑性は薄い。
  8. ^ 藤田達生「織田信長の東瀬戸内支配」(小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』(和泉書院、2006年) ISBN 978-4-7576-0374-5 所収) 。ただし、三好康長と信吉の養子縁組の時期については谷口克広から本能寺の変当時にはまだ縁組は成立していなかったとする反論が出されている(谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)P216–218)。
  9. ^ 宣教師ルイスフロイスの記録による
  10. ^ 義昭の旧家臣であることは『細川家記』の義昭側近だった細川藤孝の記録部分や、1570年義昭からの山城国下久世の所領付与『東寺百合文書』、信長との対立後に義昭近親・曽我助乗に暇を求めた光秀書状が現存する。『明智光秀 つくられた「謀反人」』小和田哲男 ISBN 4-569-60109-X
  11. ^ 「荻藩閥閲録」によれば、毛利は変から4日たってもまだ変の実態がつかめなかった。
  12. ^ ただし井沢元彦は『逆説の日本史 戦国覇王編』『新説・戦乱の日本史 本能寺の変』等の著作内で光秀単独説を主張しており、信長神格化問題と本能寺黒幕説とは論点が別である。
  13. ^ 柴田勝家は近江長光寺二郡から越前八郡に、滝川一益は伊勢長島から上野一国・信濃二郡に加増ながらも近畿から遠い地に転封されている。秀吉も近江長浜から播磨一国に転封しており、長浜は収公、新城主に堀秀政が内定していた。
  14. ^ 「だが、信長はこれをことごとく一生に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。」1573年4月20日付けルイス・フロイスの書簡。「十六・七世紀イエズス会日本報告集 第3期第4巻 1570年ー1577年」所収
  15. ^ 穴山信君(梅雪)は武田氏親族衆で、甲斐南部の河内領・駿河江尻の分郡領主。織田・徳川連合軍による甲斐侵攻に際して当主勝頼から離反し、信長に臣従していた
  16. ^ 『三河物語』によると、穴山信君はかなりの金品を持っており、家康従者に強奪されるのではと恐れたために別行動を取ったとされている。
  17. ^ なお、信君横死後の河内・江尻領支配については信君の遺児勝千代による相続が家康により安堵されるが、勝千代は天正15年に死去し、穴山氏は家康五男万千代を養子に迎え相続されるが、家康の関東遺封に伴い穴山氏の河内・江尻領支配も終焉する。
  18. ^ -目的が他にあるように見せかけて、途中、急きょ、本来の目的に向かうこと。「敵本」は「敵は本能寺にあり」の意味であるため、本能寺の変に由来する成句

出典[編集]

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  1. ^ a b 『信長と天皇』今谷明ISBN 978-4-06-149096-3
  2. ^ 河内・258-259頁
  3. ^ 河内・258-259頁
  4. ^ 河内・258頁
  5. ^ 『真説 本能寺の変』所収 和田 裕弘論文ISBN 4-08-781260-X(ISBN-13 978-4-08-781260-2)
  6. ^ 「本能寺の変」の焼け瓦発見 旧寺跡で 堀や石垣も[リンク切れ] 京都新聞2007年8月7日
  7. ^ 河内・259頁
  8. ^ a b c d 『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』鈴木眞哉藤本正行ISBN 4-89691-995-5
  9. ^ 太田牛一 『信長公記』 巻十五 「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」
  10. ^ 富加町史編集委員会 「新五の最期」『富加町史』下巻 通史編、富加町、1980年、232頁。
  11. ^ 高柳『明智光秀』吉川弘文館<人物叢書>、1958年
  12. ^ 長宗我部元親の手紙発見 本能寺の変直前、信長に恭順の姿勢
  13. ^ 長宗我部元親、信長に恭順示す 手紙発見、本能寺直前
  14. ^ 『真説 本能寺』(2001年)、『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(2007年)
  15. ^ 長宗我部の手紙発見に「センゴク」作者も歴ドルも興味津々
  16. ^ 「本能寺の変」10日前の生々しさ…新史料に驚きの調査員や作家ら
  17. ^ a b c 林屋辰三郎 『日本の歴史 天下一統』
  18. ^ 谷口克広「信長と消えた家臣たち」中公新書(2007年)、ISBN 978-4-12-101907-3
  19. ^ NHK「その時歴史が動いた-本能寺の変・激突!改革か安定か-」
  20. ^ a b 『潮流』「本能寺の変」と現代”. 中国新聞 (2014年6月28日). 2014年7月6日閲覧。
  21. ^ a b 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館 刊 2007年 ISBN 978-4-642-05632-8
  22. ^ a b 『明智光秀 つくられた「謀反人」』小和田哲男 ISBN 4-569-60109-X
  23. ^ 『歴史群像 No.83』07年6月号(学習研究社
  24. ^ NHK堂々日本史1998年7月14日放送「シリーズ 本能寺の変(1)明智光秀 謀反の陰に朝廷あり」
  25. ^ 金子拓 『記憶の歴史学 ─史料に見る戦国』 講談社<講談社選書メチエ>、2011年、177–179頁。ISBN 978-4-06-258522-4
  26. ^ たとえば堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』(吉川弘文館)53-65頁。
  27. ^ 荒巻義雄 『紺碧の艦隊』の読み方〈1〉紺碧要塞の戦理論 ISBN 4-19-154838-7
  28. ^ 山田風太郎 『妖説太平記』
  29. ^ 『敵は本能寺にあらず』双葉社刊
  30. ^ 井沢元彦 (1990), “謀叛を生んだ元親との外交破棄政策”, in 小向正司, 歴史群像シリーズ20『激闘織田軍団』, 学習研究社 
  31. ^ 『本能寺の変本当の謎-反逆者は二人いた-』並木書房刊 ISBN 4-89063-185-2
  32. ^ SAPIO 2011年1月6日号
  33. ^ さいとうたかを『戦国謀略図』ISBN 9784845829958
  34. ^ 戦国新説研究会 『超図解戦国を変える新説15』
  35. ^ 脇田修『織田信長 中世最後の覇者』、谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)など
  36. ^ 徳川実紀
  37. ^ a b 大石学『地名で読む江戸の町』第五章

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度00分21秒 東経135度45分14秒 / 北緯35.00583度 東経135.75389度 / 35.00583; 135.75389