安土城

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安土城
滋賀県
安土城大手道
安土城大手道
城郭構造 山城
天守構造 望楼型地上6階地下1階(1579年・非現存)
築城主 織田信長
築城年 1576年(天正4年)
主な改修者 羽柴秀吉
主な城主 織田氏、明智氏
廃城年 1585年(天正13年)
遺構 天守台、曲輪、石垣、堀
指定文化財 国特別史跡
再建造物 一部の石垣・大手道石段・門跡
位置 北緯35度9分21.29秒
東経136度8分21.87秒

安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

概要[編集]

安土城図
安土城がある安土山の空中写真(1982年)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
ステレオ写真はこちら

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏に仕えた目加田(目賀田)氏の居城である目加田(目賀田)支城があった。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた(昭和期に干拓が行われたため、現在は湖岸からやや離れている。)。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀普請奉行木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。

この城を築城した目的は、岐阜城よりもに近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。(ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。

城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。

滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏清涼殿を模った本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した[1]。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった[1]

特徴[編集]

中央に礎石がない[編集]

高層の木造建築を建てる場合、中央に心柱を立てるのが多くの日本建築の特徴だが、安土城天主の礎石は中央部の1つだけが欠けている(他の礎石は全て現存している)。発掘調査では、中央に礎石が抜けた跡はないことが確認され、またそこに空いていた穴からは、焼け落ちた天主の一部と思われる炭とともに、壺のかけらのような破片がいくつも出土した。発掘時の推測では、この穴の上にはかつて仏教の宝塔があり(天守指図からの推測)、穴には舎利容器である壺が入っていたものと推測されている。

居住性の充実[編集]

通常の天守は日常的な居住空間としては使用されなかったが、概要の通り信長はこの天守で生活していたと推測されており、そのための構造と思われる。こういった高層建築物を住居とした日本人は、信長が初とも言われている。

城郭中枢部の寺院[編集]

天主台南西の百々橋口付近に摠見寺がある。持仏堂や戦死者を弔う小堂などを持った城は各地に見られるが、堂塔伽藍を備えた寺院が建てられているのは、後にも先にも安土城だけである[2]。しかも単に城郭内にあるだけでなく、百々橋口道(南西の入口からの道)から城への通り道が境内になっており、この入口から入った者が城にたどり着くためには、必ず摠見寺の境内の中を通り抜けなければならない。『信長公記』の記述から、この百々橋口道は通常時に城に入ろうとする者が使用するための道だったと推測されている。

発見されない蛇石[編集]

秀吉は観音寺山と長命寺山の谷から大石を引き出すため人足を集めた。石引きの歌声が天地にこだまする有様は、「昼夜山も谷も動くばかり」(『信長公記』「安土御普請の事」に津田坊が運ぼうとしたと記述)だったという。なかでも「蛇石」という巨石は五間余(約10メートル)、推定三万貫(約112トン)あったが、しかし引き上げる途中で綱が切れ、横滑りした蛇石に150人余が挽き潰された。その後蛇石は安土山頂まで引き上げられたはずだが、現在までに幾度の発掘調査を経ても、未だ発見されていない。

強い宗教色[編集]

一般的に宗教心が薄いとされる信長であるが、天守内部の宝塔(推定)や絵画、摠見寺の存在など、安土城には宗教的要素が多く見られる。

本丸御殿と清涼殿の酷似[編集]

安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。 主な根拠として、

  • 礎石(=柱)の間隔が非常に長い。通常、武家の建築物の柱の間隔は6尺5寸(約1.97m)だが、この本丸御殿は7尺2寸(約2.2m)もある。公家の建物であれば武家のものより長いが、それでも7尺が標準であり、7尺2寸というのは現在の御所よりも長い。
  • 詳細な調査を行って復元図を作成した結果、建物は3つ存在したことが明らかになった。その配置は「コ」の字型という特殊なもので、清涼殿と共通する。
  • 1613年に江戸幕府が建てた清涼殿の図面を、東西逆にすると、上の復元図とほぼ重なる。規模や部屋割りもほぼ一緒である。
  • 1589~1591年にかけて豊臣秀吉が建てた清涼殿は、この徳川幕府製の清涼殿と基本的に同様の平面構成を持っている。
  • 近世(豊臣・徳川時代)の清涼殿は、一部に武家住宅の様式を取り入れているという点で古代~中世の伝統的な清涼殿から大きく様変わりしており[3]、安土城が建てられたのはこの中世と近世の間、しかも豊臣版の清涼殿が建てられる前である。
  • 信長公記に、安土城の屋敷の中で「御幸の間」「皇居の間」を拝見したと書かれている。
  • 言継卿記には「来年は内裏さま(=天皇)が安土へ行幸する予定」という、著者・山科言継の娘の手紙が記録されている。
  • 菊の紋章がついた瓦が発掘されている[4]

現在の清涼殿は東向きに建てられているが、この本丸御殿は西向きに建てられている(東西を逆にすると徳川版と重なるのはこのため)。

防御策の乏しさ[編集]

城内の道というものは敵の侵入を阻むためになるべく細く曲がりくねって作られるが、安土城には籠城用の井戸武者走り石落としといった設備は著しく少ない。また大手門からの道は幅6mと広く、約180mも直線が続く。

こうした事から、安土城は軍事拠点としての機能より、政治的な機能を優先させて作られたものと思われている。

歴史・沿革[編集]

安土桃山時代[編集]

江州安土古城図

本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、秀吉の養子豊臣秀次八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。

近代[編集]

  • 1918年(大正7年) 安土城保存を目指して「安土保勝会」が設立される。
  • 1926年(大正15年) 1919年(大正8年)に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法により、安土城址が史蹟に指定される。
  • 1927年(昭和2年) 内務省(現・総務省)が城跡に「安土城址」の石碑を建てる。
  • 1928年(昭和3年) 滋賀県が史蹟安土城址の管理団体に指定される。その後、大手門跡などに標石を建てたり、二の丸跡の復旧、城内石段の改修や天主・本丸跡の発掘調査を行う。

現代[編集]

現在の安土城址
  • 1950年(昭和25年) 文化財保護法施行に伴い史跡安土城跡となる。その後、特別史跡に指定される。
  • 1960年(昭和35年) 城跡修理に着手、1975年(昭和50年)まで継続。それを基に1978年(昭和53年)、安土城跡実測図(縮尺千分の一)を作成する。
  • 1988年(昭和63年) 「第1回特別史跡安土城跡調査整備委員会」が開催されるに到る。
  • 1989年(平成元年)から2009年(平成21年)までの「調査整備20年計画」を開始する。
  • 1992年(平成4年) セビリア万国博覧会に、「天主指図」を基に復元された安土城天主の一部(5・6階部分)が出展された。現在、復元天主は安土城天主信長の館に保管、展示されている。
  • 1999年(平成11年) 本丸跡から内裏の清涼殿と同じ平面を持つ建物が発見された。これは、当時の信長の思想を推定する上で重要な発見である。
  • 2005年(平成17年) 安土町のプロジェクトチームがイタリアローマに渡り、「安土城之図」と伝わる屏風絵を探したが発見には至らなかった。しかしローマ教皇ベネディクト16世に大野俊明が模写したミニ屏風絵を寄贈し、屏風絵の捜索を依頼した。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(51番)に選定された。
  • 2009年(平成21年) 調査整備20年計画が終了。

天主・本丸の焼失[編集]

前述したように、安土城天主及びその周辺の本丸等の建造物は、山崎の戦いの後まもなくして焼失している。あくまで焼失したのは、天主本丸などであり後に織田秀信が二の丸に入城したように、二ノ丸をもって十分に機能していた。

焼失の原因についてはいくつかの説がある。

  1. 明智秀満軍が敗走の際に放火したとの説(『秀吉事記』『太閤記』)。しかし、安土で出火があったとされるのは6月15日(『兼見卿記』)で、その日、秀満は坂本城堀秀政の軍に包囲されていたこと、また、秀満は坂本城での自刃の際、光秀収集の名刀や茶器、書画を堀直政に引き渡してから坂本城に火を放っていることから濡れ衣と考えられる[5]
  2. 秀満のあと伊勢国から入った織田信雄軍が明智の残党を炙り出すために城下に放火したのが天主に延焼したという説。これは、ルイス・フロイスの報告や『日本西教史』収載の当時の宣教師の記述(日本耶蘇会年報)によるもので、その記述には「織田信雄が暗愚だったので放火した」とある。
  3. 略奪目的で乱入した野盗や土民が原因であるとする説。
  4. 落雷によって焼失したとする説。

林屋辰三郎は、略奪目的の土民が放火したとしており[6]熱田公は、「山崎の戦い後の混乱の中で、略奪に入った野盗の類が放火した、とみるのが自然であろうか」としている[5]高柳光寿は、織田信雄下手人説を採用しており、『秀吉事記』の記事は信雄がまだ大勢力を有していた時期に成立したものであることから、秀吉と信雄との関係を顧慮して明智秀満のせいに仕立てられたのではないかと考証している[7]資料によっては城下町にも放火したとの記述が見られるが、これは誤りである。

なお、加越能文庫の「松雲公採集遺編類纂」中の文書に、天正6年5月に一度天主が倒壊したとの記述があるが、他の資料にはその記録がなく、真偽は不明である。

復元[編集]

発掘調査・整備[編集]

調査整備20年計画が1989年から2009年まで行われた。

  • 1989年(平成元年) 伝羽柴秀吉邸跡で五棟の建物跡を検出する。
  • 1990年(平成2年) 環境整備の基本構想を策定する。伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出する。136メートルにわたり大手道の当初ルートを確認する。
  • 1991年(平成3年) 伝前田利家邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出する。黒金門に至る大手道の全ルートを解明する。
  • 1992年(平成4年) 環境整備工事に着手する。
  • 1993年(平成5年) 大手門とその東西に続く石塁跡を発見する。東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見する。
  • 1994年(平成6年) 旧摠見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする。摠見寺高石垣を解体し当初の大手道を検出する。
  • 1995年(平成7年) 百々橋口道及び主郭部周辺をめぐる周回路を調査する。
  • 1996年(平成8年) 搦手道の調査に着手する。米蔵付近より金箔貼りのを発見する。
  • 1997年(平成9年) 搦手道の全ルートを解明する。台所跡から流し・釜戸ともに飾り金具を発見する。
  • 1998年(平成10年) 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見する。一建築金物、十能・鍬、花器、金箔瓦、壁土等や搦手口の湖辺で木簡、完形に近い金箔瓦等を発見する。大手道の整備工事が完成する。
  • 1999年(平成11年) 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物を発見する。

天主[編集]

安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物
復元された天主の内部(信長の館)

天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」や「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているが、解釈をめぐっては意見が分かれており未だ決着を見ない。その姿は5重6階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる[8]

信長が権力を誇示するために狩野永徳に安土城を描かせた金箔の屏風がアレッサンドロ・ヴァリニャーノに贈られ、彼の離日に同行した天正遣欧使節によりヨーロッパに送られて教皇庁に保管されているとの記録がある。それは安土城の姿を知る決め手の一つと考えられ、現在に至るまで捜索が行われているが、未だに発見されていない。

天主復元のために参考にされる史料[編集]

ルイス・フロイス『日本史』[編集]

ポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・フロイスは著書『日本史』に、天主に関して次のように記している。

中心には、彼らがテンシュと呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。
この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。事実、内部にあっては、四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。外部は、これらの階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。このテンシュは、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。

太田牛一『安土日記』[編集]

信長の家臣であった太田牛一は、天正7年1月『安土日記』に村井貞勝による天主に関しての記述を次のように引用して記している。

御殿守ハ七重、悉黒漆也。御絵所皆金也。高サ十六間々中。天正五丁丑八月廿四日柱立、同霜月三日屋上葺合候。
上一重、三間四方。御座敷之内皆金。外輪ニ欄干有。柱ハ金也。狭間戸鉄黒漆也。三皇五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢、狩野永徳ニかゝせられ。
二重目。八角。四間ほと有。外柱は朱、内柱皆金也。釈門十大御弟子等かゝせられ、釈尊御説法之所。御縁輪ニハ餓鬼共ニ鬼どもをかゝせられ、御縁輪のはた板ニハしやちほこひれうかゝせられ候。かうらんきほし有。
三重目、御絵ハなし。南北の破風に四畳半之御座敷両方在之、こやの段と申也。
四重目、西十二間ニ岩ニ色々の木を被遊、則岩之間と申候。次西八畳敷ニ龍虎之戦有。南十二間、竹之色々被遊、竹間と申候。次十二間、松計を色々被遊候。東八畳敷、桐ニ鳳凰。次八畳敷、きよゆう耳をあらへは、そうほ牛を牽き帰る所、両人之出たる古郷之躰。次御小座敷七畳敷、でい計也。御絵ハなし。北十二畳敷、是ニ御絵ハなし。次十二畳敷此内西二間之所ニてまりの木を被遊候。次八畳敷、庭子之景気也。御鷹之間と申候。
五重目、十二畳敷御絵有、花鳥之間と申也。別ニ一段四畳敷き御座之間有、同花鳥之御絵有。次南八畳敷賢人間、へうたんより駒の出たる所有。東麝香之間八畳敷き。十二畳、御門之上。次八畳敷、ろとうびんと申仙人杖なけ捨てたる所。北廿畳敷、駒之牧之御絵。絵のふりたる所、是ふえつの図と申。次十二畳敷、せい王母の御絵有。西御絵ハなし。御縁二段ひろ縁なり。廿四畳敷之御物置の御なんと有。口ニ八てう敷き之御座敷在之。
六重目、十二畳敷、墨絵ニ梅之御絵を被遊候。同間内御書院有。是ニ遠寺晩鐘景気被書、まへに盆山被置也。次四てう敷、雉の子を愛する所、御棚ニ鳩計かゝせられ、又十二てう敷に鵝をかゝせられ鵝之間と申也。又其次八畳敷唐之儒者達をかゝせられ、南又十二てう敷、又八てう敷、東十二畳敷、御縁六てう敷、次三てう敷、其次八てう敷御膳を拵申所、又其次八畳敷御膳拵申所、六てう敷御南戸、又六畳敷、何も御絵所金也。北之方御土蔵有。其次御座敷廿六畳敷御なんと也。西六てう敷、次十七てう敷、又其次十畳敷、御なんとの数七ツ。此下ニ金燈爐つらせられ候。七重目。
以上、柱数二百四本。本柱長さ八間、本柱ふとさ一尺五寸四方、六尺四方、一尺三寸四方木。
狭間戸数六十余有。何れも鉄ニ而黒漆也。

ほかに、バチカンへ送られた屏風に描かれたとする安土城天主の一部と見られている建物をフィリップス・バン・ウインゲがスケッチしたものが残っている[9]。また、加賀藩大工に伝わる「天守指図」等があり、それを安土城天主の平面設計図であるとし、内部には階層を貫く吹き抜けが造られ、地階に仏塔があったなどとする復元案(内藤昌案など)もある。

天主復元案[編集]

以下は、様々な証拠や証言、文書の記述などを参考に各学者・研究者などより出されている復元案の一部または想像図の概要である。

奥村徳義案-1858年(安政5年)
層塔式7重8階又は7階で初重平面は長方形である。壁は真壁で色彩は分からないが破風も千鳥破風と唐破風のみというシンプルな外観である。6・7重は八角堂に四方の望楼という姿である。
土屋純一案-1930年(昭和5年)
望楼式6重7階で初重平面は長方形である。壁は下見板張りで、3重目に吹き降ろした屋根に付属するように小柄の入母屋が付く。破風の位置は名古屋城天守や福山城天守に類似する。5・6重は八角堂に熊本城天守のような内高欄廻縁の四方の望楼が乗るような姿である。
桜井成広案-1959年(昭和34年)
望楼式6重7階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、3重に向唐破風の出窓4重目に大入母屋がある。5・6重は八角堂に宝形屋根の四方の望楼が乗った姿である。
西ヶ谷恭弘案-1993年(平成5年)
望楼式6重7階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、大入母屋を交互に重ねた形。5・6重は夢殿を模した八角堂に金閣を模した杮葺の切妻を載せたような入母屋屋根(しころ屋根)で全面金箔貼の四方平面の望楼が乗る姿である。
内藤昌案-1994年(平成6年)
望楼式5重7階地下1階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで、複雑に入り組んだ屋根が特徴的。4・5重は赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。内部を「天守指図」に習って、吹き抜けにしている。
宮上茂隆案-1994年(平成6年)
望楼式5重6階地下1階で、初重平面は長方形。天守台いっぱいには造られず、天守曲輪が形成されている。外観は下見板張り、3重目に大入母屋がある。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。
佐藤大規案-2005年(平成17年)
望楼式5重6階地下一階で、初重平面は不整形な六角形である。外観は下見板張りで2重目・3重目を交互に大入母屋が乗る。4・5重は八角堂に赤瓦の入母屋を被った四方の望楼が乗る姿である。

作品[編集]

現地情報[編集]

交通アクセス
利用情報
  • 入山料(2006年(平成18年)9月1日より摠見寺が徴収)
    • 大人500円
    • 小人100円
  • 摠見寺本堂特別拝観1000円(2009年(平成21年)4月より日曜祝日のみ開堂:雨天時閉堂)
  • 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
    • 滋賀県立安土城考古博物館
      • 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
      • 休館日 月曜(休日の場合は除く)、休日の翌日(土曜日・日曜日の場合を除く)、12月28日~1月4日まで
    • 安土城天主 信長の館(文芸の郷)
      • 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
      • 休館日 月曜(休日の場合は除く)、休日の翌日(土曜日・日曜日の場合を除く)、12月28日~1月4日まで
    • 安土城郭資料館
      • 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
      • 休館日 月曜、年末年始

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 「安土城の全容解明は後世に 08年度で調査終了、史跡の8割残す」京都新聞2008年2月8日
  2. ^ 秋田裕「織田信長と安土城」より
  3. ^ ちなみに現在の清涼殿は、江戸時代裏松光世が古代の清涼殿を復元した図面に基づいて安政年間に建てられたものである。
  4. ^ 桐の紋章がついた瓦も発掘されている。桐の紋章は足利将軍家が使用していたもので、こちらについては信長は1568年に上洛した際、足利義昭から使用許可を得ている。
  5. ^ a b 熱田公『日本の歴史11 天下一統』(1992)p.195
  6. ^ 林屋辰三郎著『日本の歴史』12 ISBN 978-4122045224
  7. ^ 高柳光寿『明智光秀』(1958)p.252-253
  8. ^ 秋田裕毅文「安土城」 平井聖監修『城 5近畿』毎日新聞社 1996年
  9. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 1996年 ISBN 978-4055001601

参考文献[編集]

  • 高柳光寿『明智光秀』吉川弘文館<人物叢書>、1958年9月。
  • 熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社、1992年4月。ISBN 4-08-195011-3
  • 林屋辰三郎『日本の歴史12 天下一統』中央公論新社<中公文庫>(改版版)、2005年4月。ISBN 4122045223
  • 滋賀県安土城郭調査研究所編集「特別史跡安土城跡」
  • 「復元安土城 信長の理想と黄金の天守」内藤昌
  • 「幻の安土城 天守復元」堺屋太一監修
  • 「信長の夢 安土城発掘」NHKスペシャル 安土城プロジェクト
  • 「逆説の日本史10 戦国覇王編」井沢元彦

関連項目[編集]

外部リンク[編集]