仙台城

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仙台城
宮城県
大手門脇櫓
大手門脇櫓
別名 青葉城、五城楼
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 なし
築城主 伊達政宗
築城年 1601年
主な改修者 伊達忠宗
主な城主 伊達氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、土塁、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 脇櫓
位置 北緯38度15分8.92秒
東経140度51分22.16秒

仙台城(せんだいじょう)は、現在の宮城県仙台市青葉区陸奥国宮城郡)の青葉山にあった日本の城平山城)である。雅称は「青葉城」。「五城楼」との別名もある(→仙台参照)。2003年(平成15年)8月27日、国の史跡に指定された。

概要[編集]

慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。国の史跡に指定されている。伊達政宗が築城した仙台城は約2万坪で、全国規模の城であった。

幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく要塞としての機能を終えて、その後は明治初期から大正にかけてその大半が失われた。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失した。現在では、宮城県知事公舎正門の建築に転用された寅の門の部材が残るのみである。

旧三の丸に所在する仙台市博物館から徒歩で向かうと、三の丸の遺構とともに、山頂に築かれた巨大な石垣を目の前に本丸に登ることが出来る。 本丸からは、仙台都心と仙台平野の北部を一望することが出来る。 隅櫓北西の旧二の丸はもっとも広大であり、現在、東北大学の敷地となっている。

青葉山に位置することから、「青葉城」という雅称を持ち、一般的にもその名で呼ばれる事が多い。これは仙台城ができてから生まれた地名で、山と城のどちらが先に「青葉」の名を得たか不明である。青葉山は、仙台七崎の一つ「青葉ヶ崎」に由来する。

歴史・沿革[編集]

江戸時代以前[編集]

青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人国分氏が居城したとも伝えられている。

江戸時代[編集]

伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。

政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。1601年1月28日慶長5年12月24日)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守は持たなかった。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。

しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗1637年(寛永14年)に二の丸造営に着手し、翌年完成させた。本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られた。これ以降、仙台城は平山城となった。

江戸時代を通じて、仙台城は火災や地震により何度か建物や石垣の一部を失い、その都度再建された。戊辰戦争でも仙台が戦場になることはなかったため、仙台城は創建以来一度も攻撃を受けずに要塞としての役目を終えた。

近代[編集]

在りし日の大手門

明治4年(1871年)に東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯した。このとき本丸が破壊され、石と木が兵舎建設に流用された。後に東北鎮台は仙台鎮台と改称した。さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団が置かれた。

  • 1882年明治15年) 火災が発生し大手門、脇櫓、虎ノ門を除くほとんどの建物が焼失した。
  • 1904年(明治37年) 本丸の跡地に招魂社が建てられた。現在の宮城縣護國神社である。
  • 1920年(大正9年) 大手門から本丸への途中にある中門が取り壊され、現知事公館の正門に移築された。
  • 1931年昭和6年) 大手門と脇櫓(隅櫓)が国宝に指定される。
  • 1935年(昭和10年)5月 政宗没後300年を記念して「伊達政宗騎馬像」が本丸に建立された。
  • 1943年(昭和18年) 政宗騎馬像が金属類回収令により撤去された。全て溶解していたはずだったが、戦後、頭から胸は溶かされずにいたのを発見される。この胸像は現在、三の丸(仙台市博物館)に展示されている。

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日未明、アメリカ軍による仙台空襲の際、米軍のB29により投下された焼夷弾により、大手門、脇櫓(隅櫓)(当時国宝)、衛兵所に使用中の二の丸表舞台楽屋などが全て焼失し、護国神社も焼失した。これにより、江戸時代から伝わる建物は三の丸の巽門(たつみもん)のみとなった(この日の戦災で焼失したという説もある)。

現代[編集]

東日本大震災で損傷を受けた脇櫓(手前)と城壁(左奥)
  • 戦後、第二師団の跡地にアメリカ陸軍が進駐し、トラックの通行を可能にするため、三の丸巽門が破却されたことにより仙台城跡にあった現存する江戸期の建築遺構はすべて失なわれた。アメリカ軍は1957年(昭和32年)にここを返還した。
  • 1954年(昭和29年) 戦争中に撤去された政宗像はコンクリートによって再建される。これは立像であった。

返還された後の二の丸跡地には、東北大学が入り、東北大学川内キャンパスとなった。川内キャンパス(川内北キャンパス、川内南キャンパス)のうち、南部の文系四学部、付属図書館、付属植物園のある場所が二の丸にあたる。

  • 1950年(昭和25年) 宮城神社(宮城縣護國神社占領期の名称)は国有地払い下げを受け、本丸一帯を所有した。仙台市は城が神社のものになることを望まず、交渉して土地の一部を管理し、一部を買い上げた。2003年(平成15年)現在、本丸の一部は仙台市のものだが、本丸の一部と西の丸はなお護国神社のものである。城を訪れる人は、表玄関である詰門があった場所に、大きな鳥居と「靖国神社公式参拝を継続させよう」などと書かれた看板を見ることになる。本丸の中心は、護国神社の拝殿と青葉城資料館、食堂などが占める。

構造[編集]

城の構成[編集]

初代伊達政宗期に造営された青葉山の本丸西の丸、二代伊達忠宗期に造営された青葉山山麓二の丸三の丸東の丸)と、それに付随する櫓、門からなる。

本丸[編集]

仙台城本丸大広間障壁画扇面図(仙台市博物館蔵)

大手門を抜け、左に折れた坂道をほぼ真っ直ぐに上り、中門(中の門、寅の門)を抜けると本丸入り口である詰門(つめのもん・現、護国神社鳥居)跡がある。本丸の中央付近には中核的な施設である大広間、周囲には、詰門両脇に2基(西脇櫓・東脇櫓)、北東部には1基(艮櫓)、眺瀛閣の南に1基、計4基の3重櫓、1基の二重櫓、多門櫓などが構えられていた。仙台城趾に自家用車や観光バスなどで来た場合は裏側にある埋門(うづみもん)跡から入ることになる。

天皇家や将軍家が訪れたときにのみ開かれる御成門があったが、一度も開くことはなく、大広間には藩主が座する上段の間の上に、天皇家・将軍家専用の上々段の間があったが、同じく使用されることはなかった。 また、清水の舞台のように崖に迫り出すように作られた懸造(掛造)の眺瀛閣(ちょうえいかく)からは仙台市内が一望でき、戦時ともなれば崖を登ってくる敵に鉄砲を浴びせることも想定されていた。 本丸において天守に相当する建造物として、本丸北東部(北東は丑寅、艮と呼んだ)に位置する艮櫓(うしとらやぐら)があり、復元の計画があったが、石垣保存問題と国の史跡指定地であることなどを理由に2003年に中止された。

西の丸[編集]

現在は宮城縣護國神社がある。

二の丸[編集]

二代藩主伊達忠宗により造営。1638年(寛永15年)5月4日着工され、翌1639年(寛永16年)12月に落成。以後明治に至るまで藩政の中心であった。二の丸の正門である大手門を入りその奥の詰門を抜けると、藩主が住む屋敷、能舞台などがあった。二の丸規模は東西310メートル、南北200メートル。

明治に至り、1869年(明治2年)に勤政庁が置かれ、1871年(明治4年)に東北鎮台(後の陸軍第二師団)が置かれた。1882年(明治15年)9月7日、追廻で行われた西南の役(西南戦争)戦没者招魂祭の花火が不発のまま落ち、その火災により、表舞台楽屋以外の二の丸遺構はすべて焼失。残った表舞台楽屋も戦災で焼失。現在は東北大学川内キャンパス(川内南キャンパス)となり、文系四学部(文学部、経済学部、法学部、教育学部)が入る。大手門は二の丸の正門である。

大手門[編集]

国宝に指定された大手門(1938年(昭和13年)7月撮影)

楼門型式の櫓門で、菊紋をかたどった飾り金具などが施されていた。名護屋城の大手門を移築したものと伝えられているが、実際は名護屋城大手門を模したという意味の「写した」を「移した」と勘違いしたものではないかともいわれている[4]1931年(昭和6年)に脇櫓と共に国宝に指定されたが、仙台空襲の際焼失。

脇櫓[編集]

大手門隅櫓ともいう。大手門と共に1931年(昭和6年)国宝に指定されたが、大手門と共に戦災により焼失。1967年(昭和42年)に民間の寄付により外観復元され、現在は唯一復元された建造物である。

三の丸[編集]

仙台藩の米蔵があり、二の丸造営時に造られたと考えられている。正確な造営時期は不明であるが、古くは東の丸とも呼ばれていた。現在は仙台市博物館がある。

石垣[編集]

切込接と呼ばれる積み方を用い、隅石表面には、「江戸切」と呼ばれる技法によって加工されている。本丸石垣の修復工事(1997年(平成9年)から2004年(平成16年))の際の発掘調査によって、時代の異なる2つの石垣が現石垣中から確認されている。

伊達政宗が死際に「この城は泰平の世には向かん。わしが死んだら修築しろ」と家臣や忠宗に言い残したという逸話が残っているように、泰平の世にあって、戦に勝つ、または攻撃されても落とされない要塞としての役割が色濃く残る城である。

考古資料[編集]

遺構[編集]

現在、仙台城址は青葉山公園として整備されているが、二の丸が東北大学川内キャンパス、三の丸が仙台市博物館としてそれぞれ利用されている。本丸から三の丸にかけて石垣および土塁が現存し、三の丸には長沼および五色沼と呼ばれる水堀が残る。馬場の跡地については川内追廻を参照。

太鼓塀については明治以降のものか江戸期のものか判断が分かれるところである。

城内に残された建造物は第二次世界大戦頃までにすべてが失われたが、寅の門が宮城県知事公館の門(県指定有形文化財)として移築され現存する。この門は以前は二階建ての楼門形式であった。また、本丸搦手の辰ノ口門が満興寺山門として、二の丸勘定所の板倉(県指定有形文化財)が仙台市宮城野区の民家に移築現存する。

この他、勾当台地区にあった藩校養賢堂正門が、泰心院山門(市指定有形文化財)として移築され現存する。

復元[編集]

仙台城詰の門址、護国神社鳥居、石垣工事(2003年11月)

1964年(昭和39年)に、民間の寄付を募って大手門脇櫓が復元された。これが唯一江戸時代の姿を示す建物である。向かいに石垣があるため、脇櫓と石垣の距離をもって往時の大手門の大きさをしのぶことができる。

脇櫓を復元し仙台市に寄付した期成会は、次に大手門の復元を計画したが、資金と用地の問題があって先延ばしになり、果たせなかった。以後も復元を望む声は絶えないが、以下の石垣修理以外は着手されていない。大手門復元に関しては、仙台市地下鉄東西線竣工を目処に開始される予定である。

本丸の石垣崩落のおそれが出てきたため、1990年代になると、石垣の状況をモニターするセンサーが取り付けられた。その後、1998年度から2003年度までの工期で石垣の全面修理が実施されている。この過程で、3期にわたる石垣の存在が確認され、過去に数度の修復が行われていたことが分かった。 この修理の成果によるものか、東日本大震災において、大手門から本丸までの最も大きな石垣は、大きな被害を受けなかった。


工事終了後、本丸にあった艮櫓(うしとらやぐら)を復元する計画であったが、石垣調査によって、艮櫓は修復中の第三期石垣の上にはなく、第三期石垣からみるとやや後ろにひっこんだ位置にあったことが判明した。艮櫓は第三期には存在しなかったので、第三期の石垣と一・二期当時の艮櫓をあわせて復元すると、櫓が市街から見えなくなり、景観も合わない。さらに、櫓の基礎工事が貴重な遺跡である石垣の基礎部分を破壊することになるという懸念も表れた。城跡の市有地部分が国の史跡に指定されたことに伴い、史跡保存の観点が優勢となり、艮櫓復元は着工前の2003年5月に中止になった。 現在、本丸石垣の端部には危険防止用の柵が設置されているのみである為、雄大な石垣の上から、広い範囲にわたって仙台平野の景観を観る事が可能となっている。

景観[編集]

本丸の伊達政宗騎馬像付近の展望台からの眺望。仙台市都心部を西南西方向から眺めている。遠くには仙台湾も見ることができる。

現地情報[編集]

現在の利用[編集]

本丸の一部と三の丸および周辺地区は、市が管理する青葉山公園。それ以外の部分でも、各所有者が公共空地・緑地化している所が多い。仙台七夕祭りの花火大会の際には、二の丸の東北大学川内ホールの前庭が観覧場の一つになっている。目の前の河川敷で打ち上げられる迫力のある花火を、多くの祭り客が敷物を敷いて楽しみ、屋台で賑わう。

本丸跡地に建つ宮城縣護國神社拝殿。
彫像・句碑

所在地[編集]

  • 仙台市青葉区川内1番地 

交通アクセス[編集]

参考画像[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 夜の杜の都味わって河北新報
  2. ^ 仙台城跡 夜の観光魅力アップ企画をDC以降も継続します(仙台観光コンベンション協会)
  3. ^ http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t13055.htm
  4. ^ 西ヶ谷恭弘著『ポケット図鑑 日本の城』主婦の友社 1995年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]