セバスティアン・ビスカイノ
セバスティアン・ビスカイーノ(Sebastián Vizcaíno, 1548年 - 1615年)は、スペインの探検家。
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生涯 [編集]
日本との関係 [編集]
フィリピン前総督ドン・ロドリゴ一行が、帰還のためアカプルコへ向けての航海中台風に遭い上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜で難破し救助された事への答礼使として、1611年ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣され、「サンフランシスコ2世号」で来日した。なおこの人選は、ヨーロッパの鉱山技術[1]に興味があった徳川家康の要請に沿ったもので、同時にエスパーニャ側にも日本の金や銀に興味があったことによるとされ、日本近海にあると言われていた「金銀島」の調査も兼ねていた。
1611年3月22日にヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを発ち、同年6月10日浦賀に入港[2]、6月22日に江戸城で徳川秀忠に謁見し[3]、8月27日に駿府城で家康に謁見する[4]。しかし第一に通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教[5]であり、友好については合意したものの、具体的な合意は得られなかった。
家康から日本沿岸の測量についての許可は得られ、11月8日に仙台に着き、11月10日伊達政宗に謁見、11月27日から奥州沿岸の測量を始める。12月2日、気仙郡越喜来村(現大船渡市)沖を航海中に慶長三陸地震の大津波に遭遇したが、海上にいたため被害はなかった。次いで南下し九州沿岸まで測量を行った。
日本沿岸の測量を終え、1612年9月16日に家康、秀忠の返書を受け取り、ヌエバ・エスパーニャへの帰途につく。帰途金銀島を探すが発見できず、11月14日暴風雨に遭遇「サンフランシスコ2世号」が破損し浦賀に戻る。
乗船を失ったため、ヌエバ・エスパーニャへ帰るための船の建造費の用立てを幕府に申し入れたが、日本側の外交政策の変更もあって断わられ[6]、1613年にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団のサン・フアン・バウティスタ号に同乗し帰国した。
仙台城のことを以下のように評した。
「城は日本の最も勝れ、最も堅固なるものの一にして、水深き川に囲まれ断崖百身長を越えたる厳山に築かれ、入口は唯一つにして、大きさ江戸と同じくして、家屋の構造は之に勝りたる町を見下し、また2レグワを距てて数レグワの海岸を望むべし」
著書 [編集]
- 『ビスカイノ金銀島探検報告』セバスティアン・ビスカイノ著 1614年筆 1867年刊
脚注 [編集]
- ^ 銀のアマルガム精錬法が開発され、徳川家康はその情報を入手していたといわれている。
- ^ 当時の通常のルートのマニラ経由ではなく、アカプルコから直接浦賀を訪れた。また、ドン・ロドリゴの帰郷に同行した田中勝介等の使節団も同乗し帰朝した。
- ^ この時、江戸の路上で偶然伊達政宗に出会い挨拶を交わす(政宗との初めての出会い)。
- ^ ドン・ロドリゴへの貸し出しを弁済し、スペイン国王フェリペ3世の親書と献上品を提出した。献上品の中には、フェリペ3世のお抱え時計師ハンス・デ・エロバが製作した南蛮時計があり、この時計は家康に愛用され、現在は久能山東照宮に所蔵されている。ハンス・デ・エロバが製作した時計で現存しているのは、久能山東照宮の他はエル・エスコリアル宮殿の1個のみといわれている。
- ^ 宣教師(カトリック)の保護に加えて、オランダ(プロテスタント)の追放も条件であり、ウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを重用していた家康は、ウィリアム・アダムスの「測量は日本を植民地とするための事前調査である」との進言を退け、日本沿岸の測量については許可したものの、キリスト教の布教については合意しなかった。
- ^ 申し入れが家康の元に届かなかったともいわれている。