田中勝介

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田中 勝介(たなか しょうすけ、生没年不詳)は、江戸時代初期の京都貿易商人。歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、また太平洋を横断・往復した日本人とされる[1][注釈 1]。勝助とも。

人物概要・事績[編集]

田中勝介は慶長15年(1610年)8月1日、徳川家康の命を受け、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの帰郷に他の21人とともに同船してヌエバ・エスパーニャ(ノビスパン、現在のメキシコ)のアカプルコへ向かい同年11月13日に到着した。これは、前年にロドリゴがノビスパンへの帰任に際し、台風のため乗船のサン・フランシスコ号が遭難、慶長14年9月30日に上総国岩和田村(現御宿町)に漂着して乗組員317人が岩和田村の人達に救助されたこと[注釈 2]を契機としており、家康側近で財政家の後藤庄三郎(光次)の仲介でノビスパンへの渡航を許されたものである[1]

帰国にあたって、勝介はヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノとともに1611年3月22日にアカプルコを発ち、同年6月10日相模国浦賀神奈川県横須賀市)に到着した。ビスカイノは、エスパーニャ国王フェリペ3世の親書を携えて答礼使と金銀島探索の使命を帯びて来日しており、現在の全権大使にあたるとされる。ビスカイノによれば、勝助は洗礼を受け、洗礼名をフランシスコ・デ・ベラスコといい、太平洋渡海中は善良な態度で周囲の尊敬を集めていたという[1]。なお、このとき、使節団のうち、アロンソ・ムニョス神父は家康の使節としてエスパーニャ本国に向かい、3名はヌエバ・エスパーニャに残り、帰朝したのは勝介ほか17名とされている。

エスパーニャとの通商を試みての渡航であったが、通商に関しての具体的合意には至らなかった。ただし、合意には至らなかったのは、全権大使的立場にあるビスカイノと大御所家康との間で行われた協議の結果であり、勝介の責任ではなかった。帰国後の勝介は、家康に葡萄酒と羅紗を献上したことが『駿府記』慶長16年7月22日条にみえる[1]。また、将軍徳川秀忠にも五色羅紗と葡萄酒を献上したといわれる。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 記録に残り名前が判明している日本人では勝介が最初であるが、勝介以前にも無名の日本人が太平洋を横断した可能性はある。多くの日本人がルソン島に渡っており、遭難し救助されたサン・フランシスコ号の乗組員の中にも日本人がいて通訳をしたと伝えられている。
  2. ^ このときの死者・行方不明者は合わせて56名といわれている。

出典[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]