ロドリゴ・デ・ビベロ

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ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ(Rodrigo de Vivero y Velasco、1564年 - 1636年)は、エスパーニャ貴族植民地政治家江戸時代初期に日本を訪れた人物でもあり、ドン・ロドリゴの名で知られる。

生涯[編集]

1564年に父の任地のヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)で生まれ、エスパーニャ本国で成長し、フェリペ2世王妃アナ・デ・アウストリア小姓などを勤める。その後、ヌエバ・エスパーニャ副王だった伯父のルイス・デ・ベラスコに重用され、1595年サン・フアン・デ・ウルア要塞守備隊長兼市長、1597年タスコ市長、1599年ヌエバ・ビスカヤ地方長官兼軍司令官を経て、前総督在任中の死去にともない1608年に臨時総督としてフィリピンに派遣される[1]

フィリピン臨時総督の後、パナマ地方長官兼軍司令官などを勤め、1627年フェリペ3世によりバリエ・デ・オリザバ伯爵に叙爵され、1636年に没した。

日本との関係[編集]

フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送り、ヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まる。

1609年慶長14年)、次期総督と交代のため召還命令を受け、戦艦3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」は難破、9月30日に 上総国岩和田村(現千葉県御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される[2]。なお僚艦の「サンタ・アナ号」も、9月12日豊後臼杵中津浦に緊急入港し[3]、もう一隻の「サン・アントニオ号」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。

地元民に救助されたロドリゴ一行は、時の大多喜藩主・本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。

サン・ブエナ・ベントゥーラ号には、ヌエバ・エスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父や京の商人・田中勝介らも同乗した。その翌年の1611年(慶長16年)、田中勝介らとともにヌエバ・エスパーニャからセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日し、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロ支倉常長慶長遣欧使節団とともにサン・フアン・バウティスタ号で帰国した。

後に、日本が開国し諸外国と国交を開いた際不平等条約が当然だったなか、1888年明治21年)に締結した日墨修好通商条約が平等条約だったのは、メキシコと日本はこのころから交流のある互いに対等な国家だったからであり、欧米列強との不平等条約を改正できた背景にこの友好的な日墨関係があるとも言われている。

現在、ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走るロドリゴ駅伝が、漂着した御宿町、いすみ市大多喜町で開催されている。

脚注[編集]

  1. ^ 前総督ペドロ・アクーニャ死去時、伯父のルイス・デ・ベラスコが2期目のヌエバ・エスパーニャ副王に在任していた。
  2. ^ 地元の海女が救難者を人肌で温めたと伝えられる。この故事を記念して1928年、御宿にメキシコ記念塔が建てられた。
  3. ^ 緊急入港したサンタ・アナ号は破船せず、家康の発行した朱印状があったため、厚遇された。