首里城

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首里城
沖縄県
正殿正面(2009年3月撮影)
正殿正面(2009年3月撮影)
通称 なし
城郭構造 山城
天守構造 なかったと推測
築城主 不明
築城年 14世紀末(推定)
主な改修者 尚巴志
主な城主 第一尚氏、第二尚氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石門、石垣
指定文化財 国史跡
世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)
再建造物 正殿・門・御嶽・城壁
位置 北緯26度13分1.31秒
東経127度43分10.11秒
  

首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった

目次

[編集] 概要

琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。

[編集] 歴史・沿革

戦災で失われる前の正殿(空手演武) - 1938年(昭和13年)
城壁
城内より市街を望む

首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀グスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の消失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。

1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。

王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年(昭和3年)~1933年(昭和8年))に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた。太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる。)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。

戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。

1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年(平成元年)に遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。

1992年(平成4年)には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には「首里城跡」(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

[編集] 歴代城主

第一尚氏)尚巴志--尚忠--尚志達-----中略-----(第二尚氏尚円--尚宣威--尚真-----中略-----尚育--尚泰

[編集] 構造

「龍樋」横の石碑

他の日本の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に赤瓦が使われ、各部の装飾には国王の象徴であるが多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。

首里城は外郭と内郭からなり、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿・奉神門などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門があった。瑞泉門には「龍樋」という名の泉があり、龍の頭の形をした銅製の樋から水が流れ出している。ここには「中山第一甘露」の石碑があり、中国の使臣が残した碑刻がある。

瑞泉門を通り、漏刻日時計で時間を計測していた漏刻門を抜けると、司法や寺社宗廟関係の機関が入居していた楼閣・広福門に至る。広福門の内側は、系図座・用物座(家系図や城内の物品を管理する機関)や、御庭につながる奉神門、祭祀空間である「京の内」(けおのうち)に囲まれた下之御庭(しちゃぬうなー)が広がる。ここは御庭に入る前の控えの場であり、首里城の10ある御嶽のひとつ・首里森御嶽(すいむいうたき)がある。「君誇御門」(きみほこりうじょう)とも呼ばれた奉神門をくぐると正殿などに囲まれた御庭が広がる。

正殿前の御庭(うなー)

正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を迎え入れたりするための御庭(うなー)と呼ばれる広場が設けられている。それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、御庭への入り口となり行政施設も入っていた奉神門が建てられている。さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっている。これらの構造には、中国の紫禁城との類似性も指摘されている。南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、ここのみ和風の意匠が用いられていた。王の執務する建物であった書院および鎖之間は南殿の隣にある。

正殿内部の玉座(復元)

王の居住する中心部は正殿(せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふー)と呼ばれた。中には一階と二階の両方に御差床(うさすか)という玉座が設けられ、二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていた。沖縄戦で全て失われたが、康熙帝の贈った「中山世土」の扁額だけが本人の筆跡や落款を再現した上で復元され飾られている。

正殿裏側は「御内原」(うーちばる)と呼ばれる私的な生活空間に当たる。王の住む「二階御殿」が再建されているほか、王妃らの寝室があり国王以外の男性は入れなかった「黄金御殿」、王位継承の儀式を行う「世誇殿」などかつて存在した建物の復元のための発掘や建設工事がすすんでいる。

本来の木造建築として復元された建物は正殿のみである。正殿は、沖縄本島北部の山から大木を運ぶ「木曳式」などの儀式が行われた後、台湾などからの木材を用いて再建された。他の建物ではコンクリートを用いるなど外観のみの復元といえる。旧来の城壁は一部に残っており、新しい城壁の建設の際に発掘され利用されたため、地表近くに旧来の城壁の姿を見ることができる。これが唯一残ったオリジナルの首里城の遺構である。

[編集] 宗教的役割

下之御庭の中央にある首里森御嶽

首里城は政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもある。以前は城内には十ヶ所の御嶽があり、また首里城内郭の南側の大きな範囲を「京の内(けおのうち)」と呼ばれる聖域が占めていた。「京の内」は十ヶ所の御嶽のうちの数ヶ所と、鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所だったが、この森こそが首里城発祥の地であり、首里城を国家の聖地とさせている重要な場所であった。聞得大君をはじめとする神女たちが京の内で祭祀を行っていたが、その祭祀の内容やはっきりとした京の内内部の様子はいまだによくわかっていない。現在ここで行われた祭祀の研究に基づき公開に向けての整備工事が進められている。

敷地内の御嶽等は単なる遺跡ではなく、現在に至るまで信仰の対象であった。琉球大学があった頃には、立ち入りが自由であったため、その構内のあちこちの拝所には常に線香やウチカビ(紙銭)が供えられ、主として女性の拝む姿がよく見られたものである。しかし、首里城の復元によって無断の立ち入りが禁止となってしまった。このため「首里城の建物は復活したが拝所としては破壊された」との声もある。

[編集] 城内施設

  • 正殿
  • 北殿
  • 南殿・番所
  • 書院・鎖之間
  • 御庭
  • 奉神門
  • 継世門
  • 右掖門
  • 供屋(万国津梁の鐘)
  • 日影台
  • 広福門
  • 首里森御嶽
  • 京の内
  • 漏刻門
  • 弁財天堂
  • 円鑑池
  • 久慶門
  • 系図座・用物座
  • 瑞泉門
  • 龍樋
  • 歓会門
  • 木曳門
  • 西のアザナ
  • 龍潭
  • 園比屋武御嶽石門
  • 守礼門
  • 円覚寺
  • 首里杜館

[編集] 交通アクセス

  • 最寄り駅
沖縄都市モノレール線(ゆいレール)終点の、「首里駅(しゅりえき)」。
 この駅より下記「外部リンク」の通り、首里城下の町並みを散策しながらの、バス(所要約3分)、徒歩(約15分)、またはタクシー利用での城跡見物が可能である。また徒歩客は、同 儀保駅を利用する事もできる(徒歩十数分)。
  • 路線バス
路線の詳細は沖縄本島のバス路線を参照されたい。 
「首里城前」バス停
8番・首里城下町線 (沖縄バス
上記最寄り駅「東口」(根気食堂前)より下記「外部リンク」の通り、城前を通る地域周回バスが走っている。
ちなみに最寄り停留所ではないが、下記のバス停を利用する事もできる。
「首里城公園入口」バス停
1番・首里牧志線 (那覇バス市内線)
8番・首里城下町線 (沖縄バス)
17番・石嶺(開南)線 (那覇バス市内線)
46番・糸満西原(鳥堀)線 (那覇バス市外線)
(参考:バスマップ沖縄

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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