月山富田城

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月山富田城
島根県
月山
月山
別名 月山城、富田月山城
城郭構造 複郭式山城
天守構造 なし
築城主 佐々木義清
築城年 1185年(文治元年)頃か
主な改修者 尼子経久堀尾吉晴
主な城主 尼子氏吉川元春堀尾吉晴
廃城年 1611年(慶長16年)
遺構 石垣、曲輪、堀切、井戸
指定文化財 国の史跡
再建造物 石垣、侍所
位置 北緯35度21分39.42秒
東経133度11分6.94秒

月山富田城(がっさんとだじょう)は、島根県安来市広瀬町富田に所在した城郭。月山(標高197m)に営まれる。戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。城郭跡は国の史跡に指定されている。

概要[編集]

歴代の出雲国守護職の居城で1396 ~1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。天然の地形を利用した、最も難攻不落要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われた(詳細は月山富田城の戦い参照)が、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)、堀尾忠晴松江城に移り廃城となった。それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。

歴史・沿革[編集]

平安時代[編集]

  • 保元平治頃、「平景清が富田荘に来た時、八幡社を移して、築城した」との伝承あり。

鎌倉時代[編集]

1221年承久3年)の承久の乱の功により、佐々木義清出雲隠岐2国の守護となり[1]、彼国に下向し、承久の乱宮方の歿官領である月山富田城に入る。

南北朝時代[編集]

室町時代[編集]

安土桃山時代[編集]

  • 1567年(永禄10年) 城代として天野隆重が居城。
  • 1569年(永禄12年) 尼子氏旧臣山中幸盛ら尼子再興軍を催して当城を攻めるも、落ちず。
  • 1570年(元亀元年) 毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退する。
  • (この間は、下記「歴代城主」参照)

江戸時代以降[編集]

歴代城主[編集]

構造[編集]

富田月山城絵図

富田城は靴のような形の月山(吐月峰、標高191.5m)山上に本丸をおく典型的な山城である。

南東以外の三方は急峻な斜面であり、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねる。進入路は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの搦手道(からめてみち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの裏手道(うらてみち)の3か所がある。これらの全ての登り口には城門を構え、門の外には深い堀がめぐらされ、そこから飯梨川(現在の西2~400mを流れていた)までが城の外郭となっていた。すべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結ぶ。

現存する古絵図では石垣や瓦葺きなどが描かれているが、これらの古絵図が描かれたのは江戸時代である(後述の城安寺が所蔵している堀江友声作の「月山古城絵図」など)、発掘されている石垣が作られたのは関ヶ原の戦い後の堀尾氏による改築と推定される。尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は、定かではないが、尼子氏の館(平素の住居)は里屋敷とよばれ菅谷口にありまわりに侍屋敷を設けたとされる。


山頂部の郭[編集]

本丸
月山最高所(吐月峰)に位置し、別称は"甲の丸"とも言われる。二の丸とは深さ7~8mの堀切で仕切られる。ここに所在する勝日高守神社は城の守護神社で、築城以前から所在したと伝えられる。
二の丸
三の丸に続き、遠くに中海、さらに日本海を望むことができる。双児井戸跡が残る。
三の丸
袖ヶ平の石垣を隔てた一段上に位置する。
袖ヶ平(そでがなり)
「七曲り」を登りきったところにあり、西方を監視する櫓があったと伝わる。石垣が残る。
鉢屋ヶ成(はちやがなり)
山頂部、本丸の北東側に位置し、尼子経久の富田城奪回に協力した鉢屋氏ゆかりの地とも伝わる。
七曲り
山中御殿平から山頂部へ続く道。かなり急峻で、現在は石畳で舗装されている。途中に堀尾河内守・掃部父子を供養する親子観音、山吹井戸がある。

山麓部の郭と門[編集]

山中御殿跡と月山
山中御殿平(さんちゅうごてんなり)
御殿が所在したところで、麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれたものと考えられている。上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。
大手門跡(おおてもんあと)
大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口に位置する。高さ5m、幅15mの大手門は、押し寄せる敵を押し返したと伝わるが、崩落して現存しない。この大石垣の下には径2m、深さ3mの軍用大井戸があり、現在でも水が湧いている。
花ノ壇(宗松寺平(そうじょうじなり))
大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する。かつて、多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されている。
奥書院平(おくしょいんなり)
大手道と搦手道の間、太鼓壇と山中御殿平の間に位置する。奥書院があったと伝えられ、現在は戦没者慰霊碑が建っている。
太鼓壇(たいこだん)
千畳平に続く南側の郭で、時と戦を知らせる大太鼓が置かれていたと伝わる。現在、山中幸盛の銅像と尼子氏の碑が建っている。
千畳平(せんじょうなり)
太鼓壇に続く北側の郭で、御子守口の正面に位置し、城兵集合の場として使われたといわれる。北端には尼子神社と櫓跡があり、周囲に石垣が残る。
馬場跡(ばばあと)
太鼓壇・千畳平の北側に位置する。
能楽平(のうがくなり)
御子守口からの搦手道と塩谷口からの裏手道の間に位置する。西端に幸盛井戸がある。
御茶庫台(おちゃこだい)
巌倉寺の奥、西側最下段に位置し、飯梨川に面する。堀尾吉晴の墓と伝わる巨大な五輪塔と、堀尾吉晴の妻の建てた山中幸盛の慰霊碑がある。
台東成(だいとうなり)
裏手道の正面に位置する。石垣が残る。
搦手門(からめてもん)
南側の塩谷口から山中御殿平に続く門で、御殿平の南側に位置する。石垣が残り、尼子経久が塩冶掃部介を襲撃した際には、ここから侵入したと伝えられる。
菅谷虎門(すがたにとらもん)
北側の菅谷口から山中御殿平に続く門で、石垣が残る。

その他の施設[編集]

城安寺(じょうあんじ)
菅谷口にある臨済宗寺院。雲竜寺と号し、聖観音をまつる。寺伝によると正和年間、源翁和尚の開山という。堀尾忠晴と共に一時、松江に移ったが、のち広瀬に戻り、さらに広瀬藩陣屋の予定地とになったため、現在地に移された。この付近に里御殿があったという。寺にある木造広目天立像(像高97.6センチメートル)は1902年(明治35年)、木造多聞天立像(像高95.7センチメートル)は、1903年(明治36年)に重要文化財に指定されている。2体ともヒノキ寄木造りで、鎌倉時代の作、本尊の脇侍である。境内には広瀬藩9代藩主松平直諒の墓、また寺宝に直諒の御抱絵師であった堀江友声の描いた富田城絵図や尼子十勇士絵巻物が伝わる。
巌倉寺(いわくらでら)
御子守口にある真言宗寺院。睡虎山と号し、聖観音をまつる。縁起では726年(神亀3年)、聖武天皇の命により行基が建立したと伝える。もと月山の南にある高木山を佐々木義清が御子守神社とともに、城内に移したものと伝えられる。本尊の木造聖観音像は高さ1.8メートル、ヒノキ一木造りで、脇侍の帝釈天立像とともに重要文化財に指定されている。また、1592年(文禄元年)銘の鉄燈籠は、市指定文化財となっている。
御子守神社(おこもりじんじゃ)
御子守口にある鬼子母神を祀る神社。巌倉寺と同じく、もと高木山にあったものを佐々木義清が、城内に移したものと伝えられる。
塩冶興久の墓(えんやおきひさのはか)
御子守口、道の駅駐車場の裏手に建っている。
新宮党館跡(しんぐうとうやかたあと)
北麓の新宮谷に位置し、尼子氏新宮党の館が置かれた。

参考文献[編集]

補註[編集]

  1. ^ 一説に、「文治元年(1185年)、出雲隠岐両国の守護となり、月山富田城に入る」とする本もあるが、実際には承久の乱の功により、出雲隠岐の2国を賜ったため、この年代に関しては疑わしい。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]