津和野城

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津和野城
島根県
人質郭跡と三の丸
人質郭跡と三の丸
別名 一本松城、三本松城、石蕗城
城郭構造 連郭式山城
築城主 吉見頼行
築城年 永仁3年(1295年
主な改修者 坂崎直盛
主な城主 吉見氏坂崎氏亀井氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 櫓2棟、石垣、空堀
指定文化財 国の史跡
位置 北緯34度27分37秒
東経131度45分51秒

津和野城(つわのじょう)は日本の城。城跡は国の史跡に指定されている。

概要[編集]

津和野城は津和野盆地の南西部に横たわる標高367メートルの山上、島根県鹿足郡津和野町後田にある山城である。築城時からは少なくても室町時代後期(戦国時代)までは三本松城(もしくは一本松城)と呼ばれていた。尾根伝いに南にある出城の中荒城は、当城と併せて史跡指定されている。

江戸時代には津和野藩亀井氏居城であったが、藩庁は急峻な山城を避け山麓に置かれた。

歴史[編集]

鎌倉時代[編集]

鎌倉時代元寇の翌年の弘安5年(1283年吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任した。永仁3年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324年)完成した。以後、14代にわたり吉見氏が居城とした。

戦国時代・江戸時代[編集]

吉見氏は戦国時代には当初、大内氏に属していたが、11代当主正頼天文23年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢と100日以上に及ぶ籠城戦が生じる(三本松城の戦い)。その後、吉見氏は防長経略を経て毛利氏の配下となり、引き続き津和野城を居城とした。その後、慶長5年(1600年関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏が2か国に押し込められたると、吉見氏も津和野を退去して萩に移住した。

代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。この時、二の丸に天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)に千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏改易となった。

元和3年(1617年因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。

近現代[編集]

明治4年(1871年廃藩置県により廃城となり、翌年、山上の城は解体された。

昭和17年(1942年10月14日、国の史跡に指定される。昭和47年(1972年)と平成19年(2007年)には、史跡の追加指定が行われて指定範囲が拡大した。

昭和46年(1971年)には山上への観光リフトが完成した。また、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(66番)に選定された。

遺構[編集]

明治時代廃城となり、山上には石垣(堀切、堅堀、連続堅堀など)が残る。山麓には馬場先(島根県指定文化財)、物見櫓が現存している。また、藩主屋敷は島根県立津和野高等学校になり、庭園は嘉楽園となった。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]