盛岡城

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盛岡城
岩手県
盛岡城の石垣
盛岡城の石垣
別名 不来方城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 御三階櫓(1842年以降は天守)
不明3重(1633年築)
独立式層塔型3重3階(1676年再 非現存)
築城主 南部信直
築城年 1598年
主な改修者 南部重直
主な城主 南部氏
廃城年 1871年
遺構 石垣、土塁、堀、移築土蔵・門
指定文化財 国の史跡
位置 北緯39度41分59.81秒
東経141度9分0.4秒
盛岡城の位置(岩手県内)
盛岡城
盛岡城
盛岡城の位置

盛岡城(もりおかじょう)は岩手県盛岡市陸奥国岩手郡)にあった日本の城である。国の史跡に指定されている。別名は不来方城(こずかたじょう)であると一般に理解されているが、厳密には盛岡城の前身であり両者は別の城郭である。

概要[編集]

「盛岡城」は南部(盛岡)藩南部氏の居城である。西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地、現在の盛岡市中心部にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られ現在は朱塗りの橋が架かっているが、存城当時は廊下橋(屋根のかかった橋)が架けられていた。さらにその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた。後、1842年天保13年)に12代利済により天守へと改称されている。

白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。建造物は明治初頭に解体され、現存するものは少なく、城内に移築された土蔵と、市内の報恩禅寺(名須川町1-5)に移築されたとされる門が残る。なお、移築門については城門であった確証は得られていない。また、清水寺に、いずれかの門か定かではないが城門が、木津屋本店奥土蔵(南大通3-20)、岩手川(旧・浜藤酒造、鉈屋町10番)に土蔵が再移築され現存する。また、徳清倉庫(仙北1-13-7)に二の丸にあった勘定奉行所の一部が移築されている。ほか、日露戦争で戦死した南部家第42代当主、南部利祥を表彰した騎馬像「南部中尉銅像」が1908年に建立されたが、太平洋戦争中の1944年金属供出で持ち去られ、現在に至るまで台座しか残されていない(櫻山神社に胸像部の鋳型が、馬の頭の部分の鋳型が名須川町の報恩寺に現存する)。

現在の盛岡城址は「岩手公園」としたとして整備されz(ただし、後述の問題あり)、当地出身の宮沢賢治の詩碑や、石川啄木

不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心

と刻まれた歌碑などが公園内にある。

歴史・沿革[編集]

近世以前[編集]

平安時代後期にあっては、清原武則[1]の甥橘頼為の本領として『陸奥話記』に記された「逆志方」とは、不来方のことであるという説がある[2]

近世[編集]

安土桃山時代[編集]

これより先、南部氏の臣下である福士慶善淡路が不来方の地に設けた「慶善館」が、すなわち本来の「不来方城」である。福士氏は南部氏が滅ぼした九戸氏と縁戚関係にあり、これを忌避した南部氏が不来方から福士氏を遠ざけたことにより、当地は南部氏の居城となった。

江戸時代[編集]

  • 慶長年間(-1615年)には総石垣の城としてほぼ完成、利直は地名を「盛り上がり栄える岡」と言う願いを込め、「不来方」から「盛岡」に改めた。なお、利直が三の丸を整地した際に見つかった烏帽子岩(宝大石)は現在も三の丸跡に鎮座し、櫻山神社(旧・淡路丸大明神)の社宝として崇敬されている。
  • 築城と共に城下町の建設を進め、中津川以北の湿地帯を埋め立てて市街地とした。また、中津川には「上ノ橋」「中ノ橋」「下ノ橋」(盛岡三橋)が架橋された。
  • 1609年(慶長14年) 「上ノ橋」に、1611年(慶長16年)には「中ノ橋」に、それぞれ城下町建設を記念して、旧府・三戸から移された青銅製の擬宝珠が付けられた。現存する「上ノ橋」の擬宝珠は、国の重要美術品に認定されている。
  • 盛岡城の全城が竣工したのは3代藩主重直の時代、1633年寛永10年)である。翌1634年(寛永11年)失火により本丸を焼失し、一時、福岡城(九戸城)を居城とした。翌年の1635年(寛永12年)には修復され、再び盛岡城に戻り、以後、盛岡藩の藩庁として明治維新を迎えた。

近現代[編集]

  • 1871年明治4年) 廃藩置県により廃城。
  • 1874年(明治7年) 廃城令では当初存城とされたが、老朽化が著しく一般に払い下げとなり、ほとんどの建物が解体移築された。その後、陸軍用地となった土地の建物を除いて旧藩主南部家に払い下げとなる。
  • 1906年(明治39年) 岩手県に貸与され「岩手公園」として開園した。
  • 1934年昭和9年) 旧城地は南部家より盛岡市に譲渡された。
  • 1937年(昭和12年) 城跡が「濠湟石壁土壘尚ヨク存シ舊規模ノ見ルベキモノアリ」[4]として国の史跡に指定された。
  • 2006年平成18年)4月6日日本100名城(6番)に選定された。

岩手公園の改称問題[編集]

2006年(平成18年)5月、岩手公園が開園100周年を迎えるにあたり、盛岡市は「岩手公園」の正式名称を変更すると発表したが、数日後に「愛称を設定する」という表現に変更された。この発表は、盛岡市民にとって「寝耳に水」であり、愛称を一般公募しないまま、市が独自に選んだメンバーによる「愛称検討懇話会」にのみ諮って候補名を提示したことで、さらに市民の大きな不信を招き、地元メディアでも採り上げられ争論となった。同年8月に愛称を「盛岡城跡公園(もりおかじょうあとこうえん)」と「盛岡お城跡公園(もりおかおしろあとこうえん)」の二者択一とするアンケートを行い、「盛岡城跡公園」が賛成多数で決定、9月15日の岩手公園開園100周年記念式典で正式に発表された。この結果、道路標識、案内板や文書などでは「盛岡城跡公園(岩手公園)」と変更するように進められている。正式名称では「岩手公園」のままだが実質的には名称を変更したのに等しい。実際に、愛称選定の翌年の2007年(平成19年)9月に開始され、盛岡市が関わっている「いしがきミュージックフェスティバル」では、単に「盛岡城跡公園」としており、愛称選定の際に言及していた「(岩手公園)」の附記は実施されていない。

なお、先のアンケートで「盛岡城跡公園」が34パーセント、「盛岡お城跡公園」が22パーセントの賛成があったものの、愛称そのものに反対の意見が29%あった。

「巖手公園」碑など、開園当時を偲ばせる造作物や、宮澤賢治の作品名に「岩手公園」が存在するなど、名称そのものの歴史的価値が生まれており、「愛称が正式名称より長い」「観光客に誤解を与え混乱をきたす」など、改称には多くの問題が内在している。

「盛岡城」の周知を狙った施策ではあるが、城郭の復元もなされておらず、単に公園の名称を変えることで城の存在感を示すという動きには賛否両論がある。100年間使用されてきた名称を変える明確な意義や効果が示されない以上、この問題は解決が困難である。

しかし,盛岡市では盛岡城を復元させる取り組みが行われており,期待も高まっている。

催し[編集]

岩手公園では、多くの市民イベント、県民中央イベントが開かれる。

現地情報[編集]

所在地
  • 岩手県盛岡市内丸
交通アクセス
その他

2006年(平成18年) 、日本100名城(6番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

参考画像[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 源頼義父子に加担して安倍氏を倒した。橘頼為は清原氏・源氏連合軍に与力した。
  2. ^ 「方」は「万」の誤記で、「さかしま」と読み、秋田郡方面に比定する説もある。
  3. ^ 糠部郡は寛永11年(1634年)に北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割された
  4. ^ 盛岡城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]