九戸城

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九戸城
岩手県
九戸城の堀
九戸城の堀
通称 福岡城、宮野城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明
築城主 九戸氏
築城年 明応年間(1492年 - 1501年)
主な改修者 蒲生氏郷
主な城主 九戸氏南部氏
廃城年 寛永13年(1636年
遺構 曲輪、石垣、堀、土塁
指定文化財 国の史跡

九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内にあった城である。後に盛岡へと移るまで三戸氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名宮野城ともいう。国の史跡に指定されている。

目次

[編集] 概要

中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な築城年は不明である[1]。「九戸の乱」以後は、蒲生氏郷により改修され、南部宗家の本城となった。

馬淵川と白鳥川と猫渕川により三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)[2][出典 1][出典 2]松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。

城跡は、1935年昭和10年)6月7日、国の史跡に指定され、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている[3]

[編集] 沿革

天正期(1573年~1591年)の城主九戸政実は、三戸城にいた宗家の南部信直と対立、抗争を繰り返していた。

天正19年(1591年)、九戸政実は南部晴政亡き後、跡目相続争いを発端に南部信直に対して兵を挙げるが、南部信直が前田利家を通じ豊臣秀吉から領地安堵をとりつけたことから九戸政実の反乱とみなされ、豊臣秀次を総大将に徳川家康伊達政宗などが約7万の兵を率い討伐軍として派遣された。秀次は浅野長政蒲生氏郷堀尾吉晴らの諸将を率い、関東奥羽の諸将も討伐軍に従い、同年9月、上方軍勢約6万が九戸城を包囲した。九戸城を攻めるも九戸城を攻め切れず、難攻不落の城に苦戦を強いられた秀吉は謀略を巡らせ、九戸氏の菩提寺である長興寺の薩天和尚を使者にたて、助命を条件に九戸政実に開城を迫った。政実はこれを受け入れて開城したが助命の約束は反故にされ、城内に居た者は、女、子供構わずすべて二の丸に押し込められ惨殺、撫で斬りにされ、火をかけられた。その光景は三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。捕えられた政実も豊臣秀次の待つ三ノ迫(宮城県栗原市)で処刑された。この乱は、秀吉による天下統一の総仕上げとされるが、天下の豊臣軍が攻め倦んだ末に謀略、反故、撫で斬りといった史実は歴史書から抹消されたともいわれる。二ノ丸跡の発掘調査で、首を刎ねられて刀傷を負った、女性を含む複数の人骨が発掘されている[4]

この後、九戸氏の残党への警戒から、秀吉の命によって居残った蒲生氏郷が城下町と城を改修し、南部家の本城として南部信直に引き渡されて三戸城から居を移し九戸を福岡と改めた。しかし、領民は九戸氏への思いから九戸城と呼び続けた[4]慶長2年(1597年)の不来方(盛岡)築城によって南部氏の居城は盛岡城へ移されたが、城は寛永13年(1636年)の廃城、破却まであった[出典 1]

[編集] 脚注

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  1. ^ 『図説日本の史跡 第6巻 中世』、同朋舎、1991
  2. ^ 東北地方でいう「館」の意味は曲輪にあたる。用例には、根城の沢里館(さわさとだて)や七戸城の宝泉館(ほうせんだて)などがある。
  3. ^ 『図説日本の史跡 第6巻 中世』、同朋舎、1991
  4. ^ a b 二戸市教育委員会 九戸城跡

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 参考文献

  1. ^ a b 村田修三監修『ビジュアルワイド 日本名城百選』小学館 2008年 ISBN 978-4-09-681564-9
  2. ^ 財団法人日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社 2007年


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