盛岡藩
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盛岡藩(もりおかはん)は、現在の岩手県中北部(陸中国・旧陸奥国中北部)から青森県東部(陸奥国)にかけての地域を治めた藩。一般に「南部藩」とも呼ばれるが、江戸時代に「盛岡藩」と改められたため、これは旧称である。後に八戸藩と七戸藩が分かれた。藩主家は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は表高10万石であるが、内高は多く幕末に表高20万石に高直しされた。
同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、ここにまとめて記述する。
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[編集] 歴史
甲斐国(現在の山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に三戸城(現在の三戸町)を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。
天正18年(1590年)、南部信直が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して、所領の安堵状と朱印状を得て10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立し、慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、表高(軍役高)10万石の大名として認められた。このとき安堵された10ヶ郡は、現在の岩手・青森・秋田の3県にまたがっており、特に八戸地方や藩都が置かれた盛岡(現在の岩手県盛岡市)が栄えた。居城は、三戸城から九戸城(二戸)、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、盛岡城に移居している。
寛文4年(1664年)、第3代藩主の南部重直が、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に後継者選定と家の存続を事前に願って江戸で死去。重直の将軍への願いを知らされていなかったためか国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母実弟の七戸重信に与えて家を継がせ、同じく異母実弟(重信とも異母)の中里直好に新規に八戸2万石を与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。重信は天和3年(1683年)、新田開発高を幕府に届け出て高直しを願い、盛岡藩の領地域はそのままで10万石に復した。
文化5年(1808年)には、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し(文化の高直り)が行われ、藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、蝦夷地(現在の北海道)警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで、慢性的な赤字体質となり破綻寸前まで追い詰められる。文政2年(1819年)、盛岡藩から新田分5,000石を支給されていた分知旗本家(当時の当主・南部信誉)に新たに6,000石を支給し、支藩七戸藩(別名:盛岡新田藩)を立てる(但し、盛岡藩から蔵米を支給され実体領を持たない大名で、七戸に藩の政庁を置くのは明治維新後の明治2年(1869年)のことである)。
[編集] 鎌倉以来
鎌倉時代に頼朝に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の2家のみである。
ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。
[編集] 飢饉
古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から盛岡藩が廃藩置県された明治3年(1870年)までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。
特に沿岸部(閉伊・九戸・三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。
また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。
[編集] 飢饉による一揆
盛岡藩での一揆は記録にあるものだけでも133回(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)あり、江戸時代では一揆が最も多い藩であった。
原因としては以下の諸点が考えられる。
- 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
- 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
- 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めの為に用いられたこと。
- 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
- 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
- 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
- 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
- 藩札の大量発行によるインフレーション。
- 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
- 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
- 戦国時代以来のライバルである弘前藩、仙台藩に対抗する為に恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。
さらに、農民たちはこのような原因から起こった貧困を脱するため、偽金(密銭)を鋳造したが、藩側は原因となる問題を放置のまま、偽金の製造に関わる者、使用した者を重罪人として扱い、厳重に処罰した。それまで何とか偽金で食べ繋いで来た農民たちは、1万人規模の一揆を起こすようになり、それを成功させたのである。
[編集] 他地域との関わり
[編集] 白石藩
慶応4年(1868年)、奥羽越列藩同盟に加わって明治新政府に抵抗した為、仙台藩から没収された白石城(白石藩)に13万石で移されるが、罰金70万両を明治政府に納める条件で(実際は一部を納めたのみ)半年後13万石で盛岡に復し、明治3年(1870年)、財政困難から願いによって、廃藩置県に先立って盛岡県とされ、同県を経て藩領の大部分は岩手県の主要部分となった。最後の藩主(第16代藩主)は南部利恭である。
[編集] 蝦夷地との関わり
江戸幕府が成立すると徳川家康はアイヌ人の往来を自由とする黒印状を発布した。そこで17世紀、南部藩領のアイヌ人の津軽半島往来は自由に行われ、南部藩領には公式な戎村や、他にもアイヌ人の非公式な交易拠点があった。東北アイヌは和人風俗を身につけ、逆に和人領民の中にもアイヌ風俗が一部普及したため、日常ではアイヌと非アイヌの境界はあいまいだった。これを利用して南部藩はアイヌ人を仲介とした北方貿易の担い手にもなっていた。
寛文8年(1668年)、シャクシャインの乱に出兵しアイヌの蜂起を鎮圧した。
18世紀には、南部藩領内の飛騨屋が蝦夷地での木材業、のちに漁業に進出した。飛騨屋には下北半島や宮古周辺から出稼ぎ労働者が集まり、アイヌ人を酷使しながら大きな利益を上げた。やがて反発したアイヌ人の蜂起(国後目梨の戦い)したが、松前藩が鎮圧に成功した。このとき南部藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、南部藩に引き渡されている。
寛政11年(1799年)、幕府は千島列島に進出しつつあったロシアに対抗して蝦夷地の直轄領化が試みられた。このとき幕府より蝦夷地経営、警備の名目によって東北諸藩が出兵を命じられ、盛岡藩は後の渡島国(松前藩領を除く)・胆振国・択捉島の領域を担当した。特にレザノフの部下による択捉島攻撃の際は矢面に立ち、敗北している。南部藩はその後も対ロシア警備の前線を担当し、ゴローニンの逮捕も南部藩兵が行ったものである。
当初、幕命により箱館に陣屋を建設して警備に当たったが、新渡戸十次郎らの建策より1857年に室蘭に移った。これらは1868年の戊辰戦争の際に引き払ったが、跡地は現在でも残っている。
[編集] 盛岡藩と青森県
廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。
いわゆる「南部」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、下北地方も旧盛岡藩領である。
八戸市周辺から岩手県久慈市に到る海岸に沿った九戸郡を含む領域と志和4ヵ村は、旧八戸藩領である。志和4ヵ村は収穫量5000石の飛び領で、周辺の盛岡領の農民が八戸領農民を圧迫し、八戸の役人がたびたび交渉に赴き、ついには討って出ると迫って八戸領農民の権益を保護するなど、争いの地でもあった。
[編集] 鉄器、鉄製品
今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は17世紀中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。
また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、上記項目「飢饉による一揆」でも説明されたように、盛岡藩に出回った偽金の製造はこの地方が主流であったという(もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった)。
[編集] 歴代藩主
- 初代 南部信濃守利直(としなお)
- 2代 南部山城守重直(しげなお)
- 3代 南部大膳大夫重信(しげのぶ)
- 4代 南部信濃守行信(ゆきのぶ)
- 5代 南部備後守信恩(のぶおき)
- 6代 南部大膳亮利幹(としとも)
- 7代 南部大膳大夫利視(としみ)
- 8代 南部大膳大夫利雄(としかつ)
- 9代 南部大膳大夫利正(としまさ)
- 10代 南部大膳大夫利敬(としのり、トシヨシとも)
- 11代(1) 南部吉次郎利用(としもち)
- 11代(2) 南部大膳大夫利用(としもち、吉次郎利用が将軍家初見前に死んだため身代わりで襲封した)
- 12代 南部信濃守利済(としただ)
- 13代 南部甲斐守利義(としとも)、信候(のぶとも)とも言う。
- 14代 南部美濃守利剛(としひさ)
- 15代 南部甲斐守利恭(としゆき)
[編集] 支藩等
[編集] 八戸藩
八戸藩は陸奥国三戸郡八戸(青森県八戸市内丸)にあった八戸藩の藩庁である。
前述の通り、将軍の裁定により成立した藩であるため支藩ではない。(便宜上ここに記す。)
[編集] 概要
藩庁は八戸城である。盛岡藩との関係については、独立した関係とされる。文化9年(1812年)八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主南部利敬より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している。[1]
領内人口は最大で約2万2000人弱。[2]で、領地の内訳は三戸郡41ヶ村、九戸郡38ヶ村、志和郡(現在の岩手県紫波郡)4ヶ村の計83ヶ村。志和は飛び地の領域である。現在の八戸市域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは盛岡藩域に属している。貞享元年(1687年)に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。
角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。(詳細は八戸城の項目を参照。)
[編集] 行政組織
領内を「八戸廻・浜通」、「名久井・長苗代通」、「軽米通」、「久慈通」、志和に区分されて、それぞれ代官を置いた。各区域には各2名づつ代官が置かれていたが、志和については4名に増員された。[3]
[編集] 歴代藩主
- 初代 南部左衛門佐直房
- 2代 南部遠江守直政
- 3代 南部遠江守通信
- 4代 南部甲斐守広信
- 5代 南部遠江守信興
- 6代 南部甲斐守信依
- 7代 南部伊勢守信房
- 8代 南部左衛門尉信真
- 9代 南部遠江守信順
[編集] 七戸藩(盛岡新田藩)
[編集] 概要
別名、盛岡新田藩と言われる。陸奥国北郡(現在の青森県上北郡七戸町周辺)に領地があったと言われるが、書面上のものであったとも言われる。藩主は定府(江戸住まい)であったが、戊辰戦争後の戦後処理の際、盛岡藩重臣の新渡戸伝によって1863年に分知が実施されたとする書類が提示され(書類が本物であるかについては不詳)、これに基づく実際の領地が確定し、藩主が七戸に下った。陣屋門が1棟移築され現存する。 当初より七戸南部氏であったわけではなく、居所を七戸城とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。
なお、盛岡藩主となった七戸重信が養嗣子となって継いでいた七戸を知行地とする一族家臣七戸氏の跡は、重信の子の1人 愛信が継ぎ、七戸氏を称した。愛信は盛岡藩家老職を務めた。
[編集] 歴代藩主
[編集] 家老
- 遠野南部氏 (陸奥遠野領1万2700石・南部家一門)維新後男爵
南部直義-義長-義倫=利戡(藩主・利直の子、山田利長の子)=信有(藩主・重信の孫)-信彦=義顔(分家・馬牛八戸家一門の子)-怡顔=義尭(信彦の五男・義応の長男)-義茂=済賢(義尭の子)-義敦=行義
- 三戸氏(南部家庶流)※北宗家惣領三戸家
北信愛=三戸清乗(信愛の嫡孫)-式部
- 北氏(陸奥大湯領2760石・南部家庶流)※南氏系北氏嫡流
北直継-宣継-可継-恭継=可継(再承)=節継=継達=南部継隆-継熈=継処=継昌=継序-済揖-北斉大-南部済謙
- 中野氏 (陸奥花輪領3370石・南部家庶流)
中野元康(九戸政実の甥孫)-直保-永州-光康-康貞=康敬=康房-南部康孝-済愛-康彊=康直=康保

