盛岡藩
盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に「南部藩」とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は当初表高10万石であったが、内高は多く幕末に表高20万石に高直しされた。
同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、ここにまとめて記述する。
| 南部氏領(盛岡藩と八戸藩) | |
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| 黄色が盛岡藩領(+七戸藩領) ピンク色が八戸藩領 (八戸市博物館「八戸藩の誕生」) |
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目次 |
歴史[編集]
甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。それから、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町に三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。
鎌倉以来[編集]
鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の2家のみである(薩摩藩も江戸時代に万石級の家臣を抱えていた)[† 1]。
詳細は「南部氏」を参照
ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。
安土桃山時代[編集]
- 天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、志和郡、そして遠野保)についての覚書の朱印状を得る[1]ことによって、豊臣大名として公認された。
さらに、翌天正19年(1591年)九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)の代替地として和賀郡、稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県、青森県・秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷や浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。
江戸時代[編集]
- 慶長 5年(1600年)、関ヶ原の戦いで覇権を確立した徳川家康からもそのまま所領が安堵され、表高(軍役高)10万石の大名として認められた。
- 元和 3年(1617年)3月、盛岡藩主南部利直、八戸氏(根城南部氏)から下北の支配権を接収。
- 寛永 4年(1627年)3月、阿曽沼氏の旧領だった遠野地区が仙台藩との領境を接する防御上の用地であったため、藩主利直は南部一族の八戸直義(直栄)を八戸根城から遠野横田城へ陸奥国代として転封させて、中世以来の八戸の根城南部氏から、遠野南部氏となった。
- 寛永10年(1633年)3月、盛岡へ黒田騒動で筑前国福岡藩家老・栗山利章が南部家御預りとなる。この年、盛岡城が度重なる水害を経ておよそ40年の歳月を掛けて完成し、盛岡は正式な南部氏の城下町となった。
城から仰ぐ岩手山・早池峰山・姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城を中心として、上級武士(高知)を住まわせ、その周りに町人を、さらにそれらを、取り囲むように一般の侍町をつづけ、市中の平均した発展を図るために「五の字割」と呼ばれる町割りを行い、周辺の村々に通じる城下はずれの街道沿いには、警護の必要から足軽(同心)を住まわせた。さらに城下北東の山麓には、防護上の配慮から、、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立した。京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、大寶山東禅寺(臨済宗)、擁護山無量院教浄寺(時宗)、瑞鳩峰山報恩寺(曹洞宗)、大智山法泉寺(臨済宗)と合わせ特に「盛岡五山(盛岡五ヶ寺、北山五山)」と定め、東には八幡宮、天満宮、住吉神社などの神社を配した。
- 寛永11年(1634年)8月、糠部郡が北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割されて、徳川家光により、領内10郡10万石の領知判物拝領。
- 寛永12年(1635年)3月、朝鮮通信使を巡る柳川一件で対馬府中藩(長崎県対馬市)から、当時の有識者である規伯玄方(「方長老」と呼ばれた)が、遠く九州からお預けの身となったが、当時の藩主は茶の湯や漢文を始めとする文化の師として厚遇し、京や西国、大陸の文化を取り入れることに成功した。また、これが地場工芸の南部鉄器や作庭、後世の菓子創作などに影響し、盛岡における芸術文化の土壌を生み出したと考えられている。この頃、藩主は「蛭子屋三衛門」(現・小野染彩所)を御用染司として京都から招いた。
物流は北上川舟運による輸送が主流であり、仙台藩の石巻を経由して江戸・上方と結ばれていたが、西には鹿角街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した近江商人をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人のほか、山城(京都府)・大坂(大阪府)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・常陸(茨城県)・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。
殊に京都(京)からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また上方(関西地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町(秋田県仙北市からの移住者が集住)、津軽町(青森県津軽地方からの移住者が集住、現在の津志田)のほか、「岩手町・久慈町」(現在の材木町)など、領内各地からの移住者による町も生まれた。
- 万治 2年(1659年)、茶道に造詣の深い第2代藩主南部重直は、甲州から鋳物師の「鈴木縫殿(ぬいと)家綱」(現・鈴木盛久工房)を、京都より釜師「小泉仁左衛門五郎七」(現・御釜屋)を召抱え、領内の良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を進めた。以後、南部釜と称される南部鉄器の本格的な生産が開始される。
- 寛文 4年(1664年)9月、第3代藩主の南部重直が、江戸幕府第4代将軍・徳川家綱に後継者選定と家の存続を事前に願って江戸で死去した。
重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の七戸重信に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の中里直好に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。
- 天和 3年(1683年)、重信は新田開発高を幕府に届け出て高直しを願い出たが、領内各村に一定の割合を乗じて算出した増加分で盛岡藩の領地域はそのままで10万石に復した。
- 元禄 7年(1694年)、盛岡藩第5代藩主南部行信は弟の政信(麹町候)に5,000石、同じく勝信(三田候)に3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕させる。
- 元禄16年(1703年)、越前国金剛院の僧「空念」の推挙により、南に「南部の繁昌」を願い、毒ケ森を南昌山と改名した。
- 文化 5年(1808年)には、盛岡藩第11代藩主南部利敬は蝦夷地警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直し(文化の高直り[2])が行われる。さらに格式も「国持大名」に準じたことを記念し、以後領国を「南部」から「盛岡」へ改めるよう通達した。これにより、城下町盛岡と領国名とが同一となった。
石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、参勤交代や蝦夷地(現在の北海道)警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。
- 文政 2年(1819年)、盛岡藩から新田分5,000石を支給されていた分知旗本家(当時の当主・南部信誉)に新たに6,000石を支給し、支藩の七戸藩(別名:盛岡新田藩)を立てる(ただし、盛岡藩から蔵米を支給され、実体領を持たない大名で、七戸に藩の政庁を置くのは明治維新後の明治2年(1869年)のことである)。
この時期の商業として特筆されるのは、創始を元和年間に遡る「菊の司」(現・菊の司酒造)以下、明和4年(1767年)に醸造業「近江屋」(現・平金商店)、文化13年(1816年)に荒物商「茣蓙九」(現・茣蓙九森九商店)、安政4年(1857年)に薬種商「村源」、慶応2年(1866年)鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店」(現・川徳)として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで存続している例が多いことである。
- 文政 4年(1821年)4月、相馬大作事件が起こる。この史実は、250年前に津軽氏(弘前藩主)が南部氏に対して謀反を起こしたことを発端とするもので、南部氏やその家臣の津軽氏に対する遺恨の深さを示すものである。下斗米秀之進は「赤穂義士の再来」と江戸市民に称えられ、藤田東湖に影響を与えたほか、のちに歌舞伎の演目として用いられた。
- 天保11年(1840年)、「順正書院」を設けたことで知られる蘭方医の新宮涼庭が京都から来盛、御稽古場を基に藩校「明義堂」設立。八角高遠(後に明義堂教授)がオランダ医学を学ぶため上京。
- 嘉永 2年(1849年)、元禄、宝暦、天明、天保の飢饉供養のため、祗陀寺14世・天然和尚により、宗龍寺に「五智如来・十六羅漢」(現・らかん公園)が完成。
- 安政 4年(1857年)、盛岡藩第14代藩主・南部利剛に水戸藩主・徳川斉昭の三女・明子姫が輿入れした。在任中に戊辰戦争が勃発、幕府方として奥羽越列藩同盟に加わったことにより、後にその責を負うこととなった。
- 文久 3年(1863年)、八角高遠・大島高任により洋学校「日新堂」設立。
- 慶応元年(1865年)、明義堂を拡充し「作人館」へ改称(後の盛岡市立仁王小学校)。
- 慶応 3年(1867年)10月、大政奉還。12月、王政復古の大号令。
明治維新[編集]
明治元年(1868年)、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。
なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主南部信順が薩摩藩主島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。
- 明治元年 9月、盛岡藩、新政府軍に全面降伏。
- 明治元年12月 7日、南部利剛は奥羽越列藩同盟に加わったかどで隠居差控を命じられ、盛岡藩領20万石を幕府直轄地として没収。17日、南部家第41代当主・南部利恭が家名相続許されて、白石への減転封を課せられる。
戊辰戦争の戦後処理として、途中から新政府側に参加した秋田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と会津藩、庄内藩、それに近江国朝日山5万石で移された山形藩などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7000石などがあった。
- 明治2年 6月23日、楢山佐渡、盛岡・報恩寺において刎首。
白石藩[編集]
明治政府が仙台藩から没収した旧仙台領の一部、白石13万石(刈田郡、伊具郡、柴田郡、伊達郡の一部)に減転されるが、当時南部氏は白石に入らず、重臣を中心とした国替停止、盛岡城地安堵の運動が続けられ、領民も政府に対して、藩主・利恭の盛岡復帰請願を行なったが、明治 2年(1869年)4月、それまで片倉氏の預かりであった白石城が南部氏に引き渡され、6月、南部利恭は白石藩知事に任命されたが、7月、上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、(実際は一部を納めたのみ)、明治 2年(1869年)、8月10日、盛岡藩知事となり陸中四郡(岩手郡、紫波郡、稗貫郡、和賀郡の一部)13万石を管轄した。
白石藩はその後、明治2年9月に旧仙台領分は白石県となり、11月県庁を角田に移し角田県となる。
廃藩[編集]
明治 3年(1870年)7月10日、盛岡藩は財政難により廃藩置県に先立って廃藩を申し出、旧領には明治政府により盛岡県が設置された。盛岡県は明治 5年(1872年)1月8日に岩手県と改称され現在に至る。盛岡県成立時の領地は陸中国岩手郡、稗貫郡および紫波郡、和賀郡の一部のみで、陸奥国北郡、二戸郡および三戸郡の一部と陸中国鹿角郡および九戸郡の一部は九戸県に、陸中国閉伊郡および和賀郡の一部は江刺県にそれぞれ移管された。
盛岡城の城郭は明治元年(1868年)に新政府に接収され、当初は廃城令の存城とされたものの、建物の老朽化が著しく、明治7年(1874年)に廃城となり、建造物はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、盛岡城の地上建造物が残されていないのはこのためである。
歴代藩主[編集]
- 初代 南部信濃守利直(としなお)
- 2代 南部山城守重直(しげなお)
- 3代 南部大膳大夫重信(しげのぶ)
- 4代 南部信濃守行信(ゆきのぶ)
- 5代 南部備後守信恩(のぶおき)
- 6代 南部大膳亮利幹(としとも)
- 7代 南部大膳大夫利視(としみ)
- 8代 南部大膳大夫利雄(としかつ)
- 9代 南部大膳大夫利正(としまさ)
- 10代 南部大膳大夫利敬(としたか)
- 11代 (1)南部吉次郎利用(としもち)
- 11代 (2)南部大膳大夫利用(としもち、吉次郎利用が将軍家初見前に死んだため身代わりで襲封した)
- 12代 南部信濃守利済(としただ)
- 13代 南部甲斐守利義(としとも)、藩主時代は信候(のぶとも)と称していたが、隠居後の利義が有名。
- 14代 南部美濃守利剛(としひさ)
- 15代 南部甲斐守利恭(としゆき)
藩の職制[編集]
藩の行政組織は幕府から指定された、10万石の軍役組織によるものであった。[3]
中央の職制は幕府のそれをほぼ模倣し、藩主の下に家老のほか諸役をおいた。常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。
| 藩主 | - | 家老 | - | ┌ | 御近習頭 | |
| ├ | 御留守居 | |||||
| ├ | 御用人所 | |||||
| │ | ├ | 御用人 | ||||
| │ | └ | 御側御用人 | ||||
| ├ | 御目付所 | |||||
| │ | └ | 大目付 | ||||
| ┼ | 御勘定所 | |||||
| │ | └ | 元締 | ||||
| ├ | 北地御用所 | |||||
| │ | └ | 北地御用大番頭 | ||||
| ├ | 御中丸御番頭 | |||||
| ├ | 御新丸御番頭 | |||||
| ├ | 加番組 | |||||
| └ | 新番組 | |||||
家老[編集]
- 藩政初期
家老には大身の老臣が就いていた。また戦国期の規律を引き継ぎ、大身は陪臣を持っていたり、その家禄に応じて役職に任じられたり軍備を担っていた。
慶長5年(1600年)時点では1000石以上の家臣が22家あった[4]。
- 八戸氏 - 1万3000石、後の遠野南部氏。
- 北信愛 - 8000石、子息がすべて別家し信愛が名跡継承を願わず絶家。
- 浄法寺氏 - 5000石、岩崎一揆鎮圧の際に当主・浄法寺重好が軍令違反を起こし改易。
- 大光寺氏・南氏 - 3000石。
- 北愛一 - 2500または2000石、2代目の直愛が藩主南部重直の鹿狩で不祥事を起こし500石に、後年直系が無嗣断絶。
- 北直継 - 2000石、慶長18年(1613年)以後の石高、後の大湯南部氏。
- 毛馬内氏・桜庭氏・中野氏(後の花輪南部氏)・石井氏・東氏・大湯氏(正保年間に無嗣断絶)・江刺氏 - 2000石。
- 日戸氏・楢山氏・沢田氏 - 1000石以上。
- 梁田氏・葛巻氏・野田氏・又重氏・内堀氏 - 1000石。
家臣団構成[編集]
盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『参考諸家系図』が岩手県立図書館等に架蔵されており、復刻版も出版されている。
格と職[編集]
家格として、高知(たかち)・高家・本番組・加番組・新番組などが決められていた[5]。高知衆は後期には細分化したほか、藩主一族のための身分も設けられている。 また1000石以上が高知衆に対し、1000石以下は平士と呼ばれた[1]。
| 天保15年(1844年) | 明治元年(1868年) | 明治2年 | |||
| 高 知 | 御家門 | 3 家 | 御家門 | 2 家 | 上 士 |
| 高 知 | 28 家 | 御三家 | 3 家 | ||
| 着座高知 | 7 家 | ||||
| 高 知 | 20 家 | ||||
| 高 家 | 御新丸御番頭 | 21 家 | 御新丸御番頭 | 19 家 | 中 士 |
| 本番組 | 平士 100石以上 | 平士 150石以上 | |||
| 加番組 | 平士 50石以上 | 平士 50石以上 | 下 士 | ||
| 新番組 | 平士 50石以下 | 平士 50石以下 | |||
| 一生御給人 | 一生御給人 | ||||
| 勤中御給人 | 勤中御給人 | ||||
| 御医師茶道 | 100石以上御医師 | 100石以上御医師 | 中 士 | ||
| 100石以下御医師 | 100石以下御医師 | 下 士 | |||
| 御茶道 | 御茶道 | ||||
| 在々御給人 | 在々御給人 | 在々御給人 | 平民のち士族 | ||
| その他 | 御同朋~御同心 | 御同朋~御同心 | 卒 族 | ||
| 在々御与力・御同心 | 在々御与力・御同心 | ||||
「天保十五年御国住居緒士」「明治二年身帯帳」
高知[編集]
明治2年(1869年)には上士となった。家老(後期に改名して加判役)・御近習頭・北地大番頭・御中丸御番頭などに就任した。
- 御家門
文政元年(1818年)10月に藩の家格向上を祝して藩主一族の3家(南部利視の子、信居・信駕・信周の家)と、族臣とされる八戸氏・中野氏・北氏・南氏・東氏が南部姓の名乗りを許されたことに始まる。ただし東氏が一旦改易され南部姓の名乗れなくなったほか、初期の御家門衆はすべて家格が変更されている。
- 新屋敷南部家 - 南部信居が興した家。のち着座高知。
- 角屋敷南部家 - 南部信駕が興した家。のち着座高知。
- 中屋敷南部家 - 南部信周が興した家。のち着座高知。
- 下屋敷南部家 - 文政3年(1820年)から高知、翌年10月より御家門。後の藩主南部利済、利済の本家相続で消滅。
- 南部出羽 - 弘化4年(1847年)より、南部利済4男の南部栄枝。
- 南部伯耆 - 弘化4年より、南部利剛の弟・南部剛弘。
- 南部剛確・剛融・剛護 - 全て南部利剛の子。明治2年(1869年)より。
- 遠野南部氏・大湯南部氏・花輪南部氏 - 文政御支配帳に記載。後に御三家。
- 南氏・東氏 - 文政御支配帳に記載。南部姓を名乗る。
- 遠野南部氏(八戸氏) - 陸奥遠野領1万2700石、維新後男爵。
- 大湯南部氏(北氏) - 陸奥大湯領2760石
- 花輪南部氏(中野氏) - 陸奥花輪領3370石、九戸氏の一族。
- 中野元康(九戸政実の甥孫)-直保-永州-光康-康貞=康敬=康房-南部康孝-済愛-康彊=康直=康保
- 着座高知(慶応以後)
- 新屋敷南部家・角屋敷南部家・中屋敷南部家 - 安政2年(1855年)11月より高知に引き下げ。
- 南氏 - 南部姓を名乗る。文政御支配帳では御家門、寛政・天保期以後は高知。
- 桜庭氏
- 楢山氏 - 石亀氏の支流
- 三戸式部家 - 戸沢氏、角屋敷南部家の分家
- 高知
- 石亀氏
- 八戸氏 - 遠野南部氏の分家:小八戸家
- 奥瀬氏 - 小笠原安芸の後裔
- 桜庭氏 - 桜庭光康の家系
- 毛馬内氏
- 漆戸氏
- 野田氏 - 一戸氏の後裔の一つ。
- 内堀氏 - 浅井氏旧臣、天正年間に加賀前田家より移籍。
- 下田氏 - 南氏の支流
- 新渡戸氏
- 藤枝氏
- 岩間氏
- 黒沢氏
- 向井氏
- 山本氏
- 安宅氏
- 花輪氏
高家[編集]
明治2年には本番組とあわせて中士となった。加番組御番頭・御側御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などに就任した。
- 御新丸御番頭
- 中野氏 - 花輪南部氏の分家
- 七戸氏 - 南氏の支流で北氏の血筋
- 東氏 - 文政御支配帳では御家門、嘉永年間には高知
- 北氏 - 大湯南部氏と同族、北愛一の系統
- 北守氏 - 北愛一系の北氏の分家
- 辛氏 - 花輪南部氏分家
- 三上氏
- 日戸氏
- 織笠氏 - 板垣氏の後裔で福士氏の庶流
- 沢田氏
本番組[編集]
御用人・花巻城代・寺社奉行・御勘定所元締・新番組御番頭などのほか、御境奉行・代官・御船手頭・町奉行・郡奉行などに就任した。平士のうち100石以上(天保15年時点)または150石以上(明治元年時点)の者が該当した。
加番組[編集]
御金奉行・御銅山吟味役・御作事奉行・万所奉行・御勝手方などに就任した。平士のうち50石以上が該当。明治2年、新番組とあわせて下士となった。
新番組[編集]
諸御山奉行・大納戸奉行・新田奉行・御国産方などに就任した。平士のうち50石以下に当たる。
領内の統治[編集]
詳細は「南部藩#領内統治」を参照
領内の主要交通路[編集]
詳細は「南部藩#領内の主要交通路」を参照
城地[編集]
詳細は「南部藩#要害屋敷」を参照
江戸城の詰間[編集]
- 柳間 (寛政期)
- 大広間 (天保期、文化2年(1805年)以降 大広間詰)
藩邸および江戸での菩提寺[編集]
宗藩盛岡藩の江戸藩邸は、外桜田に上屋敷、麻布南部坂に下屋敷があった。後に鉄砲洲に中屋敷を設けるが品川大崎村に移転。また、江戸蔵屋敷は芝田町に、京都藩邸は東岡崎村に、大坂藩邸は北浜過書町におかれた。
江戸における菩提寺は芝切通しにあった五山派の勝林山金地院であった。
また、江戸藩邸は元禄16年(1703年)の元禄大地震では1度すべて全壊している。
飢饉[編集]
古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。
特に沿岸部(閉伊・九戸・三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。
また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことから、死者がさらに増えた原因であるとされている。
飢饉による一揆[編集]
盛岡藩での一揆は記録にあるものだけでも133回(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)あり、その大半は18世紀末以降であり、時代が下るにつれて、盛岡以南の稲作地帯と、製鉄・水産業の盛んな三陸沿岸地域での一揆が多く発生している。
原因としては以下の諸点が考えられる。
- 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
- 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
- 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
- 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
- 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
- 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
- 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
- 藩札の大量発行によるインフレーション。
- 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
- 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
- 戦国時代以来のライバルである弘前藩、仙台藩に対抗するために恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。
さらに、農民たちはこのような原因から起こった貧困を脱するため、偽金(密銭)を鋳造したが、藩側は原因となる問題を放置のまま、偽金の製造に関わる者、使用した者を重罪人として扱い、厳重に処罰した。それまで何とか偽金で食べ繋いで来た農民たちは、1万人規模の一揆を起こすようになり、それを成功させたのである。 盛岡藩百姓一揆の中で最も大規模かつ組織的で、その要求が政治的であったものが弘化4年(1847年)と嘉永6年(1853年)の三閉伊一揆であった。
詳細は「三閉伊一揆」を参照
天保期の一揆・騒動は盛岡以南の穀倉地帯の買米制度とその停止を要求して行われており、田名部・野辺地・七戸の各通は買米の対象となる穀倉地帯ではなく、他領からの移入米によって生活をまかなう地区であったため、対立を引き起こさなかった。そして、寛永期以降の蝦夷地幕領化の中で「松前稼」と呼ばれた、蝦夷地への労働力移動が可能であり、飢餓期の困窮を一時的に回避することができた。
他地域との関わり[編集]
蝦夷地との関わり[編集]
江戸幕府が成立すると徳川家康はアイヌ人の往来を自由とする黒印状を発布した。そこで17世紀、盛岡藩領のアイヌ人の津軽半島往来は自由に行われ、盛岡藩領内には公式なアイヌ人居住地の戎村や、ほかにもアイヌ人の非公式な交易拠点があった。東北アイヌは和人風俗を身に着け、逆に和人の領民の中にもアイヌ風俗が一部普及したため、日常ではアイヌと非アイヌの境界はあいまいだった。これを利用して、盛岡藩はアイヌ人を仲介とした北方貿易の担い手にもなっていた。
寛文 8年(1668年)、シャクシャインの戦いの際、翌寛文 9年 アイヌ蜂起の鎮圧のため、幕命により弘前藩・久保田藩とともに蝦夷地へ出兵し、また、領内において下北アイヌの監視をも兼ねて田名部・野辺地に藩士を派遣した。
18世紀には、盛岡藩領内の飛騨屋が蝦夷地での材木業、のちに漁業にも進出した。飛騨屋には下北半島や宮古周辺から出稼ぎ労働者が集まり、アイヌ人を酷使しながら大きな利益を上げた。やがて反発したアイヌ人が蜂起(国後目梨の戦い)したが、松前藩が鎮圧に成功した。このとき盛岡藩の出稼ぎ労働者の一部がアイヌ側に保護され、盛岡藩に引き渡されている。
寛政11年(1799年)、幕府は千島列島に進出しつつあったロシアに対抗して蝦夷地の直轄領化が試みられた。このとき幕府より蝦夷地経営、警備の名目によって東北諸藩が出兵を命じられ、盛岡藩は後の渡島国(松前藩領を除く)・胆振国・択捉島の領域を担当した。特にレザノフの部下による択捉島攻撃の際は矢面に立ち、敗北している。盛岡藩はその後も対ロシア警備の前線を担当し、ゴローニンの逮捕も盛岡藩兵が行ったものである。
当初、幕命により箱館に陣屋を建設して警備に当たったが、新渡戸十次郎らの建策より1857年に室蘭に移った。これらは1868年の戊辰戦争の際に引き払ったが、跡地は現在でも残っている。
盛岡藩領と青森県[編集]
廃藩置県により、盛岡藩は岩手県だけではなく、青森県にも編入された。現在の青森県域については、江戸時代中期以降の盛岡藩領と八戸藩領が共存している。
いわゆる「南部地方」と呼ばれる地域は、ほとんどが旧盛岡藩領である。また、下北地方も旧盛岡藩領であった。
八戸市周辺から岩手県久慈市に到る海岸に沿った九戸郡を含む領域と志和4ヵ村は、旧八戸藩領であった。志和4ヵ村は収穫量5000石の飛び領で、周辺の盛岡藩領の農民が八戸藩領農民を圧迫し、八戸の役人がたびたび交渉に赴き、ついには討って出ると迫って八戸藩領の農民の権益を保護するなど、盛岡藩と八戸藩の係争地であった。八戸藩では領内において代官が各2名ずつ置かれていたが、領外(飛地)の志和については4名に増員された[6]。
弘前藩との遺恨[編集]
盛岡藩南部氏は、戦国時代から弘前藩津軽氏と確執を抱えていた。津軽氏は、元々南部氏の分家・大浦氏であったが南部宗家への従属意識が薄く、大浦為信のときに独立した。その際に南部氏重臣石川高信(盛岡藩初代藩主となる南部利直の祖父にあたる)らが討たれている。その後の中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り豊臣政権から大名として認められてしまったため、南部氏の領地は大幅に減少することになった。この遺恨は江戸時代も続き、弘前藩主津軽氏の参勤交代は南部領を一切通らずに行なわれたし、江戸在府期間も原則として両家は重ならないように配慮され同席させられなかった。 江戸後期には南部家の家臣による津軽当主暗殺未遂事件(相馬大作事件)の遠因にもなった。
鉄器、鉄製品[編集]
今でも「南部鉄器」として鉄瓶などが有名であるが、その歴史は17世紀中頃からとされ、上述の南部重直が、甲州から鈴木縫殿を鋳物師として、京都から小泉五郎七を釜師として呼び寄せたのが始まりである。
また、八戸藩領の九戸郡でも、十分な産出量の砂鉄を利用した鉄器があり、上記項目「飢饉による一揆」でも説明されたように、盛岡藩に出回った偽金の製造はこの地方が主流であったという。もっとも、悪貨が良貨を駆逐し、その後の藩札乱発もあって激しい物価高となり一揆の原因ともなった。
支藩等[編集]
八戸藩[編集]
詳細は「八戸藩」を参照
八戸藩は陸奥国三戸郡八戸(青森県八戸市内丸)に存在した南部氏族の藩である。前述の通り、将軍の裁定により成立した藩であるため支藩ではない。
寛文4年(1664年)に八戸藩が分立され、藩庁は八戸城である。盛岡藩との関係については、独立した関係とされる。文化9年(1812年)八戸藩の上屋敷が類焼した際に財政支援を行っているが、盛岡藩主南部利敬より「八戸藩は独立した藩であり、心得違いがあってはならない」という趣旨の見解を示している[7]。
領内人口は寛延2年(1749年)に7万1352人で(江戸時代の日本の人口統計#盛岡藩 (南部藩)参照)、領地の内訳は三戸郡41ヶ村、九戸郡38ヶ村、志和郡(現在の岩手県紫波郡)4ヶ村の計83ヶ村[8]。志和は周囲を盛岡藩に囲まれた飛び地である一方、九戸郡内には周囲を八戸藩に囲まれた盛岡藩の飛び地があった[9]。現在の八戸市域と比較すると、現在の八戸市市川町の一部分などは盛岡藩域に属している。貞享元年(1687年)に盛岡・八戸両藩の間で侍浜村・白前村と七崎村が領地の交換がされ、七崎村が八戸藩領に編入された。
藩庁である八戸城の一部は角御殿表門が市内南部会館の表門として移築され現存する。
七戸藩(盛岡新田藩)[編集]
別名、盛岡新田藩と言われる盛岡藩の支藩。元々は江戸幕府旗本寄合席の石高5000石の旗本であったが、本家より加増を受けて成立したもの。定府(江戸住まい)大名であるが、南部信鄰が幼少の南部吉次郎利用を補佐する際には幕府の許可をもらって盛岡に下向し、本家藩政に参画した。
陸奥国北郡(現在の青森県上北郡七戸町周辺)に領地があったと言われるが、書面上のものであったとも言われる。藩主は定府であったが、戊辰戦争後の戦後処理の際、盛岡藩重臣の新渡戸傳によって1863年に分知が実施されたとする書類が提示され(書類が本物であるかについては不詳)、これに基づく実際の領地が確定し、藩主が七戸に下った。陣屋門が1棟移築され現存する。 当初より七戸南部氏であったわけではなく、居所を七戸城とする分知大名の創設を幕府に願って認められて以後の呼称である。
七戸藩の江戸藩邸上屋敷は、江戸城半蔵門外(大手より10町。現在の「ふくおか会館(福岡県東京事務所)」(東京都千代田区麹町)附近)にあり、これは旗本時代以来からのものである。また、天保年間には青山五十人町に下屋敷を設けた。ちなみに江戸の菩提寺は宗藩と同じ。
なお、盛岡藩主となった七戸重信が養嗣子となって継いでいた七戸を知行地とする一族家臣七戸氏の跡は、重信の子の1人英信が名跡を継ぎ、七戸氏を称した。またそれ以外の重信の子(秀信・定信・愛信)も七戸を称している。七戸愛信は盛岡藩家老職を務めている。
歴代藩主[編集]
幕末の領地[編集]
盛岡藩[編集]
八戸藩[編集]
- 陸奥国
- 三戸郡のうち - 67村
- 陸奥国(陸中国)
- 九戸郡のうち - 48村
- 紫波郡のうち - 4村
七戸藩[編集]
- 陸奥国
- 北郡のうち - 35村
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 国立公文書館 - デジタル・ギャラリー「天保国絵図 陸奥国(南部領)」
| 先代: (陸奥国) |
行政区の変遷 1600年 - 1868年 / 1870年 (盛岡藩→盛岡県) |
次代: 岩手県 八戸県(第1次)・江刺県 |
| 先代: (陸奥国) |
行政区の変遷 1664年 - 1871年 (八戸藩・七戸藩→八戸県・七戸県) |
次代: 青森県 |
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