姫路城

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姫路城
兵庫県
天守(連立天守群・国宝)
天守(連立天守群・国宝)
別名 白鷺城
城郭構造 渦郭式平山城[1]
天守構造 連立式望楼型
5重6階地下1階[2][3][4][5]
築城主 赤松貞範[6]
築城年 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
主な改修者 黒田重隆羽柴秀吉池田輝政
主な城主 黒田氏池田氏本多氏酒井氏
廃城年 1871年明治4年)
遺構 現存天守・門・塀
石垣土塁・庭園
指定文化財 国宝(大小天守と渡櫓等8棟)
国の重要文化財(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)[7]
特別史跡
ユネスコ世界遺産
位置 北緯34度50分21.76秒
東経134度41分38.75秒
姫路城の位置
姫路城の位置
姫路城
姫路城 (兵庫県)
代表紋章:揚羽蝶

姫路城(ひめじじょう[注釈 1])は、播磨国飾東郡姫路兵庫県姫路市)にあった日本の城である。別名白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。江戸時代初期に建てられた天守等の主要建築物が現存し、建築物は国宝重要文化財城跡は国の特別史跡に指定されている[8][9]。この他に、ユネスコ世界遺産に登録や[10][11]日本100名城[12]などに選定されている(関連項目参照)。

概要[編集]

池田輝政

姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残っている現存12天守の一つで、ほぼ中堀以内の城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。1993年平成5年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。この他、「国宝四城」[注釈 2]や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城の始まりは、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代のものはのような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏[注釈 3]家臣黒田重隆職隆父子による築城を最初とする説もある[13]

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏羽柴氏城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。

江戸時代には姫路藩藩庁となり、更に西国外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱・無能な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。池田氏に始まり譜代大名本多氏榊原氏酒井氏親藩松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。

明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城と共に国費によって保存される処置がとられた[2]

昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。

名称の由来と別名[編集]

姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。『播磨国風土記』にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる[14]。姫山はが多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った[15]。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。

別名「白鷺城(はくろじょう)」の由来は以下のような説が挙げられている。

  • 姫路城が「鷺山」に置かれているところから[15]
  • 漆喰で塗られた城壁の美しさから。
  • ゴイサギなど白鷺と総称される鳥が多く住んでいたから。
  • 黒い壁から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる岡山城との対比から。

白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり[注釈 4]村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもあるが、日本の城郭の異称は音読みするのが普通である[15]。しかし現在は、NHKの番組でも「しらさぎじょう」と紹介されることがあるため、一般的には「しらさぎじょう」と認識されていることが多いと思われる。姫路市内の白鷺中学校白鷺小学校のように学校名に使用されたり、小中学校の校歌でも「白鷺城」または「白鷺」という言葉が使われている事が多い[注釈 5]。戦前の姫路市内の尋常小学校で歌われていた『姫路市郷土唱歌』の歌詞にも「白鷺城」や「池田輝政(三左衛門)」などが使われている。

他にも以下のような別名がある。

出世城
羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる[16]
不戦の城
幕末に新政府軍に包囲されたり、第二次世界大戦で焼夷弾が天守に直撃したりしているものの、築城されてから一度も大規模な戦火にさらされることや甚大な被害を被ることがなかったことから。

歴史・沿革[編集]

江戸幕府成立以前の歴代城主[17]
城主 入城年 城主 入城年
1 赤松貞範 1346年貞和2年) 10 小寺則職 1519年永正16年)
2 小寺頼季 1349年(貞和5年) 11 八代道慶 1531年享禄4年)
3 小寺景治 1352年文和元年) 12 黒田重隆 1545年天文14年)
4 小寺景重 1357年延文2年) 13 黒田職隆 1564年永禄7年)
5 小寺職治 1403年応永10年) 14 黒田孝高 1567年(永禄10年)
6 山名持豊 1441年嘉吉元年) 15 羽柴秀吉 1580年天正8年)
7 赤松政則 1467年応仁元年) 16 羽柴秀長 1583年(天正11年)
8 小寺豊職 1469年文明元年) 17 木下家定 1585年(天正13年)
9 小寺政隆 1491年延徳3年) 18 池田輝政 1600年慶長5年)

南北朝時代・戦国時代[編集]

播磨国の歴史も参照。

1333年元弘3年)、元弘の乱護良親王令旨を奉じて播磨国守護赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺[注釈 6]を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた[18][19]南北朝の争乱足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年南朝正平元年、北朝貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とする[20][21]1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城[注釈 7]を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める[22]

1441年嘉吉元年)、嘉吉の乱赤松満祐教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年長禄2年)、長禄の変後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許される。1467年応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築く。

1469年文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になる。1491年延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になる。

1545年天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある[23]。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた[24]

1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になる。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦い赤松政秀軍の約3000に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。

安土桃山時代[編集]

真柴久吉公播州姫路城郭築之図

1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲る。

1580年(天正8年)、三木城英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)[注釈 8]に移った[25]。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する[26][27]。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある[28]

1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。1601年(慶長6年)、木下家定は備中足守2万5,000石へ転封する。

1600年(慶長5年)、池田輝政関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた[29][30]。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている[15]。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城船上城)・赤穂城三木城利神城龍野城鶏籠山城[注釈 9])・高砂城も整備された。

江戸時代[編集]

姫路城鳥瞰図(明治初期)

姫路藩の歴史も参照。

1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。

1618年(元和4年)には千姫本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。

藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家越前松平家榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。

江戸時代の修理
大天守の大規模な補強修理は、1656年明暦2年)の東・西大柱の腐った根元を取り除き栂材をはめ込み、更に帯鉄を巻き、添え柱を建てる根継ぎ補強工事、1684年貞享元年)と1700年元禄13年)の梁などへの補強支柱の組み入れが行われている。小規模な修理では、軸部の補強修理19回、屋根や軒廻りの修理17回が墨書などにより確認されている[31]。姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止めることは難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われる有様であった[32]

幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、輝政の子孫・池田茂政[注釈 10]の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。

明治時代[編集]

歩兵第10連隊跡の石碑

1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され陸軍が置かれ大阪鎮台の管轄下になった[33]。さらに1873年(明治6年)の廃城令[注釈 11]によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。

姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む金物商の神戸清次郎(かんべ せいじろう)が23円50銭(現在の貨幣価値に換算して約十万円)で落札した。落札の際、酒井忠邦城主より東屋敷庭前に据置かれた雪見灯篭(芥田匠作)を購得し、これを明治25年に第十連隊本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。陸軍省と協力して城の永久保存を行う為に落札したという説と、城の古鉄またはを売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。その後1927年(昭和2年)5月末、その息子である神戸清吉が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている[34][2]

城跡は陣地として好適な場所であったことから、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年(明治7年)には姫路城三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失している。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。この頃の建物は、第10師団兵器庫(1905年(明治38年)-1913年(大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎(1924年(大正13年)。現在の淳心会本部)、旧逓信省姫路電信局(1930年(昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の姫路モノリス)などが残っている。中曲輪南東部(射楯兵主神社周辺)には第8旅団司令部や偕行社[注釈 12][35]が置かれた。

1873年(明治6年)から1876年(明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、生野銀山飾磨津を結ぶ生野鉱山寮馬車道が整備された。

明治の大修理[編集]

城内にある中村大佐顕彰碑

一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。この頃の姫路城は、屋根は傾いて草が生え、壁や石垣は崩れたまま放置されているような状態だった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠(しげとお)工兵大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、明治41年には市民による白鷺城保存期成同盟の結成や城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた[36]

第一期工事[編集]

工事は明治43年7月10日から明治44年7月15日に行われ、修理個所は、大天守・東小天守・西小天守・乾小天守・はの渡櫓・ろの渡櫓・いの渡櫓・にの渡櫓・台所・水の四門・水の五門・水の六門が対象となった。

明治43年6月24日、第十師団経理部で工事入札が行われ、中村祐七(姫路)、松村雄吉(福知山)、中村勘次郎(神戸)、澁谷治三郎(京都)、大溝組(大坂)が参加、中村祐七が当時の額5万6900円で落札した[37]。同年7月10日から工事が行われ、まず資材の搬入出をするために大天守の東側の喜斎門側から全長150メートル、幅4メートルの桟橋が架けられた。桟橋にはモーターで巻き上げるワイヤーロープが設置されトロッコで資材を運び、天守の周りには1万本の木材を組んで足場が組まれた[38]筋交いを2層目に3本、3層目に6本、4層から7層目には8本入れ、支柱を2層と3層目の東南部分に各14本入れた。破損や腐食のある隅木棟木根太床板破風は取り換えられた。瓦は全て取り外され半数は洗浄の後に再利用された[注釈 13]。葺き替えの際には屋根漆喰は5回の重ね塗りが行われた。

木材は大天守の各階の壁面に筋交い柱として組み入れボルトで締められた。同時に大天守の屋根修理と壁漆喰の塗り直しも施された。しかし、明治の大修理では天守の傾きを根本的に修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。

第二期工事[編集]

修理個所は、井郭櫓・折曲櫓・帯郭櫓・帯渡櫓・菱の門・喜斎門・各門(に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ)・各櫓と渡櫓(い・ろ・は・に・ほ・ち・り・を)・土塀各所が対象となった他、場内の通路整備などが行われた[39]

明治43年10月25日、第一期工事と同じ場所と参加人で工事入札が行われ、松村雄吉が2万9015円で落札した[40]。同年11月5日から第一期工事の資材を再利用して工事が始まった。

大正時代[編集]

明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた[41]1919年(大正8年)には陸軍省が西の丸を修理している。城内にあった第10連隊は後に岡山へ移転し、第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えている。1912年(大正元年)から1932年(昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた(現在の国道2号)。

昭和時代[編集]

昭和11年の姫路城周辺。陸軍の施設や練兵場が見える。

1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。

昭和19年、中村重遠大佐の顕彰碑を建立。

太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていて且つ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日姫路空襲で城下は焼き尽くされた[42]。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったこと[43]などにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという[34]。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。

姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、[要検証 ]日本の他の都市やドイツへのドレスデン爆撃無差別爆撃)などでは歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である(ラングドン・ウォーナーの項も参照)。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。当時のB-29搭乗員も「レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と回顧している。

昭和22年、三の丸に野球場と相撲場を建設。1951年(昭和26年)、迎賓館を建設。

昭和の大修理[編集]

昭和の大修理は、1934年(昭和9年)6月20日、西の丸の「タの渡櫓」から「ヲの櫓」が豪雨のため石垣もろとも崩壊したことに端を発する[44]1935年(昭和10年)2月から修復工事が始まったが同年8月の雨で「ルの櫓」の石垣が崩落する。このことを受けて修理計画を見直し西の丸全域の修理を国直轄事業で進め、全ての建物を一度解体してから部材を修復し再度組み立て直すという方法が採られることとなった。大工棟梁は和田通夫[45]

第一期工事[編集]

第一期工事は1935年(昭和10年)から1950年(昭和25年)3月まで行われる事となり[44]、まず天守以外の建物のある西の丸及び北腰曲輪の櫓群や門・土塀などがその対象となった。1938年(昭和13年)に西の丸の解体修理が終わり北腰曲輪の修理に取り掛かるが1944年(昭和19年)、太平洋戦争での日本の戦局悪化により中断を余儀なくされる。

第二期工事[編集]

姫路空襲による焼失の危機を免れると、1949年(昭和24年)、姫路市長らが「白鷺城修築期成同盟」を結成し市民の署名と共に『姫路城補修、保護施設費国庫補助請願』を政府に提出し、衆議院本会議において採択された。国からの1300万円(当初予算1千万円と災害費300万円)と、県と市を併せて300万円の合計1600万円(金額は全て当時の額)の予算が組まれ文部省直轄事業で行われた。[46]1950年(昭和25年)に大修理が再開される。第二期修理計画は第一次と第二次に分かれて行われた。

第一次六カ年計画(昭和25年度~昭和30年度)
菱の門[47]・帯の櫓・帯郭櫓などの櫓8棟のほか、門7棟、土塀13箇所、石垣3箇所が解体修理され、1956年(昭和31年)3月末までに[44]天守以外の修理を完了した。第一次修理では当時の額で約1億円を要した。
第二次八カ年計画(昭和31年度~昭和39年度)
大天守・東小天守・西小天守・乾小天守とイ・ロ・ハ・ニの各渡櫓などの解体修理が行われた。一般で言われている昭和の大修理は、この第二次修理を指している。
三の丸に移設展示されている築城当時の礎石
1956年(昭和31年)より天守大修理に着手することとなる[注釈 14]。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。姫路城より先に解体修理が行われた松本城[注釈 15]で使われていた素屋根の丸太も再利用された[48]。解体修理によって柱や桁などの構造物に書き込まれていた様々な墨書や文書が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。基礎部分は工事前の調査で南東に44cm地盤沈下していると判明し、礎石のままでは天守の重量を支えきれないため礎石を撤去し[注釈 16]、新たに十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。この時、羽柴秀吉が城主だった頃築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見された。
以前の西心柱(西大柱)
天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちに、これに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町笠形神社境内のが検討されたが、上部に曲がりがあり,根元に腐っている疑いがあって保留された。1959年(昭和34年)になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう1本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さゆえに折れてしまう[注釈 17]。窮余の策として折れた2本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用されることとなった。実は、修理以前の西心柱は元々二本継ぎで作られており、修理開始の段階ではその理由が判明していなかった。そのため分割無しの1本の柱を立てることが計画されたのであるが、交換部材が前述のアクシデントで2本継ぎとされることが決まり、実際に組み立て作業が行われる段階になって、これは構造上中央部で2分割しないと立ち上げ時に先に立てられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないことが判明した。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。
天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年(昭和39年)竣工(完了)した。
天守の工事費は約5億3,000万円であった。のべ25万人の人員と戦前修理分の費用を物価換算して戦後の費用と合計すれば約10億円(1964年当時の価格)に相当すると考えられている。

平成時代[編集]

  • 1992年(平成4年)、昭和時代から空堀になっていた東部中堀を整備し水堀に戻し、1998年(平成10年)と2007年(平成19年)には北部中堀も整備された。同4年、世界遺産暫定リストに登録。1993年(平成5年)12月11日、法隆寺地域の仏教建造物と共に日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。
  • 1998年(平成10年)、姫路藩主・本多家の家老であった中根家の子孫宅から第二次本多時代(1682年(天和2年)、本多忠国から1704年(宝永元年)、本多忠孝まで)の姫路城内曲輪を詳細に描いた『播州姫路城図』が発見された[49]。この絵図から兼六園のように広くはないが三の丸・向屋敷にも大名庭園があったことが分かるなど、失われた御殿や屋敷など往時の様子を偲ばせる貴重な史料となった。
  • 1996年(平成8年)3月24日から8月25日まで、迎賓館で大河ドラマ秀吉』に関する「秀吉と姫路展」が行われた[50]。入場料は、大人(16歳以上)が200円、子供(5歳から15歳)が100円で、姫路城への登問者・身体障害者手帳・老人福祉手帳・療育手帳を提示した市民は無料だった。
  • 2000年(平成12年)には姫路城管理事務所を、2001年(平成13年)には姫路城防災センターを設置[51]
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(59番)に選定された。
  • 2009年(平成21年)3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において最高評価の3つ星に選定された。
  • 2012年(平成24年)
  • 2013年(平成25年)11月、発掘調査により城下南東部にあった北条口門付近で下級武士の建物跡とみられる掘立柱建物の跡や柱穴列などが発掘された[58]12月7日から2014年(平成26年)3月7日まで、上山里下段石垣の修理が行われた。石材の抜け落ち割れや石の隙間に入れた間詰石の脱落があるため、石材の補強と間詰石の補充が行われ、修理完了年の2月9日にはこの修理工事の現地説明会が行われた[59][60][61][62][63]
  • 2014年(平成26年)9月17日、県道整備に伴う調査で市内博労町付近の外堀に掛かっていた備前門橋の礎石と外堀の両岸にあった石垣を発掘したと兵庫県立考古博物館と姫路市教育委員会が発表した。外堀に掛かっていた橋は5つあったが遺構が発見されたのは初めてで絵図や屏風絵などの資料と一致する。橋の礎石は長さ1.2mから1.4mの直方体の石が4本、欄干の礎石は45cm四方で15cmの穴が開いている事から角材と推測される。調査に立ち会った広島大学大学院教授の三浦正幸によると「江戸時代に備前門にかかっていた木橋の一部に間違いない。橋は幅約3間(5.4m)以上あり、西国街道が通る立派な木橋だったと推定できる。当時の木橋は幅1間(約1.8m)。メーンストリートである西国街道から西日本最大級の城下町への入り口として、極めて大きな橋が架けられたことが実証できた。」とのこと。また城から南東の神屋町で見つかった外堀(堀幅は約17m)の石垣は逆L字に石垣が屈曲する部分で、城内側は南北約5m、東西約1.8mが出土した。石垣は幅60cmから90cmセンチ、厚さ20cmから40cmの凝灰岩を2m以上積み上げていた。対岸の石垣は南北約5.5m、高さ約0.7mが残っていた。形状や加工方法から築城当初の物と判断でき、江戸時代の水害で補修した跡も見つかった[64][65][66][67]。現地説明会も行われた。

平成の修理[編集]

平成の修理のため覆われた姫路城(2012年8月12日)

工事正式名称は「国宝姫路城大天守保存修理工事」。予定期間は2009年6月27日着工から2015年3月18日竣工予定で、事業費は28億円(素屋根工事費 12億6千万円、補修工事費 15億4千万円)と見積もられている[68]。施工は鹿島建設・神崎組・立建設JV。「昭和の大修理」により「50年は保つ」と言われていたが、大修理から45年が経過した時点で予想以上に漆喰木材の劣化が進んでいたため、大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が進められている[69]。漆喰はカビが原因で黒ずみが発生するため防カビ強化剤が塗布された[70][71]

平成21年4月6日から保存修理を目的にした「平成の「姥が石」愛城募金」が行われている[72]

  • 素屋根工事 - 大天守を覆う工事作業用の8階建物の建設と解体工事。素屋根を設置する場所も史跡内であるため杭を打ち込むなどの工事は出来ず自重で固定・建っていた。また木造建築がある史跡内では火が使えないため溶接ではなくボルト締めで組み立てられていた[73][74]。資材搬入や作業用足場、見学部屋などを設置していた。
  • 屋根修理 - 瓦の全面葺き直し。瓦は検査をした上で使える物は再利用し、再利用ができない分は新しい瓦に取り替えられた。平瓦は全てステンレスで、丸瓦は3枚に1枚を銅線で瓦留めをして目地漆喰を塗り直された。
  • 壁面修理 - 1-4層は、表面の漆喰を塗り直し、軒揚・破風・懸魚は傷み具合によって上塗りまたは下地から修理。5層は下地の土壁から塗り直す全面修理。
  • 構造補強 - 柱・床に最小限度の耐震補強工事。

昭和の大修理のような大規模解体修理ではないため、工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部と周辺の公開は続けられる。大天守を覆う素屋根は徐々に設置・解体されるために工事の進み具合で見え方は異なる。2010年(平成22年)春頃までは大天守の外観を見ることができたが、2011年(平成23年)春頃からは大天守からの展望や外観の展望が完全に望めなくなっている。また大修理のことを知らずに旅行で日本を訪れ、現地で大天守に登ることができないことを知り落胆する外国人観光客が後を絶たないとも報じられた[75]

  • 2009年
    • 5月:鹿島建設・神崎組・立建設JVが16億2千万円で落札。
    • 8月8日:起工式・安全祈願祭を開催。
    • 10月9日:工事着工。
    • 11月16日から工事完了まで搦手口からの入城ができなくなる。
  • 2012年
    • 4月7日:新調する大天守の鯱が姫路駅から三の丸広場まで祝曳された[76][77]
    • 年6月:大天守最上層の屋根に新調した鯱2対が据え付けられた[78][79]
    • 11月:大天守の瓦の葺き替えが終了したと22日に報道された。葺き替えの対象となった8万枚のうちおよそ80%は再利用され、残りの20%程は奈良県の日本伝統瓦技術保存会によって新調され葺き替えられた[80][81]。天守工事が完了し、これより素屋根の撤去作業を開始する。
  • 修理過程での発見
    • 最上階北側にある詳細不明の家紋[82]
    • 最上階で使用されないまま壁として塗り込められた窓枠の跡が東西南北それぞれ2箇所の合計8箇所あったことが判明している[83][84][85][86]。窓枠の跡については「昭和の大修理」の際にも確認されていたと当時の記録に残っているが公表はされていなかった[87]
    • 池田氏の家紋「揚羽蝶」が逆さになった瓦が発見され修理施設内で展示されている[88][89][90]
天空の白鷺[編集]
天空の白鷺
天空の白鷺1階展示
施設概要[編集]
  • 工期中は「天空の白鷺」(英語表記:"Egret's Eye View" at Himeji Castle/Special visitor facilities for the restration)[91][92]と名付けられた大天守を覆っている素屋根の施設から大天守上層部の修復作業を見学できた[93]。素屋根建物の南面と東面には大天守実物大の線画が描かれていた。8階建てだが一般利用者が入館できるのは1階・7階・8階となっていた。見学者用エレベーターが2基設置され、大天守方向はガラス張りになっているためエレベーターでの昇降の際に大天守南面の石垣・壁面・屋根の様子を見ることができた。2014年1月15日まで公開され、その後、素屋根の解体作業に取り掛かる[94][95]
  • 1階 - 大天守石垣部分。東側は施設入口とエレベーターの待合室、西側は出口と修理全般に関する展示と映像上映。
  • 7階 - 大天守5階(最上階)の壁と4層屋根部分。壁面修理の見学と壁面修理(漆喰など)に関する展示と映像上映、市街周辺を見渡せる展望窓。
  • 8階 - 大天守5層目(最上層)の屋根部分。屋根修理の見学と屋根修理に関する展示と映像上映、市街周辺を見渡せる展望窓。
施設沿革[編集]
  • 2011年(平成23年)3月26日 - 「天空の白鷺」一般公開を開始[96]
  • 同年5月17日 - 入館者数10万人突破[97]
  • 同年10月2日 - 30万人突破[98]
  • 2012年(平成24年)2月19日 - 50万人突破[99]
  • 同年(平成24年)11月27日 - 100万人突破[100]
  • 2013年(平成25年)2月6日から2月9日 - 最上部の工事作業エリア内(通常の天空の白鷺で見学できるより更に中)の見学が事前に応募した人数限定で行われた[101][102]
  • 同年3月2日から3月3日 - 漆喰作業見学会と作業体験会が1階西側で行われた[103][104]
  • 同年7月2日から7月3日 - 第2回保存修理工事エリア見学会(通常の天空の白鷺で見学できるより更に内部での見学)が事前に応募した人数限定で行われた[105][106]
  • 同年10月27日から10月29日 - 第3回保存修理工事エリア見学会(通常の天空の白鷺で見学できるより更に内部での見学)が事前に応募した人数限定で行われた[107][108]。過去2回の見学会の範囲に加えて7階部分の見学も行われた。
  • 2014年(平成26年)1月15日:公開終了。延べ入館者数は184万3406人だった[109]。これ以後、工事用素屋根の解体が始まった。
その他[編集]
  • 修復作業見学室に入るには、通常の入城料金(大人600円)とは別に上乗せ料金200円程度を徴収することを姫路市が検討していたが[110]、工期中の入城料は大人400円・子供100円に減額され、見学希望者は減額された料金に見学施設の入場料(大人200円・子供100円)を加えることで決着した。
  • 2011年12月6日、見学施設の実物大線画や国宝建築の修理を公開したことなどが評価され、第45回SDA賞の演出サイン部門サインデザイン優秀賞(日本サインデザイン協会)と、ディスプレイデザイン賞2011の企画・研究特別賞(日本ディスプレイデザイン協会)を受賞した[111]

構造[編集]

姫路市中心部。赤線内が内曲輪、緑線内が中曲輪、青線内が外曲輪。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
手前から、本丸(備前丸)・二の丸(上山里曲輪)・東三の丸(三の丸広場)と階段状の縄張りになっている。

縄張[編集]

典型的な平山城で、天守のある姫山と西の丸のある鷺山を中心として、その周囲の地形を利用し城下町を内包した総構えを形成しており、堀は姫山の北東麓を起点にして左回りに城北東部の野里まで総延長約12.5kmある。内堀で囲んだ1周目は内曲輪、中堀で囲んだ2周目は中曲輪、外堀で囲んだ3周目は外曲輪といい、3重の螺旋を描くような曲輪構造で渦郭式縄張を形成している(内曲輪だけに注目すると階郭式)。

  • 内堀 - 長さ約3km、堀幅12-34m
  • 中堀 - 長さ約4.3km、堀幅約20m
  • 外堀 - 長さ約5.2km、堀幅約14m

各曲輪を仕切る門が以下の通り置かれた。

  • 内曲輪 - 八頭門・桜門・絵図門(出丸内側に菊門)・喜斎門・北勢隠門・南勢隠門
  • 中曲輪 - 市ノ橋門・車門・埋門・鵰門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門
  • 外曲輪 - 備前門(または備前口門・福中門)・飾磨津門(または飾磨門・飾万門)・北条門・外京口門・竹ノ門

大まかには、内曲輪は天守・櫓・御殿など城の中枢、中曲輪は武家屋敷などの武家地、外曲輪は町人地や寺町などの城下町が置かれた。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代には日本では珍しい城郭都市を構成していた。このような総構えは他に江戸城小田原城などにおける例がある。明治維新以後の陸軍設置や近代化で堀の埋め立てや建造物の破壊が行われたが、中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、国道372号に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は山陽本線姫路駅付近にまで達している。1888年(明治21年)に外曲輪の外堀南側に姫路駅が作られ、そこを通る形で山陽鉄道(山陽本線の前身)が敷設された。

内曲輪以内の面積は23ヘクタール (230,000m²)、外曲輪以内の面積は233ヘクタール (2,330,000m²) となっている[112]。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。

輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦い大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は慶長20年(1615年)の江戸幕府による一国一城令(同年閏6月13日)や武家諸法度(同年7月)によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修ができなくなったこともあり、一大名のもので姫路城に続くほどの規模の城は建築されていない。

石垣[編集]

池田氏時代の石垣
転用された石棺

石垣の積み方や加工の詳細は石垣の積み方を参照。

  • 築かれた時代によって大きく5つの時期に分けられる。本多氏以降は城郭の増改修に幕府の許可が必要となったため補修が主になっている。
    • 1期 - 羽柴氏時代(天正8年-天正10年)に築かれた石垣で、二の丸に多く残る。野面積み。
    • 2期 - 池田氏時代(慶長6年-慶長14年)に築かれた石垣で、本丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み、扇の勾配。
    • 3期 - 本多氏時代(元和4年頃)に築かれた石垣で、西の丸に多く残る。打ち込み接ぎ、算木積み。
    • 4期 - 江戸時代(慶応3年まで)に行われた三の丸など各所の補修。切り込み接ぎ。
    • 5期 - 明治時代(明治7年)以降に行われた西の丸や三の丸(本城)などの補修。
  • 内曲輪の石垣には約10万トン超の石材が使用されている。石質は多くの割合を占める凝灰岩の他、花崗岩砂岩チャートがある。石材は近隣の山、広峰山増位山景福寺山手柄山八丈岩山砥堀山鬢櫛山(びんぐしやま)・今宿山別所谷などから採取された他、転用石として五輪塔宝篋印塔・古墳の石棺墓石石臼石灯籠の台座などが再利用されている。石材には、地名等の文字、斧や五芒星等の文様が刻印されたものもあり、54種類117個が確認できる。

屋根瓦・鯱[編集]

丸軒瓦と滴水瓦

建物や塀の屋根に用いられている鬼瓦軒丸瓦などには、その瓦を作った時の城主の家紋が意匠に使用されており、池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の立ち葵紋などがよく見られる。家紋の他には、の実(カの櫓、への渡櫓)、銀杏(井郭櫓)、小槌(への門)、波頭と十字[注釈 18](にの門)などが意匠に使用されている。また軒平瓦に滴水瓦が使用されているのは現存城郭では姫路城だけである[113]。天守以外の櫓の屋根にも鯱が載せられている。

  • 江戸時代の鯱:貞享4年(1687年)と享和3年(1803年)の刻印がされた物、2種類が残っている。貞享4年刻印の鯱は昭和の大修理の時に大天守3階の屋根裏から発見された物。享和3年刻印の鯱は江戸時代の取り替えの際に圓教寺が城主から賜り保管してきた物。
  • 明治時代の鯱:明治43年(1910年)の刻印があり「明治の大修理」の時に製作・据えられた鯱。
  • 昭和時代の鯱:貞享4年(1687年)の鯱を元に「昭和の大修理」の時に製作・据えられた鯱。通常、鯱は雌雄一対(阿吽)だが、元にした貞享の鯱が雌(吽)だったため大天守に据える11の鯱は全て雌となってしまった。
  • 平成時代の鯱:昭和時代の鯱と同様に、貞享4年(1687年)の鯱を元に「平成の修理」の時に製作・据えられた鯱。

防御設備[編集]

城壁には狭間(さま)という射撃用の窓が総数997個[114](往時は城郭全体で数千とも[注釈 19])残っており、開口部の内側と外側に角度を付けることで敵を狙いやすく、敵には狙われにくくしている。また城壁を折り曲げて設置している箇所では死角がより少なくなる。形は丸・三角・長方形の穴が開いており長方形のものが「矢狭間」、ほかが「鉄砲狭間」である。長方形の狭間はほかの城にもよく見られるが、さまざまな形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている[注釈 20]。さらに天守の壁に隠した隠狭間[注釈 21]、門や壁の中に仕込まれた石落としなど、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。大天守と小天守を繋ぐ渡櫓、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるように造られている。

城主の居館[編集]

城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって「備前丸」といった。これは池田輝政の所領備前国にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を建てて住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。

内曲輪[編集]

内曲輪の航空写真。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
姫路城を北方から望む。天守手前に姫山原生林が見える

内曲輪は大きく分けて本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)・勢隠曲輪の多重構造になっている。さらに内部は、いの門・ろの門などいろは順に名付けられた門などによって水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などの曲輪に細かく区切られている。内曲輪における櫓や門の位置関係については右の画像の説明文を参照。内曲輪には天守や櫓群などの軍事と、御殿や屋敷などの政務の中枢が置かれた。

姫山北部には樹木が生い茂る「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが[15]、その存在は確認されていない。姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。江戸時代にはその名の通り水運のために利用されていた。

内曲輪の通路と門

内曲輪の通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫である。

たとえば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、まっすぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から三国濠の脇を右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。「はの門」から「にの門」へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。「はの門」へ続く坂道は「将軍坂」と呼ばれている[115][116]

「菱の門」は伏見城から移されたという伝承があり、長押形の壁に火灯窓を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は置塩城から移築したという伝承があり、壁が板張りであって、門の下側にいる敵を弓矢やなどで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。

本丸[編集]

姫路城北西にある男山から。中央奥に大天守、左に東小天守、中央手前に乾小天守、右に西小天守。
連立天守群の中心部
天守丸・備前丸

天守丸は連立した天守群によって構成され、天守南の備前丸には御殿や対面所があり池田氏時代には政務の場であった。御殿や御対面所などは明治時代に焼失している。

姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている12の現存天守の一つで、その中で最大の規模を持つ、まさしく姫路の象徴といえる建物である。姫路城の天守群は姫山(標高45.6メートル)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85メートル、大天守が31.5メートルなので合計すると海抜92メートルになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700トンである。かつては6,200トンほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修であてられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。

姫路城の最初の天守は1580年(天正8年)の春、羽柴秀吉によって姫山の頂上、現在の大天守の位置に3重で建てられた。この天守は池田輝政により解体され、用材は乾小天守に転用された。

2代目の天守は池田輝政により建てられ、5重6階天守台地下1階(計7階)の大天守と3重の小天守3基(東小天守西小天守乾小天守)、その各天守の間を2重の渡櫓で結んでいる「連立式天守[注釈 22]である。天守は全て2重の入母屋造りの建物を基部とする望楼型で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類されることもある。壁面は全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で造られており、防火・耐火・鉄砲への防御に加え、美観を兼ね備える意図があったと考えられている。

水曲輪・腰曲輪

天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。

天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2メートル分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの築地塀である。製法については油、もしくはもち米の煮汁を壁材に練りこんだと考えられている[117]。理由については、秀吉時代の遺構という説がある[32]が、防備の上で特に高い塀を必要としたという説[117]もある。

大天守[編集]
外観意匠
姫路城歴代の鯱

外観は最上部以外の壁面は大壁塗りで、屋根の意匠は複数層にまたがる巨大な入母屋破風に加えて、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)に懸魚が施され多様性に富んでいる。最上階を除く窓はほとんどで格子がはめ込まれている。

  • 初重目 - 方杖付きの腰屋根を四方に、東面中央に軒唐破風と下に幅4間の出格子窓(でごうしまど)、北東・南東・南西の隅に石落としを設置している。
  • 2重目 - 南面中央に軒唐破風と下に幅5間の出格子窓を設けている。東西に3重目屋根と交わる大入母屋破風を設置している。
  • 3重目 - 南面・北面に比翼入母屋破風、2重目から大入母屋破風が交わっている。
  • 4重目 - 南面・北面に千鳥破風、東面・西面に軒唐破風
  • 5重目 - 最上部。南北に軒唐破風、東西に入母屋屋根、壁面は他の壁面とは違って柱などが浮き出る真壁になっている。
内部構造

各階の床と屋根は天守を支えるため少しずつ逓減され、荷重を分散させている。大天守の心柱は東西方向に2本並んで地下から6階床下まで貫き、太さは根元で直径95センチメートル高さ24.6メートルの木材が使用されている。うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替えようとしたが、その際に折れてしまったので3階床下付近で継いでいる。

  • 地下 - 東西約11間半・南北約8間半。穴蔵と呼ばれている。簀の子の洗い場(流し台)と台所を付属させ、を3箇所設置している。
  • 1階 - 東西約13間・南北約10間。北側に東小天守と接続するイの渡櫓、西側に西小天守と接続するニの渡櫓。
  • 2階 - 1階とほぼ同様の構造。地下から2階は身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。
  • 3階 - 東西11間・南北8間。武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。
  • 4階 - 東西9間・南北6間。3階同様に石打棚がある。武具掛けのある比翼入母屋破風の間が南北に2箇所ずつ(計4箇所)ある。
  • 5階 - 東西9間・南北6間。大広間一室で4重目の屋根裏部屋に相当する。大柱はこの階の天井まで通っている。
  • 6階 - 最上階。東西7間・南北5間。一段高い身舎周囲に入側を巡らしている。部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押棹縁天井など書院風の意匠を用いている。長壁神社分祀されている。
小天守・渡櫓[編集]
東小天守1階内部
ニの渡櫓と水の五門

3基の小天守の最上階は蟻壁長押、竿縁猿頬天井の書院風意匠になっている。釣鐘のような形の火灯窓を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。火灯窓は同様の後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られる。乾小天守の火灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。

東小天守

3重3階・地下1階で天守丸の北東に位置する。西小天守や乾小天守のような火灯窓や軒唐破風はない。建設当初は丑寅櫓(うしとらやぐら)と呼ばれていた。

乾小天守

3重4階・地下1階で天守丸の北西に位置する。建設当初は乾櫓(いぬいやぐら)と呼ばれていた。

西小天守

3重3階・地下2階で天守丸の南西に位置する。水の六門が付属している。建設当初は未申櫓(ひつじさるやぐら)と呼ばれていた。

イ・ロ・ハ・ニの渡櫓

大天守と各小天守を連結している渡櫓。イ・ロ・ハの渡櫓はいずれも2重2階・地下1階、ニの渡櫓は水の五門が付属して2重2階の櫓門になっている。

二の丸[編集]

秀吉時代の縄張りを活かした雛壇状の作りになっており通路は迷路のように入り組んでいる。三国堀は捨て堀とされ秀吉の時代は空堀であったといわれている。

帯曲輪(腹切丸)
帯郭櫓(腹切丸)

天守の南東にある帯曲輪(おびくるわ)は城の防御において射撃などを行う場所として築かれた。帯郭櫓は2重2階で1階2階ともに3部屋に区切られ、1階には石打棚がある。帯の櫓は1重1階(地下1階)で約23メートルの石垣の上にコの字型に建てられている。外側から見ると平櫓であるが地下に井戸があるため内側からは2重の多門櫓に見える。内部は座敷部屋や床の間も設けられている。太鼓櫓は1重1階で折れ曲がり西・南・北の3部屋がある。歪みのある石垣上に建てられたため西部屋は傾斜がある。江戸時代は「への櫓」と呼ばれた[118]。太鼓櫓の西側には「りの門」があり帯曲輪と上山里曲輪を区切っている。「りの門」は脇戸付高麗門で「慶長四ねん大工五人」と書かれた墨書が発見されており、解体や移築の痕跡もなく木下家定の時代の建築と判明している。

帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその薄暗い雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られているが、通常では処刑場は城外にあり、藩主の屋敷付近や井戸付近では実際に切腹が行われたことは考えにくいという[119]

上山里曲輪
  • ぬの門 - 脇戸付きの鉄板張り二重櫓門。一層目は鉄格子窓、二層目は出格子窓。東側石垣に巨石を置き鏡石としている。
  • 「お菊井戸」が残っている。

三の丸[編集]

三の丸広場
千姫が居住した武蔵野御殿の跡

江戸時代、三の丸西側には御殿や屋敷があり本城(御居城)と呼ばれ、東側には向屋敷と庭園があり本多氏以降の政務の中心の場であった。本城には、大広間(鶴の間)・小書院・新書院・御居間・能舞台などの御殿群があった。向屋敷には池泉式庭園・築山・茶室が設けられ、北側には御用米蔵や上三方蔵があった。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。

建物や庭園は明治時代に取り壊され現存しておらず、三の丸跡のうち本城跡は千姫ぼたん園に、向屋敷跡は三の丸広場となっている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。三の丸の東部と東側に位置する出丸(御作事所)は姫路動物園の一部になっている。

下山里曲輪
三の丸北部、二の丸の上山里曲輪の南側下段にある曲輪。西側から南側の石垣に土塀が築かれ東側に門があった。昭和30年までは「下山里展望台」となっていた。その後の「昭和の大修理」の時に発見された墓石・石像などが祀られ、春と秋の彼岸旧盆には正明寺と姫路城を守る会によって供養が行われている。
大手門(桜門)
現在「大手門」と呼ばれている大型の高麗門1938年(昭和13年)に「桐二の門」があった場所に再建した門で江戸時代の意匠とは異なる。本来の大手口は入り口から桜門・桐二の門・桐一の門と続き、それらを三重の太鼓櫓・多聞櫓・ねの櫓で囲み、6回曲がらなければ天守方面へ行けない厳重な二重枡形を形成していたが、建物は明治時代の陸軍設置の際に取り壊されて現存しない。平成19年に桜門橋を復元している。

西の丸[編集]

西の丸は本多忠政伊勢桑名から移ってきた時に整備・拡張された曲輪。北端に位置する化粧櫓及び櫓群と、これらを結ぶ渡櫓(長局)が残っている。

渡櫓(長局)
渡櫓の城外側は幅1間の廊下が「カの渡櫓」から「レの渡櫓」まで長さ約121間(約240メートル)に渡って連なっており「百間廊下」と呼ばれている。城外に向けて石落とし狭間、鉄砲の煙出しの窓も付設されている。城内側は侍女達の部屋があり主室と付属室などに区分され長局を構成している。昭和の大修理の際に、草花模様で彩色した痕跡のある柱が発見されている。
化粧櫓
化粧櫓は、千姫が忠政の嫡男・忠刻に輿入れする際の化粧料10万石で1618年(元和4年)に建てられたものである。外観は二重二階、内部は畳が敷かれた座敷部屋が3室に区分され床の間がある奥御殿になっている[注釈 23]。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。

千姫は西の丸内に設けられた中書丸[注釈 24](天樹院丸[注釈 25])と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。

姫路城天守から西の丸を望む。

勢隠曲輪[編集]

天守東部の搦め手から北部一帯の広い曲輪で喜斎門・八頭門・北勢隠門・南勢隠門で仕切られていたが、いずれの門も建築物は無く石垣が残っている。内堀に面する北側は屏風折れに石垣が組まれ死角を少なくしている。「ゐの櫓」・内船場蔵・下三方蔵があった。東端区域は姫路神社になっている。大正時代に一般公開されてから終戦までは搦め手の登城口から入城していた。

中曲輪[編集]

姫路古地図

中曲輪は武家地で、城主が居住する東屋敷・西屋敷(樹木屋敷)、家老などの上級武士の侍屋敷などが建ち並んでいた。内曲輪の正面(南側)やそこに近いほど役職が高く広い屋敷を与えられた。東部から北部にかけては中級から下級武士の屋敷、南部には姫路藩校好古堂、東部端には桐の馬場があった。明治維新後から太平洋戦争終了まで帝国陸軍が置かれ軍の建物や広大な練兵場になっていた。桜門へ通じる大手筋があった城南部は城南練兵場に、城北部は姫山練兵場になり、城南西部は歩兵第39連隊が、城東部は第十師団司令部や衛生病院が建設されていた。終戦後は城の北東部に市役所(現在の市立美術館)、裁判所、検察庁、労働基準局、保健所などの官公庁があった。酒井氏時代の筆頭家老高須隼人の屋敷があった場所は平成になって『姫路侍屋敷図』を元に大手筋の復元や飲食店や土産物販売をする家老屋敷館(い・ろ・は・にの屋敷)が建てられた家老屋敷跡公園に整備された。家老屋敷館のシャッター(36箇所・全長134m)には『行軍横図 鉄砲洲警衛絵巻』(姫路市所蔵)が描かれている[120][121]

中曲輪の門[編集]

内曲輪の南勢隠門から堀が続く中曲輪には11の門があり、中曲輪西部の市ノ橋門から反時計回りに車門・埋門・鵰門(くまたかもん)・中ノ門・総社門・鳥居先門・内京口門・久長門・野里門・清水門となっている。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁が残っている。

  • 市ノ橋門
中曲輪の西側で、外堀に最も接近した門であり、外堀の外へ通じている。門のすぐ西にある市ノ橋に由来する。
  • 車門
中曲輪の西側、船場川沿いにあった門で、北に車(荷車)が通行する車道門があったことに由来する。普段は車道門を使わず南側の枡形門を使っていた。第一門は西向き、第二門は南向きでいずれも脇門付高麗門、内門は南向きで脇門付櫓門の3つの門で二重枡形を構成していた。第一門の横には番所が置かれていた。木橋が架けられており、外側の船場川とは水門で繋がっており船溜まりがあった。枡形は2つの門で構成される事が多いが、車門の枡形は西国方面への攻守両面に備えて3つの門で構成した厳重な二重枡形になっている。石垣は池田輝政の築城時に築かれたものと推定されている。
  • 埋門(うずみもん)
中曲輪の南西隅櫓の傍ら、船場川沿いにあった門。城から見て裏鬼門の方角(南西)に当たることに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)は共に南向きで中堀には土橋を架けていた。
  • 鵰門(くまたかもん)
中堀南部の西側、本町坂元町との境にあった門で、城主交代の際、ここで鷹を手渡す儀式が行われたことに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)は共に南向きで中堀には土橋を架け、外門を入った所には番所があった。門外に鷹の世話をした人の町・鷹匠町(たかじょうまち)の地名が残っている。
  • 中ノ門
中堀南部中央にあった門。外曲輪の飾磨門から内曲輪の桜門へ通じる大手筋にあった。終戦後に大手前通りが整備されるまでは大手筋は、江戸時代~明治末期は中ノ門筋(現在の大手前通りの西側)、明治末期~昭和30年代はみゆき通り(現在の大手前通りの東側)であった。中曲輪の正面五門の中央であることに由来する。
  • 総社門
中堀南部(中ノ門の東)にあった門。播磨国総社の西門に通じていることに由来する。
  • 鳥居先門
総社門の東にあった門。播磨国総社の南鳥居の前にあったことに由来する。祭事以外では開けることがなかったので、不開門(あかずのもん)とも言われた。石垣など遺構は残っていない。
  • 内京口門
中堀東南にあった門。外曲輪の外京口門と共に京都方面に通じることに由来する。戦後は賢明女子学院の裏門になっている。
  • 久長門(きゅうちょうもん)
中堀東側にあった門。久長町にあることに由来する。内門(脇門付櫓門)と外門(脇門付高麗門)は共に東向きで中堀に土橋が架けられ、外門の内側に番所があった。石垣の一部は残っている。
  • 野里門
中堀北東にあった門。野里への出入口にあることに由来する。内門(脇門付櫓門)は北向き、外門(脇門付高麗門)は東向きで中堀に土橋を架け横矢を仕掛けるため堀を鍵型に屈曲させていた。土塁は残っているが石垣は残っていない。
  • 清水門
北面の北勢隠にあった門。「鷺の清水」と呼ばれる井戸があることに由来する。中堀と外堀の合流地点。枡形内にある鷺の清水跡は、播磨十水の一つに数えられ、『播磨鑑』には京都の名水「柳の水」と飲み比べられたという記述の他、歴代城主が茶の湯などにも利用した井戸の跡であり、平成になって『人口幾蔵姫路城図』(1823年(文政6年))などを参考に上屋形が復元された[122]

外曲輪[編集]

外曲輪には下級武士や町人の居住区・寺院などが置かれた。広峰山を山あて(目印)にした立町筋(竪町筋)を中心に、78町に町割りした城下町(姫路町)が形成された。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分に因む町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。二階町には国府寺本陣脇本陣、家老の河合道臣が藩の財政を立て直すために作った木綿会所・切手会所、札の辻などがあった。

外曲輪の門[編集]

中曲輪の清水門から続く外曲輪には5つの門があり、外曲輪南西部の備前門から反時計回りに飾磨津門・北条門・外京口門・竹ノ門となっている[123]。いずれも門や櫓などの建物はなく石垣や土塁も破壊または地中に埋められている。

  • 備前門(または備前口門・福中門)
外堀南西にあった門。西の備前国へ通じることに由来する。中堀・外堀に面していた。平成26年8月、兵庫県の調査によって遺構が確認された[124]
  • 飾磨津門(または飾磨門・飾万門)
外堀南部にあった門。中ノ門筋から南の飾磨津(姫路港)へ通じる事に由来する。東西60m南北80mの門があった。山陽姫路駅建設時に埋め立てられた。
  • 北条門
外堀南東部にあった門。城南東部の北条地域へ通じることに由来する。兵庫信用金庫本店前交差点付近にあった。
  • 外京口門
外堀東部にあった門。中曲輪の内京口門と共に京都方面に通じることに由来する。姫路市立東光中学校の体育館床下に石垣が保存されている。この門が面していた外堀東部の東半分が明治時代に埋め立てられ、生野銀山飾磨港を結ぶ生野鉱山寮馬車道(銀の馬車道)が整備された。
  • 竹ノ門
外堀北東部にあった門。城の北東、鬼門に当たるため「他家→竹」としたことに由来する。北西に進み野里堀留町で堀の終点となる。

野里・船場・外縁[編集]

城北の野里(野里町)や城西の船場(龍野町)は外堀の外縁にあって総構えには含まれてはいないが、築城以前からある町で、野里は但馬道、船場は山陽道や船場川と通じており流通や交通で栄えた。野里や船場の建物は三叉路や街路に対し斜めに配置されたノコギリ横丁と呼ばれている。城下に攻め込まれた場合にも斜めに配置することで死角に身を隠すことが出来た。

世界遺産登録・文化財指定[編集]

世界遺産 姫路城
日本
天守
天守
英名 Himeji-jo
仏名 Himeji-jo
登録区分 文化遺産
登録基準 (1), (4)
登録年 1993年
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
姫路城の位置
使用方法表示

世界遺産[編集]

国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) により、1992年平成4年)9月と1993年(平成5年)4月、登録後の1993年(平成5年)8月に調査が行われた。登録にあたり、以下の点が優れていると判断された。

  • 木造建築物として建物の容積と配置が絶妙にバランスが取られ、白漆喰の城壁を持つ優れた美をもっていること。
  • 明治以前の封建制度の象徴であること。
  • 日本の木造建造物として最高のものであること。

登録地域は、中曲輪より内側となっている。さらにその周囲がバッファゾーンとしての登録を受けている。

登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
  • (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

国宝[編集]

以下の5件8棟が1951年昭和26年)6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。

  • 大天守(だいてんしゅ)
  • 東小天守(ひがしこてんしゅ)
  • 西小天守(にしこてんしゅ)
  • 乾小天守(いぬいこてんしゅ)[注釈 26]
  • イ・ロ・ハ・ニの渡櫓 4棟(附指定:台所1棟)

上記の天守と渡櫓計8棟は、1931年(昭和6年)1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、1950年(昭和25年)8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。1951年(昭和26年)6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記8棟が改めて国宝(新国宝)に指定された[125]

重要文化財[編集]

姫路城
重要文化財(建造物/城郭):1931年(昭和6年)12月14日指定(国宝保存法に基づく「旧国宝」指定)。
  • イの渡櫓
  • ロの渡櫓
  • ハの渡櫓
  • ニの渡櫓
  • ホの櫓
  • ヘの渡櫓
  • トの櫓
  • チの櫓
  • リの一渡櫓
  • リの二渡櫓
  • 折廻り櫓
  • 井郭櫓
  • 帯の櫓
  • 帯郭櫓
  • 太鼓櫓
  • ニの櫓
  • ロの櫓
  • 化粧櫓
  • カの渡櫓
  • ヌの櫓
  • ヨの渡櫓
  • ルの櫓
  • タの渡櫓
  • ヲの櫓
  • レの渡櫓
  • ワの櫓
  • カの櫓
  • 菱の門
  • いの門
  • ろの門
  • はの門
  • にの門
  • への門
  • との一門
  • との二門
  • との四門
  • ちの門
  • りの門
  • ぬの門
  • 水の一門
  • 水の二門
  • 備前門
  • との四門東方土塀
  • との四門西方土塀
  • との二門東方土塀
  • との一門東方土塀
  • への門東方土塀
  • への門西方土塀
  • 水の一門北方築地塀
  • 水の一門西方土塀
  • ニの櫓南方土塀
  • 水の五門南方土塀
  • イの渡櫓南方土塀
  • にの門東方上土塀
  • にの門東方下土塀
  • ロの櫓東方土塀
  • ロの櫓西方土塀
  • はの門東方土塀
  • はの門西方土塀
  • はの門南方土塀
  • ろの門東方土塀
  • ろの門西南方土塀
  • 化粧櫓南方土塀
  • ワの櫓東方土塀
  • カの櫓北方土塀
  • 菱の門西方土塀
  • 菱の門南方土塀
  • 菱の門東方土塀
  • いの門東方土塀
  • 太鼓櫓南方土塀
  • 太鼓櫓北方土塀
  • 帯郭櫓北方土塀
  • 井郭櫓南方土塀
  • トの櫓南方土塀


計74棟

  • 重要文化財の「イの渡櫓」は、国宝の「イの渡櫓」とは別の建物である。前者は本丸北側の腰曲輪にあり、後者は連立天守の一部である(ロの渡櫓・ハの渡櫓・ニの渡櫓についても同様)。

特別史跡[編集]

姫路城跡
史蹟1928年(昭和3年)9月20日指定(史蹟名勝天然紀念物保存法による)。
特別史跡1956年(昭和31年)11月26日指定(文化財保護法による)。

その他の城内施設[編集]

迎賓館
  • 姫路城管理事務所
  • 姫路城防災センター(自動火災報知設備監視カメラなど管理システム)
  • 迎賓館 - 昭和26年建築、木造平屋瓦葺。和室2部屋、洋室1部屋、厨房などを備えている[126]
  • 姫路城見学資料室 - 大手入城口近く。
  • 姫路城情報センター - 大手前通り大手前公園近く。
  • ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館(予定)[127]

伝承[編集]

大天守最上階の刑部神社
姥が石
お菊井戸
刑部明神(おさかべみょうじん)(長壁明神とも)
姫路城の守護神。もとは刑部氏の氏神であった。大天守最上階に祀られているほか、旧中曲輪の長壁神社播磨国総社にも祀られている。
長壁姫(おさかべひめ)
姫路城に隠れ住むといわれる日本の妖怪。様々な伝説がある。
開かずの間
大天守3階から4階へと続く階段の下にある小部屋。吉川英治の小説『宮本武蔵』内の光明蔵の章に武蔵が姫路城の天守に3年間幽閉され精神修養をしたという表現があるが、これは創作とされ本来は倉庫として使われていた可能性が高い。1912年(大正元年)に一般公開されて以来、非公開であったが大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』が放送されるにあたり、2002年(平成14年)9月1日から2003年(平成15年)5月5日まで特別公開され武蔵の人形が置いてあった[128]。小説での池田輝政との関わりも創作とされるが藩主の本多忠刻とは関わりがあったとされる。
にの門の十字紋瓦
にの門の破風の上には十字架を描いた瓦があり、羽柴秀吉築城時にキリシタンであった黒田孝高を評価して作らせたものであるとされている。(歴史雑誌「歴史人」の記事・「十字紋瓦」は戦国のクリスチャン黒田官兵衛の遺構?
姥が石(うばがいし)
羽柴秀吉が姫山に3層の天守を築いていたとき、城の石垣として使う石集めに苦労していた。城下で焼き餅を売っていた貧しい老婆がこれを知ると、石臼を秀吉に差し出した。秀吉は老婆の志に大変喜んだ。この話はたちまち評判となり、人々が競って石を寄進したという。実際に乾小天守北側の石垣には石臼が見られるが、この石垣は秀吉時代に構築されたものではない。他にも古代の石棺を石垣として使用している。「平成の修理」ではこの伝承を基に「平成の姥が石 愛城募金」を募っている[129]
棟梁源兵衛の自害
築城後まもなく、城下に「お城が東南に傾いている」との噂が立った。奉行も噂を放置できなくなり、天主から下げ振りを降ろして測定したところ、実際に城が傾いていることが分かった。この事に責任を感じた棟梁の源兵衛は、鑿をくわえて城から飛び降り自殺したという伝承がある。しかし史実にはそのような記述はなく、清水門そばにある石碑は源兵衛の墓だと伝わっていたが、この石碑は寛永元年に本多忠政が船場川を改修した際に建立された船場川改修の碑である。城が東南方向に傾いているのは古くからいわれていたことで「昭和の大修理」では実際に城が傾いていることが確認された。原因は軟弱な地盤の上に築城したため、礎石が構造物の重量で沈下したためであった。
播州皿屋敷
浄瑠璃などの元となったと言われるが、原型となった話は現在の姫路城ができる以前のものと言われる。本丸上山里内に「お菊井戸」が残る。皿屋敷お菊神社を参照。
四神相応
姫路城の東に市川・西に山陽道・北に広峰山・南に播磨灘という配置から、それそれに関わる四神の利益を得られる四神相応の地として見立てられることがあり、さらにそれが播磨ゆかりの陰陽師道摩法師によって見出だされたという伝説がある。

姫路市本町68番地[編集]

姫路城所在地の姫路市本町68番地は、高校・病院・美術館さらには県営住宅や民家をも含む総面積107.73ヘクタールの面積を持ち、単独の番地としては(皇居のある)千代田区千代田1番地の約150ヘクタールに次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治大正時代には陸軍歩兵第十連隊が配置されていた。姫路大空襲でこの一体は焼け野原になり、中心市街地として開発された戦後になっても、番地は分割されずにそのまま残った[130]。分割されなかったのは戦後の混乱に起因するという[131]。1980年代以降、この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。

周囲の文化施設・観光名所[編集]

以上は全て姫路市本町68番地の内である。本町68番地には他に姫路医療センター姫路東高校淳心学院賢明女子学院姫路聴覚特別支援学校など多数の施設が存在している(2009年までは姫路警察署も位置していたが市内市之郷に移転、同地は観光駐車場となった)。

姫路城十景[編集]

1994年(平成6年)3月、世界遺産登録を記念して公募・選定された姫路城が見える10箇所。「誰でも自由に行くことができ、お城を取り巻く方向にある」という観点から選ばれた。この他、選定後に新しく建てられたイーグレ姫路の屋上からの眺めも人気がある。

整備計画[編集]

  • 城郭の景観を江戸時代の物に近づけるためや、樹木の生長及び外来植物の繁殖による景観や文化財(特に石垣)・生態系への影響を考慮して、「樹木パトロール」を組織して樹木の伐採剪定が計画され、下山里曲輪など城郭の一部区域では作業が進められている[132][133][134][135][136][137]。姫山原生林で明治以降に植生した植種は原則伐採される。昭和44年平成22年の植生調査を比べると昭和より29種類増えており、外来種のシュロトウネズミモチニワウルシハリエンジュなどブラックリストにある種も含まれている。
  • 姫路城管理事務所では、城内とその周辺に生えている樹木について、倒木の恐れがあると判断した物の伐採を2008年から開始し、さらに2014年には、大天守南側の石垣とその周辺の樹木についても独自基準で剪定した。ところが剪定の際、幹を残し枝のみを払うというやり方を取ったため、樹木が異様な形となり、市民から「美観を損なう」などのクレームが市に多数寄せられる事態となった。これを受け市文化財課は、管理事務所に対し伐採の中止を指示した[138]。しかしこれは伐採計画の途中段階であって、一斉に根こそぎ伐採すると樹木の根の保持力がなくなり土の崩落の恐れがあるために樹木は残しつつ日当たりを良くして下草を充分に育成させてから伐採に移るための処置であると管理事務所は説明した[139]
  • 出丸(御作事所)跡にある市立動物園の移転が検討されている[140]

諸問題[編集]

外来種による被害
堀の水棲生物や、姫山原生林・城内の植物の植生で外来種の増加により在来種への影響や石垣を浸食するなど文化財への悪影響が出ている。
禁止区域での釣り
堀での釣りは禁止[141]されているにも関わらず釣りをしたり釣り糸などのゴミを放置する問題が起きている[142][143]
落書き
2009年までに、西の丸を中心とした城内に、人名などを掘り込む落書きが、100件以上発見された。いずれも、監視カメラからは死角となっていたという。姫路市では、落書きの上から着色して目立ちにくくする方法などを検討している[144]。これらの落書きは、最終的には609ヵ所にも及ぶことが明らかとなり、姫路市では対策として、2010年4月以降、西の丸の「百間廊下」(重要文化財)への立入りについて、28部屋のうちの25室に柵とセンサーを設置し立入を禁止し、城内の監視カメラが増設された[145]
周辺の世界遺産区域内の樹木に対しても、多数の同様な落書きが発見されていることが判明している。姫路市では、「樹木にまでは手が回らない」として、調査などは行わないとしているが、この姿勢に対しては、「落書きを容認しているのと同じだ」と批判、心配する意見が強い[146]

作品[編集]

小説[編集]

天守物語1917年 泉鏡花
1955年に映画化。天守の中に秘められた異世界の住人達と、切腹を命じられた末にその中に入り込んだ若侍の物語。
『宮本武蔵』 1936年 吉川英治
暴れん坊であった新免武蔵(しんめん・たけぞう)は沢庵和尚の計らいにより、姫路城の天守内の一室に3年間幽閉され、ここで兵法書などの書物に接し教養を身につけた。成長した武蔵に池田輝政は「宮本武蔵」(みやもと・むさし)の名を与えた。
『黒田如水』 1943年 吉川英治
後年、豊臣秀吉の右腕として活躍した黒田孝高(如水)の若き日を描く。当時の周囲の勢力図や、いかにして秀吉の居城となったかを知ることができる。
『姫路城の切腹丸(古城物語)』 1961年 南條範夫
切腹丸と異名を残す帯郭櫓(おびくるわやぐら)の名の由来を「鷺城私記」によって再現したとする歴史ミステリー小説。
播磨灘物語1973年 司馬遼太郎
播磨出身の戦国武将、黒田孝高(如水)の活躍を描く。毛利陣営と織田陣営の間で、せめぎ合いの地域となった播磨地域の当時の様子を描いている。姫路城がある姫山地域の城の様子も描写。

漫画[編集]

  • キン肉マン:「キン肉星王位争奪編」で名古屋城と共に空中を飛び合体、関ヶ原に着地して関ヶ原格闘城として試合の舞台になる。
  • 姫路城リビングデッドくらげバンチ・単行本は新潮社) - 原作:漆原玖。江戸時代の姫路城を舞台に信長や信玄など死んだはずの武将が死人の兵隊を率いて姫路城に攻めてくるという物語。

絵画[編集]

『城』 1955年、『門』 1967年 奥村土牛
『城』は昭和の大修理直前の大天守を、『門』は「はの門」を内側から描いている。『門』は当時78歳の高齢で夏の炎天下、長時間スケッチしたと言われている。

映像作品[編集]

下記の他にも世界遺産関連の番組や姫路フィルムコミッションの活動によって、映画やドラマ、CM[注釈 27]や子供向けの番組[注釈 28]まで、多くの撮影が行われており、特に時代劇では東映京都撮影所京都映画撮影所から場所が近いことから、彦根城とともにロケが頻繁に行われている。『暴れん坊将軍』、『水戸黄門』、『大奥』など、江戸城という設定で撮影されている場合が多い[注釈 29]1964年に公開された映画『モスラ対ゴジラ』では当初ゴジラが姫路城を破壊するシーンが撮影される予定であったが、劇中では名古屋城に変更されている。

映画[編集]

黒澤明の『1985年)』の他に多くの作品がある。

『大阪夏の陣』 1937年
衣笠貞之助監督の時代劇映画。この撮影において城内で爆破シーンの撮影を行ったところ、「ろの門」が破損し飛散した石で死傷者を出す事故が起こっている。
フランケンシュタイン対地底怪獣1965年
フランケンシュタインが食べた家畜の骨をここに隠していた。
007は二度死ぬ1967年
ジェームズ・ボンドがヘリコプターより降り立ったのは三の丸広場である。なおこの撮影では、撮影中に城壁に手裏剣を投げつけて城壁の一部を破損させてしまう事故もあった。この事が原因で、姫路城は日本国外からのロケはお断りであると言われていたが、実際には撮影許可はされている。
影武者1980年
武田信玄が狙撃されたとされる「野田城伝説」を引用。信玄を狙撃した兵士(鳥居三左衛門)から狙撃時の状況を聴くシーンで野田城の城内として撮影に使用(城の外観のみ熊本城でのロケ)された他、天守の外観は織田信長の居城[147]として使用された。
ラストサムライ2003年
西御屋敷跡に整備された好古園で若き日の明治天皇が登場するシーンが撮影された。この他にも書写山圓教寺において撮影が行われた。

テレビ番組[編集]

日本沈没1974年 TBS系
♯1「飛び散る海」、♯4「海の崩れる時」の劇中、播磨灘地震に伴い大倒壊(この場合はミニチュア)。また主題歌・タイトルバック映像でも流用された(これは実物)。
プロジェクトX〜挑戦者たち〜2001年 NHKドキュメンタリー番組
2001年(平成13年)9月11日放送分において「昭和の大修理」のエピソードが取り上げられた。この放送終了直後のNHKニュース10アメリカ同時多発テロ事件のニュースが報じられた。
THE世界遺産2002年 TBS系ドキュメンタリー番組。
2002年(平成14年)1月6日、「第282回 姫路城」が放送された。
武蔵 MUSASHI2003年 NHK大河ドラマ
吉川英治の『宮本武蔵』をドラマ化したもの。創作である可能性が高いが作品内の光明蔵の章に宮本武蔵が姫路城天守の小部屋に3年間幽閉されたという表現がある。
『世界遺産・姫路城白鷺(さぎ)の迷宮・400年の物語』 2004年 NHKハイビジョン特集
2004年(平成16年)6月14日、BS hi にて初放送された。出演:中越典子 語り:中村梅雀
歴史秘話ヒストリア2009年 NHK歴史番組
2009年(平成21年)9月9日、「第16回 姫路城 美と強運の400年物語 - 巨大迷宮の秘密を探る旅 - 」が放送された。
坂東三津五郎がいく 日本の城ミステリー紀行BS朝日、歴史紀行番組
2010年10月22日、「第3回 世界遺産・姫路城“美と戦略”融合の秘密」が放送された。

現地情報[編集]

桜の季節の姫路城を南東より望む
姫路城と姫路市立美術館
  • 所在地 - 姫路市本町68番地
  • ライトアップ - 毎日、日没から午前0時まで点灯している。季節や行事によって色が変わることもある。
  • スタンプ - 日本100名城のスタンプは管理事務所横に、世界遺産スタンプは大天守最上階に置いてある。

交通アクセス[編集]

開城時間・料金[編集]

開城時間
  • 通常:9時 - 16時(17時閉城)、夏季:9時 - 17時(18時閉城)
  • 休城日:12月29日、12月30日
料金
  • 大人:600円、子供(5歳 - 中学生):200円
    • 修復工事期間中(平成22年4月12日 - 平成27年3月末)は大人400円、小人100円に減額され、修理見学施設に入るには大人200円・子供100円の追加料金が必要であった。
    • 姫路市在住者は、どんぐりカード(姫路市内在住の4歳から中学3年生に配布)[149]高齢者福祉優待カード(姫路市に住民票があるの65歳以上に配布)[150]を提示すれば無料となる。
  • 団体:30人以上1割引、100人以上2割引、300人以上3割引
  • 割引共通券(姫路城と好古園、姫路城と博物館と美術館)や、姫路城と周辺施設の入場券をセットにし通常価格より割安の料金で姫路の観光ができる姫路観光パスポート[151](姫路城周遊コースと姫路城・書写山周遊コースの2種類)も販売されている。
  • 平成の修理完了後の公開からは入城料金が、大人:1000円、子供:300円、団体料金:一律2割引、に改定される[152]

[153][154]

登城[編集]

入り口は正面登閣口と東門登閣口の2つある。城の東側にある姫山駐車場と城の北側にある城の北駐車場からは東門登閣口の方が近い。正面登閣口から大天守最上階へ登って下りてくる最短順路であれば約1時間、順路通りに回れば1時間半 - 2時間を要する。城の搦め手(裏門)に当たる東門登閣口からの順路は急な上り坂と段差のある石段になっているが登閣口からの時間にすると約25分で大天守最上階まで行ける。混雑していない状況での時間の目安は、大手門から正面登閣口まで約10分、正面登閣口から備前丸まで10 - 15分、東門登閣口から備前丸まで5 - 10分、備前丸から大天守最上階まで約20分である。

天守入り口でスリッパと自分の履き物を入れる袋が無料で貸し出される。階段が急なため、スリッパでは登りにくい上に自分の履き物を入れた袋が邪魔になるため手荷物の多い人、子供や足腰に不安のある人は注意が必要である。

車椅子でも介助者数名の同伴と段差をなるべく避けるようにすれば本丸(備前丸)までは登城可能である[155][156]補助犬盲導犬聴導犬介助犬)は天守・櫓など建物内への同伴はできないが、それ以外の有料区域内への同伴は許可されている[157]

城内ガイド
姫路城シルバー観光ガイドと外国語ボランティアガイド[158]が応対しており、三の丸広場北側にある姫路城管理事務所とJR姫路駅構内にある姫路市観光案内所(なびポート)で受け付けている。シルバーガイドは日本語のみで、ガイド1人2000円、1時間半 - 2時間かけて案内する。拡声器を使わないので20名前後が定員となる。外国語ガイドは英語・中国語・韓国語に対応し無料となっている。外国語パンフレットは英語・フランス語・韓国語・中国語(北京語と台湾語)が配布されている。この他、ゴールデンウィークなど観光客が多い時期の土・日・祝祭日には殿様や姫様に扮した殿様ガイド(4代目)・姫様ガイドが登場する[159]
公衆便所
公衆便所は、登閣口より入った有料区域内には菱の門付近・西の丸東側中程・備前丸西側奥の3箇所、内曲輪無料区域には三の丸広場などに5箇所、設置されている。

観光和船[編集]

  • 2011年12月、「姫路藩和船建造委員会」発足。
  • 2012年3月17日から29日の間、観光用和船が試験運用され[160][161]、好評だった[162]ため2013年(平成25年)の春を目標に和船の建造を開始[163]。絵図や文献を元に地元の船大工やオクムラボートが木造(一部モーター)で復元し、「はりま」と命名された。全長は約9.5メートル、最大幅は約2.3メートル。船頭・ガイドを含め12人が乗船できる[164][165][166]
  • 2013年3月1日、水進式が行われ、同年3月16日から正式運行が開始された[167][168]。内堀西部から南西部にかけて1日12便、1.5kmを30分かけて運行している[169]
  • 運行 - 3月初めから11月末まで1日10便以上運行されているが繁忙期以外は平日の運航や便数が少なくなる[170]
  • 料金 - 大人1,000円、子供500円

イベント[編集]

観月会でライトアップされた姫路城
しろまるひめと姫路お城の女王
元日無料登閣(1月1日)
毎年、元日は入城無料とされるのが通例となっており開城・閉城時間が早くなる。
姫路城下町マラソン大会(1月)
内曲輪を1.5km、2.5km、3km、5kmの部門別に分けて競争する[171]1992年から開催されている。
姫路城駅伝大会(2月)
内曲輪を5区間で競争する[172]2010年から開催されている。
しろの日(4月6日
姫路市制100周年を記念した「ふるさと創生事業」を実施するため市民から公募し、1990年(平成2年)より行われている。普段は非公開となっている部分が春の特別公開として5月頃まで公開されるほか、多数のイベントが催される。姫路城内のの花が開花する頃であり、地域を代表する花見スポットとなる。制定以来、この日には城を含め指定の周辺施設が入場無料とされていた。しかし桜の開花時期とも重なり来場者数が増加、入場制限を行うなどしていたが安全管理を考慮し無料開放は2007年(平成19年)4月6日をもって終了した。
姫路城観桜会(4月上旬)
和太鼓・琴などの演奏や姉妹都市からの出展など。
姫路城夜桜会(4月上旬)
西の丸庭園で夜に開催。光の回廊や音楽コンサートなど。
千姫ぼたん祭り(4月下旬)
三の丸西(本城跡)で開催。「千姫様お輿入れ行列」や句会など。
姫路お城祭り(8月上旬)
姫路城薪能(三の丸広場)、「お城の女王」などによる大手前通りのパレードなど。
姫路城観月会(9月下旬)
筝曲・舞踊や月観測、地酒や月見団子の出店など。
姫路城菊花展(10月中旬から11月中旬にかけて)[173]
1000点近い菊の展示。
秋の特別公開(11月上旬)
非公開部分を1週間ほど期間限定で公開。
姫路城世界文化遺産登録記念日(12月11日
世界遺産登録日を記念して2008年(平成20年)制定された。上記の「しろの日」に替えて城と指定された周辺施設が入場無料となる。
年末年始
城内の松にこも巻きを施したり、巨大門松を飾る他、姫路城クリーン作戦と題された清掃事業が1976年(昭和51年)から毎年12月中旬に行われている。陸上自衛隊姫路駐屯地の隊員による訓練の一環で、車両やボートなども使って通常では清掃が困難な石垣や堀などを重点に清掃している。

その他、定期的な大規模清掃や市民有志による月例清掃会[174]など。

その他[編集]

入城者数[編集]

  • 1964年(昭和39年)度 - 173万8,000人(統計以降の歴代1位・「昭和の大修理」竣工年)
  • 2009年(平成21年)4月14日 - 「昭和の大修理」以降の累計入城者数が4,000万人を突破した[175]

平成以降の年度別入城者数(概数)[176]

  • 1989年(平成元年)度 - 119万7,000人
  • 1990年(平成2年)度 - 81万1,000人
  • 1991年(平成3年)度 - 87万1,000人
  • 1992年(平成4年)度 - 88万5,000人
  • 1993年(平成5年)度 - 101万9,000人
  • 1994年(平成6年)度 - 98万3,000人
  • 1995年(平成7年)度 - 69万5,000人
  • 1996年(平成8年)度 - 86万1,000人
  • 1997年(平成9年)度 - 71万6,000人
  • 1998年(平成10年)度 - 79万2,000人
  • 1999年(平成11年)度 - 71万3,000人
  • 2000年(平成12年)度 - 66万2,000人
  • 2001年(平成13年)度 - 70万8,000人
  • 2002年(平成14年)度 - 72万9,000人
  • 2003年(平成15年)度 - 81万4,000人
  • 2004年(平成16年)度 - 77万1,000人
  • 2005年(平成17年)度 - 77万8,000人
  • 2006年(平成18年)度 - 89万9,000人
  • 2007年(平成19年)度 - 102万3,000人
  • 2008年(平成20年)度 - 119万5,000人
  • 2009年(平成21年)度 - 156万1,000人
  • 2010年(平成22年)度 - 45万8,000人(平成の修理着工)
  • 2011年(平成23年)度 - 61万1,000人
  • 2012年(平成24年)度 - 71万1,000人


姉妹城[編集]

フランス・パリ近郊シャンティイ市にあるシャンティイ城と姫路城は、1989年に姉妹城提携を結んでいる。シャンティイ城はルネサンス期の壮麗な建築様式を代表する建築物として知られる。尚、姫路城と同じ国宝の松本城とは姉妹城提携は無いが姫路市と松本市は姉妹都市提携を結んでいる。

ミニチュア姫路城[編集]

東武ワールドスクウェアにある姫路城の1/25の模型

三重県伊勢市にある実物の1/23の鉄筋コンクリート製ミニチュア模型[177][178][179]

伊勢在住の男性が19年の歳月と土地代・材料費を含め約2000万円の私費を投じて自宅の庭に製作、2007年(平成19年)3月完成した。製作にあたっては、近くに他の建物がないことなどを考慮したうえで土地を選び、自ら姫路城に足を運び狭間の並びや階段の段数などを調査、姫路城から特別に許可を得た図面などを元に内曲輪の現存の建物は勿論、現存しない御殿や櫓など多くを再現している。実際の姫路城の石垣では野面積みや打ち込み接ぎが多く、この模型では全面的に切り込み接ぎで石垣が再現してあるなどの相違点はあるものの、姫路市立城郭研究室の学芸員の評価も高く[180]2007年(平成19年)6月1日、姫路市は製作者を「ひめじ観光大使」に任命している。見学料金・駐車料金は無料で年間数万人の見学者が訪れるほどになっているが私有地であるため、製作者はマナーなどの配慮を求めている。

この他、東武ワールドスクウェアにも1/25のミニチュアがある。市販されている模型には、1/150の木製模型(ウッディジョー)、プラモデルでは1/300(フジミ模型)や1/380、1/500、1/800(童友社)、その他ペーパークラフトなど多種販売されている。

イメージキャラクター[編集]

小惑星への命名[編集]

2010年09月30日、日本のアマチュア天文家が発見した2つの小惑星のうち1つに「白鷺城(Hakurojo、姫路城の別名)」と命名し国際天文学連合小惑星センターに登録された。もう1つは「Konjikido(金色堂)」と命名された[187]

注釈[編集]

  1. ^ 英文では、「Himeji Castle」、「Himeji-jo」、「Himejijo Castle」などと表記される。
  2. ^ 国宝指定の現存天守を持つ4箇所の城郭、姫路城・松本城彦根城犬山城を指す。
  3. ^ 赤松氏の傍系を先祖に持つ
  4. ^ 八代城の別名は白鷺城と書いて「しらさぎじょう」と読んでいる。
  5. ^ 姫路市学校園ホームページに校歌が掲載されている集計した時点で32校中15校の校歌に使用されている。
  6. ^ 現在は市内五軒邸に移転し正明寺天台宗)になっている。市内飾東町にある称名寺浄土真宗大谷派)は同名の別の寺。
  7. ^ (しょうやまじょう)。姫路市飾東町にあった城。
  8. ^ 父の職隆が家督を譲り隠居していた城。別名は妻鹿城・甲山城・功山城・袴垂城ともいう。
  9. ^ (けいろうさんじょう)。別名:龍野古城・朝霧城。龍野市龍野町北龍野にあった赤松氏の居城の1つ。
  10. ^ 茂政は輝政の血縁上の子孫ではない。実際は徳川斉昭の九男であり、水戸徳川家から養子として岡山池田家を相続した。したがって15代将軍の徳川慶喜とは異母兄弟の間柄である。
  11. ^ これにおいては姫路城は「存城処分」とされたが、これは陸軍の兵営地とする意味であって城郭の建築物をそのまま維持するという意味ではない。
  12. ^ 明治11年から明治15年3月までは「山陽博交社」だった
  13. ^ 新たな瓦は西谷増吉、福永正太郎、林営松らの瓦師によって制作された。
  14. ^ 1964年までの工事を第2期第2次工事と呼ぶ。
  15. ^ 松本城の解体修理は1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)
  16. ^ 三の丸広場北方にそのままの配置で移動された。
  17. ^ 森林鉄道では運材台車と呼ばれる2台1組の首振り機構のついた2軸トロッコの上に木材をまたがらせて輸送する。このため、極端に長い木材の場合、中央部に支えがなく、また木材自体を機関車の牽引力伝達に用いることから、停車時の衝撃や自身の重みなどで折れてしまう恐れがあった。
  18. ^ 十字架のようにも見えるためキリシタン大名であった黒田孝高が城主であった頃の名残りと言われている。しかし、『フロイス日本史』によると孝高がキリスト教の洗礼を受けたのは天正11年から13年頃であり、これは黒田家による築城より後で孝高は秀吉に姫路城を譲って国府山城に移っている時期になる。
  19. ^ 史料によって3000~4000の開きあり
  20. ^ 例えば橋の欄干、車止めブロックなどに丸・三角・四角の模様や穴が見られる
  21. ^ 普段は木の蓋で塞がれているが、非常時にのみ開かれる
  22. ^ 現存12天守では松山城伊予国)が同じ構成である。
  23. ^ 天守南東部の「帯の櫓」にも座敷・床の間がある
  24. ^ 忠政の息子で千姫の夫、忠刻の役職「中務大輔(唐名中書)」に由来
  25. ^ 千姫の号「天樹院」に由来
  26. ^ 「北」は「敗北」に通ずるので、北西に築いた小天守を「北西小天守」ではなく「乾小天守」と称している。乾=北西の方角。
  27. ^ 日産・スカイライン(白鷺篇)』 1973年 いわゆるケンメリと呼ばれるC110系スカイラインのCMシリーズに使用された。
  28. ^ 変身忍者 嵐1972年 MBS系特撮テレビ番組(東映製作)1972年11月24日(34話)、12月1日(35話)放送など。
  29. ^ 史実では江戸城天守1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失後、天守台は築かれたものの天守そのものは再建されなかったので、明暦の大火以降を描いた時代劇に江戸城天守が登場した場合、史実に即しているとはいえない。姫路城の天守は健在であり、往時の江戸城に見立てて撮影がなされているが、実際にはこれより後の時代設定であっても作中で天守が映っている場合が多く、撮影の際に天守を写さない、消すなどの処置が行われていない場合が多い。むしろ積極的に画面に映している場合も見られ、意図的な時代考証無視がなされている。

出典・参照[編集]

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  1. ^ 『姫路城の基礎知識』の「螺旋状の堀と総構式」)
  2. ^ a b c 平井聖監修『城 6.中国編』
  3. ^ 財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』
  4. ^ 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』
  5. ^ 『姫路城の基礎知識』の「天守」)
  6. ^ 『姫路城の基礎知識』の「最初の築城説」)
  7. ^ 『姫路城の基礎知識』の「国宝・重要文化財建造物一覧」)
  8. ^ 2013年4月現在主要建造物は現存するが、創建当時の全てではない。
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  10. ^ 姫路城文化庁 世界遺産と無形文化遺産 文化遺産オンライン
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  21. ^ 探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅
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  58. ^ 武家屋敷配置に一定の計画性 姫路城城下町跡の発掘
  59. ^ 姫路城跡上山里下段石垣の修理について
  60. ^ 羽柴秀吉時代の石垣(姫路城上山里下段)修理について
  61. ^ 秀吉の石垣修復完了へ 姫路城
  62. ^ 官兵衛が築いた?「野面積み」 姫路城石垣の保存修理工事ほぼ完了 9日に現地説明会
  63. ^ 姫路城、秀吉時代の石垣修理 9日現地で説明会(動画)
  64. ^ 姫路城外堀の発掘調査成果について
  65. ^ 姫路城外堀発掘調査で橋の遺構確認
  66. ^ 姫路城下の全容浮かぶ 石垣で囲い、入り口に巨大な橋
  67. ^ 姫路城外堀、橋の一部発見 初の構造物、新たに石垣も
  68. ^ 広報ひめじ2008年5月号特集
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参考文献[編集]

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  • 『姫路城史』橋本政次(上巻、中巻、下巻) 姫路城史刊行会、1953年(臨川書店、1994年復刻 ISBN 4653027951
  • 『姫路城の話』橋本政次社団法人姫路観光協会、1993年、ISBN 4875210493
  • 『姫路城―世界に誇る白亜の天守』 学習研究社〈「歴史群像」名城シリーズ 〉、1996年(2000年新装版、ISBN 4054012019
  • NHKプロジェクトX制作班編 『プロジェクトX 挑戦者たち (11) 新たなる伝説、世界へ』 NHK出版、2002年、ISBN 4140806796
  • 歴史群像シリーズ「よみがえる日本の城」第4巻、学習研究社、2004年 ISBN 4056034427
  • 『姫路城の基礎知識』(日本城郭研究センター姫路市立城郭研究室が編集・発行・販売、2009年)
  • 『姫路城の石垣』、『姫路城の漆喰』(共に日本城郭研究センター姫路市立城郭研究室、城内の配布冊子)
  • 『天空の白鷺』(施設の配布冊子)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]