小寺政職

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小寺 政職(こでら まさもと、永正14年(1517年) - 天正10年(1582年))は、戦国時代武将小寺氏の当主。播磨御着城主。

生涯[編集]

永正14年(1517年)、播磨御着城主・小寺則職の子として誕生する。通称は藤兵衛。

小寺氏は、赤松氏の分家にあたり、祖父・政隆(まさたか)の代までは姫路城を本拠としていた。

赤松氏の重臣として仕え、大永元年(1521年)9月に赤松義村浦上村宗に殺害されると、義村の遺児・赤松政村(のちの晴政)と共に細川晴元を頼って落ち延びた。享禄4年(1531年)に村宗と細川高国を討って赤松氏の再興に尽力した(大物崩れ)。政村が「晴政」に改名した1540年から1541年ごろに元服してその偏諱(「政」の字)を受け、政職と名乗る。その後は幾たびかの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。この間、政職は多くの家臣を登用し、中でも牢人であった黒田重隆職隆親子の能力を認め、天文14年(1545年)に彼らを家老職に引き上げ姫路城代を任せ、さらに小寺の苗字を与えている。また自身の偏諱を与えた職隆の子・孝高にも、自らの従姪(櫛橋氏の娘・)をめとらせるなど厚遇している。なお、黒田氏の家紋である橘紋は、黒田職隆が小寺氏に仕えた際に下賜されて以来のものである。

天正4年(1576年)、播磨に東から織田氏、西から毛利氏と大勢力が迫ってくると、政職はかねてから織田氏と誼を通じていた孝高の進言を受け、織田信長に従った。ところが、天正6年(1578年)に荒木村重摂津有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。

しかし天正8年(1580年)、信長の嫡男・織田信忠によって討伐されて御着城は落城、政職は毛利氏のもとへ落ち延びたという。天正10年(1582年)、死去した。

なお、子に氏職(うじもと)、正則(まさのり)らがおり、そのうち氏職は後に黒田氏に仕え、子孫は福岡藩士として代々続いた。

偏諱を与えた人物[編集]

登場作品[編集]

参考文献[編集]