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(しろ)とは、敵に攻め込まれた際の防衛拠点として設けられた構造物。戦闘拠点であるとともに、食糧武器や資金の集積場所でもある。主要な城は指揮官の居所であり、政治情報の拠点であった。純防衛用として山地に建築されることも多いが、街道河川などの交通の要衝を抑え利用することも多い。城郭ともいう。

ヨーロッパ、中国などの大陸では、都市を囲む城壁と砦のような戦闘拠点とを区別し、ドイツ語では Stadtmauer と Burg、英語では city wall と castle として区別する。城という文字は中国では前者の城壁都市を意味していたが、日本においては城壁都市が普及しなかったこともあり、主に後者の意味で使用される。

一般的には城には次の機能がある。

防衛機能
不意の攻撃や戦力に劣る場合、籠城する。
支配の拠点
領地支配の象徴としたり、敵地への支配地拡大の前線基地とする。
君主の住居
通常の領主の生活の場であり、住民達の拠点でもある。

ヨーロッパ[編集]

城塞の技術は、15世紀 - 16世紀の火薬大砲の活躍によって大きく変化した。有史以来の防護設備、砦、城、要塞の基本は壁と塔であった。壁により敵の侵入を防ぎながら、塔から高さを生かした攻撃を行うもので、重力を利用すれば、弓矢の威力は増し、単なる石や丸太も武器と化すことができた。攻撃側は、壁を壊すための器具を工夫したが、いずれも大がかりで時間のかかるもので、守備側の優位は堅かった。

しかし、大砲、銃が使われ出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊されるようになった。このため要塞と城の機能は分離されるようになり、要塞は高さより、厚さを重視するものになり、永久要塞としては星型(稜堡式)要塞が、野戦要塞としては塹壕が主流となった。一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られるようになる。フランス語のシャトー(château、複数形châteaux)は日本語で城と訳されているが、荘園主によるものは城郭というよりはイギリスアイルランドにおけるマナー・ハウスに相当する。

古代[編集]

中近東を含めた地域では文明が興り都市が形成されるとその周囲に城壁を巡らしていたが、これは街の防護と戦時の拠点とするためだった。こうした様相は当時文明の中心であった地中海周辺ばかりでなく、例えばガイウス・ユリウス・カエサルの『ガリア戦記』には険阻な地形に築かれたガリア人の都市を攻略する様子が度々登場するように広く見られるものである。

また一時的なものであるが、ローマ軍などは進軍した先で十分な防御能力を備えた陣地を構築しており、これも城の一種と見ることもできる。ローマも全盛期は、もはや侵入できる外敵が存在しなくなり、都市機能の拡大に合わせて外壁を拡大していく必要がなかった。しかしながら衰退期に入ると再び外壁を築いて都市を防衛する必要性が生じた[1]

城壁の素材は地域や時代・建築技術の程度によって様々で、日干しレンガや焼きレンガ・石・木・土など様々である。なお『ガリア戦記』に記されているガリアの城壁は木を主体としたものであり、北西ヨーロッパに本格的に石造建築が導入されるのはローマ化以降のことである。

中世[編集]

d. 中世オックスフォード城
城壁には小塔 (turret)、郭内 (bailey) には堅牢な天守 (donjon, keep) がそびえる
e. クラク・デ・シュバリエ

フランク王国が分裂して中央の支配力が緩みだし、ノルマン人マジャール人の侵入が激しくなると、各地の領主は半ば自立して領地や居舘の防備を強化しはじめた。当初は居館の周りに屏を作り、濠を掘る程度だったが、10世紀の終わり頃から城と呼べる建築物を作るようになった。

多くは木造の簡易なもので、代表的な形態がモット・アンド・ベーリー型である(図a 参照)。平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして、濠(空濠が多かった)を形成し、その土で小山と岡を盛り上げた。小山は粘土で固めてその頂上に木造または石造の塔(天守)を作り、岡を木造の外壁で囲んで、貯蔵所、住居などの城の施設を作るものである。これは非常に簡単に建築でき、十分な人数が有れば8日間で建築した例もある。フランス西部で多く使われていたが、ノルマン征服によりイングランド全土に建設された。

また、ほとんどの街も城壁を有する城壁都市となった。(古来からの街はローマ時代の城壁を再建して使用している)。(図b カルカソンヌ参照)

11世紀には、天守や外壁が石造りの城が建築されるようになるが、石造りの城は建造に長期間(数年)かかり費用も高額になるため、王や大貴族による建設が中心であり、地方では木造の城も多く残っていた。石壁には四角い塔が取り付けられ、壁を守る形になった。(図c ロンドン塔・図d オックスフォード城参照)

12世紀の十字軍の時代には、中東におけるビザンティンアラブの技術を取り入れ、築城技術に革新的変化がみられた。コンセントリック(集中)型と呼ばれる城は、外壁の内側にさらに内壁を加え、天守から同心円状に2重以上の壁をはりめぐらせ、内側に行く程、壁を高くして、外壁を破られても内側の防御が有利になるよう工夫されている。また、壁は厚くなり、塔はより衝撃に強い円筒型になった。代表的なものにクラク・デ・シュバリエ城、ガイヤール城がある。(図e クラク・デ・シュバリエ参照)

コンセントリック型をさらに発展させたのが、13世紀のエドワード式でイングランドのエドワード1世がウェールズ支配のために多く築かせた。城門の守備塔(ゲートハウス)が従来の天守の機能を有するようになった。(図f ハーレック城参照)

近世[編集]

しかし、15世紀にはいり大砲が活躍し出すと、火薬を使った銃弾の威力は高さの優位を減少させ、大砲の使用により高いが比較的薄い壁は容易に打ち壊され、また高い建造物は大砲の標的となった。このため城壁は高さよりも厚さを重視するようになり、内部の建造物も低く作られるようになったため、政庁や住居を兼ねるためのスペースが無くなってしまった。結果として軍事施設である要塞と、貴族の住居および政庁である城の機能は分離されるようになり、背の低い星型(稜堡式)要塞が作られるようになった。(図g オラデア参照)一方、城は防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した、優雅で窓の多いものが作られた。現在のヨーロッパの城のイメージは、近世に建築された城によるものである。(図h ユッセ城、図i ノイシュヴァンシュタイン城参照)

中国[編集]

明清代皇帝の居城、紫禁城

中国における城とは、本来城壁のことを意味し、都市や村など居住地全周を囲む防御施設を指すことが多い。そのため中国語では都市のことを城市といい、欧州や日本に見られるような城は城堡という。ちなみに城壁のことは城牆(じょうしょう)という。

大規模なものは、宮殿など支配者の住む場所を囲む内城と、都市全域を囲む外城に分かれており、内城は城、外城は郭と呼ばれ、併せて城郭といわれる。辺境では北方騎馬民族の侵入への備えとして万里の長城を発達させた。また、城とは呼ばれないが長大堅固な城壁を持つ要塞として、交通の要所におく「関(かん)」が重要である。

構造[編集]

城壁は当初、版築による土壁であり、長安城の城壁も全長27kmに及ぶ長大な土牆(どしょう)であった。時代が下るとさらに城壁の強度が求められ、現在中国各地に遺構として残る明代以後の城壁はその多くが堅牢なレンガ造りである。城壁の上部は城兵が往来可能な通路となっており、城壁に取り付いた敵軍を射撃するために「堞」(女牆)と呼ばれるスリットの入った土塀が備えられていた。城壁は一定間隔ごとに「馬面」という突出部を持ち、これが堡塁の役目を果たして敵を側面から攻撃するのを助けた[2]

城壁には市街に出入りするための城門が設けられていた。石造りの土台をくり抜き、トンネル状として(これを「闕(けつ)」という)その上部に木造重層の楼閣が建てられ、その上には門の名称を記した「扁額」が掲げられた。城門はその多くが二重構造となっており、城門の手前に敵を食い止める目的で半円形の小郭が設けられていた。これは「甕城(おうじょう)」と呼ばれ、洋の東西を問わず普遍的に見られる防御構造であり、日本城郭では「枡形」がこれに相当する。外敵が城内に攻め入るためにはまず、この甕城で足止めされることになるため、城兵は城壁や箭楼(甕城に設けられた櫓)から銃撃をしかけることができた。

中華人民共和国時代に入って、市域拡張のため、また近代化の妨げになるという批判もあり、ほとんどの都市では城壁は取り壊されたが、西安平遥のように保存されている都市も多い。

日本[編集]

日本の城は、古代から江戸末期までに平地や丘陵、山を利用して築かれた。しかし、日本における城は古代と中世以降で使われている土木、建築技術や用途が多少異なる。現在までに、城(しろ)といわれているものは中世から明治時代までに築かれたもので、武家や城主などが日本国内の敵対する武力集団から守るための防衛施設である。

古代、日本では「城」を“き”と読み、「柵」の字も用いた。「柵」はおもに大和朝廷の東北地方の政治行政施設を併設する防御施設を意味する。「城」は水城や大野城のような西日本に点在した古代山城や防壁の類いを意味する。663年の白村江の戦いに敗れた大和朝廷は敵対した新羅からの侵攻を想定して、連合を組んでいた百済国の人々の指導によって築かれた防御施設で、版築土塁の外郭城壁をもつ特徴があったが、後の中世以降の築城技術へとは継承されることはなかった[3]

日本の近世城郭(松本城天守群)

中世、戦国時代では小高い丘陵から山岳までの山に、棚田のようにいくつもの曲輪を形成して、簡易な小屋や物見城門などを仮設した。一方で、ふもとの平地にはを穿ち、堀の内側に土を盛って土塁とし、出入り口である虎口には城門を建て、土塁の上には仮設の塀や櫓を建てて攻め手の侵入を防いだ。

戦国時代中ごろまで弓矢が中心だった古来の戦い方に、新たにポルトガルから伝わった火縄銃が加わったことで、それまでを防げるだけの塀や建物に防弾を考慮する必要が生じることとなった。織田氏豊臣氏の台頭する時代から徳川氏が政権を樹立した江戸時代までの城は、こうした銃器に対する策として、内部に石を入れた分厚い土壁(太鼓塀)やおもに寺院に使われていた屋根、そして石垣が多用されることとなる。城地の選択も、主力であった山や山岳からより利便性の高い平地や平地に近い丘陵にも多く築かれるようになり、それまで有事のときにだけ篭っていた山城の麓に館を営んで生活や政務を行っていた城主や領主は、城に生活の場所を移すようになった。この城郭の利便性の追求と建築の恒久化は寺院建築や住宅建築を多く取り入れ、日本城郭特有の天守のような重層な櫓の要素をもった楼閣建築を発生させることとなった。このように、城の外観には戦うためだけのものというだけではなく、内外に見せて主の権威を高める目的も含まれるようになり、現在まで日本で見られるような独特な形式の城となった。

沖縄(旧琉球王国)[編集]

首里城の城壁

琉球王国の城は「グスク」または「スク」と呼ばれるものである。12世紀、沖縄地方に点在していた領主の「按司」(あじ)の居城で、城内に「ウタキ」(御嶽)や「ウガンジュ」(拝所)と呼ばれる沖縄地方特有の信仰施設を持つ。元々聖地のような土地を取り込んで築かれている。

三山時代に多くのグスクが築かれ、現在までに見られる多くのグスクはこのころのものである。土木や建築の技術は明の影響によるもので、特に石垣は日本の石垣とは異なり、琉球石灰岩を加工した石積みの城壁であって外観も曲線をなして角さえも丸みを帯びている。建物に日本城郭のような高層建築はなく、ぎっしりと建てられた舎殿のほか櫓としては門上の櫓のみである。

朝鮮半島[編集]

朝鮮半島の城は、朝鮮固有の形式である山城の他に中国の影響を強く受けた都市城壁を持つ邑城(ウプソン)の2形式があるが時代が下るとともに邑城へと移行した。しかし山がちな地勢上、完全な邑城は少なく山城との折衷形式のものが多く見られる。文禄・慶長の役で日本軍の攻囲に耐えた延安城、また一旦は日本軍の攻撃を退けた晋州城はその折衷形式のものである。現在の韓国水原市にある水原城は、李氏朝鮮の独自性を狙った造りだともいわれる。

また文禄・慶長の役で南岸域を中心に日本軍が造った城も多く存在し、それらは倭城と呼ばれている。

中近東[編集]

観光[編集]

田園地帯にあるシャトー

現存する城は、戦闘時や城主の居住に供されるだけでなく、権勢を誇示するために意匠を凝らして建てたものも多く残るため、地方の観光資源になっているものが多い。フランスにおけるロワールの古城めぐり、ドイツにおけるロマンティック街道は城が観光資源となっている例である。

城の日[編集]

財団法人日本城郭協会が、昭和49年度(1974年度)の事業として4月6日を「城の日」と定めた[4]平成4年(1992年)に全国的な普及キャンペーンを行い、現在では各地の城でも天守の無料開放などの行事を行うことが多くなっている。この日は、多くの城でが咲く頃でもある。一般社団法人日本記念日評議会に平成25年(2013年)公式認定されている。

姫路市は4月6日を「しろの日」と定めている[5]1990年から姫路城を中心としたイベント(姫路城でのイベント)を行い、通常は公開されていない櫓の内部の公開などをしている。


脚注[編集]

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  1. ^ Claridge, Amanda 1998 Rome: An Oxford Archaeological Guide
  2. ^ 『戦略戦術兵器事典』中国古代編、学習研究社、1994年
  3. ^ 香川元太郎『歴群[図解]マスター 城』学習研究社、2012年。
  4. ^ 日本城郭協会 昭和49年度事業 (平成4年度事業も)”. 2008年9月6日閲覧。
  5. ^ 市制100周年の記念事業「ふるさと創生事業」の一環として1989年に行われた企画アイデアの公募によって決まった姫路城公式ホームページ内雑学姫路城”. 2008年9月4日閲覧。

関連項目[編集]

一覧
構造・様式
その他の関連用語

外部リンク[編集]