クラック・デ・シュヴァリエ

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座標: 北緯34度45分25秒 東経36度17分40秒 / 北緯34.75694度 東経36.29444度 / 34.75694; 36.29444

世界遺産 クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッディーン
シリア
クラック・デ・シュヴァリエ
クラック・デ・シュヴァリエ
英名 Crac des Chevaliers and Qal‘at Salah El-Din[1]
仏名 Crac des Chevaliers et Qal‘at Salah El-Din[2]
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(4)
登録年 2006年
備考 危機遺産(2013年 - )
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
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クラック・デ・シュヴァリエの位置
クラック・デ・シュヴァリエ
||クラック・デ・シュヴァリエの位置]]
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クラック・デ・シュヴァリエフランス語: Krak des Chevaliers, アラビア語: Qal‘at al-Ḥoṣn (قلعة الحصن))は、シリアに築かれた十字軍時代の代表的なで、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。1142年から1171年まで、聖ヨハネ騎士団の拠点として使用された。フランス語名のクラック・デ・シュヴァリエは「騎士のクラック」を意味し、アラビア語の「カラット・アル=ホスヌ」は「城塞都市」を意味する[3]。フランス語名に現れる「クラック」は、十字軍時代のアラビア語史書で使われた「ホスヌ・アル=アクラード(Ḥoṣn al-Akrād、クルド人たちの城塞)」という名称のアクラード(クルド人)に由来すると考えられている[3]

アラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べた[3]。城は十字軍美術(フレスコ画など)が保存されている数少ない場所となっている。

歴史[編集]

城はトリポリの東に位置した高さ650mほどの峰に築かれており、アンティオキアからベイルートへ向かう海沿いの道や、内陸から地中海に出る唯一の通路(ホムスタルトゥースの間の峠道)を扼している。元々は1031年にホムスの領主により建築されたが[4]第1回十字軍時の1099年にツールーズ伯レイモンにより落城した。エルサレムへ向かう十字軍はこの城を放棄しているが、1110年アンティオキア公国の摂政タンクレードが再度攻め落として修築した[4]1142年にはトリポリ伯レーモン2世から聖ヨハネ騎士団に譲られた[4]

聖ヨハネ騎士団は大規模な拡張を行い、コンセントリック(集中)型の城として、30mの厚さの外壁を加え、8-10mの壁厚の7つの守備塔を配置した。12世紀の頃にはも有しており、跳ね橋が取り付けられていた。外壁は内壁との間隔を狭く、また直角の曲がり角を多くして、外壁を奪った敵が破城槌などの攻城兵器を内壁との間に持ち込みにくく使いにくいようにしてあった。内門と外門の間には中庭があり、内部の建築物に続いていた。内部の建築物は騎士団によりゴシック調に改造されており、ホールや礼拝堂を備え、長さ120mの食糧貯蔵庫を有していた。さらに、もう1つの貯蔵庫が地下に掘られており、5年間の包囲に耐えうると考えられていた。

1170年にはほぼ完成していたが、その後も地震により一部が崩れ、何度か再建が行われた。城には50-60人の騎士と2000人の歩兵が常駐していた。周囲にはサフィータ、トルトーザ(タルトゥース)などテンプル騎士団の要塞、および聖ヨハネ騎士団の別の主要要塞マルガット城も位置し、十字軍国家による防衛網をなしていた。

1163年にザンギー朝ヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退ける。1188年にアイユーブ朝サラディンによる包囲にも耐え、1207年にはサラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌いだ[5]。しかし、1271年4月8日、マムルーク朝の君主バイバルスの調略により落城した。バイバルスはトリポリ伯が開城を勧めていると偽り、城主と騎士たちは偽の命令に従ってトリポリに落ち延びた[6]。バイバルスの手により礼拝堂はモスクに変えられ、城は1291年のアッコン陥落時にも前線基地として使われた。1291年にアシュラフ・ハリールによって中東から十字軍勢力が掃討された後、城はマムルーク朝の副王の居城とされる[7]

1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドウェールズに多く築いた。

1928年にパリの碑文・学芸アカデミーが城を訪れ、最初の全面調査を実施した[8]。当時の城には500人超の農民の居住地になっており、1934年に住民の移動が完了する[8]。現在はシリア政府の所有物で、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録された。2012年9月、姫路城ノイシュバンシュタイン城などと共にトリップアドバイザー・バケットリストの「世界の名城25選」に選ばれた[9]。2013年にシリア騒乱による被害のため、シリア国内の他の5つの世界遺産とともに危機遺産に登録された。2013年7月シリアの内戦で空爆を受け塔の一つが破壊され、要塞の天井にも穴が開くなどの被害が出た[10][11]

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 世界遺産リスト登録名称ではCracの綴りを用いる。
  2. ^ 同上
  3. ^ a b c 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、225頁
  4. ^ a b c 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、230頁
  5. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、231頁
  6. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、233頁
  7. ^ 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、233-234頁
  8. ^ a b 牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、236頁
  9. ^ 日本の姫路城も!死ぬまでに行きたい“世界の名城”って
  10. ^ シリアの遺跡、「危機遺産」に=内戦で被害-ユネスコ(2013年6月閲覧)
  11. ^ 「シリア世界遺産「クラック・デ・シュバリエ」空爆で破壊される 」Huffington Post | 投稿日: 2013年07月14日 10時14分

参考文献[編集]

  • 牟田口義郎『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』(中公新書, 中央公論社, 2001年6月)

外部リンク[編集]