カラーウーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

カラーウーンアラビア語: قلاوون / Qalāwūn; الملك المنصور سيف الدين قلاوون الصالحي الألفي al-Malik al-Manṣūr Sayf al-Dīn Qalāwūn al-Ṣālihī al-Alfī, 生没年:1221年?-1290年)は、エジプトマムルーク朝の第8代スルターン(在位:1279年-1290年)。即位名により略してマンスール・カラーウーン الملك المنصور قلاوونal-Malik al-Manṣār Qalāwūn とも呼ばれる。 また、資料によっては「カラーウーン」の و がひとつ少ない قلاونQalāwun という表記も見られる。

生涯[編集]

出生はキプチャク族出身のトルコ人奴隷だったとされる。この出自は第5代スルタンでカラーウーンが仕えたバイバルスと同じである。勿論、カラーウーン自身も力量があったからだが、この出自が同じであることも気に入られてか、[独自研究?]バイバルスに仕えて対モンゴル戦やシリア・パレスチナ方面の戦いで武功を挙げてバイバルスから重用されていき、遂にはバイバルスの息子・バラカと自分の娘の結婚を許されて姻戚になるなどして、頭角を現した。

1277年にバイバルスが死去すると、縁戚関係にあるバイバルスの息子・バラカが後を継いだが、1279年にはクーデターを起こしてスルタンの座から引きずり下ろした。新たなスルタンにはバラカの弟・サラーミシュを擁立したが、これは自らがスルタンになるための準備期間を稼ぐために擁立した傀儡に過ぎず、バラカを廃してから100日後にバイバルス派などの自身の反対派を粛清すると、サラーミシュも廃して自らスルタンとして即位したのである。

カラーウーンは恩義あるバイバルスの遺児を相次いで追放したことから、国内では簒奪者として評判が悪かった。[独自研究?]このため彼は、自らの人気取りのために対外戦争に活路を見出すことになる。[独自研究?]1280年、シリア奪回を目指すイル・ハン国の君主・アバカ率いる軍勢を破ってその支配権を確立した。また、十字軍の侵攻に対しても積極的に対応して戦い、勝利を収めた。さらに内政においても、1284年にマンスール総合病院を建設し、マディーナムハンマドの墓の上にドームを築いたり、エルサレム岩のドームへの寄進、アレッポダマスクスの城砦再建など、建築事業に力を注ぐなど、対外戦争の勝利や善政に心がけて、国民から人気を集めたのである。

1290年、十字軍にとっては最後の拠点であったアッコンの攻略を準備中に病死した。後を子のハリルが継ぎ、そのアッコン攻略はハリルによって果たされて、十字軍との戦いは完全に終結を迎えることとなる。