サーリフ

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サーリフ(الملك الصالح نجم الدين أبو الفتح أيوب al-Malik al-Ṣāliḥ Najm al-Dīn Abū al-Futūḥ Ayyūb, 生没年:1201年-1249年11月23日、在位:1240年-1249年。アラビア語:الملك الصالح نجم الدين أبو الفتح أيوب بن الملك الكامل محمد بن ااملك لعادل أبي بكر بن أيوب。ラテン文字転写:al-Malik al-Ṣāliḥ Najm al-Dīn Abū al-Futūḥ Ayyūb b. al-Malik al-Kāmil Muḥammad b. al-Malik al-`Ādil Abī Bakr b. Ayyūb。)は、アイユーブ朝第7代スルターンである。父は第5代スルターン・アル=カーミル

経歴[編集]

アル=カーミルがスーダン出身の女性に生ませた庶子とされる。異母弟のアル=アーディル・アブー・バクル2世の放蕩ぶりに不満を抱き、これを倒して即位する。学問嫌いで陰気で残酷な人物であったが、反面記憶力に優れて不正な蓄財をした先王の側近たちを処罰し、軍隊を再建して1244年にはエルサレムを奪還した。

1249年ルイ9世率いる第7回十字軍エジプトに侵攻するが、この時サーリフは肺病に罹っており、軍団の統制がとれていなかった。この十字軍は、バフリー・マムルーク軍上がりのスルタン護衛隊長であったバイバルス(当時バフリー・マムルーク軍は軍団長不在であり、彼が代わりに指揮を取っていた)が奮戦したおかげで勝利し、マンスーラの戦い(1250年2月)においてルイ9世を捕虜とすることで終結した。しかし、サーリフはそのはるか前に陣中で没しており、この勝利を見ることはなかった(11月に彼が死亡して、十字軍に勝利するまでの3ヶ月は、彼の妻であるシャジャル・アッ=ドゥッルが、味方の動揺を抑えるためにサーリフを生きているように見せて指揮を執っていたという)。

彼の死後、妻であるシャジャル・アッ=ドゥッルは、サーリフとの子であるトゥーラーン・シャーと不和になりこれを殺害。これによってアイユーブ朝は滅亡し、マムルークを支持基盤とし、彼女をスルターナ(スルタンの女性形)とするマムルーク朝へと移行した。

参考文献[編集]

  • ジャン・ド・ジョワンヴィル/著 伊藤敏樹/訳『聖王ルイ 西欧十字軍とモンゴル帝国』ちくま学芸文庫、2006年 P389-390