イルハン朝

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イルハン朝ペルシア語 : ايلخانيان Īlkhāniyān)は、現在のイランを中心に、アム川からイラクアナトリア東部までを支配したモンゴル帝国の地方政権(1256年/1258年 - 1335年/1353年)。首都タブリーズ

14世紀のフレグ・ウルス
14世紀のフレグ・ウルス

建設者であるチンギス・ハーンの孫フレグが、テュルク語で「国の民(イル)の主(ハン)」を意味するイル・ハン(il χan 〜 il qan > ايلخان īl-khān)の称号を帯びていたことから、イルハン朝、あるいはイル=ハン国イル・ハン国、イル・カン国とも呼ばれる。モンゴル研究者には、フレグ一門のウルスという意味で、フレグ・ウルスと呼ばれることも多い。

目次

[編集] イランにおけるモンゴル政権の建設

1258年のフレグ西方遠征軍によるバグダード包囲(『集史』パリ本より)
1258年フレグ西方遠征軍によるバグダード包囲(『集史』パリ本より)

フレグは兄のモンゴル帝国第4代大ハーン、モンケによりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征を命ぜられ、1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。フレグは1256年にニザール派(暗殺教団)を降伏させてイランの制圧を完了すると、1258年にイラクに入ってバグダードを攻略、アッバース朝を滅ぼして西アジアの東部にモンゴル政権を確立した。1260年、フレグはシリアに進出、アレッポダマスカスを支配下に置くが、兄モンケ死去の報を受けて引き返し、さらに東アジアで次兄クビライの世祖)と弟アリクブケによるモンケの後継者争いが始まったことを聞いてイランに留まり、ここに自立王朝としてイルハン朝を開いた。

[編集] 初期のイルハン朝

フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝スルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍にアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。また、なし崩し的に西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムアゼルバイジャンチャガタイ・ウルスとはトランスオクシアナの支配権を巡って対立関係にあり、両ハン国がオゴデイ家カイドゥを第5代大ハーン、クビライに対抗して大ハーンに推戴したため、かえってクビライの大元ウルスとの深い友好関係を保った。さらにキプチャク・ハン国はマムルーク朝と友好を結んでイルハン朝挟撃の構えを見せ、対抗してイルハン朝はビザンツ帝国と友好を結んでいた。イルハン朝がビザンツと結んだのには、フレグの母ソルカクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカネストリウス派キリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。

イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。

その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。

[編集] イスラーム王朝への転身

1295年、アバカの孫ガザンは、叔父ゲイハトゥを殺したバイドゥを倒し、第7代ハンに即位した。ガザンはハン位奪取にあたってモンゴル部族にも増えつつあったムスリムの支援を受けて即位したためイスラム教に改宗し、イラン在住の各部族がこれに従ってイルハン朝はイスラム化を果たした。ガザンは自ら「イスラームの帝王(パードシャー)」(Pādshāh-i Islām)を名乗り、この称号はオルジェイトゥアブー・サイードにも受継がれた。ガザンは祖父アバカに仕えていたハマダーン出身の元ユダヤ教徒の典医ラシードゥッディーンを宰相に登用すると、税制については、従来、モンゴルのイラン支配が始まってから徴発が濫発されていた臨時課税を基本的に一時中断し、諸々の年貢を通常イランで徴集日が固定されていたノウルーズなどに一本化するなど徴税についての綱紀を粛正した。イスラム王朝伝統の地租(ハラージュ)税制に改正させ、部族の将軍たちに与えていた恩給を国有地の徴税権を授与するイスラム式のイクター制にするなど、イスラム世界の在来制度に適合した王朝へと転身する努力を払い、イルハン朝を復興させた。

さらにガザンは、政権中枢の政策決定に与る諸部族とそれを率いる武将たちのモンゴル政権構成員としてのアイデンティティーを回復するため、自らの知るモンゴル諸部族の歴史をラシードゥッディーンに口述して記録させ、それに宮廷文書庫の古文書や古老の証言を参照させて「モンゴル史」の編纂を行わせた。この編纂事業によって各部族にチンギス家、さらにはフレグ家との深い結びつきを再認識させることを図ったのである。

ガザンは1304年に死ぬが、弟のオルジェイトゥがハンに即位して兄の政策を継続し、また1301年カイドゥが戦死して大元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合が回復された結果、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。オルジェイトゥは新首都スルターニーヤを造営し、宰相ラシードゥッディーンにガザン時代に編纂させた「モンゴル史」を母体に、モンゴルを中心に当時知られていた世界のあらゆる地域の歴史を集成した『集史』や、彼の専門であった医学や中国方面の薬学についての論文、農書、イスラーム神学に関わる著作集を執筆させている。ガザンは「サイイドたちの館(ダールッスィヤーダ)」と呼ばれる預言者ムハンマドやカリフ・アリーの後裔であるサイイドたちのための宿泊施設を各地に建設し、また各地でモスクやマドラサその他宗教・公共施設の建設や改修、ワクフ物件の設定が行われた。

さらにガザン、オルジェイトゥの時代には用紙の企画化が推進され、現在にも伝わる大型かつ良質なクルアーンや宗教諸学、医学、博物学、天文学など様々な分野の写本が大量に作成された。地方史の編纂も盛んであった。『集史』編纂の影響と考えられているが、特に挿絵入りの『王書』などの文学作品の豪華な写本が作成されるようになったのも両ハンの時代からであった。この時代にはイルハン朝におけるイラン=イスラーム文化の成熟が示された。

[編集] イルハン朝の解体

1316年、オルジェイトゥが死ぬと息子アブー=サイードが即位するが、新ハンはわずか12歳であったためスルドス部族のチョパンが実権を握った。1327年、成人したアブー=サイードはチョパンを殺害し、実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。子のなかったアブー=サイードは1335年、ジョチ・ウルスのウズベク・ハンが来襲する中で陣没し、フレグ王統は断絶した。これをもってイルハン朝の滅亡とすることが多い。

アブー=サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーンは、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害され、以来イランは様々な家系に属するチンギス・ハーンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残りホラーサーンを支配していたトガ・ティムール・ハンが殺害され、イランからはチンギス・ハーン一門の君主は消滅した。一方、アブー=サイードの死去以来、イランの各地には遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していたが、これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。

[編集] 歴代君主

  1. フレグ(1256年 - 1265年)
  2. アバカ(1265年 - 1282年) - フレグの子。
  3. アフマド・テクデル(1282年 - 1284年) - アバカの弟。
  4. アルグン(1284年 - 1291年) - アバカの子。
  5. ガイハトゥ(1291年 - 1295年) - アルグンの弟。
  6. バイドゥ(1295年) - フレグの五男・タラガイの子。
  7. マフムード・ガザン(1295年 - 1304年) - アルグンの子。
  8. ムハンマド・オルジェイトゥ(1304年 - 1316年) - ガザンの弟。
  9. アブー=サイード(1316年 - 1335年) - オルジェイトゥの子。
  10. アルパ・ケウン(1335年 - 1336年) - フレグの弟アリクブケの曾孫。

アルパ・ケウン殺害後の諸ハン

[編集] 参考文献

  • 佐口透 編『モンゴル帝国と西洋』 (東西文明の交流 4)平凡社、1970年10月。
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究序説―イル汗国の中核部族』東京大学出版会、1995年2月。
  • 勝藤猛『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』(創元新書 8)、創元社、1970年。
  • 北川誠一「イルハン称号考」『オリエント』 30(1)、41-53頁、1987年
  • 杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』(角川選書227)角川書店、1992年6月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈上〉 軍事拡大の時代』(講談社現代新書1306)、1996年5月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡〈下〉 世界経営の時代』(講談社現代新書1307)、1996年6月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年2月。
  • 杉山正明『モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史 9)講談社、2008年2月。
  • バーナード・ルイス『暗殺教団 イスラームの過激派』(加藤和秀 訳)新泉社、1973年。
  • 本田實信『イスラム世界の発展』(《ビジュアル版》世界の歴史 6/ 板垣雄三 他 企画委員)、講談社、1985年3月。
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年。
  • 宮紀子『モンゴル帝国が生んだ世界図』(地図は語る 2)日本経済新聞出版社、2007年6月。
  • 村上正二『モンゴル帝国史研究』風間書房、1993年5月。
  • ロバート・マーシャル『図説 モンゴル帝国の戦い―騎馬民族の世界制覇 』東洋書林、2001年。
  • 家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行―14世紀イスラームの時空を生きる』 (平凡社新書 199) 平凡社、2003年10月。
  • 家島彦一『海域から見た歴史―インド洋と地中海を結ぶ交流史』名古屋大学出版会、2006年2月。
  • バッヂ(Ernest Alfred Wallis Budge, Sir.,)『元主忽必烈が歐洲に派遣したる景教僧の旅行誌』(佐伯好郎譯補)待漏書院、1932年。(ネストリウス派総主教マール・ヤバラーハー3世(:en)とそれに随伴したラッバーン・バール・サウマ(:en)の旅行記)
  • イブン・バットゥータ『大旅行記〈3〉』(イブン・ジュザイイ編, 家島彦一 訳注, 東洋文庫630)平凡社、1998年3月。
  • アブラハム・コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン『モンゴル帝国史』 全6巻(佐口透訳注, 東洋文庫110,128,189,235,298,365)平凡社, 1968-1979年11月。
  • マルコ・ポーロ『東方見聞録』全2巻(愛宕松男訳注, 東洋文庫158,183) 平凡社、1970年。
  • 杉村 棟 編『イスラーム 世界美術大全集 東洋編17』小学館 1999年7月。