ウズベク・ハン
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ウズベク・ハン(Özbek Khan, غياث الدين محمد اوزبك Ghiyāth al-Dīn Muḥammad Ūzbak 生没年?-1340年)は、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の第10代当主(ハン)でバトゥの玄孫に当たる(在位:1312年-1342年)。『集史』によるとモンケ・テムル・ハンの十男で末子であったと思われるトグリルチャが父である。ジョチ家の王族としてはベルケ以来最もイスラームに帰依したことで知られている人物で、同時代のアラビア語資料などではスルターン・ムハンマド・ウーズベク・ハーンなどと称されている。
父トグリルチャ(? - 1300年?)は長兄であるアルグイとともにトレ・ブカ、ゴンチェク兄弟によるクーデター事件に加担してトデ・モンケ・ハンを廃位させた中心人物で、ジョチ・ウルスは一時期この4者による共同統治が行われた。『集史』「ジョチ・ハン紀」によればトレ・ブカはノガイの計略によってトクタに殺害されているが、この時トレ・ブカは生母の忠告に従って弟のゴンチェクとノガイの幕営へ訪れており、マムルーク朝の歴史家ヌワイリーによればトグリルチャも兄のアルグイなど他の兄弟たちの過半とともにに同行していたようである。ヌワイリーの情報によればノガイの命によりトレ・ブカや他の兄弟たちとともに捕縛されていたようだが、その後の消息が掴めないのでトレ・ブカとアルグイら他の兄弟たちとともに処刑されたと思われる。しかしながら、ティムール朝の歴史家ナタンズィーは彼を右翼・青帳(キョク・オルダ)の初代当主であるとしているため、あるいは助命されたのかも知れないが詳細は不明である。トクタ・ハンの治世中は彼を補佐していたとも。
先代のハンで叔父に当たるトクタが存命中は、ジョチ・ウルスの軍を任されていた。叔父には二人の息子がいたが、これらはいずれも父の政治に反対して追放されていた。1312年にトクタが死去すると、その後を受けてハンに即位した。軍事的にはマムルーク朝や東ローマ帝国と同盟を結ぶことでイルハン朝と対抗し、カフカスを奪取することに成功した。また、ジョチ・ウルスに対して反感もしくは独立の気配を見せていたモスクワ大公国をはじめとするルーシ諸国やロシア諸国に対して軍事的に圧力をかけ、なおもジョチ・ウルスの勢威を示した。内政面においては積極的にジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国からの隊商が来訪してくることを奨励し、彼らと通商関係を結ぶことで財政を大いに潤わせた。また、首都のサライに壮大な西洋やイスラムの建築物を多く創建した。さらに国民に対してもイスラム教をはじめとする宗教の保護を認め、ジョチ・ウルスの全盛期を築き上げたのである。
しかしその全盛期も1340年にウズベクが死去することで終焉し、以後は暗愚な後継者が続いて帝国各地で独立が相次いだために王朝は衰退。彼自身の系統も孫の代で断絶してしまうに至ったのである。
ムスリムであったことで知られているように、彼の治世から王族や諸侯はじめジョチ・ウルス領内全域で遊牧諸勢力のムスリム化が顕著になった。ティムール朝やムガル朝などのペルシア語、アラビア語資料において、シャイバーニー朝の君主はじめジョチ・ウルス系の諸勢力に対して「ウズベキヤーン(ウズベクの者たち)」という名で呼ばれている。これは、14-15世紀にかけてムスリム化が促進したジョチ・ウルス内部の諸勢力が、自らのアイデンティティをジョチ家の系統かつムスリムであることを標榜し、その権威をムスリムであるジョチ・ウルスの宗主ウズベク・ハンに因んで呼んだ、他称ないし自称であろうと現在の研究では有力視されている。
ちなみに、1505年に建国されたウズベク・ハン国の国名は、言うまでも無く彼の名から因んでつけられた名前である。つまり、それだけ評価されている名君なのである。
1334年5月頃にイブン・バトゥータがウズベク・ハンのオルドを訪れており、彼の宮廷内部やアミールたちの動向について詳細な報告を旅行記に残している。
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