東ローマ帝国

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東ローマ帝国
Imperium Romanum
Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων
ローマ帝国 395年 - 1453年
東ローマ帝国の国旗 東ローマ帝国の国章
(国旗) (国章)
東ローマ帝国の位置
東ローマ帝国の版図の変遷
公用語 ラテン語ギリシア語
首都 コンスタンティノポリス
皇帝
395年 - 408年 アルカディウス(初代)
527年 - 565年 ユスティニアヌス1世
976年 - 1025年 バシレイオス2世
1448年 - 1453年 コンスタンティノス11世ドラガセス(最後)
変遷
成立(東西分割) 395年
イスラム帝国によって領土の大半を失陥 7世紀
第4回十字軍により一旦滅亡 1204年
亡命政権ニカイア帝国によって再興 1261年
オスマン帝国によって滅亡 1453年5月29日
通貨 ノミスマ
先代 次代
ローマ帝国 ローマ帝国 オスマン帝国 オスマン帝国
モスクワ大公国 モスクワ大公国
セルビア王国 セルビア王国
第二次ブルガリア帝国 第二次ブルガリア帝国
キプロス王国 キプロス王国
ヴェネツィア共和国 ヴェネツィア共和国
  • 公式な国号は「ローマ帝国」。
  • 正式な成立時期はない。

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域を指す通称である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現トルコイスタンブル)であった。

ビザンティン帝国ビザンツ帝国とも呼ばれるが、この2つはあくまでも歴史用語であり、後世の人間による呼称である。当時の政府や住民、及び隣接するイスラム教徒は、この国を単に「ローマ帝国」あるいは「ローマ人の国」と呼んでいた。その点を重視しつつ、かつ古代のローマ帝国との混同を避けるため「中世ローマ帝国」という呼称も提唱されている。また、同時代の西欧からはギリシア帝国ギリシャ帝国とも呼ばれていた。

目次

[編集] 名称

しばしば、「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」のいずれが正しい呼び方なのかという議論があるが、当の帝国政府や住民は自国を単に「ローマ帝国 (ラテン語Imperium Romanum, ギリシア語Βασιλεία τῶν Ῥωμαίων, Basileia tōn Rhōmaiōn)」と称しており、彼らが「ビザンティン帝国」「ビザンツ帝国」といった呼び方をしたことはない。後述するように、中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地 (Ῥωμανία, Rhōmania)」と呼んでおり、また彼ら自身も「ギリシア人 (Ἕλληνες, Hellēnes)」[1]ではなく「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」を称していた。

「ビザンツ」「ビザンティン」は、すでに帝国が滅びて久しい19世紀以降に使われるようになった通称である。これらの通称はあくまでも古代から1453年まで続いたローマ国家の一時期を指すもので、以下に述べるように、いわゆる「古代ローマ帝国」とは文化や領土等の面で違いが顕著であるため便宜上用いられているにすぎない。日本語での呼称は、歴史学では「ビザンツ」が、美術建築などの分野では「ビザンティン」が使われることが多い。「ビザンティン」は英語の形容詞 Byzantine に、「ビザンツ」はドイツ語の名詞 Byzanz[2] によるもので、いずれも首都コンスタンティノポリスの旧称ビュザンティオンに由来している。

カール大帝の戴冠による「西ローマ帝国」復活以降は、西欧でこの国を指す際には「ギリシアの帝国」「コンスタンティノープルの帝国」と呼び、コンスタンティノポリスの皇帝を「ギリシアの皇帝」と呼んでいた[3]。例えば桂川甫周は、著書『北槎聞略』において蘭書『魯西亜国誌』(Beschrijving von Russland ) の記述を引用し、「ロシアは元々王爵の国であったが、ギリシアの帝爵を嗣いではじめて帝号を称した」と述べている。ローマ帝国の継承者を自称したロシア帝国であるが、ルーシの記録でも東ローマを「グレキ」(ギリシア)と呼んでおり、東ローマ帝国をギリシア人の帝国だと認識していた。

このように東ローマ帝国はその他の欧州諸地域では独自の立場からさまざまに呼ばれてきた。しかし、西欧におけるこれらの議論に関しては、彼らが東ローマ帝国と政治的・宗教的に対立してきた経緯や、議論がなされる中で東ローマ帝国の主張が彼らの価値観によって相対化されてきたことを勘案する必要があろう。彼らにとっては、カール大帝とその後継者たちが「ローマ皇帝」だったのである。

このような考え方に基づく呼称は中立的でないとする見解もあり、日本における呼称として適切でないとする見解もある。日本の学界の一部では古くから主張されており、そこでは「中世ローマ帝国」の呼称が提案されてきた。この呼称はなかなか普及しなかったが、近年、学校教育における教科書において採用されようやく一般の読書人にも知られるようになった。

[編集] 概要

東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲
画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの

初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。

領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、7世紀には公用語ラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる[4]。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。

9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島アナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。

日本ではあまり知られていないが、古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。

[編集] 歴史

ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線

東ローマ帝国は「文明の十字路」と呼ばれる諸国興亡の激しい地域にあったにもかかわらず、4世紀から15世紀までの約1000年間という長期にわたってその命脈を保った[5]。その歴史はおおむね以下の3つの時代に大別される。なお、下記の区分のほかには、マケドニア王朝断絶(1057年)後を後期とする説がある。

本項では、統一されたローマ帝国の最後の皇帝となったテオドシウス1世が、死に際して長男アルカディウスに帝国の東半分を継がせた時をもって「東ローマ帝国」の始まりとしている。ただし、コンスタンティヌス1世ローマからコンスタンティノポリス遷都した330年をもってビザンツ(東ローマ)帝国史の始まりとする場合もある。たとえば著名なビザンツ史学者ゲオルク・オストロゴルスキーの『ビザンツ帝国史』では遷都直前の324年を始点としている。

[編集] 前期(395年 - 610年頃)

[編集] 再興と挫折

ユスティニアヌス1世

西ローマ帝国ゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し、476年に滅亡したとされる。これは同年にイタリアで西ローマ皇帝を退位させて権力を得たオドアケルが、自らは帝位を継承せず、東ローマ皇帝ゼノンに対して帝位を返上し、イタリア王としてイタリア半島を支配下にしたからである。

一方、東ローマはゲルマン人の侵入を退けて古代後期ローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ政府が唯一のローマ帝国の正系となった。イタリア王のオドアケルが東ローマ皇帝の代官として振る舞うなど、西ヨーロッパのゲルマン人の諸国やローマ教皇宗主権を認めさせた。

西ローマと違って東ローマがゲルマン人を退けることが出来た理由は

対する西ローマ帝国は穀倉地帯であるシチリアを、ゲルマン人に奪われた。
ただし、これによって西ローマ側の疲弊は進んだ。
  • 首都コンスタンティノポリスに難攻不落の大城壁を築いていた

ことなどが挙げられる。

名君アナスタシウス1世の下で力を蓄えた東ローマ帝国は、6世紀のユスティニアヌス1世(大帝)の時代には、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島北アフリカイベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再統一することに成功した。特にこの時期、かつての首都・ローマを奪還した事は、東ローマ帝国がいわゆる「ローマ帝国」を自称する根拠となった。またトリボニアヌスに命じてローマ法の集成である『ローマ法大全』の編纂やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、後世に残る文化事業も成した。

しかし、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊。イタリア半島においては戦乱と重税によって、いわゆるローマ市民と元老院が消滅し、古代ローマはこの時滅亡したのだと主張する学者もいる。ユスティニアヌス1世の没後はサーサーン朝ペルシアとの抗争やアヴァールスラヴ人ランゴバルド人などの侵入に悩まされた。7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるにまで至った。

[編集] 中期(610年頃 - 1204年)

[編集] 危機と変質 (7世紀 - 8世紀)

混乱の中即位した皇帝ヘラクレイオス(在位 : 610年 - 641年)は、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアとの戦いに勝利して、領土を奪回することに成功した。しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けて、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまった。655年にアナトリア南岸のリュキア沖の海戦で敗れた後は東地中海の制海権も失い、674年から678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲されるなど、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされた。この包囲は難攻不落の大城壁と秘密兵器「ギリシアの火」を用いて撃退することに成功したが、北方の第一次ブルガリア帝国などからも攻撃を受けたために、領土はアナトリア半島とバルカン半島の沿岸部、南イタリアの一部(マグナ・グラエキア)に縮小した。公用語がラテン語からギリシア語へと変わったのはこの時代である。

717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年に首都コンスタンティノポリスを包囲したイスラム帝国軍を撃退。以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避された。しかし、宗教的には726年にレオーン3世が始めた聖像破壊運動などで東ローマ皇帝はローマ教皇と対立し、カトリック教会との乖離を深めた。聖像破壊運動は東西教会ともに787年第2ニカイア公会議決議により聖像擁護を認めることで決着したが、両教会の教義上の差異はフィリオクェ問題をきっかけとして顕在化し、「フォティオスの分離」などによって亀裂を深め、東西両教会は事実上分裂した[6]

女帝エイレーネー(イリニ)治下の800年、ローマ教皇がフランク王カール1世に「ローマ皇帝」の帝冠を授け(カール大帝)、政治的にも東西ヨーロッパは対立。古代ローマ以来の地中海世界の統一は完全に失われ、地中海は西欧・東ローマ・イスラムに三分された。こうして東ローマ帝国は「ローマ帝国」を称しながらも、バルカン半島沿岸部とアナトリアを支配し、ギリシア人正教会ギリシア文化を中心とする国家となった。このことから、これ以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ぶこともある。

[編集] 最盛期(9世紀 - 11世紀前半)

1025年の東ローマ帝国
軍装のバシレイオス2世
東ローマ帝国の全盛期を現出した
ヨハネス2世コムネノス
彼の下で帝国は再び繁栄の時代を迎えた

9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝867年 - 1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになった。

政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国は、かつて帝国領であった地域の回復を進め、東欧地域へのキリスト教の布教も積極的に行った。また文化の面でも、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められた。これを「マケドニア朝ルネサンス」と呼ぶこともある。

10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカスヨハネス1世ツィミスケスバシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア南イタリアバルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活。東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげた。

[編集] 衰退と中興(11世紀後半 - 12世紀)

しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、その後は老齢・病弱・無能な皇帝が続き、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱した。1071年にはマラズギルト(マンジケルト)の戦いトルコ人セルジューク朝に敗れたために東からトルコ人が侵入。同じ頃、西からノルマン人の攻撃も受けたために領土は急速に縮小した。小アジアのほぼ全域をトルコ人に奪われ、ノルマン人ルッジェーロ2世には南イタリアを奪われてしまった。

1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位:1081年 - 1118年)は婚姻政策で地方の大貴族を皇族一門へ取りこみ、帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功した。また、当時地中海貿易に進出してきていたヴェネツィアと貿易特権と引き換えに海軍力の提供を受ける一方、ローマ教皇へ援軍を要請し[7]、トルコ人からの領土奪回を図った。

アレクシオス1世と、その息子で名君とされるヨハネス2世コムネノス(在位:1118年 - 1143年)はこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回。東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻した。

ヨハネス2世の後を継いだ息子マヌエル1世コムネノス(在位:1143年 - 1180年)は有能で勇敢な軍人皇帝であり、ローマ帝国の復興を目指して神聖ローマ帝国との外交駆け引き、イタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れた。しかし度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊した。特にイタリア遠征、エジプト遠征は完全な失敗に終わり、ヴァネツィアや神聖ローマ帝国を敵に回したことで西欧諸国との関係も悪化した。1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗した。犠牲者のほとんどはアンティオキア公国の軍勢であり、実際はそれほど大きな負けではなかったらしいが、この敗戦で東ローマ帝国の国際的地位は地に落ちた。

[編集] 分裂とラテン帝国(12世紀末 - 13世紀初頭)

1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まった。アンドロニコス1世コムネノス(在位:1183年 - 1185年)は強権的な統治でこれを押さえようとしたが失敗し、アンドロニコス1世に替わって帝位についたイサキオス2世アンゲロス(在位:1185年 - 1195年)が無能だったこともあって皇帝権力は弱体化した。またブルガリアセルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していった。

十字軍兵士と首都市民の対立やヴェネツィアと帝国との軋轢も増し、1204年4月13日第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権[8]を建てて抵抗することとなった。

[編集] 後期(1204年 - 1453年)

[編集] 帝国の再興(1204年 - 1261年)

1265年のバルカン半島及び小アジア
パレオロゴス王朝時代初期の東ローマ帝国旗

第4回十字軍による帝都陥落後に建てられた各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国(ラスカリス朝)だった。ニカイア帝国は初代のテオドロス1世ラスカリス、2代目のヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスの賢明な統治によって国力をつけ、ヨーロッパ側へも領土を拡大した。

3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリスの死後、摂政、ついで共同皇帝として実権を握ったミカエル8世パレオロゴス(在位:1261年 - 1282年)は、1261年、コンスタンティノポリスを奪回。東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝1261年 - 1453年)を開いた。

[編集] 落日の帝国(1261年 - 1453年)

しかし、かつての大帝国時代のような勢いが甦ることは無かった。ミカエル8世の息子アンドロニコス2世パレオロゴス(在位:1282年 - 1328年)の時代以降、祖父と孫、岳父と娘婿、父と子など皇族同士の帝位争いが頻発し、経済もヴェネツィアジェノヴァといったイタリア諸都市に握られてしまい、まったく振るわなかった。

そこへ西からは十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に、東からはトルコ人のオスマン帝国に攻撃されて領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小。14世紀後半の皇帝ヨハネス5世パレオロゴス(在位:1341年 - 1391年)はオスマン帝国のスルタンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまった。

14世紀末の皇帝マヌエル2世パレオロゴス(在位:1391年 - 1425年)は、窮状を打開しようとフランスイングランドまで救援を要請に出向き、マヌエル2世の二人の息子ヨハネス8世パレオロゴス(在位:1425年 - 1448年)とコンスタンティノス11世ドラガセス(在位:1449年 - 1453年)は東西キリスト教会の再統合を条件に西欧への援軍要請を重ねたが、いずれも失敗に終わった。

この時期の帝国の唯一の栄光は文化である。古代ギリシア文化の研究がさらに推し進められ、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれた。このパレオロゴス朝ルネサンスは、帝国滅亡後にイタリアへ亡命した知識人たちによって西欧へ伝えられ、ルネサンスに多大な影響を与えた。

[編集] 滅亡(1453年)

1453年4月、オスマン帝国第7代スルタンメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲した。東ローマ側は守備兵7千という圧倒的に不利な状況の中、2ヶ月近くにわたって抵抗を続けたが、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落。皇帝コンスタンティノス11世は部下とオスマン軍に突撃して行方不明となり、東ローマ帝国は完全に滅亡する。これによって、古代以来続いてきたローマ帝国の系統は途絶えることになる。

1460年にはペロポネソス半島の自治領土モレアス専制公領が、1461年には黒海沿岸のトレビゾンド帝国がそれぞれオスマン帝国に滅ぼされ、地方政権からの再興という道も断たれることとなった。

なお、東欧世界における権威を主張する意味合いから、メフメト2世やスレイマン1世などの一部のスルタンは「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝)を名乗り、またイヴァン4世などロシア指導者はローマ帝国の継承性を主張している[9]

[編集] 政治

[編集] イデオロギー

東ローマ帝国は自らを単に「ローマ帝国」と称していた。そして、「ローマ帝国」は「文明世界全てを支配する帝国」であり「キリストによる最後の審判まで続く、地上最後の帝国」だと考えられていた。(東ローマ国民が本気にしていたかは疑問だが建前で)自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、世界創造紀元の使用にも現れる。

このイデオロギーは一千年にわたって貫かれる一方で、政治体制は周囲や国内の状況に合わせて柔軟に変えられていた。強固なイデオロギーと、変化に対応する柔軟性を併せ持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと言う研究者もいる。

[編集] 政治体制

東ローマ帝国は、古代ローマ時代後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ。東ローマの皇帝(バシレウス)は「元老院・市民・軍」によって推戴された「地上における神の代理人」「諸王の王」だとされ、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。

しかし、皇帝の地位自体は不安定[10]で、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような(6世紀のユスティニアヌス1世や9世紀のバシレイオス1世など)、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。

このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。

[編集] 行政制度

[編集] 属州制からテマ制へ

地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になった。

テマ制は、自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。

テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人ペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。

[編集] テマ制の崩壊

しかし安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れだした。10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できるが、このような傾向の直接の原因は820年もしくは821年に起こったソマスの乱であると考えられている。このソマスの乱によって一時はコンスタンティノープルも占領されたため、高度な官僚制的行政機構が麻痺し、治安が悪化した。このため中小の土地所有者がわずかに残存していた地方の大土地所有者やテマ長官などの庇護を求め、彼らのもとに土地が集中することとなった。

ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、レオーン6世の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。ロマノス1世レカペノスの時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。

同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期のバシレイオス2世は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。

この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの傭兵に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位が低下した。

[編集] プロノイア制

コムネノス朝の時代にはプロノイア制が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧のレーエン制に擬され、ゲオルク・オストロゴルスキーなどが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。

ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、ヨハネス3世はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものであり、売買を固く禁じている。ミカエル8世はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されることがあったという証明であるともいえる。

軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。

プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。またコムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。

自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配は専制公という地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。

[編集] 住民

東ローマ帝国の住民の中心はギリシア人であり、7世紀以降はギリシア語公用語であったが、12世紀までの東ローマ帝国はセルビア人ブルガリア人といったスラヴ諸民族やアルメニア人などを内包する多民族国家であった。ギリシア人は国民全体の3割ほどだったとする研究者もいる[11] 。帝国内の自由民は、カラカラ帝の「アントニヌス勅令」以降ローマ市民権を持っていたため、言語・血統にかかわらず、自らを「ローマ人 (Ῥωμαίοι, Rhōmaioi)」と称していた。東方正教を信仰し、コンスタンティノポリスの皇帝の支配を認める者は「ローマ帝国民=ローマ人」だったのである。とはいえ、ローマ市民権を持っていると言っても、市民集会での投票権を主とする参政権などの諸権利は古代末期には既に形骸化していた[12]

帝国の著名な貴族や官僚にはグルジア人やトルコ人からの出身者もいたが、中でもアルメニア人とのハーフ、もしくはアルメニア人を先祖とするアルメニア系ギリシャ人の間からはコンスタンティノポリス総主教や帝国軍総司令官、さらには皇帝になった者までいる[13]。7世紀のヘラクレイオス王朝や、9〜11世紀の黄金時代を現出したマケドニア王朝はアルメニア系の王朝である[14]

一方、「ローマ人」以外の周囲の民族は「蛮族」(エトネーあるいはバルバロイ)と見なしており、10世紀の皇帝コンスタンティノス7世が息子のロマノス2世のために書いた『帝国の統治について(帝国統治論)』では、帝国の周囲の「夷狄の民」をどのように扱うべきかについて述べられている。[15]

[編集] 文化

東ローマ帝国は、古代ギリシアヘレニズム古代ローマの文化にキリスト教・ペルシャやイスラムなどの影響を加えた独自の文化(ビザンティン文化)を発展させた。

[編集] 宗教

[編集] 正教会

帝国の国教であった正教会セルビアブルガリアロシアといった東欧の国々に広まり、今でも数億人以上の信徒を持つ一大宗派を形成している。

[編集] 「皇帝教皇主義」という誤解

東ローマ帝国の政教の関係を指して「皇帝教皇主義(チェザロパピズモ)」と呼ぶことがあるが、これには大きな語弊がある。確かに、東ローマ帝国では西ヨーロッパのように神聖ローマ帝国「皇帝」とローマ「教皇」が並立せず、皇帝が「地上における神の代理人」であり、コンスタンティノポリス総主教等の任免権を有していた。

しかし、正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある。聖像破壊運動を終結させた第七全地公会も、主催はエイレーネーによるものの、決定したのはあくまで公会議である。ローマ教皇のような一方的に教義を決定できる唯一の首位を占める存在といったシステムが正教会にそもそも無い以上、皇帝がローマ教皇のように振舞える道理は無かった。

実際、9世紀の皇帝バシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴゲー』では、国家と教会は統一体であるが、皇帝と総主教の権力は並立し、皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、とされていた。また皇帝の教会に対する命令が、教会側の抵抗によって覆されるということもしばしばあった。

[編集] 宗教論争

東ローマ帝国では単性論聖像破壊運動静寂主義論争など、たびたび宗教論争が起き、聖職者・支配階層から一般民衆までを巻き込んだ。これは後世、西欧側から「瑣末なことで争う」と非難されたが、都市部の市民の識字率は比較的高かったためギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができたという証左でもある。『新約聖書』は原典がギリシア語コイネー)であり、『旧約聖書』もギリシア語訳のものが流布していた。また、教義を最終的に決定するのは皇帝でも総主教でもなく教会会議によるものとされていたため、活発な議論が展開される結果となったのである。この宗教論争に関しては、一般民衆がラテン語の聖書を読めず、また日常用いられる言語への翻訳もあまり普及していなかったために教会側が一方的に教義を決定することができたカトリック教会との、文化的な背景の違いを考えなければならないだろう。

[編集] 法律

ユスティニアヌス1世によって古代ローマ時代の法律の集大成である『ローマ法大全』が編纂され、その後もローマ法が幾多の改訂を経ながらも用いられた。特に重要な改訂は、8世紀の皇帝レオーン3世による『エクロゲー法典』発布、9世紀後半のバシレイオス1世による『ローマ法大全』のギリシア語による手引書『プロキロン』(法律便覧)、『エパナゴゲー』(法学序説)の発布、そしてバシレイオス1世の息子レオーン6世による『ローマ法大全』のギリシア語改訂版である『バシリカ法典 (Basilika』(帝国法)編纂である。

この『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、ブルガリアセルビアロシアなどの正教会諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』のスラヴ語訳を用いた。

[編集] 経済

東ローマでは、西欧とは異なり古代以来の貨幣経済制度が機能し続けた。帝国発行のノミスマ金貨は11世紀前半まで高い純度を保ち、後世「中世のドル」と呼ばれるほどの国際的貨幣として流通した(ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある)。特に首都コンスタンティノポリスでは、国内の産業は一部を除き、業種ごとの組合を通じた国家による保護と統制が行き届いていたため、国営工場で独占的に製造された織物や、貴金属工芸品、東方との貿易などが帝国に多くの富をもたらし、コンスタンティノポリスは「世界の富の三分の二が集まるところ」と言われるほど繁栄した。

しかし、12世紀以降は北イタリア諸都市の商工業の発展に押されて帝国の国内産業は衰退し、海軍力提供への見返りとして行った北イタリア諸都市への貿易特権付与で貿易の利益をも失った帝国は、衰退の一途をたどった。

主要産業の農業は古代ギリシア・ローマ以来の地中海農法が行われ、あまり技術の進歩がなかった。それでも、古代から中世初期には西欧に比べて高度な農業技術を持っていたが、12世紀に西欧やイスラムで農業技術が改善され農地の大開墾が行われるようになると、東ローマの農業の立ち遅れが目立つようになってしまった[16]。しかしながら、ローマ時代に書かれた農業書を伝えることでヨーロッパの農業の発展に影響を与えている。

[編集] 用語の表記方法について

日本国内で出版されている東ローマ帝国史の専門書では、同じ人名・地名・官職・爵位の表記が本によって異なることがある。主に東海大学教授の尚樹啓太郎の著作のように、実際の東ローマ帝国時代の発音に近い、中世ギリシア語形を用いている例も見られる。もっとも中世ギリシア語といえども何百年もの帝国史の中で変化しているものであることや、一般人の感覚とかけ離れていることなどから他の研究者から異論も多く、論争中である。

このため国内で出版されている専門書では同じ人名・地名・官職・爵位などの固有名詞にいくつもの読み方がある(他に英語形やラテン語形を使用している場合もある)。現在、国内のビザンツ研究者において統一された表記法があるわけではなく、個々の思想信条や学派・学閥によるものであるので、注意が必要である。

[編集] 脚註

  1. ^ 「ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味した」(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』東海大学出版会、1999年、p.1)
  2. ^ ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。
  3. ^ カール大帝以前は、西欧諸国の王やローマ教皇は名目上ではコンスタンティノポリスの皇帝の臣下ということになっていた。
  4. ^ 井上浩一大阪市立大学教授)など。
  5. ^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
  6. ^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは一般に1054年が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは東西教会の分裂を参照)。
  7. ^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
  8. ^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
  9. ^ ロシア帝国。もっともロシアではキプチャク・ハン国のハンも東ローマ皇帝も「ツァーリ」と呼んでおり、キリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
  10. ^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
  11. ^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。
  12. ^ 中期以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、コンスタンティノポリスの市民は、7世紀のヘラクレイオス帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。
  13. ^ ただし中世のバグラトゥニ朝アルメニア王国自体は、東ローマと敵対していたことが多かった。また帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシャ化していた
  14. ^ これはかつての古代ローマ帝国でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。
  15. ^ 渡辺金一『中世ローマ帝国』(岩波新書)第一章
  16. ^ 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社〈講談社現代新書〉、1990年、204頁)、ミシェル・カプラン『黄金のビザンティン帝国—文明の十字路の1100年』(井上浩一監修、松田廸子・田辺希久子訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、1993年、90頁)

[編集] 参考文献

[編集] 参考文献

講談社学術文庫で再刊、2008年。ISBN 978-4-06-159866-9
  • 井上浩一 『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』 筑摩書房、1996年
白水社白水Uブックス〉で再刊、2009年。ISBN 978-4-560-72109-4
中央公論新社中公文庫〉で再刊、2009年。ISBN 978-4-12-205157-7
創元社「知の再発見」双書〉、1993年。ISBN 978-4-422-21078-0
ちくま学芸文庫全10巻に改訂し、1995-96年に刊行。(東ローマ帝国期は中盤以降)
 ※東ローマ期を扱った第4章の執筆者は井上浩一。
  • 鈴木董 『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社〈講談社現代新書〉、1992年、ISBN 978-4-06-149097-0
  • 尚樹啓太郎 『コンスタンティノープルを歩く』 東海大学出版会、1988年、ISBN 978-4-486-01020-3
  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ東方の旅』 東海大学出版会、1993年、ISBN 978-4-486-01251-1
  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国史』 東海大学出版会、1999年
  • 尚樹啓太郎 『ビザンツ帝国の政治制度』 東海大学出版会〈東海大学文学部叢書〉、2005年、ISBN 978-4-486-01667-0
  • 根津由喜夫 『ビザンツ 幻影の世界帝国』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1999年
  • 根津由喜夫 『ビザンツの国家と社会』 山川出版社〈世界史リブレット〉、2008年、ISBN 978-4-634-34942-1
  • 益田朋幸 『ビザンティン』 山川出版社〈世界歴史の旅〉、2004年、ISBN 978-4-634-63310-0
  • ピエール・マラヴァル 『皇帝ユスティニアヌス』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2005年、ISBN 978-4-560-50883-1
  • ポール・ルメルル 『ビザンツ帝国史』 西村六郎訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2003年、ISBN 978-4-560-05870-1
  • 渡辺金一 『中世ローマ帝国 世界史を見直す』 岩波書店〈岩波新書〉、1980年

[編集] 他の関連文献

  • 井上浩一 『ビザンツ 文明の継承と変容』 京都大学学術出版会〈学術選書〉、2009年。ISBN 978-4-87698-843-3
  • ベルナール・フリューザン 『ビザンツ文明 キリスト教ローマ帝国の伝統と変容』 大月康弘訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2009年。ISBN 978-4-560-50937-1
  • ジュディス・ヘリン 『ビザンツ 驚くべき中世帝国』 井上浩一監訳/根津由喜夫ほか3名訳、白水社、2010年。ISBN 978-4-12-101684-3
  • 浅野和生 『イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国』 中央公論新社中公新書〉、2003年、ISBN 978-4-486-01431-7
  • 橋口倫介 『中世のコンスタンティノープル』 講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • エレーヌ=アルヴェレール 『ビザンツ帝国の政治的イデオロギー』 尚樹啓太郎訳、東海大学出版会、1989年
  • J・M・ロバーツ 『ビザンツ帝国とイスラーム文明』 後藤明監修/月森左知訳、創元社〈図説世界の歴史〉、2003年
  • ハンス・ゲオルク・ベック 『ビザンツ世界の思考構造 文学創造の根底にあるもの』 渡辺金一編訳、岩波書店、1978年
  • 森安達也 『ビザンツとロシア・東欧』 講談社〈世界の歴史9 ビジュアル版〉、1985年 
  • 米田治泰 『ビザンツ帝国』 角川書店、1977年
  • 渡辺金一 『コンスタンティノープル千年 革命劇場』 岩波新書、1985年
  • 和田廣 『ビザンツ帝国 東ローマ一千年の歴史』 教育社歴史新書、1981年
  • 和田廣 『史料が語るビザンツ世界』 山川出版社、2006年。ISBN 978-4-634-64022-1

[編集] 関連項目

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[編集] 外部リンク

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