ネストリウス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

ネストリウス(Nestorius、381年? シリアゲルマニキア(現在のトルコカフラマンマラシュ) - 451年?)は、シリアのアンティオキア学派に属するコンスタンティノープル大主教[1]
キリスト教ネストリウス派の祖とされる。

428年コンスタンチノープル大主教となったが、イエス・キリストの神性と人性を区別し、イエス・キリストの母マリア神の母聖母)ではないとする説を説いた。
其の為、431年エフェソス公会議でネストリウスの説は異端とされ、国外追放となり、エジプトへ移った。
尚、ネストリウスの説は451年カルケドン公会議に於いて改めて異端とされた。

ネストリウスが異端認定された後、彼の弟子達は帝国の東部で伝道を続ける事となるが、やがて、ネストリウス派を支持する勢力はペルシャインド中国まで拡大し、中国では景教と呼称されるまでになった。

生涯[編集]

381年にゲルマニアで生まれ、モプスエスティアのテオドーロスの下でアンティオキア神学を学び、アンティオキア長老修道士、説教者として活動後、428年にはコンスタンティノープルの大主教に任じられた。
彼の主張はアタナシオスを支持するものであり、しばしばアレクサンドリアの主教キュリロスらと対立した。
キュリロス学派が神性に中心を置き、非人格的な人間性以上の概念をキリストに認めようとしなかった為である。

ネストリウスは主教になった際、キリストの母マリヤの名称として、「神の母」theotokosという語を使用する事に反対する説教を行った。
其れはtheotokosを文字通りに解釈すると「神を生むもの」であり、当時の民衆の中で起こっていた聖処女マリヤへの宗教的な畏敬を助長すると考えたからである。
代わりとして、彼は「キリストの母」Christotokosという語を提案し、マリヤはキリストの人間的な面であると論じた。

ネストリウスはイエス・キリストの人間性と神性とを完全に独立した二つの自立存在(ヒュポスタシス)として並存していたと考えていた。
この論点において、キュリロス派と激しく対立し、キュリロス派は独自のキリスト論を提出して、アンティオキア学派およびネストリウスに対して激しい論争を展開した。
尚、アレクサンドリア学派(キュリロス派)はプラトン主義の系譜にあり、アンティオキア学派はアリストテレスの系譜をひいていた[2]
やがて、ローマ帝国内で両派の論争が激化する中、東ローマ帝国の皇帝テオドシウス2世西ローマ帝国の皇帝ヴァレンティニアヌス3世は事態の解決を図る為に、431年エフェソス公会議を招集した。
しかし、其の場に於いて、ネストリウス、及びアンティオキア派は、キュリロスとエフェソスの主教メムノンとの陰謀に依り、エフェソスの公会議で異端と宣告され、ネストリウスは主教職を罷免される。
尚、キュリロスも騒動の一翼を担ったとして一時罷免されるが、後に復職した。
騒動終結後、ネストリウスは追われる形でエジプトに亡命し、上エジプトのイビスにある修道院にて隠遁生活を送っていたが、死の直前にあたる450年には『ダマスコのヘラクレイデス論』を著した。
この書は、1910年 に再発見され、ネストリウスの研究に大きな変化をもたらす事となる[3]
451年に現地にて客死する。

異端とされた後、ネストリウスを支持する教徒達はネストリウス派を形成し、各地で活動を展開した。
尚、敵対関係にあったアレクサンドリア学派も451年のカルケドン公会議において異端と認定され、同時にネストリウスの罷免も無効とされたが、異端としての認定が変わる事は無かった。

脚注[編集]

  1. ^ 未だ此の時代、コンスタンティノープルに総主教制は成立しておらず、大主教の地位に留まっていた。
  2. ^ ・日本基督教協議会文書事業部キリスト教大辞典編集委員会編『キリスト教大辞典』 教文館 1981年。
  3. ^ 「ヘラクレイデスのバザール」とも。英訳はThe bazaar of Heracleides notes &appendices by G.R. Driver & Leonard Hodgson.New York : AMS Press, 1978

参考文献[編集]

  • E.ケァンズ『基督教全史』
  • 石黒則年『新キリスト教辞典』1991年、1008ページ
  • ウィリストン・ウォーカー『古代教会(キリスト教史)』、1984年

関連項目[編集]