ネストリウス派
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ネストリウス派(ネストリウスは)とは、古代キリスト教の教派のひとつ。現在でもアッシリア東方教会にその教義が伝わっている。
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[編集] 起源
コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。なお中世ヨーロッパから大航海期に流布されたはるか東方に存在すると言われた幻のキリスト教国家「プレスター・ジョンの王国」は、ネストリウス派の伝説から始まった事が確かとされている。
カトリック・正教会・プロテスタント等、キリスト教主流派では、ネストリウス派は異端とされる。しかしプロテスタント教会の一部の原理主義的教派では、カトリック教会の聖母崇敬への反発からか、ネストリウス派を支持する動きも見られる。日本基督教団の手束正昭と、全国キリスト教伝道会のケニー・ジョセフは、ネストリウス派は異端ではなく、カリスマ運動だったと主張している。
なお、ネストリウス派の教会であるアッシリア東方教会(ギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別系統)の一部が17世紀にローマに帰一し、カルデア典礼カトリック教会(帰一教会、東方典礼カトリック教会)と呼ばれている。アッシリア東方教会とカルデアカトリック教会の両教会が、現在も中東、アフリカで活動している。
[編集] 教義
キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考える。それゆえ、人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母(テオトコス Θεοτοκος)であることを否定する。(マリア崇拝が女神崇拝と結びつくことを恐れたと考えられる)
[編集] 歴史
アレクサンドリア学派出身のアレクサンドリア総大司教キュロスとアンティオケア学派出身のネストリウスの間での対立から始まる。ネストリウスは、それまでの古代教父らが使用していたマリアに対する称号「神の母 Θεοτοκος(神 θεος を生む者 τοκος)」を否定し、マリアは「クリストトコス Χριστοτόκος(キリスト Χριστος を生む者 τοκος)」であると説いた。その理由は、キリストは神性と人性において2つ位格(ヒュポスタシス υποστασις)であり、マリアはあくまで人間的位格(人格)を生んだに過ぎないとした。一方、キュロスは、キリストの本性(ピュシス φυσις)は神性と人性とに区別されるが、位格としては唯一である(位格的結合:hypostatic union, ένωσις καθ΄ υπόστασιν)と唱えて反論した。ネストリウスはエフェソス公会議への出席を拒否。
ネストリウスが公会議で破門された後、ネストリウス派は498年セレウキア・クテシフォンに新しい総大司教を立てた。現在はアッシリア地域に点在する他、アメリカやオーストラリアに移民を中心とする信徒がいる。
中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。唐の王朝は景教を保護したため、この時代は盛んであったが、唐時代以降は消滅した。
後にモンゴル帝国を構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・ハーン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。そのため、元の時代に一時中国本土でも復活することになった。ただし、モンゴル帝国の中枢を構成する諸遊牧集団は、モンゴル帝国崩壊後は西方ではイスラム教とトルコ系の言語を受容してテュルク(トルコ人)を自称するようになり、東方では、それぞれチベット仏教を信仰してモンゴル語系統の言語を維持するモンゴルを自称し続ける勢力とオイラトを称する勢力の二大勢力に分かれていき、ネストリウス派キリスト教を信仰する遊牧集団はその間に埋没、消滅していった。
景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教の教会を唐の時代、大秦寺という名称で呼んでいた。

