クテシフォン

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ホスローのイーワーン

クテシフォンCtesiphon)はイラクにある古代都市遺跡バグダードの南東、チグリス川東岸に位置する[1]

概要[編集]

紀元前1世紀頃にこの地域一帯を支配したパルティア王国によって建造され、その後紀元前2世紀半ばその首都に定められ栄えた[1]。古代より豊かな土壌で知られたメソポタミアの中心として、またローマ帝国漢帝国を結ぶ通商路としての役割を担い、パルティア滅亡後にサーサーン朝ペルシアの時代になっても首都が置かれて政治と経済の中心地であり続けた。イスラム支配期に破壊され、廃墟となった。

砂漠地帯に多い日干し煉瓦や、ローマ水道橋などに見られるアーチを組む技術など、まさに東西の交易の中心地らしい遺跡が数多く残っている。

呼称[編集]

チグリス川を挟んで対岸にあったセレウキア(セレウケイア)と併せてクテシフォン・セレウキアなどとも称する。クテシフォンの名は古代ギリシア語のΚτησιφῶνに由来する。Ktēsiphônはギリシア語化された発音であり、Tosfōn または Tosbōnという発音を復元音とする説がある[2]。中期ペルシア語(パフラヴィー語)やマニ教文書、ソグド語で記載されたキリスト教文書では Tyspwn / Tīsfōn と記載され、近世ペルシア語では تيسفون (tysfyn)と表記される。シリア語ではܩܛܝܣܦܘܢ Qṭēsfōnと記載された。アッバース朝以降のアラビア語資料では طيسفون (Ṭaysafūn) または قطيسفون (Qaṭaysfūn)と表記され、更に「都市( مدينة Madīna)」の複数形である「アル=マダーイン」 المدائن、al-Madā’in とも呼ばれた。アルメニア語史料ではTizbon (Տիզբոն)と表記された。クテシフォンが登場する最初の史料は旧約聖書エズラ記[3]であり、Kasfia/Casphiaと表記された。

歴史[編集]

クテシフォン・セレウキア(al-Madā’in)の全体図

前史[編集]

セレウコス1世によってセレウコス朝シリアが興されると、セレウキアアンティオキアが首都に定められた。しかし、セレウコス朝の支配網は極めて粗く、様々な独立勢力が国内に跋扈していた。その一つアルケサス朝パルティアミトラダテス1世の統治により勢力を拡大しメソポタミアを占領、セレウキアは無血で降伏した。これによりアルサケス朝の威信は高まり、エリマイス王国などが恭順の意を示した。それと同時にセレウコス朝の権勢は急速に衰え、シリアの弱小勢力に転落する。その後、アルサケス朝はセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設した[4]

パルティア時代[編集]

アルケサス朝が直接支配した地域はクテシフォンと故地であるイラン高原東北部を結ぶラインであった。そのため、そのほかの地域にはスーレーン家のようなパルティア貴族やギリシア人都市など様々な独立勢力が跋扈しており、クテシフォンを中心とした中央集権とは程遠いものであった。また、パルティア人はもともと遊牧民であったため、君主がクテシフォンに常駐したわけではないようである[5]

クテシフォンはローマ帝国が東方を征服するときの軍事的な目標となった。クテシフォンはローマ帝国(または東ローマ帝国)により5回占領されたが、そのうち3回は紀元2世紀のことである。ローマ皇帝トラヤヌス116年にクテシフォンを占領したが、ユダヤ人の反乱が勃発したこともあり、その後継者ハドリアヌスはパルティアに返還した。この時のパルティア政府機能がどこにあったのかは不明である[6]。ローマの将軍アウィディウス・カシウスは164年、対パルティア戦争の間にクテシフォンを占領したが、和平により放棄した。197年、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスはクテシフォンを略奪し、数千人(おそらく最大で1万人)の住人を連れ去って奴隷とした。

サーサーン朝時代[編集]

224年、サーサーン朝ペルシアのアルダシール1世がアルサケス朝からクテシフォンを占領。これから数年以内に旧パルティア領内にあった多くの勢力がサーサーン朝に征服された。226年にはクテシフォンでアルダシール1世の戴冠式が行われ、中央集権的な支配体制が構築された。そして首都を重要性の高かったメソポタミアの中枢であるクテシフォンに移した[7]。なお、その後のサーサーン朝君主は一族発祥の地であるスタフルで戴冠式を挙げるようになる[8]

クテシフォンは元々セム系が多く、キリスト教ユダヤ教マンダ教グノーシス主義などが流行しており、サーサーン家が信仰するゾロアスター教は少数派であった(この状況はサーサーン朝滅亡まで変わることはなかった)。そこで、アルダシール1世の後継者シャープール1世はユダヤ教指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを王宮に招くなど、寛容な宗教政策を採った[9]。このため、マニ教本部もクテシフォンに置かれていたが、ゾロアスター教神官カルティールによる迫害が始まると、3世紀末にバビロンへ移転した[5]

サーサーン朝とローマの間でもクテシフォンは係争地となった。295年、ローマ皇帝ガレリウスはクテシフォンの近くでペルシアに敗北した。屈辱を晴らすためガレリウスは1年後に舞い戻り、戦争に大勝して4度目の占領を行った。ガレリウスはアルメニアと引き換えにクテシフォンをナルセ1世に返還した。このようにサーサーン朝はローマと対立していたため、ローマで迫害されていたキリスト教には好意的であった。4世紀にはセレウキア・クテシフォンに府主教座が設けられ、初代府主教にバル・アッガイが就任した。しかし、ミラノ勅令によってローマ帝国でキリスト教が公認(312年)されると、今度はサーサーン朝でもキリスト教迫害(339年-379年)が始まり、セレウキア・クテシフォン府主教からも殉教者を出した。しかし、ヤズドギルド1世の代になるとキリスト教徒との融和が図られ、410年にセレウキア・クテシフォンで公会議が開かれた。これによりセレウキア・クテシフォンを中心としたサーサーン朝における六大教会が整備された。しかしヤズドギルド1世は不審死を遂げ、420年頃から再びキリスト教迫害が行われた。クテシフォンの府主教がローマで異端宣告されたネストリウス派に移ると、サーサーン朝の態度は軟化し、484年頃に迫害は停止された。そしてセレウキア・クテシフォンの府主教は東方総主教に昇格、ローマとは異なる独自のキリスト教の中心地となった[10]

バハラーム5世からは戴冠式をスタフルで行いクテシフォンに戻る体制が改められ、クテシフォンで戴冠した後、ガンザクへ巡礼するようになった[8]

627年ニネヴェの戦いでサーサーン朝に勝利した東ローマ皇帝ヘラクレイオスがサーサーン朝の首都であるクテシフォンを包囲したが、和平を結んで引き揚げた。

637年正統カリフウマルの時代にアラブ諸部族から成るムスリム軍による対サーサーン朝との戦争はついにイラク(メソポタミア)にまで及び、イラク地方に進攻したサアド・ブン・アビー=ワッカース英語版が率いる部隊はサーサーン朝最後の君主ヤズデギルド3世が派遣した総司令官ロスタム麾下のサーサーン朝軍に対し、カーディシーヤの戦いにおいて勝利した。サアド率いるムスリム軍はチグチス東岸の諸都市を次々に征服しクテシフォン近郊まで迫ったため、これによってヤズデギルド3世は北東にあったフルワーンまで逃亡した。アッバース朝時代の記録よると、この年は飢餓と悪疫に見回れ防衛戦力の低下に悩まされていたが、クテシフォンの守備軍はとチグリス川に掛かる全ての船橋を落としてムスリム軍の侵攻を防ぎ抗戦した。しかしムスリム軍は人馬ともに水流に乗って渡河する作戦に出た。クテシフォンの各地区はムスリム軍に対しておのおの抗戦しあるいは帰順したが、ついにはクテシフォンの全地区は陥落した。

その後[編集]

征服によってクテシフォンの人口が減ることはなかったが、政治的・経済的な中心地ではなくなった。都市は急速に衰え、やがてゴーストタウンとなってしまう。『千夜一夜物語』に現れる都市「イスバニル英語版」は、クテシフォンを基にしていると考えられる(139話、第667-79夜)。

1915年11月、クテシフォンの遺跡は第一次世界大戦の戦場となった(クテシフォンの戦い英語版)。オスマン帝国軍がバグダードを奪おうとしたイギリス軍の部隊を撃破し、40マイル後退させて降伏させた。

脚注[編集]

  1. ^ a b 木畑洋一ほか 2023, p. 84.
  2. ^ E.J. Brill's First Encyclopaedia of Islam 1913–1936, Vol. 2 (Brill, 1987: ISBN 90-04-08265-4), p. 75.
  3. ^ Ezra 8:17
  4. ^ 青木健『新ゾロアスター教史』(刀水書房、2019年)76-82ページ
  5. ^ a b 前掲『新ゾロアスター教史』76-82ページ
  6. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』89-90ページ
  7. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』76-82ページ130-131
  8. ^ a b 前掲『新ゾロアスター教史』201ページ
  9. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』150-151ページ
  10. ^ 前掲『新ゾロアスター教史』157-164ページ

参考文献[編集]

  • 木畑洋一ほか『世界史探究』実教出版、令和5年1月25日。ISBN 978-4-407-20506-0 

関連項目[編集]