アレクサンドリアのキュリロス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
アレクサンドリアのキュリロス
信仰の柱;司教、証聖者、教会博士
生誕 376年
死没 444年
崇敬する教派 カトリック教会
正教会
東方諸教会
聖公会
ルター派
記念日 1月18日と6月9日(正教会)
6月27日(コプト教会カトリック教会-ただし1882年-1939年のローマ暦では2月9日 - とルター派)
象徴 Vested as a Bishop with phelonion and omophorion, and usually with his head covered in the manner of Egyptian monastics (sometimes the head covering has a polystavrion pattern), he usually is depicted holding a Gospel Book or a scroll, with his right hand raised in blessing.
守護対象 アレクサンドリア
キュリロス1世
第24代アレクサンドリア総主教
教皇就任 412年
教皇離任 444年
先代 アレクサンドリアのテオフィロス
次代 ディオスコロス1世
個人情報

アレクサンドリアのキュリロス (376年444年)は412年から444年までアレクサンドリア総主教だった人物。アレクサンドリアローマ帝国内で影響力を強めるとともに彼も力を持った。キュリロスは広範囲にわたって著作を行っており、4世紀後半から5世紀にかけてのキリスト論論争における主要な指導者のうちの一人であった。また、彼は431年エフェソス公会議の中心人物で、コンスタンティノープル総主教だったネストリオスの罷免を導いた。

キュリロスは教父及び教会博士に数えられており、キリスト教世界における名声によって「信仰の柱」、「全ての教父の印」と称せられたが、東ローマ皇帝テオドシウス2世は彼を「高慢なファラオ」のように振る舞ったとして非難し、エフェソス公会議においてネストリオス派の主教は彼を異教徒だと宣告し、彼を「教会を破壊するために生まれ、教育された怪物[1]」だとレッテルをはった。

ノウァティアヌス派の排斥や、ヘレニズム哲学者のヒュパティアの殺害に対して、キュリロスが関係していたかどうか議論がある。歴史家たちは、彼が責任を問えるほどこれらの事件に関わってはいなかったと考えている。

カトリック教会は以前はen:Tridentine Calendarでキュリロスを記念していなかった。1882年になってやっと彼を2月9日にあてがった。1969年には改訂されて、コプト教会と同じく彼の命日6月27日がキュリロスの記念日とされた[2]ルター派においても同日が彼の記念日とされている。東方正教会及び東方典礼カトリック教会では6月9日と、アレクサンドリアのアタナシオスの記念日でもある6月18日が彼の記念日とされている。

前半生[編集]

キュリロスは376年にキルカ(現在のエジプトen:El-Mahalla El-Kubra付近)で生まれた。彼が生まれて数年後に彼の母方のおじアレクサンドリアのテオフィロスアレクサンドリア総主教に叙任されている。キュリロスの母はテオピルスとその頃も近しくよくテオフィロスの指導に従っており、キュリロスも彼の下でよく教育された。彼の受けた教育の成果は、彼の著作にみられる、カエサレアのエウセビオスオリゲネス盲目のディデュモスといったキリスト教著述家やアレクサンドリア教会に属する著述家に関する知識という形で発揮された。彼は当時一般的だったフォーマルなキリスト教教育を受けた。具体的には12歳から14歳まで(390年-392年)文法を学び、15歳から20歳まで(393年-397年)修辞学文学を学び、最後に(398年-402年)神学聖書学を学んだ。特筆することとして彼はヒュパティアと違って「数学哲学、そして天文学」を学ばなかったために、彼と彼に追随する者たちは、古代のアレクサンドリア大学(アレクサンドリアの創設者アレクサンドロス3世(大王)の始めたモデルによって科学解剖学政治学歴史を含むあらゆる形の学問を研究していた)と衝突することとなった。

アレクサンドリア総主教[編集]

テオピルスは412年10月15日に世を去り、その後にキュリロスがアルキディアコノス・テモテの支持者たちに打ち勝って同年10月18日にアレクサンドリア総主教となった。

ノウァティアヌス派およびユダヤ人の迫害[編集]

キュリロスはおじの後をついで影響力が強くなっていた地位に就き、異教徒ユダヤ人らとキリスト教徒の住民との間で紛争が頻発していたこの時期に長官だった人物と競争した。[3]

彼は自身の権威を使ってノウァティアヌス派の教会を閉じさせ聖器を差し出させた。

エジプト長官オレステスはキュリロスによる世俗的な権益に対する教会側の蚕食の計画を断固として拒絶した[4]。それを受けて、キュリロスは「文法家」ヒエラクスを派遣して多くの観衆を得たパントマイムショーでオレステスの命令の届く範囲を秘密裏に調べさせた。以前キュリロスと衝突したユダヤ人たちがヒエラクスがいるのに気付き、ヒエラクスがいるのは自分たちに暴動を起こさせるためだと言って暴動を起こした[5]。そしてオレステスはヒエラクスを劇場でさらし者にした。これには二つの狙いがあった。暴動を抑えることとオレステスの権威をキュリロスに見せつけることである[6]

キリスト教側の資料によれば、アレクサンドリアのユダヤ人たちはキリスト教徒たちに対して策動しキリスト教徒を数多く殺害したという。これに対してキュリロスは実際にはオレステスに属していた権力を行使してユダヤ人全員かもしくは殺害を行った者をアレクサンドリアから追放した[7]。オレステスは力を失っていたが、それにもかかわらずキュリロスの聖書を送ろうという申し出(キュリロスの宗教的な権威がオレステスに司教の権力に従うことを要求していることを意味している)を拒絶した[8]

この拒絶によってオレステスは命を失うことになった。というのもニトリアの修道僧達が砂漠からやってきて、アレクサンドリア市民たちの間でオレステスに対する暴動を扇動したのである。この修道僧たちが起こす暴動は15年前にキュリロスのおじテオフィロスにも利用されていて、en:Tall Brothersがアレクサンドリアを追われるという結果になっている。また、キュリロスはニトリアの修道院で5年間禁欲生活を送ったと言われている。さて、修道僧たちはオレステスを襲撃し、異教徒であることを責めた。オレステスはこの非難を否定し、コンスタンティノープル総主教から洗礼されたことを示して見せた。しかしながら、僧侶たちは納得せず、彼らのうちの一人アンモニオスが石を投げた。それがオレステスの頭部に命中し、大量に流血して全身血まみれになるほどであった。オレステスの護衛兵は僧侶たちに石を投げられるのを恐れて、オレステスを残して逃亡した。しかしながらアレクサンドリア市民は彼の助けに入ってアンモニオスを捕え、他の僧侶たちを退散させた。オレステスは手当てを受けるとアンモニオスを公衆の面前で拷問にかけて、そして処刑した。オレステスはテオドシウス2世に書簡を送ってこの事件を伝えた。キュリロスもまた皇帝に書簡を送り、彼の視点からこの事件のあらましを説明した。キュリロスはアンモニオスの遺体を取り返して教会内に安置し、「タウマシオス」の称号を贈るとともに殉教者の一覧に彼の名前を加えた。しかし、アレクサンドリアのキリスト教徒はアンモニオスが死んだのは彼がエジプト長官を襲撃したからであってその信仰のためではないことを知っており、キュリロスは事件に関して沈黙を保つことを余儀なくされた[要出典][9][10]

ヒュパティアの殺害[編集]

アレクサンドリアの哲学者ヒュパティア(ラファエロアテネの学堂』、署名の間、ローマ、1509年-1510年 の一部)。エジプト長官オレステスはヒュパティアに影響されてキュリロスからの和解の申し出を断ったと考えたキリスト教徒もいた。キュリロスを支持する人々が路上で彼女を殺害した

ヒュパティアは非常に先進的な道具であるアストロラーベの発明者とされている。彼女の死とアレクサンドリア大学付属図書館の破壊は人類の発展を数百年も遅らせた。

エジプト長官オレステスはヒュパティアの政治的後援を享受していた。ヒュパティアは天文学者哲学者にして数学者であり、アレクサンドリアにおいて絶大なる有徳さで知られ、大きな影響力を持つ女性であった。実際、裕福で影響力のある一族の子弟が多くヒュパティアに個人的に講師をしてもらうことを目的としてアレクサンドリアに来ていた。何人かのキリスト教徒は、ヒュパティアの影響によってオレステスがキュリロスからの和解の申し出を拒絶しているのだと考えた。近代の歴史家が考えるところによると、オレステスがヒュパティアとの関係を深めたのは、ユダヤ人とそうしたように、アレクサンドリアの異教徒のコミュニティーとの関係を強めて、アレクサンドリアの様々な政治的主体をよりよく操作するためである[11]。ことによるとキリスト教徒の群集はパラバラネイスに先導されていたが、ヒュパティアを馬車から引きずりおろしてむごたらしく殺し、彼女の住んでいたアパートを破壊し、周囲の建物ごと焼き払った[12][13]

近代の研究によるとヒュパティアの死はキリスト教内の二つの党派、つまりヒュパティアが支持していた穏健なオレステス派とより過激なキュリロス派の闘争の結果であるという[14]辞書編集者のウィリアム・スミスによると、「彼女はアレクサンドリア総督オレステスと親密すぎることを責められ、彼女に対する非難が聖職者たちに広がり、彼女がオレステスと彼らの総主教キュリロスとの仲を阻害しているという考えを彼らが持つに至った[15]」。実際のところヒュパティアの死は古代世界を通じて知の中心地であったアレクサンドリアにおいてキリスト教徒たちが「博識な学者たち」に対して立ち上がったことを示した。

ネストリオスとの論争[編集]

もう一つの大きな争いは神学上のアレクサンドリア学派アンティオキア学派との間での信仰と語法に関するものであった。この長きにわたる論争は、コンスタンティノープル総主教管区の、より古いアレクサンドリア及びアンティオキア総主教管区に対する優位を認めた第1コンスタンティノポリス公会議第三決議を拡張した。それゆえに、このアレクサンドリア管区とアンティオキア管区との争いはすでにコンスタンティノープルをも巻き込んでいた。この衝突はアンティオキア学派のネストリオスコンスタンティノープル総主教になるとともに土壇場に来た[16]

アンティオキアの聖職者がコンスタンティノープルでネストリオスの命令によって聖母マリアを「神の母」と呼ぶことに反対する説教を始めた際にキュリロスはアレクサンドリアのアンティオキア及びコンスタンティノープルに対する優越性を取り戻す機会を得た。「神の母」という言葉は長い間マリアに用いられていたため、コンスタンティノープルの在家信者たちはアンティオキアの聖職者に不満を抱いていた。ネストリオスはアンティオキアの聖職者を拒絶するよりもむしろ、彼に取って代わろうとした。ネストリオスは、聖母マリアはキリストの二つの本性に言及している人の母でも神の母でもなく、むしろマリアは「キリストの母」であると主張した。ネストリオスによれば、キリストは神性と彼の言う所の「神殿」(ネストリオスは人性をこう呼ぶのを好んだ)との併合(συνάΦεια)である。論争はキリストの受難の問題を中心とした。神の子つまり神の言葉は本当に「受肉して[17]」受難なさったとキュリロスは主張した。しかし、ネストリオスは、神の子は肉体における結合をも含めると完全に受難することはできないと主張した[18]ドリュラオンのエウセビオスはネストリオスの説を養子的キリスト論だと責めるにまで至った。このときまでに、コンスタンティノープルで議論が起こっていることがアレクサンドリアに伝わった。429年復活祭の折、キュリロスはエジプトの修道僧たちにネストリオス説に注意するよう書簡を送った。この書簡の写しがもと来た向きをさかのぼってコンスタンティノープルにまで到達すると、ネストリオスはそれに反論する説教を行った。ここからキュリロスとネストリオスの間で複数回にわたる書簡の応酬が始まり、しかもそれは次第に攻撃的な調子を強めていった。結局、この論争を解決するために皇帝テオドシウス2世エフェソスで公会議を開いた。キュリロスがエフェソスを開催地として選んだのは当地がマリア崇敬を強く支持する土地柄だったからである(キリスト教以前はギリシアの女神アルテミスを崇拝していたのがマリア崇敬へかわった)。エフェソス市民はキュリロスに友好的で[要出典]、キュリロスとその支持者はネストリオスとその支持者がアンティオキアやシリアから到着する前にエフェソス公会議(431年)を開会してしまい、ネストリオスが召喚されても参加を拒むことになった。案の定、会議ではネストリオスが異端であるとして職務剥奪、国外追放を決定した。

しかしながら、アンティオキアのヨハネやその他の元ネストリオス派の司教たちは結局エフェソスに到着し、公会議に参加して、キュリロスに異端宣告し、総主教の地位の剥奪を宣誓して、「教会を破壊するために生まれ育てられた怪物[19]」とレッテルを貼った。テオドシウス2世は若くして即位した皇帝であるがこのころには十分に年を重ねて実権を掌握しており、公会議の評決を無効だと宣言してキュリロスを捕えた。しかしキュリロスはついには逃げおおせた。エジプトに逃げ帰ると、キュリロスはテオドシウスの廷臣にわいろを贈り、また、隠者コンスタンティノポリスのダルマティオスに率いられた群衆を送り込んで、テオドシウスの宮殿を包囲して罵声を上げさせた。ついにテオドシウスは降参し、ネストリオスを(上エジプトへの)近流刑に処した[19]。 キュリロスは444年に世を去ったが、エフェソス強盗会議(449年)からカルケドン公会議(451年)、そしてそれ以降と論争はこののちも数十年にわたって続くこととなった。

神学[編集]

キュリロスはイエス・キリストにおける神性の人性への受肉を、神秘的な力を持っていることによる神-人の肉体から他の全人類への展開であり、人の本性の修飾・神格化であり、信者に不死と主イエスの変容を約束するものであるとみなしていた。一方、ネストリオスは、受肉をイエスの足取りに従う忠実なものにとって第一に倫理的な例であるとみなしていた。キュリロスがずっと強調していたのは、ナザレの街を歩いていたのはまさしく神である(ゆえにマリアはテオトコス、神を孕むものである)し、人の姿をとって現われたのもまさしく神であるという単純な考えであった。ネストリオスは「人間イエス」と「神であるロゴス」の区別を強調して論じていた。キュリロスはこれを二分的に考えすぎていて、彼の同時代人の一部がキリストの人性を無みしていると感じたやり方で人生と神性との間の存在論的ギャップを広めていると考えた。

このキュリロスとネストリオスとの論争を起こした最大の問題はコンスタンティノポリス公会議で起こった問題である。実際のところ、マリアが生んだのは何だったのか?キュリロスの考えでは三位一体の構成は一つの神性という本体(οὐσία)と三つの互いに異なる実体(ὑπόστᾰσις)から成る。三つの異なる実体とは父、子、聖霊である。そして、子が受肉して世界に降臨すると、神性と人性の両方が存続するがイエスの位格の中で「併合」される。このためネストリオスの神学的立場を要約して「二つの本体が併合した一つの実体」というスローガンが使われる。

キュリロスの神学によれば、子には二つの状態がある。受肉する子(つまりロゴス)に「先立って」存在する状態と現に受肉した状態である。それゆえ、ロゴスの肉体のみが十字架上で受難・死を迎えたことになり、子は受難せずに受難できたことになる。ロゴスの内部で緊密に関連し合っていることが必要とされ、その後イエス・キリスト、つまり神なるロゴスの内部で受肉したロゴスが肉体の中で、そして世界の中で現存することにキュリロスの関心はあった。

マリア論[編集]

アレクサンドリアのキュリロスはエフェソス公会議(431年)における「テオトコス論争」と呼ばれる活発な争いのために教会史に名を残している。

彼の著作にはエフェソスでの説教やその他の説教が含まれる[20]。伝えられている彼の説教の中には本当に彼のものか論争のあるものもある。いくつかの評論によれば、キュリロスが重点を置いていたのはイエスの母に対する愛だという。十字架上で、彼は苦痛に打ち勝ち母のことを考える。カナの婚宴で、イエスは母の望みに首を垂れる。アレクサンドリアのキュリロスの圧倒的な美点はマリア論の中核を永遠に強固なものとしたことである。キュリロスは神の母としての聖処女マリアに関する説教を通じてその後の全てのマリア論の発展の基礎を築いたと[誰によって?]されている[要出典]

近代文化において[編集]

エジプトの学者ユースフ・ジダンのアラビア語での小説『アザジール』(2008年)においてキュリロスは物議を醸す役割を演じている。この小説は2009年に国際アラビア語フィクション賞を受賞していて『Azazeel』のタイトルで英訳が出版されるのだが、舞台を5世紀のエジプト及びシリアにとっていて初期キリスト教史を扱っている。アエギュプトゥスの初期のキリスト教徒たちの宗教的熱狂と群衆による暴力を描いている点で物議を醸している[要出典]。本書の語り手ヒュパはヒュパティアがリンチに会うのを目撃しキュリロスがネストリオスを断罪した431年に自身が争いに巻き込まれているのに気付く。キュリロスはユダヤ人や古典古代の伝統的信仰からキリスト教に改宗しなかったものを殺害する熱狂的な人物として描かれている。この描写は多くのキリスト教徒を怒らせた[21]

キュリロスはキ・ロングフェローの『Flow Down Like Silver, Hypatia of Alexandria』にも登場する[22]。ロングフェローはキュリロスがヒュパティアを殺すよう命令させたとして責めてはいないが、本作品ではキュリロスがヒュパティアの殺害に果たした役割を憚ることなく推測している。

2009年の映画『アレクサンドリア』ではサミ・サミールがキュリロスを演じ、アレクサンドリアの異なるコミュニティーを調停しようとしたオレステスに反対する過激論者として描かれている。

作品[編集]

キュリロスは学者肌の総主教であり、多作な著述家であった。教会で活動していた時期の前半には彼は聖書の注釈をいくつか書いている。そのうちのいくつか:Commentaries on the Old Testament,[23] Thesaurus, Discourse Against Arians Commentary on St. John's Gospel,[24] and Dialogues on the Trinity. 429年キリスト論上の論争が起こり、彼の書く作品は彼の論争の相手の考えに合わないものになっていった。彼の著作と神学教父たちの伝統、そして今日の正統派キリスト教の中核となっている

関連項目[編集]

脚注[編集]

General
  • Cyril I (412–444)”. Official web site of the Greek Orthodox Patriarchate of Alexandria and All Africa. 2011年2月8日閲覧。
Specific
  1. ^ Edward Gibbon, Decline and Fall of the Roman Empire, 47
  2. ^ Calendarium Romanum (Libreria Editrice, 1969), pp. 95 and 116
  3. ^ Preston Chesser, The Burning of the Library of Alexandria, http://ehistory.osu.edu/osu/archive/articleview.cfm?aid=9 , eHistory.com
  4. ^ Wessel, p. 34.
  5. ^ John of Nikiu, 84.92.
  6. ^ Socrates Scholasticus, vii.13.6-9. Wessel, p. 34
  7. ^ Socrates Scholasticus, vii.13 (who says that the whole Alexandrian Jewish community was expelled); John of Nikiu, 84.95-98 (who says that only the murderers were expelled). Welles, p. 35.
  8. ^ Wessel, p. 35.
  9. ^ Socrates Scholasticus, vii.14.
  10. ^ Wessel, p. 35-36.
  11. ^ Christopher Haas, Alexandria in Late Antiquity: Topography and Social Conflict, JHU Press, 2006, ISBN 0-8018-8541-8, p. 312.
  12. ^ Socrate Scolastico, vii.15.
  13. ^ Giovanni di Nikiu, 84.88-100.
  14. ^ Maria Dzielska, Hypatia of Alexandria, Cambridge (Mass.): Harvard University Press, 1995. (Revealing Antiquity, 8), p. xi, 157. ISBN 0-674-43775-6
  15. ^ http://www.ancientlibrary.com/smith-bio/1645.html
  16. ^ Leo Donald Davis, The First Seven Ecumenical Councils (325-787): Their History and Theology, Collegeville (Min.): The Liturgical Press, 1983, p. 136-148. ISBN 0-8146-5616-1
  17. ^ Thomas Gerard Weinandy, Daniel A. Keating, The theology of St. Cyril of Alexandria: a critical appreciation; New York (NY); T&T Clark LTD, 2003, p. 49
  18. ^ Nestorius, Second Epistle to Cyril http://www.monachos.net/content/patristics/patristictexts/34-patrtexts/189-nestorius-to-cyril2
  19. ^ a b Edward Gibbon, Decline and Fall of the Roman Empire, 47
  20. ^ PG 76,992 , Adv. Nolentes confiteri Sanctam Virginem esse Deiparem, PG 76, 259
  21. ^ Maya Jaggi, "Meeting the winner of the 'Arabic Booker'," The Guardian 26 March 2009 online, archived by WebCite.
  22. ^ [1]
  23. ^ Cyril of Alexandria, Commentary on Luke (1859) Preface. pp.i-xx
  24. ^ Cyril of Alexandria, Commentary on John, LFC 43, 48 (1874/1885). Preface to the online edition

参考文献[編集]

  • McGuckin, John A. St. Cyril of Alexandria and the Christological Controversy. Crestwood, NY: St. Vladimir’s Seminary Press, 2004. ISBN 0-88141-259-7
  • Wessel, Susan. Cyril of Alexandria and the Nestorian Controversy:The Making of a Saint and a Heretic. Oxford 2004. ISBN 0-19-926846-0
  • Artemi, Eirini «Τό μυστήριο της Ενανθρωπήσεως στούς δύο διαλόγους «ΠΕΡΙ ΤΗΣ ΕΝΑΝΘΡΩΠΗΣΕΩΣ ΤΟΥ ΜΟΝΟΓΕΝΟΥΣ»και «ΟΤΙ ΕΙΣ Ο ΧΡΙΣΤΟΣ» του Αγίου Κυρίλλου Αλεξανδρείας», Εκκλησιαστικός Φάρος, ΟΕ (2004), 145-271.
  • Artemi, Eirini, «Τό μυστήριο της Ενανθρωπήσεως στούς δύο διαλόγους «ΠΕΡΙ ΤΗΣ ΕΝΑΝΘΡΩΠΗΣΕΩΣ ΤΟΥ ΜΟΝΟΓΕΝΟΥΣ»και «ΟΤΙ ΕΙΣ Ο ΧΡΙΣΤΟΣ» του Αγίου Κυρίλλου Αλεξανδρείας», Εκκλησιαστικός Φάρος, ΟΕ (2004), 145-271.
  • Artemi, Eirini,Ο Άγιος Κύριλλος Αλεξανδρείας και οι σχέσεις του με τον έπαρχο Ορέστη και τη φιλόσοφο Υπατία, Εκκλησιαστικός Φάρος, τ. ΟΗ (2007), 7-15.
  • Artemi, Eirini,Μία φύσις του Θεού λόγου σεσαρκωμένη. α). Απολιναρική ανάγνωση, β)Κυρίλλειος ανάγνωση, Εκκλησιαστικός Φάρος, τ. ΟΔ (2003), 293 – 304.
  • Artemi, Eirini,Αι Ιστορικαί Ανακρίβιαι της ταινίας AGORA του Αλεχάντρο Αμπεναμπέρ, Ορθόδοξος Τύπος, τεύχ. 1819(2010),7.
  • Artemi, Eirini,Οι χρήσεις της εθνικής γραμματείας στο έργο του Κυρίλλου Αλεξανδρείας, ΠΟΡΕΙΑ ΜΑΡΤΥΡΙΑΣ, αφιερωματικός τόμος στη μνήμη του Μακαριστού Πάπα και Πατριάρχη Αλεξανδρείας και πάσης Αφρικής κυρού Πέτρου του Ζ, (2010), 114-125.. ISBN 9788482390185

外部リンク[編集]

先代:
アレクサンドリアのテオフィロス
パパ・アレクサンドリア総主教
412年 - 444年
次代:
ディオスコロス1世