アッティラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| アッティラ Attila |
|
|---|---|
| フン族とその諸侯の王 | |
死後800年後の1300年頃に描かれたアッティラの想像図
|
|
| 出生 | 406年 |
| 死去 | 453年 |
| 子女 | エラク、デンキジック、イルナック |
アッティラ(Attila, 406年? - 453年 )はフン族の王。原語ではアキラ、ドイツ語ではエッツェル(Etzel)とも。現在のロシア・東欧・ドイツ北部を結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の大王を自称した。またローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と恐れられ、本人もこの呼称を好んで用いた。アッティラには多数の妃と子があり、後継者を指名せず急死したのが災いし、帝国は後継者争いにより分裂した。
出自についてはフン族全体と同じく詳しくは分からないが、名前や風貌の伝承などからテュルク・モンゴル系民族に属するモンゴロイド(黄色人種)だったのではないかと見られている。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] フン王への即位
アッティラは西暦406年、フン王ルーラの甥として生まれた。当時、既にフン族は強力な騎馬部隊を率いる蛮族としてその名を轟かせており、度々東西ローマの領内に入り込んでは、撤退する代償として莫大な賠償金を獲得していた。また同じ蛮族との戦いでも、東進の過程でバルト海に居たと思われるゴート族の王国を滅ぼして住民を虐殺し、生き残った者たちも配下の兵士として従えるなど、多くを従える立場にあった。後に多民族国家としてローマの後裔を担うフランク王国もこの時はフン帝国の従属国の一つに過ぎなかった。
アッティラは幼い時から兄弟のブレダと共に宮殿で育てられた。その時に西ローマ帝国から人質として送られていたローマ系貴族の子息、フラウィウス・アエティウスと知り合っている。後にアッティラをカタラウヌムの戦いで破ることになるアエティウスとアッティラは親密な間柄であったという。434年、叔父ルーラが死去すると、ブレダと共に王位に付いた。初めのうちは所領を二分割して統治していたが、程なくしてブレダを狩りの最中の事故に見せかけて謀殺し、単独の王となった。436年にはブルグント王国に侵攻し、グンダハール率いるブルグント軍を壊滅に追い込んでいる。
[編集] アッティラの台頭
[編集] カタラウヌムの戦い
[編集] 突然の死
[編集] 年表
- 433年 - ローマへの侵入を繰り返していたフン族の圧力に耐えかね、西ローマ帝国がフン族にパンノニア(現在のハンガリー)を割譲。
- 434年 - 叔父である国王ルーアの死後、兄弟ブレダとともにフン族の王となる。支配下の諸侯はそれぞれ分割して統治した。
- 445年 - ブレダを殺害しその所領を奪い、単独の王となる。東ゴート族などのゲルマン系諸族を征服し、パンノニアに本拠を置いてローマ帝国にも侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げる。
- 447年 - 東ローマ帝国に侵攻し賠償金を獲得。
- 451年6月20日 - ローマ帝国の征服を目指しガリアのカタラウヌムで、幼少の頃人質としてフン族に育てられたローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ、西ゴート連合軍と戦う。しかし、アエティウスのフン族の戦術の裏をかく巧みな戦術に敗れる。
- 452年 - 戦略を修正し、直接西ローマ帝国に侵攻。北イタリアのミラノなどの都市を陥れ、西ローマ帝国から莫大な賠償金を手に入れる。しかし進軍を止めることなく首都ローマの征服を目指すが、教皇レオ1世の説得によって撤退したとされている(実際は、フン族の兵士にマラリアが蔓延したとする説が有力)。
- 453年 - 40歳のアッティラ、自らの婚礼の酒宴の席で泥酔しそのまま死亡(鼻血による窒息死と伝えられるが、脳溢血により死亡したとも言われる)。
- 454年 - アッティラの急死で東ゴート族とゲピダエ族の生き残りが蜂起。ネダオの戦いでアッティラの長男エラクが反乱軍に敗れて戦死し、帝国は崩壊する。
[編集] 評価
[編集] 破壊者か英雄か
スラブ系・ゲルマン系の諸民族を征服した際の容赦の無い略奪と殺戮(一勢力が跡形も無く根絶される事すらあり、フン族を恐れる諸民族の動きが民族大移動を引き起こしたとする説まである)から、西欧や東欧ではヴァンダル族のガイセリックと並んで破壊者の象徴として語られる事も多い。後に同じく「東方からの侵略者」となったモンゴルやティムールも(恐らくは同じくテュルク系に属した可能性がある為か)アッティラの再来として恐れられた。
しかし奇妙な事に北欧ではむしろ英雄視される傾向にあり、ヴァイキング(ノルマン人とも)のサーガにはアッティラが偉大なる王として登場するものが複数存在する。これにヴァイキングの東方起源説や東ヨーロッパ人種に東洋的な特徴が見られる事と結びつける意見も散見されるが、学術的にはフン族自体に不明瞭な部分が多く、定かではない。また文明の破壊者と批判されがちなアッティラではあるが、支配民族の在来文化や東西ローマのラテン文化・ギリシャ文化に対しては理解があり、ローマの外交官プリクスはフン族が自分達の言語以外にもラテン語やギリシャ語、ゴート語などを用いていたと述べている。
[編集] 出自
古代から中世の移り変わりの時期に猛威を振るった事、ゲルマンやスラブの諸族を従えた事、そして何より東欧に一大帝国を形成した経緯などから、その出身民族や人種がしばしば激しく論じられる。これは後世に描かれたアッティラの想像図を見ても明らかで、金髪の北方人種風に描かれる事もあれば、豊かな黒髪・茶髪を靡かせる東欧や南欧の人物の様に描かれもすれば、あからさまに東洋人(モンゴロイド)として描かれるケースもあるなど、全く一定していない。
今のところ、アッティラの風貌を伝える資料の中で有力なものにヨルダネスの書簡が挙げられる。ヨルダネスはアッティラについて「背は低いが筋肉質で、頭が大きい。目は細く、蓄えられた顎鬚には白髪が混じっている。低い鼻と浅黒い肌は、彼の出身を表しているように思える。」と書き残している。
[編集] エピソード
- ドイツ南部の古典文学ニーベルンゲンの歌に登場する。
- 「王たる者、進んで義務と責任を引き受けなければならない」との訓戒を残している。
- 彼に因んでセバスチャン・シャバル、マーガレット・サッチャーなど、非常に気の強い、又は強烈な個性の持ち主にアッティラというあだ名がつけられることがある。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『フン族―謎の古代帝国の興亡史』E・A・トンプソン著

