パウロ
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パウロ(希:Paulos, 英:Paul, ? - 65年?)は、初期キリスト教の最も重要な理論家であり、新約聖書の著者の一人。サウロとも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。
「サウロ」はヘブライ名で、これをギリシア語に直すと「パウロス」となる。「サウロ」という名前は、『使徒行伝』にもよく出てきており、彼自身「パウロス」と自称することからすると、ディアスポラのユダヤ人のならいでギリシア名とヘブライ名の両方をもっていたのかもしれない。彼は「使徒」を自称するが、イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。聖人であり、その記念日はペトロと共に6月29日。
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[編集] パウロの生涯
新約聖書の『使徒行伝』によれば、パウロの職業はテント職人で[1]生まれつきのローマ市民権保持者でもあった[2]。ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムで高名なラビガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ[3]。パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。
ダマスコへの途上において、復活したイエス・キリストに出会うという体験をし、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった(「目から鱗が落ちた」という言葉の語源)。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった[4]。この経験は「パウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い。
その後、使徒たちに受け入れられるまでに、ユダヤ人たちから何度も命を狙われたが、やがてアンティオキアを拠点として小アジア、マケドニアなどローマ帝国領内へ赴き、会堂(シナゴーグ)を拠点にしながらバルナバやテモテ、マルコといった弟子や協力者と共に布教活動を行った。特に異邦人に伝道したことが重要である。『使徒行伝』によれば3回の伝道旅行を行ったのち、エルサレムで捕縛され、裁判のためローマに送られた。伝承によれば皇帝ネロのとき60年代後半にローマで殉教したとされる。またローマからスペインにまで伝道旅行をしたとの伝承もあるが、これも史実でないとするのが一般的である。
[編集] パウロの著作
パウロの著作には新約聖書中『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』がある。『テサロニケの信徒への手紙二』『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるかは議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日では一般的である。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。
近代の批判的聖書学によれば(異論もあるが)、パウロ書簡は新約聖書中、著者が明らかである唯一のものであり、また全文書の中で(一般的には『テサロニケの信徒への手紙一』)最古の文書である。
他にもパウロの名を借りた『パウロの黙示録』『パウロ行伝』といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。
[編集] 脚注
- ^ 『使徒行伝』18:3
- ^ 『使徒行伝』22:25-29。但し、一部の研究者はこれを疑問とする
- ^ これも疑問とする者が多い
- ^ 『使徒行伝』9章。ただしパウロ自身は『ガラテア書』で、こうした「伝説的」な事件には言及していない
[編集] 関連項目

