ラヴェンナ

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ラヴェンナ
Ravenna
ラヴェンナの風景
行政
イタリア国旗 イタリア
Regione-Emilia-Romagna-Stemma.svg エミリア=ロマーニャ
Blank.png ラヴェンナ
CAP(郵便番号) 48100
市外局番 0544
ISTATコード 039014
識別コード H199
分離集落
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 153,458 [1](2012-01-01)
人口密度 235.0 人/km2
文化
住民の呼称 ravennati
守護聖人 アポリナーレ
祝祭日 7月23日
地理
座標 北緯44度25分0秒 東経12度12分0秒 / 北緯44.41667度 東経12.20000度 / 44.41667; 12.20000座標: 北緯44度25分0秒 東経12度12分0秒 / 北緯44.41667度 東経12.20000度 / 44.41667; 12.20000
標高 4 (0 - 22) [2] m
面積 652.89 [3] km2
ラヴェンナの位置
ラヴェンナの位置
ラヴェンナ県におけるコムーネの領域
ラヴェンナ県におけるコムーネの領域
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ラヴェンナイタリア語: Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。

古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナRavenna)と呼ばれる。西ローマ帝国東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領 (Exarchate of Ravennaの首府となった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコ世界遺産に登録されている。

名称[編集]

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

  • ロマーニャ語 (en: Ravêna

地理[編集]

位置・広がり[編集]

ラヴェンナはラヴェンナ県の東部に位置し、フェラーラから南東へ66km、州都ボローニャから東へ69km、フィレンツェから北東へ105km、ヴェネツィアから南へ114kmの距離にある。

歴史的にはアドリア海に面した海港都市として築かれたラヴェンナであるが、現代のラヴェンナ市街は内陸に所在しており、海との間は直線距離で8kmほど離れている。ラヴェンナ市街とアドリア海との間は運河でつながっている。

コムーネとしてのラヴェンナはアドリア海に面し、長い海岸線を持つ。ラヴェンナ市街とアドリア海を結ぶ運河の出口にあたるマリーナ・ディ・ラヴェンナ(ラヴェンナ港) (Port of Ravennaは、イタリアの重要な港湾のひとつである。

コムーネの面積は約652平方kmに及び、県の面積の約1/3を占める。これはイタリアのコムーネで第2位の面積である(最大はローマ)。

ラヴェンナ県概略図

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。FCはフォルリ=チェゼーナ県、FEはフェラーラ県所属。

歴史[編集]

初期[編集]

ラヴェンナの発祥は明かでない。最初の定住地はティレニア人テッサリア人、またはウンブリ人エトルリア人によるものと多様にいわれている。ラヴェンナは、湿地帯の潟の中にある小島群上に、堆積物を基礎として建てた家から構成された。数世紀後にできたヴェネツィアと成り立ちが似ている。ローマ人はポー川デルタ地帯を征服した間に、のちにラヴェンナとなる定住地を無視した。しかし、紀元前89年に連邦制の町として共和制ローマの中に受け入れた。紀元前49年、ユリウス・カエサルルビコン川を横断する前に自分の軍をこの地で集結させた。紀元前31年、マルクス・アントニウスとの戦い後、アウグストゥス帝がラヴェンナに艦隊用軍港クラッシス(Classis)を築いた。この港は、最初は城壁で守られた重要なローマ海軍の基地であった。現在、市は海から切り離されたが、中世初期までラヴェンナはアドリア海の重要な海港のままだった。

6世紀のキリストのモザイク画。長髪で髭を伸ばし、ギリシャ=ローマ風の聖職者か王族のような衣装を着ている

ゲルマン遠征の間、ゲルマン人族長アルミニウスの未亡人トゥースネルダと、マルコマンニ王マルボドゥウスは、ラヴェンナで監禁されていた。

ラヴェンナは、ローマ支配下で大いに繁栄した。トラヤヌス帝は2世紀初頭、70kmの長さのローマ水道を建設した。402年、ホノリウス帝は西ローマ帝国の首都をミラノからラヴェンナへ遷都した。遷都には、第一に防衛目的があった。ラヴェンナは泥沢地と湿地に囲まれ、そして東ローマ帝国の軍との行き来に安心であった。しかし409年、西ゴートアラリック1世は簡単にラヴェンナを迂回し、ローマへ向かって略奪をし、人質としてテオドシウス1世の皇女ガッラ・プラキディアを連れてきた。多くの変遷ののち、ガッラ・プラキディアは息子ウァレンティニアヌス3世とともにラヴェンナへ戻り、甥テオドシウス2世を支援した。ラヴェンナは、キリスト教が宮廷で厚遇されると、平和の時代を謳歌した。そして市は最も有名な、世俗とキリスト教両方の建造物を獲得した(キリスト教建造物が広範囲に保存されている)。

476年、西ローマ帝国が滅亡し、東ローマ皇帝ゼノン東ゴートテオドリックをイタリア半島再獲得のため送り込んだ。ヴェローナの戦い後、オドアケルはラヴェンナへ退却し、リミニが攻略されラヴェンナの補給が断たれるまでテオドリックに3年間包囲された。ラヴェンナは東ゴート王国の首都となった。

テオデリックの宮殿のモザイク

493年の後、テオドリックは世俗と信仰の建物(サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂近くの失われた宮殿を含む)のためローマ人建築家を雇い入れた。テオドリック宮殿は付属建築物であった。テオドリックと家臣たちはアリウス派であったが、ラテン人らと平和理に共存していた。526年にテオドリックは死に、後を継いだ娘アマラスンタは535年に殺害された。

しかし、527年に即位した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世はローマ帝国復興と正統教義擁護を掲げ、東ゴート支配もキリスト教アリウス派にも反対していた。535年、彼はイタリアへ侵攻、540年にラヴェンナを占領した。ラヴェンナはイタリアにおける東ローマ帝国政府の所在地となった(ゴート戦争)。

ラヴェンナでの帝国の復活(ユスティニアヌス1世の外征でローマ帝国時代の旧領を取り戻したことを指す)も、クラッシス港の恩恵を受けた。時に町は古代後期のポンペイだといわれた。この時代を代表する遺跡は、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(6世紀から7世紀)で、教会内には聖アポリナレスの聖遺物が置かれている。しかしたとえクラッシスがローマ時代につくられたとはいえ、ラヴェンナの成長が著しかったのは帝国の末期であった。ラヴェンナの港として、クラッシスは6世紀から7世紀のカギとなる交易の乗降口であり、イタリア・アドリア海沿岸の主要港であった。

ラヴェンナ総督領[編集]

皇帝ユスティニアヌス1世の命令でベリサリウスはラヴェンナを征服した。皇帝マウリキウスはラヴェンナに総督府を置いた。これがラヴェンナ総督領で知られる。この時、『ラヴェンナの形状誌』(it、インドからアイルランドまでの地名が記された)が書かれた。

6世紀から7世紀にかけ、総督領はロンゴバルド王国フランク王国に脅かされ、聖像破壊運動によって東西のキリスト教会は裂かれた。教皇庁コンスタンティノープル総主教庁との競争が苛烈を極め、総督領の状況は支持されなくなっていった。

中世[編集]

リウトプランド王時代のロンゴバルド王国が、712年にラヴェンナを占領した。しかし東ローマ帝国に市を返還させられた。751年、ロンゴバルド王アイストゥルフがラヴェンナ征服を継承し、この前後に最後のラヴェンナ総督エウティキウスが戦死した。北イタリアでの東ローマ支配は終わった。

旧東ローマ帝国領を狙うローマ教皇ステファヌス2世は、フランク王国の小ピピンに加勢を求め、ロンゴバルド王国を攻撃させた。旧総督領の征服を完了した小ピピンは、征服した土地を教皇へ寄進し、784年にラヴェンナは教皇領となった。その見返りとして、小ピピンの子カール大帝は教皇庁から後押しを受けるようになった。ハドリアヌス1世はカール大帝に対し、ラヴェンナから好みの物をどんなものも与えると認めた。カール大帝は3度の遠征で略奪を行い、ローマ時代の円柱、モザイク、像、その他持っていける品物を多くの数取り除き、彼の首都アーヘンを富ませた。

ラヴェンナのポポロ広場

教皇庁支配のもと、ラヴェンナ大司教はローマ教会からの独立教会の立場を謳歌した。東ローマ支配下で特権を獲得していたのである。リウドルフィング朝の皇帝らの寄進のため、ラヴェンナ大司教は教皇庁の次にイタリアで2番目に裕福であり、時に教皇の世俗的な権威を変えることができた。

1198年、ラヴェンナは反皇帝のロマーニャ同盟を率い、教皇は同盟を従属させた。1218年の戦争後、トラヴェルサーリ家がラヴェンナ支配を行い、1240年まで続いた。短期間の皇帝代理支配後、1248年にラヴェンナは教皇領へ戻り、ダ・ポレンタ家が1275年まで長期のシニョリーア制を敷いた後、トラヴェルサーリ家が再び実権を掌握した。この時代の最も有名なラヴェンナ住民は、フィレンツェから追放されていたダンテ・アリギエーリであった。ダ・ポレンタ家の最後のシニョーリ、オスタジオ3世は1440年にヴェネツィア共和国によって追われ、ラヴェンナはヴェネツィアの領土に併合された。

ヴェネツィアによる支配は1509年まで続き、ラヴェンナ周辺はイタリア戦争の過程で侵略された。1512年、カンブレー同盟戦争の最中、ラヴェンナはフランス軍に略奪された。

ヴェネツィアが後退させられると、ラヴェンナは再度教皇領の一部として、教皇の全権委任大使による支配をうけることになった。1636年5月、市はすさまじい洪水で被害を受けた。続く3世紀以上、運河網が近くの河川の流れを変え、湿地を干拓した。洪水の発生する可能性が減り、市の周りに広大な農業用のベルト地帯がつくられた。

近代[編集]

1796年まで教皇領であったラヴェンナは、フランスの傀儡国家チサルピナ共和国(1802年からイタリア共和国、1805年からイタリア王国)に併合された。ナポレオン没落後の1814年、教皇庁へ戻された。1859年、ピエモンテ軍に占領され、1861年にラヴェンナと周囲のロマーニャ地域は、新規に統合されたイタリア王国の一部となった。

1943年9月から1945年4月までの間、連合国側によるイタリア解放のための攻撃に耐えたラヴェンナを讃え、1951年5月19日にヴァロール・ミリターレ金勲章が共和国政府から与えられた。

主な史跡[編集]

ガッラ・プラキディア廟堂内部
ガッラ・プラキディア廟堂の天井モザイク
ラヴェンナのドゥオモ
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会
ブランカレオーネ城のシタデル

6世紀末からの急速な衰退と、その後ラヴェンナが重要な都市にはならなかったことによって、市内および郊外には、西ローマ、東ゴート王国および東ローマ帝国の文化遺産が点在する。これらの建築物はラヴェンナの初期キリスト教建築物群として1996年世界遺産に登録された。

  • スピリト・サント教会(Chiesa dello Spirito Santo) - 5世紀からの原型をとどめる。元々はアリウス派教会。ファサードは5つのアーケードをもつ16世紀の名高いポルチコを持つ。
  • サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会(Chiesa di San Giovanni Evangelista) - 5世紀にガッラ・プラキディアによって建てられた。第二次世界大戦中の爆撃で損傷し、修復された。
  • サン・フランチェスコ聖堂(Basilica di San Francesco) - 10世紀から11世紀に再建。前の聖堂は、12使徒に献堂され、のちペトロに献堂された。控えめなレンガ造りのファサードの背後に、本堂一つと2つの側廊がある。原始の教会からあるモザイクの断片は床に見られる(雨の後には常に水浸しとなる。納骨堂も同じ)。この聖堂で1321年、ダンテ・アリギエーリの葬儀が行われた。ダンテは聖堂付属の墓地に埋葬された。ラヴェンナの当局は、数世紀に渡ってフィレンツェからの詩人の棺返還要求を拒否し続けている。
  • ラヴェンナのドゥオモ(Duomo di Ravenna) - 18世紀に建てられた。カトリック教会のラヴェンナ=チェルヴィア大司教座が置かれている。
  • サンタ・マリア・マッジョーレ教会(Chiesa di Santa Maria Maggiore) - 元々は525年から532年に建てられた教会で、1671年にバロック様式で再建された。ルカ・ロンギの絵画を所蔵。
  • サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会(Chiesa di San Giovanni Battista) - 1683年に建てられたバロック様式教会。中世の鐘楼が残る。
  • サンタ・マリア・イン・ポルト教会(Basilica di Santa Maria in Porto) - 16世紀。18世紀からある豪華なファサードがある。本堂一つと2つの側廊があり、高い丸屋根を持つ。コンスタンティノープルからラヴェンナへもたらされたと伝えられている有名な『ギリシャの聖母』(Madonna Greca)像を所蔵する。
  • コムーネ美術館 - ロマーニャ画家の絵画を所蔵
  • ブランカレオーネ城(Rocca Brancaleone) - 1457年、ヴェネツィア共和国が建てた。かつては市の城壁の一部で、現在は公立公園となっている。城とシタデル(砦)2つの部分に分けられ、シタデルの面積は14,000 m²になる。
  • テオドリックの宮殿(Palazzo di Teodorico) - 旧サン・サルヴァトーレ教会の入り口にある。東ゴート王の宮殿だった頃のモザイクがある。
  • サンタ・エウフェミア教会(Chiesa di Santa Eufemia) - カルケドンのエウフェミアへ献堂した18世紀の教会。東ローマ時代の宮殿からの壮麗なモザイクを持つ、石で覆われたドームへ行ける。

文学におけるラヴェンナ[編集]

ダンテの墓

バイロンは、イタリア貴族で若い人妻であるテレサ・グイッチョーリ伯爵夫人と恋に落ち、1819年から1821年までラヴェンナで暮らした。ここで彼は『ドン・ジュアン』と『ラヴェンナ日記』を書いた[1]

オスカー・ワイルドは、1878年に Ravennaというタイトルの詩を書いた。

ロシアの象徴主義詩人アレクサンドル・ブロックは、1909年春のイタリア旅行に触発され、『ラヴェンナ』というタイトルの詩を書いた。

ドイツの詩人ヘルマン・ヘッセは旅行の最中、彼はラヴェンナを訪問し、触発された2編の詩を書いた。

ダンテ・アリギエリは、政争に敗れてフィレンツェを追放された後、1317年頃からラヴェンナにとどまり、『神曲』を完成させた。ダンテの墓は、ラヴェンナの中心街にある。同じダンテ・アリギエリ通りにダンテ博物館もある。

交通[編集]

ラヴェンナは重要な商業・観光港を持つ。

ボローニャまたはヴェネツィアからの高速道が通る。ローマからの最短の道路はE45号線である。その他に南イタリア方面とつながるアドリアティカ道が通る。

鉄道駅はボローニャ、フェッラーラ、ヴェネツィア、ヴェローナ、リミニへの路線がある。

最も近い空港は、フォルリ空港ボローニャ空港である。

著名な出身者[編集]

姉妹都市[編集]

スポーツ[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]